天使の隣

鉄紺忍者

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【3区 8.0km 安藤 ヘレナ(1年)】

⑤ シーソーゲームの終着点

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(懐かしいですなぁ)

茉莉まつりは、これから自分が走る八景島大橋のほうを眺めつつ昔を懐かしんでいた。海風を伝って漂ってきた磯の香りが、ありし日の記憶を呼び覚ました。

もう七年も前になる。実はお隣の「海の公園」は、神奈川県中学駅伝の会場だったのだ。

その巡り合わせにはとても感動する。中継所が八景島にあるこの4区に回ることになった幸運に、手を合わせた。しかも、3区のヘレナ殿がトップに躍り出たという情報も耳に入ってきていた。復帰レースに、これ以上ないお膳立てである。

もう一度ここに戻ってくるよ。と、過去の自分に教えたくなった。中学の時の自分というよりは、アイリス女学院大学へ転入してすぐの、全てをゼロからやり直した頃の自分に。

福岡の地から地元横浜に帰ってきて、当時はレールを外れてしまったような感覚があった。しかしある意味では、元から縁のあったレールにまた復帰できたのかもしれない。ウォーミングアップで走っていた足を止め、園内の風景を見渡しながら、そんなことを思った。

そこへ、何やら無遠慮な足音が背後から近づいてきたのを感じた。振り返ると、それもまた見知った顔だった。

「あーあ。どうせなら、同い年の安藤さんと走りたかった。インターハイの予選と決勝で1勝1敗だから、決着つけたかったのに」
「これはこれは、瑠莉るり殿。お久しぶりですな」

茉莉が瑠莉殿と呼ぶその人は、ローズ大学期待の1年生ランナーであり、三つ下の妹である。

「遅くなったお姉ちゃんに勝っても、何の面白みも無いわ。この前の青葉区記録会にも出てなかったみたいだし、てっきりもう引退したのかと思ってた」
「おろろ? 心配してくれていたんですかな」
「そ、そんなわけないでしょっ」

耳を赤くして怒られてしまった。

「私、速くなってるわよ。たくさんの観衆の前で、妹に抜かれる姉の姿をさらしてあげる。ブランクがあったって、容赦しないから!」
「手加減には及びません。こちらも気持ちよく先頭を走らせていただく予定ですので」
「……とにかく、覚悟しておきなさい」

去ろうとした瑠莉殿が、最後にこちらを振り返った。

「あとそれから! その喋り方、いい加減どうにかしたら? マジでダサい!」

瑠莉殿はそう言うと、今度こそ背中を向けて去っていった。

年が三つ離れているから、今までに同じレースを走ったことはない。

(姉妹対決、ねぇ……)

そんな大仰おおぎょうな言葉に、茉莉は少しだけむずがゆさを感じた。それ以前に、今日は茉莉にとっての復帰レースなのだ。久々に感じるレース前の緊張感は、これまでの不自由を考えれば、心地よいものである。

仲睦まじい二神ふたがみ姉妹を見ていると時々思うことがある。どうしてウチの姉妹は、こうなってしまったのか。ただ、姉の茉莉は、彼女の近くにはいないほうがいい。そう。こうして別の大学で同じ競技をしている、ちょうど今ぐらいの距離感が、彼女にとってはいいはずなのだ。

(さ、もうすぐ本番です。気持ちを切り替えましょうぞ)

久しぶりのレースで不安がないと言えば、嘘になる。止まってもいい。立花監督からそう言ってもらい、恩義とともに安心感をいだいた。おかげで恐怖がいくらか軽減された。気負いはない。だからこそ自分は、この足が砕けようともタスキを繋ぎ切る所存である。

八景島の護岸に打ち寄せる規則的な波の音に、どこからともなく聞こえてくる野鳥の鳴き声が不器用な合いの手を入れていた。

なんだか下手だなと思って、ふと上空を見上げた時だった。357号線の橋の上。第1中継車のトラックがゴロゴロと音を立てながらのっそり侵入してくる。

(さあ、いよいよ出番だ。覚悟はできている)

いつの間にか雲間から日光が差し込み始めていた。空の中に、必死でもがくヘレナ殿の勇姿があった。

* * *

(試合前だってのに、飄々としちゃってさ。変わってないわ、ホントに昔から……)

瑠莉がローズ大の陣地に戻ると、付き添い役のマネージャーの郡司ぐんじ智香ともか先輩が、ニヤニヤしながら待ち構えていた。首から下げた関係者用パスの紐を弄んで、こちらの顔を覗き込んでくる。

