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【第7話 チームの力学】2037.09
⑤ 幸運の黒猫
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その日のメニューは、なんとか全部クリアした。楓は一人居残りでストレッチを終え、トレーニングルームから廊下へ出てきた。
そこで、ドキリ、と鼓動が鳴った。
「バンビ」
それは蓮李先輩の声だった。最近疎遠になっていたから、やけに緊張してしまう。
「あ、蓮李先輩。おつかれさまです」
「どう、リハビリは順調そう?」
「はい……」
本当のところはわからない。けど、ここで順調じゃないと言っても、変な気を遣わせるだけだと思った。
「今日はもう終わった? 少し話そうよ」
そう言われて、自販機のあるコーナーへやってきた。牛乳瓶の自販機がある。
「初日にここへ着いた時、部屋に案内される途中でここが見えてさ。一度来てみたかったんだよね」
蓮李先輩は、練習試合で満足のいく走りができず、それ以降ずっと調子を崩していた。体を絞るような練習はせず、ひたすら状態を上げるための調整メニューをこなしているのだという。
練習スケジュールのホワイトボードには最近、楓と蓮李先輩のネームプレートだけが全体練習のエリアとは離されて貼られている。そういう意味では、蓮李先輩は楓と同じく別メニュー組なのだ。
「こうやって話すの、なんだか久しぶりだね」
久しぶりになってしまったのは、元はといえば楓のせいだ。
「あの……ごめんなさい」
「ど、どうしたの」
耐えきれず、話をぶった斬って、思わず謝ってしまった。
「私が、蓮李先輩の席を奪うようなことを言ってしまって。避けられてもしょうがないというか……」
「避ける? あぁ、違うよ。そんなふうに感じさせたならごめんね」
蓮李先輩はほほえんだ。
「私はただ、バンビがまぶしかったんだよ」
「へ?」
楓がボーッとしているうちに、蓮李先輩が硬貨を入れて二本目の牛乳を買っていた。
「はい、これで共犯ね」
蓮李先輩はそう言って、牛乳瓶を楓のほうへ渡そうとしている。
「えっ、あの、私は大丈夫です」
「いいじゃん。こういう時は素直に奢られなさい。一人で二本も飲んだら、牛になっちゃうよ」
「い、いただきます」
「はいどうぞ。あ。みんなには、蓮李先輩が牛乳おごってくれた、なんて言っちゃダメだよ」
「ふふ、はいっ」
楓は牛乳瓶を受け取り、蓮李先輩と一緒に乾杯した。
蓮李先輩が腰に手を当てグビグビっと豪快に飲むので、楓も真似てみる。ちょっと違うけど、岡山には飲めるヨーグルトの自販機があったから、なんだか懐かしいと思った。
冷たい牛乳が喉を通る。さっきバイクを漕いでいたせいか、まるでお風呂上がりのようにしみわたった。
「私は、9月の日本インカレに出るって言ったでしょ? 日本全国から集まる大会だから、たくさんの人の目に晒されるのが怖くて、逃げたかったんだ。バンビが自分から5区を走りたいって宣言するのを見て、頼もしくてね」
意外だった。蓮李先輩は百戦錬磨のはずだろう。みなと駅伝の予選の時だって、そんな様子はなかった。今さら規模が「関東」から「全国」になっただけで、そこまで変わるものなのだろうか。
「あのですね。あれはなんというか、なんにも知らないからこそ言ってしまったといいますか。無謀ですよね」
「ううん。私はね、あぁこれで降りられる、って思っちゃったんだ」
(えっ?)
