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【5区 12.9km 二神 蓮李(4年)】
③ 迫り来るエリカ
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市大病院のある東の海側から金沢シーサイドラインの線路が、蓮李の頭上で合流した。「5キロ」と掲げられている立て看板を見ながら、立花監督は手元のストップウォッチのスプリットを押した。
15分45秒——予定より20秒も速い。普段の練習で正確無比なペースを刻んでいる蓮李だからこそ、焦りがタイムを通じて痛いほどに伝わってくる。
今日の蓮李はよく動いている。肩から肘にかけてのラインが鞭のようにしなり、自然な推進力を生んでいた。一時期不調のどん底に落ちていた時のような、あの重苦いフォームは完全に消え去っている。
状態は良い。けれど、ペースが制御できない。高3の全国高校駅伝ぶりの大観衆でのぼせているとか、そういった可愛い原因ならどれほど良かったか。蓮李は背中でもっと大きなものと闘っている。見えないはずの神宮寺エリカの圧に、後ろから押し出されている感じだ。
その「見えない」と思っていた相手が、いつの間にか近くまで迫ってきていた。1号車の市原さんの実況が、刻々と変わる戦況を伝える。
『さぁついに、今! 第1中継車の映像から、2号車とジャスミン神宮寺の姿をとらえることができるようになりました!』
おいおい。このハイペースでもか。立花は思わず監督車の後方を確認した。後ろとの差は残酷なほど一方的に、確実に詰まってきていた。こっちだって区間記録ペースだっていうのに。向こうは一体どんなペース配分でここまで来たというのか。
立花はマイクを取り、指示を送る。
「ハイ、蓮李―。5キロ、15分45秒。この1キロ、3分7秒。いいか、後ろの神宮寺さんが区間新ペースでかっ飛ばしてきているけど、蓮李もここまで良いペースだからね。今日すごく調子良いぞ」
こうなったら、追いつかれるのは時間の問題だ。彼女の良い動きを維持しつつも、追いつかれた時のことも考えなければならない。
「いいか、追いつかれてからが勝負だ。しっかり反応できるように、余力を残しておくんだよ、いいね? 次の5キロを、16分10から15くらいの気持ちで行こうー。3分14ー、3分15ー。ね。そのくらいのリズムで。いったんダラーンと腕落としてみな。肩の力抜いてリラックス、そうそう。まだまだ先長いから、じっくり行くぞ」
蓮李にはあえて「ペースを落とせ」という言い方はしなかった。こんな痺れる状況でそう言われて、本当にそのまま自在に落として調整できる選手なんて、この世に何人いるだろうか。
外から無理矢理ブレーキをかけて調子を狂わせてしまうぐらいなら、ここまで良いペースで来られたことを逆に利用するべきだ。余力を残せ、という際どい言葉選びになったのも、そんな思いからだった。
【今、先頭のアイリス女学院大学・二神蓮李が、並木中央駅前のチェックポイントを通過していきました。15分45秒という5キロの通過は、今日ゲスト解説の福山莉子さんが区間記録を樹立した時よりも4秒速いタイム。福山さん、走りご覧になっていかがですか】
「はい、私の時は、5キロ16分切って入る選手なんて他にいなかったのですが、今年はすごくレベルの高さを感じますね。ただ、この快調なペースでも後ろが詰まっているということで、後ろに続く選手たちのタイムも気になるところです」
【その、追ってくる神宮寺ですが、福山さんは去年4年生の時にみなと駅伝5区で対戦があります。どんな印象ですか】
「はい。生まれて初めて、かなわないなって思った選手ですね」
【そうなんですか】
『本当は3年生の時も5区を走らせてもらう予定だったんですけど、当時からゴールデンルーキーと言われていた神宮寺さんと走るのがイヤ過ぎて調子崩したんで、監督から5区クビを言い渡されて、3区になりました』
【ええっ、まさかそんなエピソードが!】
「はい。まぁ、これからも日本選手権や、もちろん二年後には同じプロリーグで戦うことになると思うので、一度は勝ちたいなと思っています」
そこへ鱒川さんが話を挟む。
『あのー、40分57秒っていうね、初めて41分を切ったのが大学2年生の時の福山さんですけど。毎年みんな福山さんの記録を越えようってチャレンジする気持ちが、今の大学駅伝界のレベルアップにも繋がっていると思うんだけど、そのへんはどう?」
「そうですね。未だに目標としてくれるのは嬉しいことですし、抜いてくれる選手がそろそろ出てきてもおかしくないとは思っています」
【さあそして、2位でやってきたのが、ジャスミン大学の神宮寺エリカです。トップとの差はどれほどか。あっ、47秒差。やはり詰まってきているようですね。5キロの通過がなんと15分22秒。凄まじいタイムです。どうですか、福山さん、ご覧になって】
「いやー、レベルが違いますね。神宮寺さんの場合は、舞い上がってオーバーペースになっているということはまず無いので、これも想定通りなんだと思います」
【なるほど】
さきほど5キロ地点を通過した際に沿道にいたのが計測スタッフだったのだろう。パイプ椅子と机を構え、一人はセンサーの装置を操作し、もう一人がパソコンを通じてデータを送っているようだった。程なくして手元の画面には、5キロを通過した選手の速報タイムが表示された。
■1位 二神蓮李(4年・アイリス女学大)
1km 03:05 (3’05”)
2km 06:17 (3’12”)
3km 09:25 (3’08”)
4km 12:38 (3’13”)
5km 15:45 (3’07”)
■2位 神宮寺エリカ(3年・ジャスミン大)
LAP
1km 02:59 [2'59"]
2km 06:03 [3'04"]
3km 09:08 [3'05"]
4km 12:14 [3'06"]
