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【第6話 誤算】2037.08
④ バンビ、覚醒?
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「最初の1キロ、2分57です」
「マジか!?」
後部座席の茉莉が伝えるその数字に、立花は驚きを隠せなかった。
楓は最初の1キロを、まるで男子大学生の箱根駅伝のようなラップで入ってしまった。当然、女子の大学一年生としてはオーバーペースだ。
「ハイ、楓ー。1キロ、2分57ー。もっと落とせ、落とせ。いくら下りといってもね、速すぎる。このままでは最後までもたないぞ」
緊張で舞い上がっているのだろうか。何かに追い込まれているような走りに見えた。だとしたら、楓は後ろの黒田さんを意識し過ぎている。
「いいか楓。黒田さんはだいぶ格上の選手だ。こういう時こそ、落ち着いて走ろう。このペースじゃ自滅するだけだ。おい、楓、聞こえているか? 聞こえていたら、右手を挙げてくれ。おーい」
ダメだ、反応がない。指示が耳に入っていないようだ。今、楓は完全に自分の世界に入ってしまっている。
その時。後ろを確認した茉莉が、突然大きな声で言った。
「黒田さんが来てます!」
「このハイペースでもか!?」
◇
楓の出番は、痺れる場面で回ってきた。
デルフィ大学のエース・黒田涼子さんと、アンカー5区での一騎打ち。
朝陽先輩からタスキを受け取る。
昨晩、先輩たちからタスキの付け方を教わった。端っこの紐を引っ張り長さを調節し、余りはショートパンツ型のユニフォームの中に仕舞うのだという。
その布は前の四人の汗で濡れていて、思いのほか重たかった。冷たいはずなのに、手の中で熱を帯びているようにさえ感じられる。昨晩試しに付けてみたものと同じものとは到底思えなかった。
最初の数歩を踏み出しながら、楓は大きく息を吐き出した。鼓動ばかりが先走って、肺の中で余った空気が苦しく感じた。おさまれ、心臓。
坂を下り始めてすぐ、反対車線を走るデルフィ大学の4区の選手とすれ違った。キツい上り坂を登り切ってフラフラになっているようだった。
(このあと彼女が中継所へ辿り着いたら、涼子さんが追ってくるんだ……)
恐怖に駆られ、1秒でも速く逃げたくなった。
「ハイ、楓ー。1キロ、2分57ー」
後ろの監督車からの声かけは、意識の遠くで塵になって消えてしまった。どうやらもっと抑えろと言われているみたいだけど、自分で自分を制御できない。
聞こえてはいるのに、不思議と注意を向けられない。まるで合宿初日に車の中でうたた寝しながら聞こえていた涼子さんたちの会話みたいだった。
飛ばし過ぎだと言われるようなハイペースのはずなのに、カーブでふと後ろを確認すると、もう涼子さんの姿が見えて驚いた。ということは、向こうからも楓のことが見えているということだ。
合宿地に来てからも、楓は毎日欠かさず竹馬を練習している。新しいフォームを少しでも馴染ませるためだ。今日も中継所までわざわざ持ち込み、待機している間も乗っていた。
最初のうちは、竹馬の感覚を思い出しながら走ろうと思っていた。おへそで背骨を持ち上げて、みぞおちから足が生えているイメージで、体の軸を意識して走る。
だが、それは難しかった。意識した瞬間、走りはロボットのようにぎこちなくなってしまう。下り坂に足が取られて勝手に進んでしまうから、竹馬の動きを意識するどころじゃない。結局、自然に任せるほうが良いのかもしれない。本番は本番。意識をしなくても、体のどこかには染み付いているはずだから。
今は涼子さんから逃げ切ることを優先しよう。アンカーが抜かれたらチームが負けてしまうのだ。
(絶対に振り切ってみせる……!)
左腕の時計が振動した。2キロの自動ラップだ。3分10秒。我ながら、わかりやすくペースが落ち過ぎだ。
5キロ弱のコースで、まだ半分以上残っているのにもう息が苦しい。だが、耐えるしかない。
自分の足音が大きい。ジタバタとしていて、きっと悪いフォームになっている。道は次第に平坦へと変わった。
その時だった。背後に威圧感が押し寄せてきた。
楓の足音に、涼子さんの足音が割り込んでくる。その足音は徐々に大きくなっていく。
(速い……!)
