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【5区 12.9km 二神 蓮李(4年)】
⑤ Against
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『1号車です! 逃げるアイリスの二神と追うジャスミンの神宮寺。その差はついに10秒を切ってきました!』
秋の空模様は、午前までの心配をあざ笑うかのように晴れ渡っている。新杉田駅前のカーブへと差し掛かる。後ろを確認すると、神宮寺エリカの姿が一層大きくなっていて、立花は肝を冷やした。
頭上を覆う首都高速湾岸線の隙間から、時折強い日差しが差し込んでくる。蓮李が光になり、神宮寺さんが影になったかと思えば、今度は相手が光になり、こちらが影になる。そんなことが、何分にもわたって繰り返された。
その間にも、小さな巨人の気配は容赦なく迫ってくる。
『この両者、二神は大きなストライドを活かした力強い走り、対する神宮寺は小柄ながら非常に速いピッチで追い上げていますよね、高梨さん?』
「神宮寺さんは、武術などで使われる『抜重』という手法を、上手くランニングに取り入れた独特な走り方をしています。地面を強く蹴るのではなく、膝をスッと抜いて『移動』しているんですね。足捌きが非常に柔らかく、地面を軽く撫でるだけでスタスタと進む、本当に古武術を見ているかのようにスムーズな体重移動です。足のつま先から地面をとらえるフォアフット走法で接地時間が短く、非常に効率の良い走りです」
『今、手元の時計で、その差はわずか6秒。二神のほうは、もう後ろの神宮寺の足音に気づいていますね?』
「はい、後ろの声援の大きさで気づいていると思いますね。ここからの二人の駆け引き、注目して見ていきたいですね」
(あぁ、動いているな……)
願わくば、ここまで追いかけてきたことで多少疲れを見せている姿を期待した。しかし神宮寺さんは、アイリスの監督車のサイドミラーの横を、表情ひとつ変えず、あっという間にすり抜けていったのだった。
「おい、蓮李ー。10キロ通過31分50秒。この5キロ16分5秒ー。みんなで繋いできたタスキだ、ここ絶対前譲っちゃダメだぞ!」
リアクションする余裕はなさそうだった。立花の声を受ける背中には、汗がびっしょりと流れていた。ユニフォームは湿り、色が濃く変わっている。強い日差しが容赦なく照りつける中、自分の限界と戦い続けていた。
「いいか。ここまで来たら……勝って話をしようよ! いいかい? 今の蓮李だったら、できるんだからね。ちゃんと気持ちも伝えられる。ここまでよく頑張ってきた。磨いてきた。強くなったよ。チームメイトがいてくれて、帰る場所もあるんだから、ね、もう心配いらない、大丈夫だ」
誰とのことを言っているのか、大勢の人が聞こえる場所で、それは言わなかった。しかしそれを聞いた蓮李の走りには、もう一度力が戻ってきた。
「そう、そう、その走りだよ。練習しっかりやってきたんだから、まだまだ動くよ。ここからが本番だよ。さあ四年間の集大成を、この9分間にぶつけよう! 頼んだぞ!」
アイリスの監督車はそのまま速度を緩め、ジャスミン大学の監督車が前に出た。今度は、神宮寺監督の声かけだ。
「エリカ。10キロ30分41。予定通りだ。前の5キロが15分19。いいか、相手はくたばってきているから、行く時は一気につきはなせよ?」
その言葉を聞いた立花は心の中で小さく笑った。10キロ30分41秒が予定通りとは、タイムの上では完敗だと感じた。神宮寺エリカは、あまりにも上のステージにいることを見せつけられた。
しかし、どうやら相手の監督は蓮李を甘く見過ぎている。それならば、チームとしてはまだ十分に勝機がある。みなと駅伝は7人で走っている。個人で負けても、最終的にはゴールで一歩でも前にいればいい。
このまま蓮李がただでやられるわけがない。アイリスのエースは、ウチで一番しぶといんだ。
『先頭のアイリス二神、そして2位のジャスミン神宮寺。ほとんど差がなく、ちょうどJR磯子駅のあたり、今10キロの看板を通過していきました。高梨さん、まず先頭の二神の様子はどうでしょう?』
