★駅伝むすめバンビ

鉄紺忍者

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【4区 5.4km 歌川 茉莉(4年)】

④ 巧者のセオリー

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(本当は凄く怖かった……)

歌川茉莉は走りながら、不安の大きかったスタート前の心境を思い出していた。

フットギアは、適性表の左下——冷静と独創をつかさどる緑のアトラスを履いている。

走っている最中に腰の痛みが再発したら、タスキを渡せないかもしれない。陸上選手として、一度は死んだ身だ。この身が砕けようとも走り切る覚悟はあるが、本当に砕けたら蓮李殿の元へたどりつけない。

立花監督は言った。「自分の身に異変を感じたら勇気を持って止まってくれ」と。それを聞いた時、チームで一番止まる可能性が高いのは自分だと思った。

しかし、監督の言葉があってよかった。おかげで、痛みが出たらこの世の終わりのように考えていた気持ちが和らいだ。立ち止まっていい、そう思うことで、体の硬さがいくらか取れた気がする。

平潟湾ひらかたわんの四つの小さな橋を通っていく。橋のたびにアスファルトがうねるような形状になっているアップダウンを、茉莉はリズムよくクリアしていく。上りで力んだ筋肉を下りで解放し、下りの勢いを上りの加速につなげていく。

以前は路面を弾くような躍動感のあるフォームを武器にしていたが、今ではピッチ走法に変えた。痛みを最小限に抑えつつ、エネルギー効率を高めた。歩数が増えた分、走る喜びも一層噛み締められている気がする。

毎日続けた筋トレとストレッチ、そしてフォームの再構築。痛みと向き合いながらも、一歩一歩前進してきた。今はとにかく、自分のやってきたことを信じ抜き、不安を拭い去るしかない。

もっと、もっと、走っている感触が欲しい。生きているって実感したい。

(アップダウンもっと来い!)

この17分に、今の自分の全てを詰め込もう。



【さて、この金沢シーサイドラインは全駅二階構造を採用しており、全14駅が「津波避難場所」として指定されています。みなと駅伝に合わせて、本日駅周辺では安全性の周知イベントとして、「柴口の水」ペットボトルが合計約1000本配布されました】

金沢八景駅の高架上に設置された定点カメラが、柳町やなぎちょう方面から走ってくる茉莉の正面を小さくズームでとらえる。

【先頭のアイリス女学院大学、歌川茉莉が、金沢八景駅前を通過していきました。中継所まで残りおよそ900メートル。これからいよいよ最後のスパートに入っていこうかというところ】

駅前の交差点を右折し、瀬戸神社と琵琶島神社に挟まれた国道16号に入ると、今度は背中を向ける形でカメラから遠ざかっていく。

カメラは首を旋回し、映像は再び、元の柳町方面の画角へと戻った。

【えーそして、その後ろが、どれくらいの差で来るでしょうか。ローズの歌川瑠莉ですが……、あっ、45秒差ですか?】

「開きましたね」

【うーん。4区の序盤は追いかけるローズの歌川瑠莉が、差を詰めているという情報もありましたが、鱒川さん、これ、二人の差が、中継所の時とまた同じくらいになりましたね】

「お姉さんの茉莉さん、序盤抑えていた分、ここに来てペースアップしている感じがしますね。私、高校時代から見ていましたけど、今日は以前の勢いが戻ったような、素晴らしい走りですよ。やはり先頭のチームは、リードしている分、前半抑えて後半上げるっていう走り方ができますから、有利ですよね」

いや、それだけじゃない。監督車から見ていた立花は、茉莉のテクニックに目を丸くしていた。

(茉莉のヤツ、カーブの瞬間だけ狙ってペースを上げていたぞ……)

平潟湾の周回に入ってからは、何度か直角のカーブが続いた。追う側にしてみれば、コーナーで一度視界から消えた後、再び見えた時に差が広がっていたら、焦りが出てくる。茉莉はこのトリックを巧みに利用していたのだ。30秒のリードを有効に使った上手い作戦だ。さすが駅伝をよく知っている。

(もしかして、これを相手に印象付けるために、わざと前半で差を縮めさせていたまであるな……。恐ろしいヤツだよ)

後ろで見ているローズ大学の鬼塚監督も気づいているはずだ。

(あなたが手放した選手は、生半可な駅伝オタクじゃないですよ)