振り返ると、涼子さんは涼やかな顔をしていて、まだ余裕があるように見えた。
楓も負けるつもりはない。視線を前に戻し、さらに力を振り絞った。
◇
(ふっふっふ。追いついちゃったよー?)
黒田涼子は加速する。フットギアの足裏が路面をリズミカルに弾いている。
カーブを曲がるたびに差は縮まり、ついには眼前にバンビちゃんの背中を捉えるところまで来た。
涼子は得意げな笑みを唇に浮かべた。
ここまでラップは2分54、2分59。2キロの通過は5分53秒。
下り坂を利用し、日本のトップランナーのようなペースで飛ばしている。練習試合だから公式な記録が残るわけじゃないけど、未知の世界のスピード感に興奮を覚えていた。
はっきり言って、バンビちゃんは飛ばしすぎだったと思う。
最初の1キロで思ったほど差が縮まらなくて不思議だったのだが、どうやら向こうが自身の力以上のペースで走っていたみたいだった。
無理が祟って、3キロまでにはグッと距離が近づいた。勢いは明らかに涼子が勝っている。
ここで、ついにバンビちゃんの横に並ぶ。今が勝負所だと睨んだ涼子は、さらに大きく腕を振り、走りをダイナミックに切り替え、一気に抜き去った。
(デルフィ大学、逆転!)
今この時ばかりは、地球が自分を中心に回っていると豪語しても、チームメイトたちが許してくれるだろう。
(バンビちゃん、どう? 今のスパート、見てくれた?)
バンビちゃんは今きっと後ろで、涼子さんすごい、って目を輝かせてくれているに違いない。
その快感がさらに涼子のピッチを加速させていく。エネルギーの永久機関だ。
そんなことを考えた瞬間、背後で大きな鈍い音が響いた。
おそらくだけど、バンビちゃんが勢い余ってカーブを曲がりきれず、ガードレールに激突したのだ。
涼子は驚いて後ろを振り返った。すぐに立ち直してついてきているバンビちゃんの姿が見えた。気づくと、後ろの監督車がいなくなっていた。
涼子がトップに立ったことで、アイリスとデルフィの監督車が順番を交代しているのが、遥か後方で見えた。激突した瞬間は誰も見ていなかったのだろう。
(大丈夫かな……?)
涼子は心配になったが、レースは続いている。全力で走るしかない。
そこで奇妙なことが起きた。
終わったと思っていたバンビちゃんが、突然「ウァー!」という叫び声を発しながら、ペースを上げて横に並んできたのだ。
(わっ……!)
なんて根性だ。右隣に来たバンビちゃんは、怖いくらいの眼力で涼子に向かってくる。息を切らしながら、ガードレールに激突したことなどなかったかのように、そのままの勢いで走り続けている。
並ばれてからは、さすがの涼子も余裕がなくなった。走力で負けたとは思わないが、心理的な立場は完全にひっくり返された。
信じられない光景だった。その足取りは軽く、まるで彼女の背中に天使の翼が生えているかのようだった。
重力から完全に自由となったような、宙を掻く足運び。バンビちゃんはそのスパートで、涼子を抜き返したのだった。
◇
黒田さんに追い抜かれた時は、ダメかという気持ちがよぎったが、楓は諦めなかった。
肩にかかっているのは、チームのみんなが託してくれたタスキだ。昨日のミーティングで話していた通り、初駅伝の楓に先頭で渡してくれたのだ。
(みんなの1位、絶対譲っちゃダメだ……!)
そう思った瞬間、再び力が湧いてきた。もう一度黒田さんをターゲットに定め、必死に追いかける。
苦しみながらもスピードを落とさない、その瀬戸際がしばらく続いた。
楓は走り続ける中で、まるで重たい荷物を降ろしたかのように、ある時ふと足が軽くなる瞬間があった。
(あわわっ……!)
