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【6区 6.4km 小泉 柚希(2年)】
④ 静寂の終わり
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楓への電話を切った立花は、ホッとした表情で肩の力を抜いた。スタートして二時間強になる。そろそろ疲れも出て、体も硬直してくる。監督車の助手席のシートベルトを浮かせ、手を組んで上に伸びをして、また腰深く座り直す。
マネージャーのラギこと、柊木成実が付き添いをしてくれているおかげもあって、楓は大丈夫そうだ。声には緊張が感じられたものの、それ以上に彼女の決意が伝わってきた。監督としても今年一年、来年のエース5区の欄に栗原楓の名前を記入できるだけの準備をしていかなければならない。
立花は静かに息を吐き出した。プレッシャーをかけないように送り出せたはずだ。優勝はもちろん狙いたいが、楓にはリラックスして走ってもらうことが一番だと考えている。ほうっておいても頑張り過ぎてしまうような子だから。結局のところ、それが一番優勝に近づくはずなのだ。
彼女たちは、大量の時間を練習に注ぎ込んできた。もう、道を見たら足が勝手に前に進むように、身体に覚え込ませてある。喉が渇いて水を飲むように、スープが熱くて思わず口から遠ざけるように、レースが始まったら前に進む。走るっていうのは、それくらい本能的なものになっていていい。
練習ではよく考えるよう言ってきたが、試合になったら、それは忘れてもらう。あれこれ考えながら走ることはない。実際、考える余裕などないはずなんだ。本番の舞台に、そうたくさんの物は持ち込めない。
君たちには一つだけ、お守りを持たせた。安心して走れる空気だ。予選が終わってから、数ヶ月かけてこのチームが作り上げてきた。悔いのない走りをして、とにかく無事に帰ってこい。それが、なにより大事なんだ。
これまでの5人には、そのお守りが好影響を与えてくれた。だが、6区の柚希に関しては、違う気がしている。
柚希は、立花が心理的安全性の話をした際にも、練習日誌へのコメントを見る限り納得できなかった様子の一人だった。安心できる空気作りの恩恵が一番少ない子かもしれない。立花の指導で一番損をさせてしまっている。
柚希は、結果を欲しがっている。
チームで唯一、大学に入ってから自己ベスト更新がない。練習しても練習しても、高校時代の記録を超えられていない。その焦りが、柚希のリラックスを阻害している。他の仲間が得ているような安心感を、彼女だけはまだ、本当の意味では享受できていない。
(結果が出たら、初めて安心できるのかもしれないな……)
立花は手のひらを握りしめ、柚希の走る後ろ姿をじっと見つめた。
彼女にとって、一番良い声掛けってなんなんだろうか。さっきの監督車からの声掛け……、この選手の手助けに、果たして本当になれていただろうか。いや、そうは思えない。
今の柚希には、優しく励ますような声かけでは、甘さに映ってしまうかもしれない。それではダメなんだ。これまでの5人とは、何かを変えなくてはならない。
6区の声かけは、あと二回だ。
◇
『1号車です。先頭が2チームになりました。トップと6秒差の2位でスタートしたアイリスの小泉でしたが、3キロ手前でやはり追いついてきました』
柚希は、宮沢千種の顔を横目でうかがいながら、横に並んだ。おそらく今、相手の表情、息遣い、汗のかき具合などを見て、疲労度を冷静にを見極めている。さすが高校時代から場数を踏んでいるだけある。追いついたランナーがまず行うべき行動を、忠実に実行している。
逆に千種のほうは、柚希の顔を見ないようにしているのか、鋭く集中力を宿した瞳が、前を見据えたまま崩れなかった。
『高梨さん、これ、小泉が一気に抜いていきますかね?』
「小泉さんのほうも、いったん離されてから、足を使って追ってきていますから、キツいと思うんですね。ここは一旦休んで、最後の上り坂で仕掛けるかもしれませんね」
(さあ、声かけだ)
「はーい、柚希。3キロ通過、9分31秒。今、先頭だからな、テレビに映っているぞ! いいか、後ろにもローズ大学がいるんだからな。あんまり牽制しないで、二人で引っ張っていくんだよ」
(あぁ、違う……もっとこう、違うんだよ、この子が力を出せるのは、こんな言葉じゃない……!)