「二神さん、なんとか粘っていますが、先ほどから身体が左右に触れるようになって、口があいてしまっていますから。余裕はないですね」
『神宮寺のほうはどうでしょう?』
「神宮寺さんの10キロが30分41秒ということで、例えば男子で言ったら、10キロ27分20秒くらいの通過なんですよね。プロリーグでもなかなか見たことがない通過タイムです。もうこれは間違いなく、これまでの大学女子駅伝の歴史を凌駕する、史上最強ランナーと言っていいかと思います」
『二神のほうも、10キロ31分50秒ですから、決して遅いペースではないわけですよね?』
「えぇ。神宮寺さんが速すぎるんです。二神さん、少し心配なのが、先ほどから蛇行するような形になっている点ですね。フォームもかたくなってきています」
『さあ、ついに! その差がなくなりました! 3区からトップを走ってきた初出場のアイリスでしたが、5区11キロ手前、70秒あったリードがついにゼロになり、ジャスミンが追いついてきました! 神宮寺エリカが……、いや、一気には行かないか、ここで二神蓮李の背中を見つめます』
「ただ、二神さんのほうも簡単には前に行かせませんね。粘っています」
◇
第6中継所が徐々に賑やかになってきた。他の区間の選手や付き添い担当の人たちが、続々と様子を見に集まっているようだった。
「咲月さんと朝陽先輩は、柚希先輩のいる根岸中継所に行っているみたい。バンビも来てほしかった?」
「んー。いい」
楓がそう答えると、ラギちゃんは少し驚いた顔をした。
「そう?」
「うん。だって私は、ゴールした瞬間みんなに会えるから」
「ふふっ、そうだね」
ラギちゃんが微笑む。
「なんか、変わったよね、バンビ」
「そうかな?」
「うん。みなと駅伝の予選会の時なんか、スタート前は何度もお手洗いに行って、神宮寺さんに話しかけられて顔真っ赤になって、とにかくあたふたしていたのに。今はすごく落ち着いてるじゃない」
楓は少し照れくさそうに笑った。実は今日のみなと駅伝、楓には特別なモチベーションがあった。
(私の走り、エリカさんに見てもらうんだ)
「ウチに来たことあったよね?」
そこへ声をかけてきたのは、ジャスミン大学の2区を走っていた藤井さんだった。
「あっ、その節は大変申し訳ありません」
「ははは、あの道場破りちゃんが、今や優勝争いのチームのアンカーだもんね、ビックリだよ」
今度は1区を走っていた月澤さんが話しかけてきた。
「ねえ、大学から陸上始めたって本当なの?」
「はい、そうですけど……」
その時、中継所全体に大きな歓声が上がった。どうやら、レースに動きがあったようだ。
「エリカ、追いついた?」
藤井さんの視線につられてモニターのほうに目を向ける。蓮李先輩に、エリカさんが追いついたらしい。しかし蓮李先輩も粘っていた。ルール違反にならないギリギリの範囲で、エリカさんの進路をブロックしている。
「すげえ、この人。後ろにも目がついてるんじゃないの?」
無邪気に言う月澤さんに、藤井さんが軽くチョップを入れた。
「んなわけねーだろ。でも、蓮李先輩もさすがだよ。エリカに追いつかれても全く動揺しているそぶりを見せていない」
月澤さんが、これから7区を走る又吉綾さんの両肩に手をやる。
「綾たーん。先頭だってよ、先頭。これはプレッシャーかかるねぇ、どうしようかねぇ!」
「はぅ……」
又吉さんは、それを言われてビシッと返すわけでもなく、一人で湯気を出している。もしもアンカーまでずっとこのままの差だったら、楓はこの人とほぼ同時にスタートすることになる。黙ってそのやり取りを聞きながら、楓は胸の内で緊張を走らせた。
「あっはっは。大丈夫、勝つのはウチらだ。今のうちにゴールポーズでも考えておけ!」
藤井さんが豪快に笑う。楓はもう一度画面のほうに視線を向け、指を組んで祈る。
(頑張って、蓮李先輩……)
予選会で一緒に走った楓だからこそわかる。エリカさんにはまだ『天使の翼』っていう必殺技がある。あの人が追いついただけで終わるはずがない。一度静かになったとしても、必ずどこかで……来る!