スピードが出過ぎて、カーブを右に曲がりきれず、そのままガードレールに突っ込んでしまった。
ガードレールにぶつかる音が響き、痛みが走る。しかし、楓はすぐに立ち上がり、再び走り出した。
自分の身体の変化に驚いた。足でフワッと地面を撫でるだけで、身体が前に飛び、また次の足が出てくる。
フットギアのソールが路面に沈み込むタイミングと、反発が跳ね返ってくるタイミングが、自分の思い通りになった感覚があった。シンクロってこういうことかと、シルフィードと初めて息を合わせられたような気がした。
(もしかして、エリカさんっていつもこんな感覚で走っていたの……!?)
自分一人のレースじゃ、あそこまでの力は出せなかったと思う。チームで走るからこそみなぎってくる不思議なパワーを、楓は身をもって体感したのだった。
◇
「はい、涼子、13分58秒。区間記録、30秒更新ね」
「よっしゃ、宣言通り!」
デルフィ大学の滝野監督がタイムを告げた。涼子さんは息を整えながら満足げに笑みを浮かべ、親指を立てた。爽やかな喜びが彼女の顔に表れていた。
一方、全てを使い果たした楓は、坂の下にある中継所、テニスコートの駐車場で地面に突っ伏していた。
「バンビ、大丈夫?」
今日は坂の下の中継所でサポート役を担当していたラギちゃんが、楓を優しく抱き起こした。楓は悔しさと疲れで声が出ず、ただ小さくうなずくことしかできなかった。
滝野監督が監督車から降り、手元のストップウォッチを確認しながら向かってきた。
「それから栗原さん、14分25秒。これも一応区間新記録ね。1年の時の涼子より、3秒速かった!」
それを聞いて、ラギちゃんが楓の背中をポンポンと叩いた。
「えぇ、すごいじゃん、バンビ!」
「ほんと、みんなのおかげ……」
それは自然と出た言葉だった。
もちろん両者のタイムを比べれば、後ろからスタートして追いついてきた涼子さんが圧勝だ。しかし、涼子さんとここまで競り合うことができた。
自分一人の力ではない。坂上からここまで下ってくるまでに、何度もチームメイトのことが頭に浮かび、何度も力をもらったのだ。
(これで勝てていたら一番よかったなぁ……)
あの後、楓は最後の直線で力尽きてしまい、涼子さんに抜かれながらのゴールだった。身体の悲鳴を何度も無視して走り続けたツケが回ってきたのだろう。
「それじゃ、練習試合は同着ということで、お開きにしましょうか」
(あれ、同着? いいのかな)
滝野監督が全体に向けて言うと、デルフィ大学サイドのサポート役の部員たちが拍手をした。気づけば、たくさんの人が周りにいた。キロ表示の看板を持つ人、レジャーシートの上で走り終わった選手をケアする人、マッサージ用のマットを片付ける人たち。多くの人たちの支えがあって練習試合が実現したのだと改めて実感する。
「いえ、同着じゃないです」
涼子さんの言葉に、周囲が静まり返った。
「ゴールラインの上、先に手が入ってましたよ、バンビちゃんのが」
「それ本当なの、涼子?」
「はい。監督、私たちの負けです」
涼子さんは楓のほうへ歩み寄る。
「凄かったよ、バンビちゃん。いつもなら意地でも差し返すところだけど、あまりの気迫に押されてしまって、押しのけてでもっていう気が起きなかった。ナイスファイト」
涼子さんは楓と固く握手を交わした。
「みなと駅伝でまた会おうね」
かくしてアイリス女学院大学は、デルフィ大学との練習試合で勝利を収めたのだった。
* * *
一方その頃、坂の上の中継所では、大変なことが起きていた。
「お前ら、アイリスの駅伝部?」
朝陽たちが撤収作業をしていたところに突然現れた、目つきの悪い男性。今、この場には女性しかいない。周囲にも緊張が走る。
朝陽が警戒していると、蓮李先輩が何も言わずにその男性へ向かって歩み出した。慌てて蓮李先輩のシャツの裾を引っ張り、小声で言う。
「ちょっ、蓮李先輩、ヤバそうじゃないですか、あの人」
「多分だけど、手荒なマネはできないはずだから」
「えっ、いやいや、大丈夫なんですか」
蓮李先輩は見知らぬ屈強な男に対して、冷静に淡々と立ち向かう。