言葉が見つからない。立花は自分の無力さを痛感しながら、マイクを置いた。まだもう一回。ラスト1キロのタイミングで声をかけるチャンスが残されている。
立花がマイクを戻す頃、中継カメラがスタジオにスイッチしていた。真中アナ、鱒川さん、福山選手の間で、何やら軽妙な歓談が始まっている。
いやいや。やっと追いついたのだから、今こそ先頭争いを映すべきだろうと思ったが、この後の山手に上がっていく谷戸坂を勝負所だと考えると、今ぐらいしかひと息つけるタイミングがないとの判断なのか。よく駅伝中継で、ゴールが近づくにつれやたらとCMが挟まれる、あの感覚に似ているかもしれない。
【ゲスト解説の福山さんからご覧になって、先頭の二人の走り、どのように映っていますか?】
「そうですね。皆さんおそらく最後の上り坂を想定して起用された選手たちだとは思うのですが、見ている感じでは、走りのタイプは結構バラバラなので、そこが面白いなと思って見ていました」
【ちなみに、この二人はどういうタイプにですか?】
「アイリスの小泉さんは走りが軽やかで、この後の上り坂もウサギのようにバネを使って登っていくイメージができます。一方でジャスミンの宮沢さんは、良い意味で重心が低く安定感があり、上り坂はワンちゃんのように速いピッチで登っていくのではないかなと」
それを聞いていた鱒川さんが、噴き出すように笑った。
「あははっ、ウサギちゃんと、なに?」
「ワ、ワンちゃんです」
「面白いですね、福山さん。じゃあ、後ろから追ってきている、ローズの後輩の五十嵐さんは?」
無茶ぶりを受けた福山選手は、少し困った様子。視線を泳がせてたじろぎながら、急いで言葉を探している。あまり突っ込まないでほしかったのではないだろうか。
それにしても、確かに面白い表現だ。柚希がウサギか。良い線行っているかもしれない。1区の朝陽が走り終わった後、咲月さんと一緒に根岸中継所へ向かっておいてもらってよかった。ウサギは寂しがり屋だと聞くから。
「うーん、どうですかね」
まだ考えていた。そろそろ真中アナが助け舟を出しても良い頃じゃないか。なんて思って思っていたら、福山さんが答えを絞り出した。
マネージャーのラギこと、柊木成実が付き添いをしてくれているおかげもあって、楓は大丈夫そうだ。声には緊張が感じられたものの、それ以上に彼女の決意が伝わってきた。監督としても今年一年、来年のエース5区の欄に栗原楓の名前を記入できるだけの準備をしていかなければならない。
立花は静かに息を吐き出した。プレッシャーをかけないように送り出せたはずだ。優勝はもちろん狙いたいが、楓にはリラックスして走ってもらうことが一番だと考えている。ほうっておいても頑張り過ぎてしまうような子だから。結局のところ、それが一番優勝に近づくはずなのだ。
彼女たちは、大量の時間を練習に注ぎ込んできた。もう、道を見たら足が勝手に前に進むように、身体に覚え込ませてある。喉が渇いて水を飲むように、スープが熱くて思わず口から遠ざけるように、レースが始まったら前に進む。走るっていうのは、それくらい本能的なものになっていていい。
練習ではよく考えるよう言ってきたが、試合になったら、それは忘れてもらう。あれこれ考えながら走ることはない。実際、考える余裕などないはずなんだ。本番の舞台に、そうたくさんの物は持ち込めない。
君たちには一つだけ、お守りを持たせた。安心して走れる空気だ。予選が終わってから、数ヶ月かけてこのチームが作り上げてきた。悔いのない走りをして、とにかく無事に帰ってこい。それが、なにより大事なんだ。
これまでの5人には、そのお守りが好影響を与えてくれた。だが、6区の柚希に関しては、違う気がしている。
柚希は、立花が心理的安全性の話をした際にも、練習日誌へのコメントを見る限り納得できなかった様子の一人だった。安心できる空気作りの恩恵が一番少ない子かもしれない。立花の指導で一番損をさせてしまっている。
柚希は、結果を欲しがっている。
チームで唯一、大学に入ってから自己ベスト更新がない。練習しても練習しても、高校時代の記録を超えられていない。その焦りが、柚希のリラックスを阻害している。他の仲間が得ているような安心感を、彼女だけはまだ、本当の意味では享受できていない。
