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【第4話 執念の行方】2037.07
④ 心理的安全性
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「今日はみんなに『心理的安全性』というキーワードについて話します」
聞き馴染みのない言葉に、部員たちは顔を見合わせた。
「心理的安全性というのは、チーム内で遠慮せずに自分の意見や感情を言い合える空気のことです。話を聞いてもらえるという安心感があると、みんなが率直に意見を言い合えて、チーム全体が成長していける」
立花の説明に、頷く者もいれば、深く考え込む者もいた。
すぐには納得できないような顔をしているのはきっと、そんなこと今のチームはとっくにできているのにどうして、という疑問からだと思う。
確かに雰囲気は良い。
しかし、本当の意味で風通しのよいチームを作るには、あともう一歩が必要だと立花は感じていたのだった。
「それから、もうひとつ。各自が自分自身を大切にすることも大事だ。約束してほしい。もし走っている途中で、自分の身に危険を感じたら、勇気を持って止まること。これを今日から、アイリス駅伝部の約束事にします」
しっくり来たような、来ないような。そんな一人一人の表情が見てとれた。
無理もないだろう。きっと彼女達は、高校までの指導者にこんなことは言われてきていないはずだ。
死に物狂いでタスキをつなぐことこそが駅伝だと、信じてきたのだと思う。
「この約束を結ぶのはな、君たちがスタートラインに立ってしまってからではもう遅いんだ。こんなことは考えたくないけれども、例えばみなと駅伝のレース中、走っている途中に脱水症状が起きたとする。そんな時、タスキを繋ぐことよりも自分の身体を優先できるランナーは多くない」
選手は、周りに止められない限り、自分ではなかなか止まれない。いざアクシデントが起きた時には、もう冷静な判断はできない。
そんな状況の選手に、命に関わるような自己判断・自己責任を強いるのはあまりにも酷ではないか。
だからこそ、前もってチームの共通認識として、対応を明確にしておく必要があるのだ。
「責任は俺が取る。だから勝手に自分で責任を取ろうとするな。俺の責任の取れない領域まで走っていこうとするな」
中には、選手が納得いくまでやらせてあげてほしいという意見を言う人達もいるだろう。しかし、棄権が遅れたせいで選手にもしものことがあったら、その人は責任をとれるのか。
いくらチームが勝とうが、選手が帰ってこないのでは何の意味も無い。
選手が無事であるという前提の上で、初めて勝利を目指せる。
もし集団から出遅れてしまったら、もし棄権してタスキを繋げられなかったら、自分はチームに帰ってこられない。そんな不安がよぎるようなチームでは、自然と体も硬直してきて、良いパフォーマンスは発揮できなくなる。
フットギアがパニック状態を検知すれば、セーフティーが発動し、なおさら前に進まなくなる。
反対に、アクシデントが起きた時でも余裕を持つことができたら、例えば一度立ち止まって屈伸し、状態を確認するという冷静な対応もできるだろう。
「みんなお互いに、練習で頑張っているのはよくわかっている。だから棄権することになっても、誰も責めないし、責めさせない。学年や走力に関係なく、全員だ。アクシデントは誰にだって起こる可能性はある。君たちには、少なくとも俺が見ている間は、自分の身に危険を感じたら、立ち止まれるだけの余裕を持っていてほしいんだ」
今はせめて、自分が監督を務めるアイリスの駅伝部の中だけでも。
ただし近い将来この約束は、令和スポーツの常識にしていかなければならない。
立花は、もう一度シャキッとした口調を取り戻して続けた。
「それを踏まえた上で、みんなには、さっそく心理的安全性を実感してもらおうと思う。これから一人ずつ夏合宿の目標や、チームに対して言いたいことがあれば言ってみてくれ。そして発言者以外のメンバーは、それを否定せずにまずは受け入れるというのをやってみよう」
◇
心理的安全性の話をしたその日。部員達は、練習日誌に各々の考えを書いてくれていた。
四年生、キャプテンの二神蓮李のコメント。
止まってもいい、と言われたのは初めてだったので、驚いた。
四年生、寮長の歌川茉莉のコメント。
同じ用語を使っていても、微妙に定義が食い違うこともある。今日一日だけではなく、「心理的安全性」という言葉をこれからミーティング等で頻繁に使うようにして、確認とすり合わせが必要だと感じた。
二年生、副キャプテンの池田朝陽のコメント。
全部自分一人でできると思わないで、詳しい人に教えてもらおうという謙虚な気持ちや、みんなに助けを求める姿勢が大事なのではないかと感じた。
二年生、二神心枝のコメント。
メンバーそれぞれ心の中の優先度が違って、自分の中の当たり前が、他の人からしたらそうじゃないかもしれないので、押し付けるのではなく、話し合ってお互い歩み寄れればいいのかなと感じました。
一方で、すぐには納得できない意見もあるようだった。
二年生、小泉柚希のコメント。
意見を言いやすいのは大事だけど、間違ったことも肯定しなきゃいけないのは、違うんじゃないかと思った。言うべきことはハッキリ言って、話し合いで解決したい。
一年生、安藤ヘレナ・シェフェールのコメント。
今日の話はあまりリカイできなかった。駅伝ではとにかく一人一人が速く走れるようにベストをつくせばいいと思う。
そして。
問題の1年生、栗原楓のコメントは、未提出。