「未経験から始めて、三ヶ月足らずで予選会にも間に合わせられたバンビなら、もしかしたらって思ったんだ。けど、後輩たちがついてきてくれているのに、それをまとめるエースがそんなんでいいのかって、葛藤があってね」
まさか。蓮李先輩がそんなことを思っていたなんて。
「バンビの頑張りを見てたら、調子を万全にして、ちゃんと受けて立たなきゃ行けないね」
「そんな。私、間に合うかどうかも不安で」
すると、蓮李先輩は不思議な話を始めた。
「二年生の頃、今みたいに調子が最悪だった時があってね。監督が色んな公園に連れて行ってくれて、ほんとに1キロ7分とかかな、ジョグをして、苦しくなって歩いて、ってのを繰り返していた」
そんな状態の蓮李先輩、楓には想像できなかった。
「自分の良い時と比べたら全然進まないし、目標も見失っていたから、集中力もモチベーションも続かなくて。何度も心が折れそうになった。そんな時、目の前に黒猫が現れたんだ」
「黒猫、ですか」
一瞬可愛いお話だと思ったけど、確か黒猫って不吉の象徴なんだっけか。うーん、良い話なのか、悪い話なのか。目をキョロキョロさせて楓が考えていると、蓮李先輩に心を読まれてしまった。
「黒猫ってね、不吉の象徴って言われているけど、あれは間違いなんだよ」
「えっ、そうなんですか」
「うん、本当は逆なの。縁起のいい黒猫がそっぽを向いて横切っていってしまうなんて不吉だ、っていうのが元の意味なんだって」
やはり早合点はあらぬ誤解を生むものだな、と楓は思った。
「じゃあ、縁起のいい存在なんですか」
「そうなの。私が見た黒猫はね、じっと私を見て、ニャーって鳴いて、それから私のほうを時々振り向きながらスタスタ歩いていくんだ。後ろじゃない、前だよって、道を教えてくれるみたいに」
「なんだか、応援してくれているみたいですね」
蓮李先輩は遠くを見るように、少し目を細めて言った。
「あの頃の私は、過去の自分に戻ることばかりを考えていたけど、そうやって目の前の目標を見つけて一歩ずつ足を出していこうって思えたんだ。バンビも、気が遠くなるかもしれないけど、今できることをやっていこうよ」
「8月後半のチーム目標ですね」
「ふふっ、そうだね。確かミーティングで朝陽が出した案だったと思うけど、今のチーム状況にピッタリだよね」
ラギちゃんも同じことを言っていた。秋になったら、どちらがエース区間5区を走るべきか、お互い納得できる形になっている。そんな気がした。
「今日、こうして話せてよかったです。リハビリ、地道に頑張ってみます」
「私もよかった。バンビと話せて、日本インカレに挑む決心がついたよ」
楓はホッとした気持ちになり、それを見た蓮李先輩も優しく笑い返してくれた。
牛乳を飲み干して、ふと聞いてみた。
「そういえば、蓮李先輩ってどうしてアイリスに入ったんですか」
前から疑問だった。楓は蓮李先輩と出会えてよかったけど、どうして人数ギリギリのチームにいたんだろう。どの大会会場に行っても、道行く人が何人も蓮李先輩を振り返る。この人やっぱり凄い人なんだ、って、なんとなくでも伝わってくる。
「それは……」
(ん?)
「いつか、詳しく話せる時が来たらいいな」
そう言って、蓮李は牛乳瓶を回収ボックスに入れた。
「長く話し込んじゃって悪いね。こんな時間だし、戻ろう?」
「はい」
蓮李先輩の斜め後ろからついていく。自分がした質問は、そこで端に追いやった。以前のように二人で話せる、今はそれだけで嬉しかった。
久しぶりに、安心する石けんの香りがした。
【第7話 チームの力学】おわり
そこで、ドキリ、と鼓動が鳴った。
「バンビ」
それは蓮李先輩の声だった。最近疎遠になっていたから、やけに緊張してしまう。
「あ、蓮李先輩。おつかれさまです」
「どう、リハビリは順調そう?」
「はい……」
本当のところはわからない。けど、ここで順調じゃないと言っても、変な気を遣わせるだけだと思った。
「今日はもう終わった? 少し話そうよ」
そう言われて、自販機のあるコーナーへやってきた。牛乳瓶の自販機がある。
「初日にここへ着いた時、部屋に案内される途中でここが見えてさ。一度来てみたかったんだよね」
蓮李先輩は、練習試合で満足のいく走りができず、それ以降ずっと調子を崩していた。体を絞るような練習はせず、ひたすら状態を上げるための調整メニューをこなしているのだという。
練習スケジュールのホワイトボードには最近、楓と蓮李先輩のネームプレートだけが全体練習のエリアとは離されて貼られている。そういう意味では、蓮李先輩は楓と同じく別メニュー組なのだ。
「こうやって話すの、なんだか久しぶりだね」
久しぶりになってしまったのは、元はといえば楓のせいだ。
「あの……ごめんなさい」
「ど、どうしたの」
耐えきれず、話をぶった斬って、思わず謝ってしまった。
「私が、蓮李先輩の席を奪うようなことを言ってしまって。避けられてもしょうがないというか……」
「避ける? あぁ、違うよ。そんなふうに感じさせたならごめんね」
蓮李先輩はほほえんだ。
「私はただ、バンビがまぶしかったんだよ」
「へ?」
楓がボーッとしているうちに、蓮李先輩が硬貨を入れて二本目の牛乳を買っていた。
「はい、これで共犯ね」
蓮李先輩はそう言って、牛乳瓶を楓のほうへ渡そうとしている。
「えっ、あの、私は大丈夫です」
「いいじゃん。こういう時は素直に奢られなさい。一人で二本も飲んだら、牛になっちゃうよ」
「い、いただきます」
「はいどうぞ。あ。みんなには、蓮李先輩が牛乳おごってくれた、なんて言っちゃダメだよ」
「ふふ、はいっ」
楓は牛乳瓶を受け取り、蓮李先輩と一緒に乾杯した。
蓮李先輩が腰に手を当てグビグビっと豪快に飲むので、楓も真似てみる。ちょっと違うけど、岡山には飲めるヨーグルトの自販機があったから、なんだか懐かしいと思った。
冷たい牛乳が喉を通る。さっきバイクを漕いでいたせいか、まるでお風呂上がりのようにしみわたった。
「私は、9月の日本インカレに出るって言ったでしょ? 日本全国から集まる大会だから、たくさんの人の目に晒されるのが怖くて、逃げたかったんだ。バンビが自分から5区を走りたいって宣言するのを見て、頼もしくてね」
意外だった。蓮李先輩は百戦錬磨のはずだろう。みなと駅伝の予選の時だって、そんな様子はなかった。今さら規模が「関東」から「全国」になっただけで、そこまで変わるものなのだろうか。
「あのですね。あれはなんというか、なんにも知らないからこそ言ってしまったといいますか。無謀ですよね」
「ううん。私はね、あぁこれで降りられる、って思っちゃったんだ」
(えっ?)