(結果が出たら、初めて安心できるのかもしれないな……)
立花は手のひらを握りしめ、柚希の走る後ろ姿をじっと見つめた。
彼女にとって、一番良い声掛けってなんなんだろうか。さっきの監督車からの声掛け……、この選手の手助けに、果たして本当になれていただろうか。いや、そうは思えない。
今の柚希には、優しく励ますような声かけでは、甘さに映ってしまうかもしれない。それではダメなんだ。これまでの5人とは、何かを変えなくてはならない。
6区の声かけは、あと二回だ。
◇
『1号車です。先頭が2チームになりました。トップと6秒差の2位でスタートしたアイリスの小泉でしたが、3キロ手前でやはり追いついてきました』
柚希は、宮沢千種の顔を横目でうかがいながら、横に並んだ。おそらく今、相手の表情、息遣い、汗のかき具合などを見て、疲労度を冷静にを見極めている。さすが高校時代から場数を踏んでいるだけある。追いついたランナーがまず行うべき行動を、忠実に実行している。
逆に千種のほうは、柚希の顔を見ないようにしているのか、鋭く集中力を宿した瞳が、前を見据えたまま崩れなかった。
『高梨さん、これ、小泉が一気に抜いていきますかね?』
「小泉さんのほうも、いったん離されてから、足を使って追ってきていますから、キツいと思うんですね。ここは一旦休んで、最後の上り坂で仕掛けるかもしれませんね」
(さあ、声かけだ)
「はーい、柚希。3キロ通過、9分31秒。今、先頭だからな、テレビに映っているぞ! いいか、後ろにもローズ大学がいるんだからな。あんまり牽制しないで、二人で引っ張っていくんだよ」
(あぁ、違う……もっとこう、違うんだよ、この子が力を出せるのは、こんな言葉じゃない……!)
言葉が見つからない。立花は自分の無力さを痛感しながら、マイクを置いた。まだもう一回。ラスト1キロのタイミングで声をかけるチャンスが残されている。
立花がマイクを戻す頃、中継カメラがスタジオにスイッチしていた。真中アナ、鱒川さん、福山選手の間で、何やら軽妙な歓談が始まっている。
いやいや。やっと追いついたのだから、今こそ先頭争いを映すべきだろうと思ったが、この後の山手に上がっていく谷戸坂を勝負所だと考えると、今ぐらいしかひと息つけるタイミングがないとの判断なのか。よく駅伝中継で、ゴールが近づくにつれやたらとCMが挟まれる、あの感覚に似ているかもしれない。
【ゲスト解説の福山さんからご覧になって、先頭の二人の走り、どのように映っていますか?】
「そうですね。皆さんおそらく最後の上り坂を想定して起用された選手たちだとは思うのですが、見ている感じでは、走りのタイプは結構バラバラなので、そこが面白いなと思って見ていました」
【ちなみに、この二人はどういうタイプにですか?】
「アイリスの小泉さんは走りが軽やかで、この後の上り坂もウサギのようにバネを使って登っていくイメージができます。一方でジャスミンの宮沢さんは、良い意味で重心が低く安定感があり、上り坂はワンちゃんのように速いピッチで登っていくのではないかなと」
それを聞いていた鱒川さんが、噴き出すように笑った。
「あははっ、ウサギちゃんと、なに?」
「ワ、ワンちゃんです」
「面白いですね、福山さん。じゃあ、後ろから追ってきている、ローズの後輩の五十嵐さんは?」
無茶ぶりを受けた福山選手は、少し困った様子。視線を泳がせてたじろぎながら、急いで言葉を探している。あまり突っ込まないでほしかったのではないだろうか。
それにしても、確かに面白い表現だ。柚希がウサギか。良い線行っているかもしれない。1区の朝陽が走り終わった後、咲月さんと一緒に根岸中継所へ向かっておいてもらってよかった。ウサギは寂しがり屋だと聞くから。
「うーん、どうですかね」
まだ考えていた。そろそろ真中アナが助け舟を出しても良い頃じゃないか。なんて思って思っていたら、福山さんが答えを絞り出した。
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