★駅伝むすめバンビ

鉄紺忍者

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【5区 12.9km 二神 蓮李(4年)】

⑥ 見えないエリカ

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『崩れの瞬間を狙え』——宮本武蔵の五輪の書、火の巻に記された教えである。常に先手を取り、相手の不意を突き、「崩れの瞬間」を一気に攻め込む。

神宮寺エリカは、二神蓮李の隙を冷静に見極めていた。目を細め、眼前に揺れる背中を鋭く捉えている。しかし、そこに立ちはだかる壁は鋼のごとき執念を帯びていた。

(く、崩れない……)

外側から抜き去ろうと試みたエリカだったが、相手の絶妙なコース取りに阻まれ、前に出ることができない。二神蓮李は、エリカの足音や影、気配さえも感じ取り、進路を塞いでいる。故意であれば走路妨害で失格にされてもおかしくないが、エリカの洞察の限りでは、これは無意識の領域なのだろうと思う。

焦る気持ちを押し隠しながら、エリカは次の一手を模索していた。

(ここでさらにアウトコースに大きく膨らめば、ブロックをかいくぐって前に出られるかもしれない。けれど今、私にそれを許さないのは間違いなく、彼女の……気迫!)

予選の時には、ジャスミンが2分の大差をつけて圧勝した。その相手が、今日は自分たちの栄冠を阻もうとしている。驚いた。前はこんなチームじゃなかった。かつて二神蓮李に頼り切っていたチームが、今では彼女を活かすチームへと変貌を遂げていた。

(この団結力は一体何? たった四ヶ月で、ここまで変われるものなの?)

いや。この人なら、やりかねない……。エリカの脳裏に、高校時代に感じた二神蓮李の恐ろしさが蘇った。

懐かしい。あの時と同じ。相変わらずだ。

(もっとムキになって、血管浮き出るくらい、意地でぶつかってきなさいよ!)

個人的な感情で動いてくれたほうが、カウンターも決めやすい。だけどこの人は、決して一対一では向かってこない。いつもチームの笠を着て、チームとして対峙してくる。その先に待つ仲間のこと以外は、白黒にでも見えているのだろうか。一貫して、向き合ってこない。相手にしてくれない。そうした独特の怖さがある。

一度は舞台から姿を消した天才が、アイリスというチームでもう一度輝きを取り戻している。

ただ前に出るだけでは、決定的なダメージを与えることはできない。相手を諦めさせるぐらいの、完全な勝利でなければ意味がないのだ。もうじきラスト1キロ地点。チャンスは一度きり。どこで仕掛けるか……。

ここで、これまで走ってきた国道357号線を外れ、国道16号線へとカーブを左に取る。左側にあった線路は頭上を進み、二人はアーチ上に空いた鉄橋の下を駆け抜けることになる。

その時だった。エリカが狙っていたチャンスは、突如として訪れた。

頭上を京浜東北線が駆け抜ける。甲高い金属音が空気を切り裂き、地響きと共に全ての音をかき消した。鉄橋の下の暗がりが、二人を瞬きの間のような闇で包み込んだ。

その瞬間、エリカは猛然とスパートをかけた。暗闇と騒音が二神蓮李の五感に霧をかけた。その一瞬の休符を見逃さなかった。

再び光が差し込み、鉄橋を抜けた瞬間、エリカの視界は一気に開けた。もはや抜くべき相手は誰も見えなかった。

(もらった……!)

この「崩れの瞬間」を待っていた。エリカは天から舞い降りた勝利の鍵を掴んだのだった。

* * *

神宮寺エリカが、消えた……。

ほんの1秒あるかどうかのはずなのに、長い長い、凍りついた時間のようだった。10キロ過ぎで追いつかれた時と明らかに違う。気配が捕まえられない。

(神宮寺は今、どこにいる……!?)

トンネルを抜けると、目の前にあったのは、勝ち誇った緑の背中だった。

(しまった!)

全力を出して、出し尽くしているのに、それでも相手のほうが遥かに速いなんて。高校時代にはついに一度も味わうことのなかった感覚だ。走り始めた時には70秒あった差を、逆転された。トラックレースならほとんど周回遅れだ。ごめん、みんな。守りきれなかった。アイリスのメンバーたちの顔が思い浮かび、思わずタスキを握る。

「頑張れー!!!」

途切れることのない沿道の声援。小さな子どもまで拍手をしながら声をかけてくれる。みんな温かく笑っている。自分たちを待ちわびて、ずっと待ってくれていたんだ。

彼方に「残りあと1キロ」の看板が見えた時、今日まで思い描いてきた自分のみなと駅伝は、あとたった三分で終わってしまうのだと気づき、ハッとした。

(まだだ、まだ終わっていない……!)