「未経験から始めて、三ヶ月足らずで予選会にも間に合わせられたバンビなら、もしかしたらって思ったんだ。けど、後輩たちがついてきてくれているのに、それをまとめるエースがそんなんでいいのかって、葛藤があってね」
まさか。蓮李先輩がそんなことを思っていたなんて。
「バンビの頑張りを見てたら、調子を万全にして、ちゃんと受けて立たなきゃ行けないね」
「そんな。私、間に合うかどうかも不安で」
すると、蓮李先輩は不思議な話を始めた。
「二年生の頃、今みたいに調子が最悪だった時があってね。監督が色んな公園に連れて行ってくれて、ほんとに1キロ7分とかかな、ジョグをして、苦しくなって歩いて、ってのを繰り返していた」
そんな状態の蓮李先輩、楓には想像できなかった。
「自分の良い時と比べたら全然進まないし、目標も見失っていたから、集中力もモチベーションも続かなくて。何度も心が折れそうになった。そんな時、目の前に黒猫が現れたんだ」
「黒猫、ですか」
一瞬可愛いお話だと思ったけど、確か黒猫って不吉の象徴なんだっけか。うーん、良い話なのか、悪い話なのか。目をキョロキョロさせて楓が考えていると、蓮李先輩に心を読まれてしまった。
「黒猫ってね、不吉の象徴って言われているけど、あれは間違いなんだよ」
「えっ、そうなんですか」
「うん、本当は逆なの。縁起のいい黒猫がそっぽを向いて横切っていってしまうなんて不吉だ、っていうのが元の意味なんだって」
やはり早合点はあらぬ誤解を生むものだな、と楓は思った。
「じゃあ、縁起のいい存在なんですか」
「そうなの。私が見た黒猫はね、じっと私を見て、ニャーって鳴いて、それから私のほうを時々振り向きながらスタスタ歩いていくんだ。後ろじゃない、前だよって、道を教えてくれるみたいに」
「なんだか、応援してくれているみたいですね」
蓮李先輩は遠くを見るように、少し目を細めて言った。
「あの頃の私は、過去の自分に戻ることばかりを考えていたけど、そうやって目の前の目標を見つけて一歩ずつ足を出していこうって思えたんだ。バンビも、気が遠くなるかもしれないけど、今できることをやっていこうよ」
「8月後半のチーム目標ですね」
「ふふっ、そうだね。確かミーティングで朝陽が出した案だったと思うけど、今のチーム状況にピッタリだよね」
ラギちゃんも同じことを言っていた。秋になったら、どちらがエース区間5区を走るべきか、お互い納得できる形になっている。そんな気がした。
「今日、こうして話せてよかったです。リハビリ、地道に頑張ってみます」
「私もよかった。バンビと話せて、日本インカレに挑む決心がついたよ」
楓はホッとした気持ちになり、それを見た蓮李先輩も優しく笑い返してくれた。
牛乳を飲み干して、ふと聞いてみた。
「そういえば、蓮李先輩ってどうしてアイリスに入ったんですか」
前から疑問だった。楓は蓮李先輩と出会えてよかったけど、どうして人数ギリギリのチームにいたんだろう。どの大会会場に行っても、道行く人が何人も蓮李先輩を振り返る。この人やっぱり凄い人なんだ、って、なんとなくでも伝わってくる。
「それは……」
(ん?)
「いつか、詳しく話せる時が来たらいいな」
そう言って、蓮李は牛乳瓶を回収ボックスに入れた。
「長く話し込んじゃって悪いね。こんな時間だし、戻ろう?」
「はい」
蓮李先輩の斜め後ろからついていく。自分がした質問は、そこで端に追いやった。以前のように二人で話せる、今はそれだけで嬉しかった。
久しぶりに、安心する石けんの香りがした。
【第7話 チームの力学】おわり
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