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【第4話 執念の行方】2037.07
① 雛鳥のバタ足
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粗い雨粒が、ケヤキ寮の窓ガラスを叩いていた。
「フォームが、ヘン?」
「はい……。私の走り方、映像で見たら、なんというか溺れているみたいで」
楓は口ごもりながら、窓から見える低い雲のようなグレーのため息をついた。
雨でグラウンドが使えない今日は、室内で補強トレーニング。その際、ペアを組むことになった歌川茉莉先輩に、休憩の合間ふと最近の悩みを打ち明けてみたのだった。
相談を持ちかけられた茉莉先輩はというと、それを聞いて何故か笑い出した。
「あっはっは。溺れている……面白い表現ですな」
でもそれは、別に楓を馬鹿にしたわけではなかったようだ。
アイリス駅伝部の寮では、基本的に先輩が部屋長、後輩が部屋子の組み合わせで同室となっている。
例えば楓の部屋だったら、二年生の二神心枝先輩が部屋長で、一年生の楓が部屋子という具合だ。
ちなみに心枝先輩は、キャプテンである二神蓮李先輩の妹にあたる。
四年生の茉莉先輩の部屋子は誰なのかというと、なんとラギちゃんなのである。
なんというか、お似合い過ぎて。
実際二人はどちらも駅伝の知識が豊富で、気が合うらしい。
ラギちゃんいわく、茉莉先輩は、ラギちゃんをもっと濃く煮詰めたような駅伝オタクなのだそうで。
ちょくちょく話を聞いていたから、悪い人じゃないことは知っていた。
さっきの笑いは、きっと先輩の研究意欲のスイッチが入った、一種の武者震いだと思えばいいのかもしれない。
「それじゃ、補強トレーニングが終わったら、後ほど私の部屋で詳しく話を聞きましょう」
解決してもらおうというよりは、話題の一つとして話したつもりだったのだが、せっかくの機会なので色々と教えてもらおうと思った。
◇
いったん自分の部屋で着替えて、すぐに向かおう。
楓はとても良い部屋長に当たったと思う。
共用のスペースは、いつもの通りキッチリ整理整頓されていた。
心枝先輩はしっかり者で、収納上手。先輩のスペースはいつも綺麗になっている。
どんなに練習で疲れていようとも、脱いだ物がそこらへんに転がっているなんてことは、思い返しても記憶にない。
楓はその点、実は全く自信がないが、先輩を見習ってなるべくこまめに片付けるようにしている。
だって、あんなに優しい心枝先輩に叱られでもしたら、多分楓は本当に立ち直れないと思う。
本来は後輩がやらなきゃいけないのだが、心枝先輩は気づくと共用のスペースまで掃除してくれていることがある。
代わりますと言っても、「私こういうの好きだから」ってニコニコしていた。
けれど肩身が狭そうな楓を見かねたのか、今度は「じゃあ寮長さんの抜き打ちチェックがあるかもしれないから、そっちをお願いできる?」ってさりげなく楓のスペースを片付けるよう言ってくれるなど。本当に頭が下がる。
そういえば。茉莉先輩と二人きりでしっかり話すのって、初めてかも。
どうしよう、緊張してきた。
楓は、自分の部屋と斜向かいの角部屋の前に立った。
木製の扉をノックすると。
「はーい」
という声とともに、中から足音が近づいてきた。
出てきたのは、ラギちゃんだった。
「あ、来た来た、入って。茉莉先輩、バンビ来ましたよー」
「し、失礼しまーす」
なんだかこう見ると、茉莉先輩の部屋にラギちゃんがくつろいでいたみたいに見えるけど、ここは彼女の部屋でもあるのだ。
「ほいほい、よく来ましたなー」
一時期、茉莉先輩は寮長の特権として、監督を除いて駅伝部で唯一の一人部屋だったのだが、途中でラギちゃんが加入して綺麗にここへおさまったわけだ。
部屋に入ってすぐに目に飛び込んでくるのは、部屋の一角に置かれた立派なデスクトップのパソコン。
楓がノートパソコンしか触ったことがないからか、妙に存在感を感じる。
「そうそう。この子、予選の時の映像見せてあげたら、急にすごく落ち込んじゃったんですよ」
ラギちゃんは、お医者さんに子どもの症状を伝えるみたいに、全部のいきさつを説明してくれた。
(いや。お母さんなんですか、あなたは)
「驚いたよ~。バンビ、まさかの神宮寺エリカさんについて行っちゃうんだもん」
いやぁ、まぁ、アレには色々ありまして。
ラギちゃんは「カッコいいシーンだから見せたのに」とカラカラ笑うが、楓は映像の中の選手が自分であるということをすんなり受け入れられなかった。
というより、受け入れたくなかったのだ。
な、なんだ、こりゃ……。というのが、初めて自分の走りを見た客観的な感想だった。
そもそも、予選会がネットでライブ配信されていたこと自体知らなかった。
楓はその時、スタート前にエリカさんと話した時の背景を思い出して、一人で納得した。
確かに、カメラがたくさんあった気がする。
「どれどれ。私にも見せていただけますかな、その『溺れている』様子とやらを」
「私、いま配信のアドレス送ったんで、こっちのディスプレイで映せます?」
「ふむ。そうしましょう」
楓はただ二人のやりとりを眺めていた。やっぱり師弟のように見えてくる。
茉莉先輩は丸眼鏡をクイっと上げ、顎に指を当てた。
少し再生しては早送りを繰り返して、ひと通りチェックしているようだ。
レンズの表面に楓の走りが反射している。
楓とラギちゃんは、ひたすらその様子を見守っていた。
「ど、どうですか」
