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【第9話 結実の秋】2037.10
④ エール
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「あーっ、見つけたわ。朝陽ぃ―!」
1区の池田朝陽が、付近の道でスタート前のウォーミングアップをしていると、人混みの中でもよく響く、聞き慣れた声がした。
「よかったー、会えないかと思ったわ」
振り返ると、そこには母の姿があった。スマホを片手に嬉しそうに近づいてくる。が、その馬鹿デカい声に、朝陽は他人のフリをしたくなった。
「スタート近くでアップしてるってメッセ送ったじゃん」
「近く、じゃどこだかわからないでしょ? こんなに広いのに」
そう言いながら、母は自然に朝陽の両肩を揉んでくれた。久しぶりだな、この感じ。以前はよくレース前はこうしてもらっていた。朝陽は、この空間だけ地元に帰ったような気分になった。そうなると次は、弟や父が気になった。
「智才とお父さんは?」
「1キロ地点のところだってさ。お父さんったら、良い場所取るんだ、って、ちーくん連れて朝イチで並びに行ったのよ」
「ちょっと、そんなに気合い入れなくていいってば」
「せっかくの娘の晴れ舞台なんだから、張り切らせてあげなさいな。それにこんな大きな大会、高校の時以来でしょ?」
「あの野太い声で名前叫ばれたら、恥ずかしくってしょうがないっての」
すると朝陽は、屈強な母が下ろしているロングヘアーの後ろで隠れていた華奢な女性に気づいた。
控えめに微笑む頬の周りには、まるでお花が舞っているような雰囲気が漂っている。そういう意味でなんとなく、母の友人っぽさがないのだ。
誰なんだろう、と思いつつも、おおよそ見当はついていた。
「こんにちはー!」
「あら、こんにちは」
「もしかして、楓ちゃんのお母さんですか?」
「えぇっ。そうだけど、朝陽ちゃん、よくわかったわねぇ」
あはは、やっぱり的中。 もう雰囲気から何までバンビにそっくりだから。
「はい、すぐわかりましたよ。今日は岡山からいらしたんですか?」
「そうなのよ。私、一応アイリスの卒業生なんだけどね。当時とだいぶみなとみらいの景色も変わっているし、駅伝を見るのも初めてだから。今日は朝陽ちゃんのお母さんに案内してもらうことになっているの」
まあとりあえず、ウチのお母さんがエスコートするなら安心かな。
「お母さん! 今日はバンビのカッコいいところ、しっかり見せてあげてね!」
「あいよっ。朝陽も二年分、思いっきり暴れて来なさい!」
「まかしときっ」
朝陽は母とハイタッチすると、ジョグを再開した。もう少し走って、体を温めておこう。
「それじゃあねー」
* * *
(駅伝って、こんなにたくさんの人が見に来るのねぇ)
朝陽ちゃんを見送った後も、感心しっぱなしだった。約20年ぶりの桜木町駅前は、駅伝の観客でごった返しており、昔を懐かしむ余裕はなかった。
娘が走る姿を無事に見られるのかどうか。ずっと心配でしょうがなかった。何より、駅伝に関してはサッパリ、全くの素人なもんだから。
そんな時、不安を取り払ってくれたのは、池田さん——朝陽ちゃんのお母さんだった。
数日前、突然楓から「グループチャットに招待されると思うから入ってね」と言う連絡が来た。どうやら池田さん親子が率先して連絡先を集めて、アイリス駅伝部のお母さん限定のグループチャットの部屋を作ってくれるのだという。
しかも池田さんは、「7区の楓ちゃんは1区のウチの子と走るコース似てるので、よかったら栗原さんも一緒に回りましょう」と誘ってくれたのだった。
(あぁ、なんと優しく、頼もしいのか)
朝陽ちゃんのことは、気さくに話しかけてくれる先輩だと、よく楓からも名前を聞いていた。その子にして、その親ありかー。いや、それは逆か。
ところで、ところで。
さっきから首を傾げている。多分、ウチの娘のことを言っていたと思うのだけれど——。
(バンビ、ってなに???)
◇
一方その頃、2区の選手が待機する本牧・第一中継所。
(あれっ、姫路さんがいる!)