「取材か何かでしたら、監督を通していただけますか。まもなく男性の監督が参りますので」
男は不機嫌そうに眉をひそめた。
【第6話 誤算】おわり
「マジか!?」
後部座席の茉莉が伝えるその数字に、立花は驚きを隠せなかった。
楓は最初の1キロを、まるで男子大学生の箱根駅伝のようなラップで入ってしまった。当然、女子の大学一年生としてはオーバーペースだ。
「ハイ、楓ー。1キロ、2分57ー。もっと落とせ、落とせ。いくら下りといってもね、速すぎる。このままでは最後までもたないぞ」
緊張で舞い上がっているのだろうか。何かに追い込まれているような走りに見えた。だとしたら、楓は後ろの黒田さんを意識し過ぎている。
「いいか楓。黒田さんはだいぶ格上の選手だ。こういう時こそ、落ち着いて走ろう。このペースじゃ自滅するだけだ。おい、楓、聞こえているか? 聞こえていたら、右手を挙げてくれ。おーい」
ダメだ、反応がない。指示が耳に入っていないようだ。今、楓は完全に自分の世界に入ってしまっている。
その時。後ろを確認した茉莉が、突然大きな声で言った。
「黒田さんが来てます!」
「このハイペースでもか!?」
◇
楓の出番は、痺れる場面で回ってきた。
デルフィ大学のエース・黒田涼子さんと、アンカー5区での一騎打ち。
朝陽先輩からタスキを受け取る。
昨晩、先輩たちからタスキの付け方を教わった。端っこの紐を引っ張り長さを調節し、余りはショートパンツ型のユニフォームの中に仕舞うのだという。
その布は前の四人の汗で濡れていて、思いのほか重たかった。冷たいはずなのに、手の中で熱を帯びているようにさえ感じられる。昨晩試しに付けてみたものと同じものとは到底思えなかった。
最初の数歩を踏み出しながら、楓は大きく息を吐き出した。鼓動ばかりが先走って、肺の中で余った空気が苦しく感じた。おさまれ、心臓。
坂を下り始めてすぐ、反対車線を走るデルフィ大学の4区の選手とすれ違った。キツい上り坂を登り切ってフラフラになっているようだった。
(このあと彼女が中継所へ辿り着いたら、涼子さんが追ってくるんだ……)
恐怖に駆られ、1秒でも速く逃げたくなった。
「ハイ、楓ー。1キロ、2分57ー」
後ろの監督車からの声かけは、意識の遠くで塵になって消えてしまった。どうやらもっと抑えろと言われているみたいだけど、自分で自分を制御できない。
聞こえてはいるのに、不思議と注意を向けられない。まるで合宿初日に車の中でうたた寝しながら聞こえていた涼子さんたちの会話みたいだった。
飛ばし過ぎだと言われるようなハイペースのはずなのに、カーブでふと後ろを確認すると、もう涼子さんの姿が見えて驚いた。ということは、向こうからも楓のことが見えているということだ。
合宿地に来てからも、楓は毎日欠かさず竹馬を練習している。新しいフォームを少しでも馴染ませるためだ。今日も中継所までわざわざ持ち込み、待機している間も乗っていた。
最初のうちは、竹馬の感覚を思い出しながら走ろうと思っていた。おへそで背骨を持ち上げて、みぞおちから足が生えているイメージで、体の軸を意識して走る。
だが、それは難しかった。意識した瞬間、走りはロボットのようにぎこちなくなってしまう。下り坂に足が取られて勝手に進んでしまうから、竹馬の動きを意識するどころじゃない。結局、自然に任せるほうが良いのかもしれない。本番は本番。意識をしなくても、体のどこかには染み付いているはずだから。
今は涼子さんから逃げ切ることを優先しよう。アンカーが抜かれたらチームが負けてしまうのだ。
(絶対に振り切ってみせる……!)
左腕の時計が振動した。2キロの自動ラップだ。3分10秒。我ながら、わかりやすくペースが落ち過ぎだ。
5キロ弱のコースで、まだ半分以上残っているのにもう息が苦しい。だが、耐えるしかない。
自分の足音が大きい。ジタバタとしていて、きっと悪いフォームになっている。道は次第に平坦へと変わった。
その時だった。背後に威圧感が押し寄せてきた。
楓の足音に、涼子さんの足音が割り込んでくる。その足音は徐々に大きくなっていく。
(速い……!)