「瑠莉、早かったね。もういいの?」

「はい、あれ以上話してるとこっちがイライラしてきちゃいますから!」

「それ、もうイライラしてない?」

この人は、人間が好きなのだろう。姉妹の化学反応を、フラスコの外の安全なところから眺めて楽しそうにしているのである。嫌な笑みだ。

瑠莉は鼻息荒く、視線を逸らしながら聞いた。

「うちの姉と先輩って、本当に元チームメイトなんですよね? 先輩も来ればよかったじゃないですか。あ、やっぱりあんな感じの人だと、気が合わないんですか?」

すると、智香先輩はキョトンとしたような顔をした。

「何言っているの。私と茉莉は過去の駅伝の名シーンで意気投合するわよ。駅伝談義ってやつね。積もる話もあるけれど、そんなんで盛り上がっていたら、姉妹の話もできないでしょ。遠慮してあげたのよ」

「別に、いつでも話せますから」

「またそんなこと言って。久しぶりだったんでしょ? 私たち同期こそいつでも話せるのよ」

本当に、どいつもこいつも……。瑠莉はあきれて溜息をつき、郡司先輩に問いただした。

「どうしてみんな、他人のためにそこまで自分の行動を制限できるんですか!?」

瑠莉には理解できない。自分の進路を曲げてまで他人を気遣う、その燃費の悪い走り方を。

「みんなあんたが可愛いのよ」

「ど、どうしてそういう話になるんですか。意味不明です」

その時、智香先輩の持っていたたスマホが振動した。監督からの電話を、先輩はすぐに瑠莉へパスした。

「お電話代わりました、歌川です」

「余計なことは考えるな」

「はい」

「先頭との差は50秒。やれるな?」

「はい」

やれるな、と問われれば、了承するしかない。それが女王ローズ大学の掟である。



『1号車です。アイリスの安藤ヘレナが、園内へと入っていく下り坂をクリアしました! ここまで本当に素晴らしい走りを見せています。そして最後の関門、貝殻をモチーフにした屋根が特徴的な、通称シェルロードに入っていきます。表情は苦しくなりましたが、懸命に大きく腕を振って、最後まで自分の力を振り絞っています。安藤がタスキを取った。いよいよ最後の絞り出し。それでは八景島中継所、タスキ渡しの様子、伝えてもらいます。お願いします』

「はい。この3区、一番の注目選手はジャスミン大のスーパールーキー・洋見伊織かと思われましたが、なんのなんの、アイリスにもゴールデンルーキー・安藤がいました。ここまで粘りの走りで先頭を守り抜きました。待ち受けますのは、4年生の歌川茉莉。今、後輩の姿が見えて、右手を高くビシッと上げました!」

茉莉はサングラスを装着していた。 臨戦体制だ。

「ルーキーから、憧れの先輩へ! 今トップでアイリスがタスキリレー!」

ヘレナの背中をポンポーンと叩いて、歌川茉莉が走り出していく。ヘレナはコースに一礼した。記録は、25分08秒。1年生にして、区間記録まであと3秒と迫る歴代2位の好タイムだ。

(ヘレナ、おつかれさん。最後まで勇敢によく頑張った。後ろとも差をつけたぞ)

「続いて2位のジャスミン大学がやってきました。その差は少し開いてしまったでしょうか。1年生の洋見伊織。しかし、ここまで1人を抜いて、2位まで上がってきました。タスキを待つのは2年生の松本奏乃かなの。これが大学駅伝デビュー戦となります。タスキが渡りました。先頭とは27秒の差です!」

洋見さんが息を切らしながら、自分の太ももを叩いて悔しがる。 ランナーにとって大切な商売道具をそんなふうに扱うのはいただけないが、それほど悔しかったのだろう。

「そして3位グループから、ローズ大学の松浦が一歩抜け出しているでしょうか。待ち受けますのは、こちらも洋見と並ぶ注目の1年生、歌川瑠莉です」

「カノン先輩、ラストファイトです!」

「右手を大きく上げて、松浦の名前を呼びました! ローズ大学、3年生松浦から1年生歌川へ、3位でタスキリレーです」

松浦さんはタスキを渡すと、その場に崩れ落ちた。今回、ヘレナと洋見さんが良すぎただけで、彼女も25分31秒の好タイム。50秒差では、全く油断できない。

「続いてやってきたのは、デイジー大学です。4年生の三浦珠美、最後は苦しい走りになりました。先頭からは1分8秒差で、1年生の花本真央へとタスキが渡りました!」
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