てっきり1区だと思っていた。まさか同じ区間だなんて。
「はぁ。みんな、すごいメンバーだなぁ」
近くに誰もいなくなったのをいいことに、不安の丈を一人ポツリと呟いた。
二神心枝は、今日の付き添い担当などで協力してくれる短距離ブロックの子に荷物を任せて、ウォーミングアップを始めた。
誰とも目を合わせないよう、伏し目がちのまま中継所を出てきた。他の選手の顔を見たら、弱気になってしまいそうだから。
これから2区で心枝と対決することになるメンバーは、高校時代、雲の上の存在だった人ばかり。特に、ローズ大の姫路薫さんと、ジャスミン大の藤井実咲さんは、高校時代の二年先輩と一年先輩にあたる。
心枝は佐久東高校での三年間、補欠メンバーにすら入ることができなかった。心枝が貧血と骨折を繰り返している間に、どんどん強い下級生が入ってきて、復帰するたびに肩身が狭くなっていった。
あの二人は、そんな暗い思い出の中にいる、常に輝き続けていた人たち。大学に入って、いくら5000メートルを15分台で走れるようにまでなったとはいえ、エントリー表で自分と同じ区間に並ぶ彼女たちの名前を見ると、足がすくんだ。
「心枝」
そんな時、急に目の前に現れたのは。
「わっ。お姉ちゃん、来てくれたの?」
「うん。私もすぐに野島へ向かうよ」
自分もこれから本番だというのに。5区の野島中継所に向かう前に、コースの中で最も駅から離れているこの2区の本牧中継所にわざわざ立ち寄ってくれたのだという。
姉はまず、何も言わずに心枝を抱きしめてくれた。心の中の不安が全部伝わっているみたいだった。
ひとつだけ、アドバイスを貰った。
「周りはほとんどピッチ走法の選手だ。ストライド走法の心枝は、周りのリズムにつられないように少し距離を取って、耳じゃなくて、目でペースだけもらうようにするといいよ」
「ペースだけ……」
姉のコンパクトなアドバイスは、胸ポケットにしまっておける小さなお守りのように感じられた。
周りの選手に勝てるかどうかを考えると、どうしても怖気付いてしまう。「ペースだけ」というそのおまじないだけをひたすら唱えて、とにかく走り切ろうと決めた。
心枝は、本番になってからその場のアドリブで臨機応変に対応するということに関してはかなり不得手である。何事も、準備が命。
もちろん姉も、それをわかって言ってくれたのだと思う。走る時に何を意識すればいいか、前もってポイントをひとつに絞っておいたほうが力を発揮できる。
「じゃあ、次はゴールでね!」
抱擁を解いて、姉は颯爽と消えた。
時間にして一分くらいだったのではないだろうか。一人になってしばらくしてから、もしかして今のは、緊張のあまり自分にだけ見えた幻覚だったのではと疑ってしまうくらい、姉は本当に嵐のように去っていった。
けれど、2区の中継所に現れた二神蓮李を見たのは、心枝一人ではない。証人がいる。
さっき一瞬だけ、姫路薫先輩がウォーミングアップでこの直線を走ってきていた。だがその先の人物に気づくなり、途端に引き返していったのだった。
もちろん、二人はまだ仲直りできていない。
今日、このみなと駅伝が終わった時。二人の関係はどうなっているだろうか。
1区の池田朝陽が、付近の道でスタート前のウォーミングアップをしていると、人混みの中でもよく響く、聞き慣れた声がした。
「よかったー、会えないかと思ったわ」
振り返ると、そこには母の姿があった。スマホを片手に嬉しそうに近づいてくる。が、その馬鹿デカい声に、朝陽は他人のフリをしたくなった。
「スタート近くでアップしてるってメッセ送ったじゃん」
「近く、じゃどこだかわからないでしょ? こんなに広いのに」
そう言いながら、母は自然に朝陽の両肩を揉んでくれた。久しぶりだな、この感じ。以前はよくレース前はこうしてもらっていた。朝陽は、この空間だけ地元に帰ったような気分になった。そうなると次は、弟や父が気になった。
「智才とお父さんは?」
「1キロ地点のところだってさ。お父さんったら、良い場所取るんだ、って、ちーくん連れて朝イチで並びに行ったのよ」
「ちょっと、そんなに気合い入れなくていいってば」
「せっかくの娘の晴れ舞台なんだから、張り切らせてあげなさいな。それにこんな大きな大会、高校の時以来でしょ?」
「あの野太い声で名前叫ばれたら、恥ずかしくってしょうがないっての」
すると朝陽は、屈強な母が下ろしているロングヘアーの後ろで隠れていた華奢な女性に気づいた。
控えめに微笑む頬の周りには、まるでお花が舞っているような雰囲気が漂っている。そういう意味でなんとなく、母の友人っぽさがないのだ。
誰なんだろう、と思いつつも、おおよそ見当はついていた。
「こんにちはー!」
「あら、こんにちは」
「もしかして、楓ちゃんのお母さんですか?」
「えぇっ。そうだけど、朝陽ちゃん、よくわかったわねぇ」
あはは、やっぱり的中。 もう雰囲気から何までバンビにそっくりだから。
「はい、すぐわかりましたよ。今日は岡山からいらしたんですか?」