振り返ると、涼子さんは涼やかな顔をしていて、まだ余裕があるように見えた。
楓も負けるつもりはない。視線を前に戻し、さらに力を振り絞った。
◇
(ふっふっふ。追いついちゃったよー?)
黒田涼子は加速する。フットギアの足裏が路面をリズミカルに弾いている。
カーブを曲がるたびに差は縮まり、ついには眼前にバンビちゃんの背中を捉えるところまで来た。
涼子は得意げな笑みを唇に浮かべた。
ここまでラップは2分54、2分59。2キロの通過は5分53秒。
下り坂を利用し、日本のトップランナーのようなペースで飛ばしている。練習試合だから公式な記録が残るわけじゃないけど、未知の世界のスピード感に興奮を覚えていた。
はっきり言って、バンビちゃんは飛ばしすぎだったと思う。
最初の1キロで思ったほど差が縮まらなくて不思議だったのだが、どうやら向こうが自身の力以上のペースで走っていたみたいだった。
無理が祟って、3キロまでにはグッと距離が近づいた。勢いは明らかに涼子が勝っている。
ここで、ついにバンビちゃんの横に並ぶ。今が勝負所だと睨んだ涼子は、さらに大きく腕を振り、走りをダイナミックに切り替え、一気に抜き去った。
(デルフィ大学、逆転!)
今この時ばかりは、地球が自分を中心に回っていると豪語しても、チームメイトたちが許してくれるだろう。
(バンビちゃん、どう? 今のスパート、見てくれた?)
バンビちゃんは今きっと後ろで、涼子さんすごい、って目を輝かせてくれているに違いない。
その快感がさらに涼子のピッチを加速させていく。エネルギーの永久機関だ。
そんなことを考えた瞬間、背後で大きな鈍い音が響いた。
おそらくだけど、バンビちゃんが勢い余ってカーブを曲がりきれず、ガードレールに激突したのだ。
涼子は驚いて後ろを振り返った。すぐに立ち直してついてきているバンビちゃんの姿が見えた。気づくと、後ろの監督車がいなくなっていた。
涼子がトップに立ったことで、アイリスとデルフィの監督車が順番を交代しているのが、遥か後方で見えた。激突した瞬間は誰も見ていなかったのだろう。
(大丈夫かな……?)
涼子は心配になったが、レースは続いている。全力で走るしかない。
そこで奇妙なことが起きた。
終わったと思っていたバンビちゃんが、突然「ウァー!」という叫び声を発しながら、ペースを上げて横に並んできたのだ。
(わっ……!)
なんて根性だ。右隣に来たバンビちゃんは、怖いくらいの眼力で涼子に向かってくる。息を切らしながら、ガードレールに激突したことなどなかったかのように、そのままの勢いで走り続けている。
並ばれてからは、さすがの涼子も余裕がなくなった。走力で負けたとは思わないが、心理的な立場は完全にひっくり返された。
信じられない光景だった。その足取りは軽く、まるで彼女の背中に天使の翼が生えているかのようだった。
重力から完全に自由となったような、宙を掻く足運び。バンビちゃんはそのスパートで、涼子を抜き返したのだった。
◇
黒田さんに追い抜かれた時は、ダメかという気持ちがよぎったが、楓は諦めなかった。
肩にかかっているのは、チームのみんなが託してくれたタスキだ。昨日のミーティングで話していた通り、初駅伝の楓に先頭で渡してくれたのだ。
(みんなの1位、絶対譲っちゃダメだ……!)
そう思った瞬間、再び力が湧いてきた。もう一度黒田さんをターゲットに定め、必死に追いかける。
苦しみながらもスピードを落とさない、その瀬戸際がしばらく続いた。
楓は走り続ける中で、まるで重たい荷物を降ろしたかのように、ある時ふと足が軽くなる瞬間があった。
(あわわっ……!)
