天使の隣

鉄紺忍者

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【第2話 エリカ】2037.06

① 襲来

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夢——。

人々を前進させ、困難に立ち向かう勇気を与え、成長へと導く源泉。

十数年前、一人の研究者が、人間の「走る喜び」に極めて近い波長を持った『精霊石(せいれいせき)』の精製に、初めて成功した。

精霊石を埋め込んだ特殊なランニングシューズ『フットギア』は、心に履くシューズとも称され、ランナーの理想の走りを実現する。

暗闇の中、記憶の断片がよみがえる。子どもの頃は夢でいっぱいだった。ずっと子どものままでいられるような気がしていた。少なくとも、あの出来事が起こるまでは。

『大丈夫よぉ、お母ちゃん。わたしがおるけぇ、大丈夫よぉ……』

七歳だった少女は嘘をついた。父を失い、膝をついて途方もなく泣き崩れる母を前にして、本当は「お母ちゃんだけはいなくならないで」と心の奥で叫んでいた。それでも、震える声で「強い自分」を装い、母の支えになろうと必死だった。

時が経ち、あの日の少女は、運命の扉に手をかけようとしていた。

栗原楓(くりはらかえで)の頭には、脳波を測定するヘルメットが装着されている。視界では、暗い部屋を飛び交う無数の青いレーダー。大縄跳びのロープの影みたいに、床と壁を這う光線が繰り返し循環している。

「かかとをしっかり合わせてください」

シューマイスターのマイさんの指示が聞こえ、足元のプレートにかかとを密着させる。

前方で、スケルトンの球体が静かに点灯する。光の粒子が微かに揺れ、青白い輝きが脈動する。その中心には、これから足を踏み入れることになるフットギアが鎮座し、シルフィードの精霊石が今まさに蒸着されようとしていた。

「少し前に出てください。準備ができたら、はっきりと大きな声で、ご自身の願いを唱えてください」

楓は一歩、前に進む。装置の表面に波紋が広がる。レーダーの回転が加速し、部屋全体の空気が張り詰める。

ピッ……ピッ……ピピッ……ピピピピッ……!

機械の音が増え、楓の思考を読んでいるかのように、精霊石が共鳴し始めた。楓は目を見開き、胸に秘めていた言葉を震える唇で紡ぐ。

「どんな時でも動じない、強い人になりたい!!!」

その瞬間、フットギアと精霊石が光を解き放つ。

ピピィーーーーー!

機械が一斉に反応し、青暗かった部屋が、青白い光に染まる。楓の影が壁に映し出され、点滅する。まるで、自分の未来の姿を目の当たりにしたような気がした。

彼女の願いを聞き届けた銀燭(ぎんしょく)の精霊石——シルフィードは、運命の歯車をゆっくりと動かし始めた。

* * *

(夢?)

まぶたの裏が明るい。小鳥のさえずりが聞こえる。

(……朝?)

意識が浮上し、ゆっくりと目を開ける。見知った天井、見知った布団。駅伝部の寮の自室だ。

枕元のスマホを手に取る。時刻は朝の五時前。胸の奥にざらついた感覚が残っている。何か、大きな出来事があった。けれど、思い出せない。

とてつもない疲労感だ。なんだか、自分の限界を何段階も超えて手足を動かした形跡がある。

(……夢じゃない!)

ロック画面に映る大量の通知に飛び起きる。「アイリス女学院駅伝部グループ」 の文字を見て、一気に目が覚めた。震える手で、タッチする。

『バンビ、昨日はおつかれさま』
『祝・みなと駅伝本戦出場決定!』
『昨日のレース動画、送るね』

送られたリンクをタップ。動画が再生される。映し出されたのは、スタジアムのトラック。ゴール直前、フラフラになりながら倒れ込む選手。

(私だ……)

でも、その映像には映っていないようだった。遠ざかる背中。白い閃光をまとい、空気を裂くように駆ける。——天使の翼。

楓は確かに見た。あのとき、神宮寺エリカさんは飛んでいた。



(悪夢?)

エリカは、上大岡(かみおおおか)の駅ビルを早足で通り抜ける。予選翌日の月曜日のことだ。

(あれは、一体何だったの……?)

向かう先は、フットギア専門店 『フットラボ』。考えれば考えるほど、血が上る。地面に打ちつけられる足音は、走る時よりも激しい。

(例の件について、問い詰めないと)

エリカが肩をいからせてフットラボの扉を開けると、カウンター越しに顧客対応をしているマイさんの姿を見つけた。忙しそうにしながらも、柔らかな笑顔できちんと相手の目を見て話す。その丁寧さが、周りに好かれる要因なのだろう。

東京・横浜エリアを一人で任されているのだから、よほどフットギアの専門知識や調節スキルが卓越しているのだろうが。エリカは思わず眉をひそめる。

(保育園の先生か何かかしら?)

スポーツショップの店主というには、少々可愛らしすぎるエプロン姿。薄いベージュの生地には、小さな花模様が刺繍されている。その姿は、カウンターの奥に見える無機質な棚や整理されたディスプレイと、どこかミスマッチに感じられた。

小柄で華奢な体型に、丸いフェイスラインの童顔。いかにも相手を油断させる外見だ。

よく父や関係者が「20代にしか見えない」と褒めそやすのを聞いているが、女の目はごまかせない。肌のきわにほのかに刻まれた小さな影、髪の生え際にほんのりとにじむ時間の痕跡。

エリカより十個も年上の選手を担当していたことから推察すれば、少なくとも40代手前といったところだろうか。こうして近づいてじっくり見れば、他にも——。

「あら、こんにちは。神宮寺エリカさん」

カウンター越しに放たれたその声は、この一大事をよそに、相変わらずの柔らかさを保っている。その余裕が、エリカにとって余計に癪に障った。

「どういうおつもりですか」

エリカは、さっさと本題に入る姿勢だ。しかし、マイさんは変わらず、いつも通りの接客スマイルで応じた。

「あの、本日はどのような御用件でしょうか」
「とぼけないで。決まっているでしょう。栗原楓のことについてよ!」

その名前を聞いて、マイさんはまつげをパチリと動かした。口元の笑みは変えないまま、くるりと半身になって、卓上の何かを取るべく数歩ずれる。

(今の間は……)

明らかに、答えを持っている者の反応だ。エリカは目を細める。そして、何やら「10番」と書かれたカードが手渡されそうになる。待て、なんの数字だ。

「……そうしましたら、恐れ入りますが、こちらの『番号札』で順番にご案内しております」

そこで初めて店内を見渡すと、他に五名ほどの先客が待合室のソファで座って待っていることに気がついた。この日のフットラボは、翌週に日本選手権を控えた多くのプロ選手たちが、フットギアの最終メンテナンスに来店していたのだった。

先客に気づかず順番を飛ばそうとしていた自分に、顎を引く。マイさんの笑顔はホクホク度が増していた。エリカは無言で番号札を受け取る。

少し冷静になろう。ソファで待つ間、エリカは考える。
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