「そうなのよ。私、一応アイリスの卒業生なんだけどね。当時とだいぶみなとみらいの景色も変わっているし、駅伝を見るのも初めてだから。今日は朝陽ちゃんのお母さんに案内してもらうことになっているの」
まあとりあえず、ウチのお母さんがエスコートするなら安心かな。
「お母さん! 今日はバンビのカッコいいところ、しっかり見せてあげてね!」
「あいよっ。朝陽も二年分、思いっきり暴れて来なさい!」
「まかしときっ」
朝陽は母とハイタッチすると、ジョグを再開した。もう少し走って、体を温めておこう。
「それじゃあねー」
* * *
(駅伝って、こんなにたくさんの人が見に来るのねぇ)
朝陽ちゃんを見送った後も、感心しっぱなしだった。約20年ぶりの桜木町駅前は、駅伝の観客でごった返しており、昔を懐かしむ余裕はなかった。
娘が走る姿を無事に見られるのかどうか。ずっと心配でしょうがなかった。何より、駅伝に関してはサッパリ、全くの素人なもんだから。
そんな時、不安を取り払ってくれたのは、池田さん——朝陽ちゃんのお母さんだった。
数日前、突然楓から「グループチャットに招待されると思うから入ってね」と言う連絡が来た。どうやら池田さん親子が率先して連絡先を集めて、アイリス駅伝部のお母さん限定のグループチャットの部屋を作ってくれるのだという。
しかも池田さんは、「7区の楓ちゃんは1区のウチの子と走るコース似てるので、よかったら栗原さんも一緒に回りましょう」と誘ってくれたのだった。
(あぁ、なんと優しく、頼もしいのか)
朝陽ちゃんのことは、気さくに話しかけてくれる先輩だと、よく楓からも名前を聞いていた。その子にして、その親ありかー。いや、それは逆か。
ところで、ところで。
さっきから首を傾げている。多分、ウチの娘のことを言っていたと思うのだけれど——。
(バンビ、ってなに???)
◇
一方その頃、2区の選手が待機する本牧・第一中継所。
(あれっ、姫路さんがいる!)
てっきり1区だと思っていた。まさか同じ区間だなんて。
「はぁ。みんな、すごいメンバーだなぁ」
近くに誰もいなくなったのをいいことに、不安の丈を一人ポツリと呟いた。
二神心枝は、今日の付き添い担当などで協力してくれる短距離ブロックの子に荷物を任せて、ウォーミングアップを始めた。
誰とも目を合わせないよう、伏し目がちのまま中継所を出てきた。他の選手の顔を見たら、弱気になってしまいそうだから。
これから2区で心枝と対決することになるメンバーは、高校時代、雲の上の存在だった人ばかり。特に、ローズ大の姫路薫さんと、ジャスミン大の藤井実咲さんは、高校時代の二年先輩と一年先輩にあたる。
心枝は佐久東高校での三年間、補欠メンバーにすら入ることができなかった。心枝が貧血と骨折を繰り返している間に、どんどん強い下級生が入ってきて、復帰するたびに肩身が狭くなっていった。
あの二人は、そんな暗い思い出の中にいる、常に輝き続けていた人たち。大学に入って、いくら5000メートルを15分台で走れるようにまでなったとはいえ、エントリー表で自分と同じ区間に並ぶ彼女たちの名前を見ると、足がすくんだ。
「心枝」
そんな時、急に目の前に現れたのは。
「わっ。お姉ちゃん、来てくれたの?」
「うん。私もすぐに野島へ向かうよ」
自分もこれから本番だというのに。5区の野島中継所に向かう前に、コースの中で最も駅から離れているこの2区の本牧中継所にわざわざ立ち寄ってくれたのだという。
姉はまず、何も言わずに心枝を抱きしめてくれた。心の中の不安が全部伝わっているみたいだった。
ひとつだけ、アドバイスを貰った。
「周りはほとんどピッチ走法の選手だ。ストライド走法の心枝は、周りのリズムにつられないように少し距離を取って、耳じゃなくて、目でペースだけもらうようにするといいよ」
「ペースだけ……」
姉のコンパクトなアドバイスは、胸ポケットにしまっておける小さなお守りのように感じられた。
周りの選手に勝てるかどうかを考えると、どうしても怖気付いてしまう。「ペースだけ」というそのおまじないだけをひたすら唱えて、とにかく走り切ろうと決めた。
心枝は、本番になってからその場のアドリブで臨機応変に対応するということに関してはかなり不得手である。何事も、準備が命。
もちろん姉も、それをわかって言ってくれたのだと思う。走る時に何を意識すればいいか、前もってポイントをひとつに絞っておいたほうが力を発揮できる。
「じゃあ、次はゴールでね!」
抱擁を解いて、姉は颯爽と消えた。
時間にして一分くらいだったのではないだろうか。一人になってしばらくしてから、もしかして今のは、緊張のあまり自分にだけ見えた幻覚だったのではと疑ってしまうくらい、姉は本当に嵐のように去っていった。
けれど、2区の中継所に現れた二神蓮李を見たのは、心枝一人ではない。証人がいる。
さっき一瞬だけ、姫路薫先輩がウォーミングアップでこの直線を走ってきていた。だがその先の人物に気づくなり、途端に引き返していったのだった。
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