5km 15:22 [3'08"]
【この5区、41分を切ったのは史上ただ一人、今日ゲスト解説の福山莉子さんなんですが、その記録が破られる瞬間がこのあと、訪れるのでしょうか】
15分45秒——予定より20秒も速い。普段の練習で正確無比なペースを刻んでいる蓮李だからこそ、焦りがタイムを通じて痛いほどに伝わってくる。
今日の蓮李はよく動いている。肩から肘にかけてのラインが鞭のようにしなり、自然な推進力を生んでいた。一時期不調のどん底に落ちていた時のような、あの重苦いフォームは完全に消え去っている。
状態は良い。けれど、ペースが制御できない。高3の全国高校駅伝ぶりの大観衆でのぼせているとか、そういった可愛い原因ならどれほど良かったか。蓮李は背中でもっと大きなものと闘っている。見えないはずの神宮寺エリカの圧に、後ろから押し出されている感じだ。
その「見えない」と思っていた相手が、いつの間にか近くまで迫ってきていた。1号車の市原さんの実況が、刻々と変わる戦況を伝える。
『さぁついに、今! 第1中継車の映像から、2号車とジャスミン神宮寺の姿をとらえることができるようになりました!』
おいおい。このハイペースでもか。立花は思わず監督車の後方を確認した。後ろとの差は残酷なほど一方的に、確実に詰まってきていた。こっちだって区間記録ペースだっていうのに。向こうは一体どんなペース配分でここまで来たというのか。
立花はマイクを取り、指示を送る。
「ハイ、蓮李―。5キロ、15分45秒。この1キロ、3分7秒。いいか、後ろの神宮寺さんが区間新ペースでかっ飛ばしてきているけど、蓮李もここまで良いペースだからね。今日すごく調子良いぞ」
こうなったら、追いつかれるのは時間の問題だ。彼女の良い動きを維持しつつも、追いつかれた時のことも考えなければならない。
「いいか、追いつかれてからが勝負だ。しっかり反応できるように、余力を残しておくんだよ、いいね? 次の5キロを、16分10から15くらいの気持ちで行こうー。3分14ー、3分15ー。ね。そのくらいのリズムで。いったんダラーンと腕落としてみな。肩の力抜いてリラックス、そうそう。まだまだ先長いから、じっくり行くぞ」
蓮李にはあえて「ペースを落とせ」という言い方はしなかった。こんな痺れる状況でそう言われて、本当にそのまま自在に落として調整できる選手なんて、この世に何人いるだろうか。
外から無理矢理ブレーキをかけて調子を狂わせてしまうぐらいなら、ここまで良いペースで来られたことを逆に利用するべきだ。余力を残せ、という際どい言葉選びになったのも、そんな思いからだった。
【今、先頭のアイリス女学院大学・二神蓮李が、並木中央駅前のチェックポイントを通過していきました。15分45秒という5キロの通過は、今日ゲスト解説の福山莉子さんが区間記録を樹立した時よりも4秒速いタイム。福山さん、走りご覧になっていかがですか】
「はい、私の時は、5キロ16分切って入る選手なんて他にいなかったのですが、今年はすごくレベルの高さを感じますね。ただ、この快調なペースでも後ろが詰まっているということで、後ろに続く選手たちのタイムも気になるところです」
【その、追ってくる神宮寺ですが、福山さんは去年4年生の時にみなと駅伝5区で対戦があります。どんな印象ですか】
「はい。生まれて初めて、かなわないなって思った選手ですね」
【そうなんですか】
『本当は3年生の時も5区を走らせてもらう予定だったんですけど、当時からゴールデンルーキーと言われていた神宮寺さんと走るのがイヤ過ぎて調子崩したんで、監督から5区クビを言い渡されて、3区になりました』
【ええっ、まさかそんなエピソードが!】
「はい。まぁ、これからも日本選手権や、もちろん二年後には同じプロリーグで戦うことになると思うので、一度は勝ちたいなと思っています」
そこへ鱒川さんが話を挟む。
『あのー、40分57秒っていうね、初めて41分を切ったのが大学2年生の時の福山さんですけど。毎年みんな福山さんの記録を越えようってチャレンジする気持ちが、今の大学駅伝界のレベルアップにも繋がっていると思うんだけど、そのへんはどう?」
「そうですね。未だに目標としてくれるのは嬉しいことですし、抜いてくれる選手がそろそろ出てきてもおかしくないとは思っています」
【さあそして、2位でやってきたのが、ジャスミン大学の神宮寺エリカです。トップとの差はどれほどか。あっ、47秒差。やはり詰まってきているようですね。5キロの通過がなんと15分22秒。凄まじいタイムです。どうですか、福山さん、ご覧になって】
「いやー、レベルが違いますね。神宮寺さんの場合は、舞い上がってオーバーペースになっているということはまず無いので、これも想定通りなんだと思います」
【なるほど】
さきほど5キロ地点を通過した際に沿道にいたのが計測スタッフだったのだろう。パイプ椅子と机を構え、一人はセンサーの装置を操作し、もう一人がパソコンを通じてデータを送っているようだった。程なくして手元の画面には、5キロを通過した選手の速報タイムが表示された。
■1位 二神蓮李(4年・アイリス女学大)
1km 03:05 (3’05”)
2km 06:17 (3’12”)
3km 09:25 (3’08”)
4km 12:38 (3’13”)
5km 15:45 (3’07”)
■2位 神宮寺エリカ(3年・ジャスミン大)
LAP
1km 02:59 [2'59"]
2km 06:03 [3'04"]
3km 09:08 [3'05"]
4km 12:14 [3'06"]
5km 15:22 [3'08"]
【この5区、41分を切ったのは史上ただ一人、今日ゲスト解説の福山莉子さんなんですが、その記録が破られる瞬間がこのあと、訪れるのでしょうか】
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