すると先輩は無言のままマウスでシークバーを巻き戻し、再び前半の映像を繰り返した。
「ふむ。ここを見てみましょう」
「フォームが、ヘン?」
「はい……。私の走り方、映像で見たら、なんというか溺れているみたいで」
楓は口ごもりながら、窓から見える低い雲のようなグレーのため息をついた。
雨でグラウンドが使えない今日は、室内で補強トレーニング。その際、ペアを組むことになった歌川茉莉先輩に、休憩の合間ふと最近の悩みを打ち明けてみたのだった。
相談を持ちかけられた茉莉先輩はというと、それを聞いて何故か笑い出した。
「あっはっは。溺れている……面白い表現ですな」
でもそれは、別に楓を馬鹿にしたわけではなかったようだ。
アイリス駅伝部の寮では、基本的に先輩が部屋長、後輩が部屋子の組み合わせで同室となっている。
例えば楓の部屋だったら、二年生の二神心枝先輩が部屋長で、一年生の楓が部屋子という具合だ。
ちなみに心枝先輩は、キャプテンである二神蓮李先輩の妹にあたる。
四年生の茉莉先輩の部屋子は誰なのかというと、なんとラギちゃんなのである。
なんというか、お似合い過ぎて。
実際二人はどちらも駅伝の知識が豊富で、気が合うらしい。
ラギちゃんいわく、茉莉先輩は、ラギちゃんをもっと濃く煮詰めたような駅伝オタクなのだそうで。
ちょくちょく話を聞いていたから、悪い人じゃないことは知っていた。
さっきの笑いは、きっと先輩の研究意欲のスイッチが入った、一種の武者震いだと思えばいいのかもしれない。
「それじゃ、補強トレーニングが終わったら、後ほど私の部屋で詳しく話を聞きましょう」
解決してもらおうというよりは、話題の一つとして話したつもりだったのだが、せっかくの機会なので色々と教えてもらおうと思った。
◇
いったん自分の部屋で着替えて、すぐに向かおう。
楓はとても良い部屋長に当たったと思う。
共用のスペースは、いつもの通りキッチリ整理整頓されていた。
心枝先輩はしっかり者で、収納上手。先輩のスペースはいつも綺麗になっている。
どんなに練習で疲れていようとも、脱いだ物がそこらへんに転がっているなんてことは、思い返しても記憶にない。
楓はその点、実は全く自信がないが、先輩を見習ってなるべくこまめに片付けるようにしている。
だって、あんなに優しい心枝先輩に叱られでもしたら、多分楓は本当に立ち直れないと思う。
本来は後輩がやらなきゃいけないのだが、心枝先輩は気づくと共用のスペースまで掃除してくれていることがある。
代わりますと言っても、「私こういうの好きだから」ってニコニコしていた。
けれど肩身が狭そうな楓を見かねたのか、今度は「じゃあ寮長さんの抜き打ちチェックがあるかもしれないから、そっちをお願いできる?」ってさりげなく楓のスペースを片付けるよう言ってくれるなど。本当に頭が下がる。
そういえば。茉莉先輩と二人きりでしっかり話すのって、初めてかも。
どうしよう、緊張してきた。
楓は、自分の部屋と斜向かいの角部屋の前に立った。
木製の扉をノックすると。
「はーい」
という声とともに、中から足音が近づいてきた。
出てきたのは、ラギちゃんだった。
「あ、来た来た、入って。茉莉先輩、バンビ来ましたよー」
「し、失礼しまーす」
なんだかこう見ると、茉莉先輩の部屋にラギちゃんがくつろいでいたみたいに見えるけど、ここは彼女の部屋でもあるのだ。
「ほいほい、よく来ましたなー」
一時期、茉莉先輩は寮長の特権として、監督を除いて駅伝部で唯一の一人部屋だったのだが、途中でラギちゃんが加入して綺麗にここへおさまったわけだ。
部屋に入ってすぐに目に飛び込んでくるのは、部屋の一角に置かれた立派なデスクトップのパソコン。
楓がノートパソコンしか触ったことがないからか、妙に存在感を感じる。
「そうそう。この子、予選の時の映像見せてあげたら、急にすごく落ち込んじゃったんですよ」
ラギちゃんは、お医者さんに子どもの症状を伝えるみたいに、全部のいきさつを説明してくれた。
(いや。お母さんなんですか、あなたは)
「驚いたよ~。バンビ、まさかの神宮寺エリカさんについて行っちゃうんだもん」
いやぁ、まぁ、アレには色々ありまして。
ラギちゃんは「カッコいいシーンだから見せたのに」とカラカラ笑うが、楓は映像の中の選手が自分であるということをすんなり受け入れられなかった。
というより、受け入れたくなかったのだ。
な、なんだ、こりゃ……。というのが、初めて自分の走りを見た客観的な感想だった。
そもそも、予選会がネットでライブ配信されていたこと自体知らなかった。
楓はその時、スタート前にエリカさんと話した時の背景を思い出して、一人で納得した。
確かに、カメラがたくさんあった気がする。
「どれどれ。私にも見せていただけますかな、その『溺れている』様子とやらを」
「私、いま配信のアドレス送ったんで、こっちのディスプレイで映せます?」
「ふむ。そうしましょう」
楓はただ二人のやりとりを眺めていた。やっぱり師弟のように見えてくる。
茉莉先輩は丸眼鏡をクイっと上げ、顎に指を当てた。
少し再生しては早送りを繰り返して、ひと通りチェックしているようだ。
レンズの表面に楓の走りが反射している。
楓とラギちゃんは、ひたすらその様子を見守っていた。
「ど、どうですか」
すると先輩は無言のままマウスでシークバーを巻き戻し、再び前半の映像を繰り返した。
「ふむ。ここを見てみましょう」
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