スピードが出過ぎて、カーブを右に曲がりきれず、そのままガードレールに突っ込んでしまった。
ガードレールにぶつかる音が響き、痛みが走る。しかし、楓はすぐに立ち上がり、再び走り出した。
自分の身体の変化に驚いた。足でフワッと地面を撫でるだけで、身体が前に飛び、また次の足が出てくる。
フットギアのソールが路面に沈み込むタイミングと、反発が跳ね返ってくるタイミングが、自分の思い通りになった感覚があった。シンクロってこういうことかと、シルフィードと初めて息を合わせられたような気がした。
(もしかして、エリカさんっていつもこんな感覚で走っていたの……!?)
自分一人のレースじゃ、あそこまでの力は出せなかったと思う。チームで走るからこそみなぎってくる不思議なパワーを、楓は身をもって体感したのだった。
◇
「はい、涼子、13分58秒。区間記録、30秒更新ね」
「よっしゃ、宣言通り!」
デルフィ大学の滝野監督がタイムを告げた。涼子さんは息を整えながら満足げに笑みを浮かべ、親指を立てた。爽やかな喜びが彼女の顔に表れていた。
一方、全てを使い果たした楓は、坂の下にある中継所、テニスコートの駐車場で地面に突っ伏していた。
「バンビ、大丈夫?」
今日は坂の下の中継所でサポート役を担当していたラギちゃんが、楓を優しく抱き起こした。楓は悔しさと疲れで声が出ず、ただ小さくうなずくことしかできなかった。
滝野監督が監督車から降り、手元のストップウォッチを確認しながら向かってきた。
「それから栗原さん、14分25秒。これも一応区間新記録ね。1年の時の涼子より、3秒速かった!」
それを聞いて、ラギちゃんが楓の背中をポンポンと叩いた。
「えぇ、すごいじゃん、バンビ!」
「ほんと、みんなのおかげ……」
それは自然と出た言葉だった。
もちろん両者のタイムを比べれば、後ろからスタートして追いついてきた涼子さんが圧勝だ。しかし、涼子さんとここまで競り合うことができた。
自分一人の力ではない。坂上からここまで下ってくるまでに、何度もチームメイトのことが頭に浮かび、何度も力をもらったのだ。
(これで勝てていたら一番よかったなぁ……)
あの後、楓は最後の直線で力尽きてしまい、涼子さんに抜かれながらのゴールだった。身体の悲鳴を何度も無視して走り続けたツケが回ってきたのだろう。
「それじゃ、練習試合は同着ということで、お開きにしましょうか」
(あれ、同着? いいのかな)
滝野監督が全体に向けて言うと、デルフィ大学サイドのサポート役の部員たちが拍手をした。気づけば、たくさんの人が周りにいた。キロ表示の看板を持つ人、レジャーシートの上で走り終わった選手をケアする人、マッサージ用のマットを片付ける人たち。多くの人たちの支えがあって練習試合が実現したのだと改めて実感する。
「いえ、同着じゃないです」
涼子さんの言葉に、周囲が静まり返った。
「ゴールラインの上、先に手が入ってましたよ、バンビちゃんのが」
「それ本当なの、涼子?」
「はい。監督、私たちの負けです」
涼子さんは楓のほうへ歩み寄る。
「凄かったよ、バンビちゃん。いつもなら意地でも差し返すところだけど、あまりの気迫に押されてしまって、押しのけてでもっていう気が起きなかった。ナイスファイト」
涼子さんは楓と固く握手を交わした。
「みなと駅伝でまた会おうね」
かくしてアイリス女学院大学は、デルフィ大学との練習試合で勝利を収めたのだった。
* * *
一方その頃、坂の上の中継所では、大変なことが起きていた。
「お前ら、アイリスの駅伝部?」
朝陽たちが撤収作業をしていたところに突然現れた、目つきの悪い男性。今、この場には女性しかいない。周囲にも緊張が走る。
朝陽が警戒していると、蓮李先輩が何も言わずにその男性へ向かって歩み出した。慌てて蓮李先輩のシャツの裾を引っ張り、小声で言う。
「ちょっ、蓮李先輩、ヤバそうじゃないですか、あの人」
「多分だけど、手荒なマネはできないはずだから」
「えっ、いやいや、大丈夫なんですか」
蓮李先輩は見知らぬ屈強な男に対して、冷静に淡々と立ち向かう。
「取材か何かでしたら、監督を通していただけますか。まもなく男性の監督が参りますので」
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