天使の隣

鉄紺忍者

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【1区 9.0km 池田 朝陽(2年)】

② 探り合い

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黒田さん、というよりデルフィ大学の監督さんはきっと、優勝候補と目されているローズとジャスミンの二強対決に相乗りして、1区で一気に後続と差を広げる作戦だったのだろう。

1区はたいていの場合、監督から「先頭と何秒差までにとどめてくれ」という指示が出される。まだタイム差の少ない序盤なら、次の「スピードの2区」でいくらでも順位は入れ替わる。1区の仕事は、次のランナーが前を追いやすい位置でタスキを渡すことなのだ。誰も前に出ないのであれば、選手たちは無理せずそのままの位置をキープしようとする。だって今、全員がその「先頭」集団にいるのだから。

ローズ大の佐伯さんの表情をチラチラとうかがうのはジャスミン大の月澤さん。時にはがっつり顔を覗き込むことも辞さない姿勢だ。佐伯さんが動かない限り、月澤さんも動かないつもりなのだろう。その睨み合いは、レース中で誰も喋らない分余計に熾烈を極めていた。姫路さん一人いないだけで、こうした膠着こうちゃく状態の圧力が全選手に連鎖している。

そもそも黒田さんが悪い。レース前の単刀直入すぎる懇願——。あんな説明で状況を把握するのはまず無理だ。天才は感覚的に理解しちゃっているから、言語化ができないのだろうか。腹立たしい。

(まったく望月コーチといい、黒田さんといい、みんな言葉が足りないんだよ。そういうのは察してくれる人がそばにいるから成り立つんであって、私みたいな気の利かない女には通用しませんからね!)

スローペースで呼吸は苦しくない。それなのに、朝陽の心臓は込み上げてくる衝動で膨れ上がっていた。黒田さんと一緒に抜け出す。高校時代のリベンジができる。そんなスリルを期待してしまっている自分がいるのだった。

チームのことを考えたら、個人的な願望で勝手なことをしてはいけない。しかもその試みは過去に一度打ち砕かれている。力の差を思い知らされ、跳ねのけられた。もちろん黒田さんは、背後でもがいていた朝陽のことなど覚えているはずもないのだが。

あれ、ローズ大の佐伯さんの後ろにつけていたはずなのに、今のカーブで集団があっちこっちに動いているうちに、目の前は黒田さんに変わっていた。

(腰の位置、たっか)

ビル街を抜けて右折すると、直線道路に出てきた。前方には遊園地の観覧車が見えてくる。昨日の開会式の会場だったパシフィコ横浜がそびえているから、海自体は見えていない。けれど、それまで吹いていた無機質なビル風が、なんとなく生ぬるくなったのを感じて、朝陽はそれだけで海沿いに出てきたことを察した。

すると前の黒田さんが急に後ろを振り向き、朝陽のほうを見てクシャッと笑った。

(なに?)

黒田さんは再び前を向くと、左手首の時計を一瞬確認した。前方に3キロの看板が見えてくる。程なくして朝陽の時計が振動した。3キロ通過、10分17秒。うん、遅すぎだな。

ラップタイムに視線を落としていたその一瞬、今までにはなかった何か正面からの空気抵抗を食らったような気がして、ふと顔を上げた。その瞬間、「あっ」と眉も一緒に吊り上がった。

(黒田さんがいない……!)

その人は、いつの間にか集団の前を走っていた。集団のって意味じゃない。3キロの通過タイムを見てさすがに遅いと思ったのか、一人きりで飛び出して明らかに差を広げ始めたのだ。

取り残された他の全員は、一瞬ペースを上げるようなそぶりは見せたが、キョロキョロとお互いに視線を交わした後で、次第に追いかけるのをやめた。

(そうだよ。強いんだから、行くならさっさと一人でどうぞ)

悩みのタネが目の前からいなくなって、清々した。これでやっと落ち着いて走れる。

(いや、待てよ……? 本当にこれでいいのか?)

朝陽は周りの選手を見た。みんな依然として様子見のスローペースを貫いている。もしこのままの団子状態が続いたら、朝陽は最終的に、1500メートルチャンピオンらと中継所目前でラストスパート対決をしないといけない。スピードよりスタミナを鍛えてきた朝陽にとったら、それってだいぶが悪くないか。

耳に届いてくる沿道からの声援。その「頑張れ」はたいてい不特定多数に向けられたもののはずなのに、どうしてか朝陽の胸中をピンポイントで煽ってくるように感じた。

(行っちゃえ! 黒田さんについていけ!)
(行くな! チームの大事な試合を壊す気か!)

二人の朝陽がせめぎ合い続けていた。



監督車の助手席に座る立花は、相変わらずテレビ観戦状態が続いていた。

『1区、先頭集団は依然として大きな塊のまま3キロまでやってきました! 手元の時計で今、10分17、18秒というところ。解説の高梨さん、このスローペースで得をするチームというのは、一体どこなんでしょうか?』

「ローズ大学でしょうね。スピードが武器の佐伯さんが、最後のスパートまで力を温存しておけるわけですからね……あっ、黒田さんペース上げましたね!」

立花も、おそらく全国の視聴者と同じく、食い入るようにテレビ画面を凝視した。体をシートベルトに引き戻されている分だけ、普通の視聴者よりだいぶ不自由である。

「実は、逆にこの展開で一番不利をこうむるのが、1区にエースを持ってきたデルフィ大学であると、ちょうど言おうとしていたんですよ。黒田さんを起用したからには差を広げたいのに、スローだとみんな似たようなタイムで2区に渡ることになりますから」

『この遅いペースでは自分が起用された意味がない。と、意を決して前に出てきたでしょうか、黒田! その差が5メートル、6メートルと離れていきます! おっと、そして、そこへただ一人ついていくのが……』

「池田さんですね」

『初出場、アイリス女学院大学の二年生、池田朝陽です!』

(うわっ、朝陽、やりよった……!)

「いいですね、ガッツありますね池田さん。黒田さんも今、一気に振り落としにかかっていますね。デルフィ大は、次の2区が駅伝デビュー戦の1年生の西出さんですから、ここで少しでもリードを作って渡したいんですよね」

『これ、他の選手はどうしますか?』

「うーん、動かないみたいですね」

立花は、6月の予選会のことを思い出していた。神宮寺エリカに、楓がついていく、あの時の展開と似ている。

『あっ、いま3キロの声かけポイントで、ローズ大学の監督車から、「いいか、前の二人はそのまま行かせてやれ、このまま作戦通りに行け」という鬼塚監督の指示が飛んでいます!』

なんだ、ローズ大学の車は選手の後ろにつけているのか。前回優勝ということで、ゴールドのエントリーナンバー「1」をつけている。監督車の順番まで一番。いちいち差がつくな。一方アイリスはゼッケン7番だが、車は最後尾付近。前に十数台いる。シード校以外は、選手の順位がはっきりしてくるまではゴチャゴチャの順番で進むようだ。

それにしても。前の二人は行かせてやれ、って。

(完全に眼中にないわけだな、ウチとデルフィ大学さんのことは)
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