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【第1話 運命のライバル】2037.06
⑤ ビギナーズ・ハイ
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「私たち、小さいんだから。あんな込み入ったところにいてはダメよ!」
ずいぶんハッキリ聞こえるタイプの天使の囁きだなと思ったら、それは前を走るエリカさんの声だった。
(えっ?)
「スタートしたら、まず真っ先に前に出て、自分のスペースを確保するの! いい?」
思わず反射的に「ハイッ」と返事をしたが、大観衆にかき消されてしまうくらいの声しか出せなかったので、ただコクリと頷くだけになった。
エリカさんは、こんなにスピードを出しながらでも喋れる。
いちいち比べていたらキリがないけど、とてつもない差を感じた。
本当に、さっきから何が起こっているのやら。
スタート前に話しかけてくれただけでは終わらず、助けてくれて、さらには走り方のアドバイスまで。
「76秒ォ!」
両手にストップウォッチを持った神宮寺監督が、二周目のラップを叫ぶ。楓は青ざめた。
(マズイって!)
楓にとって、76秒というのは未知の世界の速さだった。しかもこの一周で8秒も上がっている。
そこまで速いペースとは思っていなかった。むしろこの一周はなんだか軽く走れたなとすら思っていたのだ。
急なペース変化は、スタミナを使う。
それは、とても5000メートルを走りきれるか不安がっている人の走り方ではなかった。
ただ、エリカさんの後ろで走るのは、なんというかすごく居心地がよかった。
顔の高さ、目線の高さが同じくらい。
ラク、と言うとさすがに語弊があるけど、二人になってからはペースの上げ下げがほとんどなく、その点では集団で埋もれていた時より遥かに走りやすかった。
さっきからずっと見ていて、エリカさんの走りはとにかくブレがない。
軸がしっかりしているから、肩肘がすごくリラックスしていて、両腕のスイングがでんでん太鼓のように見えてくる。
それにつられ、楓も自然と良いフォームで走れている感覚があった。
身体のどこに力を入れて、どこの力を抜けば速く走れるのか、目の前で真似しながらコツを掴んでいく。
このままどこまででも行けるんじゃないかと思えてきた。
今は、エリカさんの背中を追いかけるのが楽しくてしょうがない。
ペースのことなんて、いつの間にかすっかり忘れていた。
とにかく夢中だった。
エリカさんがどこまでも連れていってくれるような。そんな気がした。
そのうち、自分一人で何でもできるような気になってきて。
(なぜだかどうしてか。私は——)
エリカさんに勝とうと、考え始めるのだった。
◇
ぼやけたような周りの景色が、妙にゆっくりと通り過ぎていく。
『ジャスミン大学の神宮寺さんを先頭に、まもなく3000メートルを通過……9分36秒。この間の千メートル、3分10秒』
(あれっ、いつの間に?)
楓は気づかないうちに、先頭のラップタイムを読み上げる場内のアナウンスが聞こえていなかったほど、走りにのめり込んでいた。
周りの声援は遠くに聞こえ、二人以外の選手のことは完全に意識から飛んでいた。
5000メートルのレースでは、3000から4000が一番キツくなるところのはずなのだが、あとトラック五周でこの時間が終わってしまうのが名残惜しいとすら思った。
エリカさんの腕振りと足の動きに合わせ、楓がそれに続いていく。呼吸のリズムまで真似していた。この心地よい連続のほかには、何も要らなかった。
額からは汗が滴り落ち、熱を帯びた筋肉はどんどん重くなってきている。
しかし今日は、それでもまだ動かせる体力が残っている。
限界を超えるというより、限界のラインがめりめり押し上がっていく感じだ。
カーブに差し掛かる。そこで、エリカさんが今までにはなかった仕草をした。
彼女の動きをひたすら真似していたこともあって、変化にはすぐ気がついた。
何やら、右の足元を気にしているみたいだ。
(右足が、痛いのかな?)