秋の空模様は、午前までの心配をあざ笑うかのように晴れ渡っている。新杉田駅前のカーブへと差し掛かる。後ろを確認すると、神宮寺エリカの姿が一層大きくなっていて、立花は肝を冷やした。
頭上を覆う首都高速湾岸線の隙間から、時折強い日差しが差し込んでくる。蓮李が光になり、神宮寺さんが影になったかと思えば、今度は相手が光になり、こちらが影になる。そんなことが、何分にもわたって繰り返された。
その間にも、小さな巨人の気配は容赦なく迫ってくる。
『この両者、二神は大きなストライドを活かした力強い走り、対する神宮寺は小柄ながら非常に速いピッチで追い上げていますよね、高梨さん?』
「神宮寺さんは、武術などで使われる『抜重』という手法を、上手くランニングに取り入れた独特な走り方をしています。地面を強く蹴るのではなく、膝をスッと抜いて『移動』しているんですね。足捌きが非常に柔らかく、地面を軽く撫でるだけでスタスタと進む、本当に古武術を見ているかのようにスムーズな体重移動です。足のつま先から地面をとらえるフォアフット走法で接地時間が短く、非常に効率の良い走りです」
『今、手元の時計で、その差はわずか6秒。二神のほうは、もう後ろの神宮寺の足音に気づいていますね?』
「はい、後ろの声援の大きさで気づいていると思いますね。ここからの二人の駆け引き、注目して見ていきたいですね」
(あぁ、動いているな……)
願わくば、ここまで追いかけてきたことで多少疲れを見せている姿を期待した。しかし神宮寺さんは、アイリスの監督車のサイドミラーの横を、表情ひとつ変えず、あっという間にすり抜けていったのだった。
「おい、蓮李ー。10キロ通過31分50秒。この5キロ16分5秒ー。みんなで繋いできたタスキだ、ここ絶対前譲っちゃダメだぞ!」
リアクションする余裕はなさそうだった。立花の声を受ける背中には、汗がびっしょりと流れていた。ユニフォームは湿り、色が濃く変わっている。強い日差しが容赦なく照りつける中、自分の限界と戦い続けていた。
「いいか。ここまで来たら……勝って話をしようよ! いいかい? 今の蓮李だったら、できるんだからね。ちゃんと気持ちも伝えられる。ここまでよく頑張ってきた。磨いてきた。強くなったよ。チームメイトがいてくれて、帰る場所もあるんだから、ね、もう心配いらない、大丈夫だ」
誰とのことを言っているのか、大勢の人が聞こえる場所で、それは言わなかった。しかしそれを聞いた蓮李の走りには、もう一度力が戻ってきた。
「そう、そう、その走りだよ。練習しっかりやってきたんだから、まだまだ動くよ。ここからが本番だよ。さあ四年間の集大成を、この9分間にぶつけよう! 頼んだぞ!」
アイリスの監督車はそのまま速度を緩め、ジャスミン大学の監督車が前に出た。今度は、神宮寺監督の声かけだ。
「エリカ。10キロ30分41。予定通りだ。前の5キロが15分19。いいか、相手はくたばってきているから、行く時は一気につきはなせよ?」
その言葉を聞いた立花は心の中で小さく笑った。10キロ30分41秒が予定通りとは、タイムの上では完敗だと感じた。神宮寺エリカは、あまりにも上のステージにいることを見せつけられた。
しかし、どうやら相手の監督は蓮李を甘く見過ぎている。それならば、チームとしてはまだ十分に勝機がある。みなと駅伝は7人で走っている。個人で負けても、最終的にはゴールで一歩でも前にいればいい。
このまま蓮李がただでやられるわけがない。アイリスのエースは、ウチで一番しぶといんだ。
『先頭のアイリス二神、そして2位のジャスミン神宮寺。ほとんど差がなく、ちょうどJR磯子駅のあたり、今10キロの看板を通過していきました。高梨さん、まず先頭の二神の様子はどうでしょう?』
「二神さん、なんとか粘っていますが、先ほどから身体が左右に触れるようになって、口があいてしまっていますから。余裕はないですね」
『神宮寺のほうはどうでしょう?』