まだ書きたいことがあるので、とのことだった。
さっきのミーティングでの楓の発言には、絶句してしまった。どんなことでもまず受け入れると言った立花だったが、こればかりは認められない。
聞き馴染みのない言葉に、部員たちは顔を見合わせた。
「心理的安全性というのは、チーム内で遠慮せずに自分の意見や感情を言い合える空気のことです。話を聞いてもらえるという安心感があると、みんなが率直に意見を言い合えて、チーム全体が成長していける」
立花の説明に、頷く者もいれば、深く考え込む者もいた。
すぐには納得できないような顔をしているのはきっと、そんなこと今のチームはとっくにできているのにどうして、という疑問からだと思う。
確かに雰囲気は良い。
しかし、本当の意味で風通しのよいチームを作るには、あともう一歩が必要だと立花は感じていたのだった。
「それから、もうひとつ。各自が自分自身を大切にすることも大事だ。約束してほしい。もし走っている途中で、自分の身に危険を感じたら、勇気を持って止まること。これを今日から、アイリス駅伝部の約束事にします」
しっくり来たような、来ないような。そんな一人一人の表情が見てとれた。
無理もないだろう。きっと彼女達は、高校までの指導者にこんなことは言われてきていないはずだ。
死に物狂いでタスキをつなぐことこそが駅伝だと、信じてきたのだと思う。
「この約束を結ぶのはな、君たちがスタートラインに立ってしまってからではもう遅いんだ。こんなことは考えたくないけれども、例えばみなと駅伝のレース中、走っている途中に脱水症状が起きたとする。そんな時、タスキを繋ぐことよりも自分の身体を優先できるランナーは多くない」
選手は、周りに止められない限り、自分ではなかなか止まれない。いざアクシデントが起きた時には、もう冷静な判断はできない。
そんな状況の選手に、命に関わるような自己判断・自己責任を強いるのはあまりにも酷ではないか。
だからこそ、前もってチームの共通認識として、対応を明確にしておく必要があるのだ。
「責任は俺が取る。だから勝手に自分で責任を取ろうとするな。俺の責任の取れない領域まで走っていこうとするな」
中には、選手が納得いくまでやらせてあげてほしいという意見を言う人達もいるだろう。しかし、棄権が遅れたせいで選手にもしものことがあったら、その人は責任をとれるのか。
いくらチームが勝とうが、選手が帰ってこないのでは何の意味も無い。
選手が無事であるという前提の上で、初めて勝利を目指せる。
もし集団から出遅れてしまったら、もし棄権してタスキを繋げられなかったら、自分はチームに帰ってこられない。そんな不安がよぎるようなチームでは、自然と体も硬直してきて、良いパフォーマンスは発揮できなくなる。
フットギアがパニック状態を検知すれば、セーフティーが発動し、なおさら前に進まなくなる。
反対に、アクシデントが起きた時でも余裕を持つことができたら、例えば一度立ち止まって屈伸し、状態を確認するという冷静な対応もできるだろう。
「みんなお互いに、練習で頑張っているのはよくわかっている。だから棄権することになっても、誰も責めないし、責めさせない。学年や走力に関係なく、全員だ。アクシデントは誰にだって起こる可能性はある。君たちには、少なくとも俺が見ている間は、自分の身に危険を感じたら、立ち止まれるだけの余裕を持っていてほしいんだ」
今はせめて、自分が監督を務めるアイリスの駅伝部の中だけでも。
ただし近い将来この約束は、令和スポーツの常識にしていかなければならない。
立花は、もう一度シャキッとした口調を取り戻して続けた。
「それを踏まえた上で、みんなには、さっそく心理的安全性を実感してもらおうと思う。これから一人ずつ夏合宿の目標や、チームに対して言いたいことがあれば言ってみてくれ。そして発言者以外のメンバーは、それを否定せずにまずは受け入れるというのをやってみよう」
◇
心理的安全性の話をしたその日。部員達は、練習日誌に各々の考えを書いてくれていた。
四年生、キャプテンの二神蓮李のコメント。
止まってもいい、と言われたのは初めてだったので、驚いた。
四年生、寮長の歌川茉莉のコメント。
同じ用語を使っていても、微妙に定義が食い違うこともある。今日一日だけではなく、「心理的安全性」という言葉をこれからミーティング等で頻繁に使うようにして、確認とすり合わせが必要だと感じた。
二年生、副キャプテンの池田朝陽のコメント。
全部自分一人でできると思わないで、詳しい人に教えてもらおうという謙虚な気持ちや、みんなに助けを求める姿勢が大事なのではないかと感じた。
二年生、二神心枝のコメント。
メンバーそれぞれ心の中の優先度が違って、自分の中の当たり前が、他の人からしたらそうじゃないかもしれないので、押し付けるのではなく、話し合ってお互い歩み寄れればいいのかなと感じました。
一方で、すぐには納得できない意見もあるようだった。
二年生、小泉柚希のコメント。
意見を言いやすいのは大事だけど、間違ったことも肯定しなきゃいけないのは、違うんじゃないかと思った。言うべきことはハッキリ言って、話し合いで解決したい。
一年生、安藤ヘレナ・シェフェールのコメント。
今日の話はあまりリカイできなかった。駅伝ではとにかく一人一人が速く走れるようにベストをつくせばいいと思う。
そして。
問題の1年生、栗原楓のコメントは、未提出。
まだ書きたいことがあるので、とのことだった。
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