これは、駅伝だ。たとえ個人の記録で負けても、トップを譲るわけにはいかない。ここまで繋いできてくれた四人と、これから走る二人の後輩のためにも。

(アイリスのみんなが、この舞台まで連れてきてくれたんだ。相手が誰だろうと絶対に譲らない!)



『なんと順位が入れ替わっています! 先頭逆転ッ! ジャスミン大学がこの試合、初めて先頭に立ちました!』

「神宮寺さん、一瞬のタイミングを狙っていましたね」

レースが動いた。監督車で真後ろを追っていても、何が起こったのかわからなかったぐらい、気づいたら順位が入れ替わっていた。

『二神もついていく! いや、これ、もう一度前に出ますか! なんという粘りでしょうか、また先頭が交代します!』

(うわぁ、すごい……)

その先頭争いは、監督の立花が言葉を失って見入ってしまうほどだった。蓮李は左肩を神宮寺さんの前に捩じ込むような形で、もう一度首位を奪った。

『この神宮寺エリカ。みなと駅伝では、これまで実に14名のランナーを抜いてきました。一昨年が8名、去年が5人、今年は1人。ですが、抜かれて抜き返したのは、二神蓮李が初めてです!』

だが、神宮寺さんも負けてくれない。こうなったらもう、お互い後ろについて休もうなんて考えは微塵もない。火花が飛ぶんじゃないかというぐらい、身体をぶつけ合いながら、譲らないんだ。

むしろ、いつも冷静な神宮寺さんを、蓮李の炎が土俵に引っぱり込んでいるようにも見えた。

『画面左、藍色のユニフォーム、アイリス女学院大学。画面右、緑のユニフォーム、ジャスミン大学。どちらが勝っても初優勝! そしてお互いに、両チームのキャプテンでありエースであります。どうでしょうか。この激しい激しい、半身はんみでも前に出ようという鍔迫り合いです!』

左手の大規模ホームセンター、右手の堀割川ほりわりがわに挟まれた道の先で八幡橋やはたばしを右折すると、残すは根岸中継所までの約900メートルの直線道路。ここで決着がつく。

『そして神宮寺が……、大きく中央分離帯寄りに位置取りを変えました。これは何かの作戦なのか!』

(来るか……!)

(来る……!)

(天使の翼……!)

神宮寺エリカの脚先が、異様な妖気をまとって煌めき出した。足取りが羽根のように軽くなる! 視線が一点に集中する! 周囲の空気が弾ける!

『神宮寺が仕掛けた、一気にギアを入れ替えました! 二神蓮李はついていけないか! 今、5メートル、いや10メートル、その差が離れていきます!』

蓮李が身体を振りながら必死に食らいつくが、ジリジリとその差が離れていく。

マズい。神宮寺さんと蓮李の間を、ジャスミン大学の監督車に入られてしまった。蓮李が追いかけづらくなる。

「さあ蓮李、もうラスト1キロ切ったぞ! ここで出し切れ! 腰低く、低く、低く、速く! そうだ、まだまだ力残ってる! すみません、白バイさん、ペース上げるんでもっと前にお願いします!」

『神宮寺、この見事なスパートです! 高梨さん、将来は日本の女子マラソン界を背負って立つ存在ですよね?』

「はい。間違いなく世界と勝負していける逸材です」

『先にタスキを取ったのは、神宮寺のほうだ! さあ、いよいよ第5中継所が近づいてきました。それでは中継所リポート、お願いします』

「はい。『花の5区』には、今年も各校を代表するエースが集結しました。その激しいエース対決を制して、まず最初に根岸中継所へ飛び込んできたのは、グリーンのタスキ、ジャスミン大学です! 待ち受けますのは、4年生にして初めての大学駅伝、宮沢みやざわ千種ちぐさです」

「蓮李せんぱーーーい!」

「対するアイリスの6区は、期待の2年生・小泉柚希が登場です。大きく手を振って二神を呼びました」

中継所直前までは両チームが1位で並走していたため、二人とも1位のレーンに立とうとしてぶつかり合いそうになる。気づいた柚希が小さく手を挙げて謝り、宮沢千種が1位、小泉柚希が2位のレーンで待機することになった。

「エリカちゃん! ラスト!」

「ジャスミンの神宮寺エリカ、1分以上の差をひっくり返してトップに立っています。根岸第5中継所、大学史上初めてとなるトップで、いま4年生の宮沢千種にタスキリレーです。そのタイムは……39分40秒! 史上初の39分台! 区間記録を1分17秒も上回る、とてつもない新記録が誕生しました」

「蓮李先輩、ラストファイトですっ!」

「さあそしてアイリスが6秒差で行った! 4年生の二神蓮李から、2年生の小泉柚希へタスキリレー! 上位2チームが根岸中継所を通過していきました」
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