「神宮寺さんの10キロが30分41秒ということで、例えば男子で言ったら、10キロ27分20秒くらいの通過なんですよね。プロリーグでもなかなか見たことがない通過タイムです。もうこれは間違いなく、これまでの大学女子駅伝の歴史を凌駕する、史上最強ランナーと言っていいかと思います」
『二神のほうも、10キロ31分50秒ですから、決して遅いペースではないわけですよね?』
「えぇ。神宮寺さんが速すぎるんです。二神さん、少し心配なのが、先ほどから蛇行するような形になっている点ですね。フォームもかたくなってきています」
『さあ、ついに! その差がなくなりました! 3区からトップを走ってきた初出場のアイリスでしたが、5区11キロ手前、70秒あったリードがついにゼロになり、ジャスミンが追いついてきました! 神宮寺エリカが……、いや、一気には行かないか、ここで二神蓮李の背中を見つめます』
「ただ、二神さんのほうも簡単には前に行かせませんね。粘っています」
◇
第6中継所が徐々に賑やかになってきた。他の区間の選手や付き添い担当の人たちが、続々と様子を見に集まっているようだった。
「咲月さんと朝陽先輩は、柚希先輩のいる根岸中継所に行っているみたい。バンビも来てほしかった?」
「んー。いい」
楓がそう答えると、ラギちゃんは少し驚いた顔をした。
「そう?」
「うん。だって私は、ゴールした瞬間みんなに会えるから」
「ふふっ、そうだね」
ラギちゃんが微笑む。
「なんか、変わったよね、バンビ」
「そうかな?」
「うん。みなと駅伝の予選会の時なんか、スタート前は何度もお手洗いに行って、神宮寺さんに話しかけられて顔真っ赤になって、とにかくあたふたしていたのに。今はすごく落ち着いてるじゃない」
楓は少し照れくさそうに笑った。実は今日のみなと駅伝、楓には特別なモチベーションがあった。
(私の走り、エリカさんに見てもらうんだ)
「ウチに来たことあったよね?」
そこへ声をかけてきたのは、ジャスミン大学の2区を走っていた藤井さんだった。
「あっ、その節は大変申し訳ありません」
「ははは、あの道場破りちゃんが、今や優勝争いのチームのアンカーだもんね、ビックリだよ」
今度は1区を走っていた月澤さんが話しかけてきた。
「ねえ、大学から陸上始めたって本当なの?」
「はい、そうですけど……」
その時、中継所全体に大きな歓声が上がった。どうやら、レースに動きがあったようだ。
「エリカ、追いついた?」
藤井さんの視線につられてモニターのほうに目を向ける。蓮李先輩に、エリカさんが追いついたらしい。しかし蓮李先輩も粘っていた。ルール違反にならないギリギリの範囲で、エリカさんの進路をブロックしている。
「すげえ、この人。後ろにも目がついてるんじゃないの?」
無邪気に言う月澤さんに、藤井さんが軽くチョップを入れた。
「んなわけねーだろ。でも、蓮李先輩もさすがだよ。エリカに追いつかれても全く動揺しているそぶりを見せていない」
月澤さんが、これから7区を走る又吉綾さんの両肩に手をやる。
「綾たーん。先頭だってよ、先頭。これはプレッシャーかかるねぇ、どうしようかねぇ!」
「はぅ……」
又吉さんは、それを言われてビシッと返すわけでもなく、一人で湯気を出している。もしもアンカーまでずっとこのままの差だったら、楓はこの人とほぼ同時にスタートすることになる。黙ってそのやり取りを聞きながら、楓は胸の内で緊張を走らせた。
「あっはっは。大丈夫、勝つのはウチらだ。今のうちにゴールポーズでも考えておけ!」
藤井さんが豪快に笑う。楓はもう一度画面のほうに視線を向け、指を組んで祈る。
(頑張って、蓮李先輩……)
予選会で一緒に走った楓だからこそわかる。エリカさんにはまだ『天使の翼』っていう必殺技がある。あの人が追いついただけで終わるはずがない。一度静かになったとしても、必ずどこかで……来る!
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