「さあ茉莉、残り800切ったぞ! 後ろとの差が開き始めてる! 最後、良い顔で蓮李にタスキ渡してやろうぜ!」



【それでは、映像再び先頭、1号車です】

『アイリスの歌川茉莉が、瀬戸橋を超えまして、最後の直線に入ってきました! 高梨さん、一度は差を詰められたんですが、変わらず落ち着いた走りを見せましたよね』

「はい、大人の走りですね。相手が差を詰めてきても、全く動じないといいますか。今、サングラスをしていてわからないんですけども、きっと良い表情をしていると思います」

『この数年は我慢の連続でした。1年生の冬に故障をしてから、非常に長い間リハビリに専念してきました。自分でも体の仕組みや、フォーム解析などを勉強したそうです。一度走れなくなったことで、しっかり陸上と向き合うことができました。と、そう振り返っていました」

茉莉は以前、障害走のハードルのジャンプや、上り坂が得意な選手だった。しかしそれは同時に、茉莉の腰痛を引き起こすことにもなった、生まれつきの特殊な形状の骨盤と無関係ではなかった。

手術をすれば、長所が消え、それまでの走りが180度変わってしまうかもしれない。そんな葛藤を抱えながらも、茉莉は手術に踏み切った。自分の走りをゼロから作り直すいばらの道を進んででも、蓮李たちと、この舞台で走れる可能性を選んだんだ。

『次の5区で待つ同級生の二神蓮李とたった二人の部員からスタートした駅伝部。のちに二人を慕って入学してきた後輩らと共に、チームを1から作り上げてきました。鱒川さん、辛い時期もあったでしょうが、4年生、まさに集大成の走りですよね』

「はい。よく頑張りましたね。苦境を乗り越えて、精神的にも成長したと思います」

中継所を目前にして、茉莉が残された力を振り絞る。痛みが出ないよう最後の最後まで封印していた、バネのある伸びやかな走りだ。テレビ画面でも、距離計の数字がどんどんと進んでいく。

『いよいよ野島中継所が近づいて来ました! 中継所リポート、お願いします』

「はい。選手たちは、風光明媚ふうこうめいびな金沢八景の地に別れを告げ、いよいよここからは、元来た横浜の港町の方角へと折り返していきます。エース区間5区、待ち受けますのはキャプテン、二神蓮李、4年生です」

「茉莉、ラストッ!」

「二神が手を叩いて歌川の名前を呼びました。歌川がそれを見て、走りながらサングラスを外しました! あぁ、笑顔です。二年前、部員二名で蒔いた種がようやく花開く時が来ました!」

二人の間の距離が縮まる。茉莉の手に握られたタスキが、光を帯びたように輝く。その瞬間、時間が止まったかのように、周囲の音が消え去り、すべてがスローモーションで動き始めた。茉莉と蓮李が向き合い、タスキを手渡す瞬間、二人の唇から同時に言葉が漏れる。

「「ありがとう!」」

立花は、監督車の窓越しにその一部始終を見届け、静かに息を飲んだ。走ってきた者と走り出す者。渡すほうと受け取るほう。対照的な立場の二人がこんなふうに一つの言葉で繋がれることがあるんだと、目頭が熱くなった。

「四年生同士、二人で走る最初で最後のみなと駅伝、今トップでタスキリレーです!」

窓を開け、横から労いの声をかけようとしたが、何も発することができなかった。辛うじて無言のまま親指を立てて外に突き出すと、茉莉も同じポーズを返してきた。立花は何度も頷いた。

「二神蓮李、思わず笑みをこぼしながら、タスキをつけて走り出していきました!」

テレビ中継では、走ってきたコースに向かって静かに一礼した後、やりきった表情の茉莉が、付き添い役の中距離部員に抱えられながら歩いていく様子が映し出されている。

「後ろ離しましたよ!」

「ハァ、ハァ、やったぁ……」

(良かったな、ここまで頑張ってきて。ホントに……)

「さあ、続いてやってきたのは、ローズ大学です。1年生の歌川瑠莉、最後はかなり疲れた様子です。ルーキーから大エースへのタスキリレー。ローズ大学の松永悠未4年生が、今2位でスタートしていきました」

「頼むぞ、ユウミ! 59秒差!」

中継に、若い男性の声が入り込んだ。ローズ大学の関コーチは立花と歳が近く、現役時代に少し知っている間柄であった。走り出していく松永さんにタイム差を伝えていたようだ。

そこから少し空いて、ジャスミン大学の松本さんが駆け込んできた。4区で順位を一つ落としている。

「昨年はトップと3分以上離れていましたが、今年は1分10秒差。逆転のシナリオに向け、神宮寺エリカが走り出していきました!」

【第4中継所の様子、伝えていただきました。後続のチームはしばらく姿を現しません。ということは、どうやら優勝候補は、アイリス・ローズ・ジャスミンの3チームに絞られてきたようです】
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