考えているうちに、エリカさんがまた下を向いた。その時、最初は心配する気持ちだけだった楓の中に、徐々に別の感情が芽生え始めていた。
そういえば、エリカさんほどの選手が1組にエントリーされているのは調子が悪いからかもしれない、と先輩たちが話していたのを思い出した。
(……チャンスかもしれない)
楓が動く。直線で加速してアウトコースから抜き去る。
楓は初めてエリカさんの前に出た。
会場の声援が波を打って湧き上がった。
『先頭代わりまして、栗原さん。アイリス女学院大学』
「おいおい。神宮寺さんの前に出ちゃったよ」
「あの子、まだ一年生らしいぞ?」
「マジで?」
楓はチャンスを見逃さず、スパートのカードを切った。
無名の1年生が神宮寺エリカを抜いてトップに立ったと、観客席が大騒ぎになっていることなど知るよしもなかった。
転がり込んできた勝機を逃さない。とにかく今はその一点のみに集中している。
込み上げてくる自信が止められない。
(行ける! 絶対勝てる!)
「エリカ、何をやっているんだ! さっさと抜き返せ!」
ジャスミン大学の神宮寺監督の怒号が飛ぶ。
快感だった。
楓が前に出たことで、相手の監督が慌てているのだ。
(また、この見え方)
楓は再び、周りの景色がスローモーションに見えるようになった。
自分が自分じゃないような、そんな感覚がみなぎっていた。
しかも、こんな大勝負に出ておいて、まだ会場の大型スクリーンを確認する余裕すらあった。
だが、楓はそこに映し出された自分の姿を見て、途端に血の気がサーっと引いた。
スクリーンには、まず楓が映る。だがほぼ同時に、後ろに同じ身長の影がついてきていたのだ。
今の瞬間まで、てっきり楓は後ろをつき離せていると思っていた。
足音もしない。気配もない。聞こえているのは自分の足音だけ。
それなのに、映像には確かに二人のランナーの姿が映っている。
「ねえ!!」
肩口から声が飛んできた。
「さっきからそれ、スパートのつもり?」
(えっ!?)
「ペースをジリジリ上げるだけじゃ、相手はちっとも怖くないんだよ?」
つまり、楓の飛び出しはエリカさんには痛くも痒くもなかったのだ。
自分はフルパワーで走っているのに、相変わらず向こうははまだ喋れる余裕がある。その恐ろしいほどの冷静さが、首元にナイフを突きつけるかのごとく楓を追い込んでくる。
「いい? スパートっていうのは……こうやるんだよっ!」
ずいぶんハッキリ聞こえるタイプの天使の囁きだなと思ったら、それは前を走るエリカさんの声だった。
(えっ?)
「スタートしたら、まず真っ先に前に出て、自分のスペースを確保するの! いい?」
思わず反射的に「ハイッ」と返事をしたが、大観衆にかき消されてしまうくらいの声しか出せなかったので、ただコクリと頷くだけになった。
エリカさんは、こんなにスピードを出しながらでも喋れる。
いちいち比べていたらキリがないけど、とてつもない差を感じた。
本当に、さっきから何が起こっているのやら。
スタート前に話しかけてくれただけでは終わらず、助けてくれて、さらには走り方のアドバイスまで。
「76秒ォ!」
両手にストップウォッチを持った神宮寺監督が、二周目のラップを叫ぶ。楓は青ざめた。
(マズイって!)
楓にとって、76秒というのは未知の世界の速さだった。しかもこの一周で8秒も上がっている。
そこまで速いペースとは思っていなかった。むしろこの一周はなんだか軽く走れたなとすら思っていたのだ。
急なペース変化は、スタミナを使う。
それは、とても5000メートルを走りきれるか不安がっている人の走り方ではなかった。
ただ、エリカさんの後ろで走るのは、なんというかすごく居心地がよかった。
顔の高さ、目線の高さが同じくらい。
ラク、と言うとさすがに語弊があるけど、二人になってからはペースの上げ下げがほとんどなく、その点では集団で埋もれていた時より遥かに走りやすかった。
さっきからずっと見ていて、エリカさんの走りはとにかくブレがない。
軸がしっかりしているから、肩肘がすごくリラックスしていて、両腕のスイングがでんでん太鼓のように見えてくる。
それにつられ、楓も自然と良いフォームで走れている感覚があった。
身体のどこに力を入れて、どこの力を抜けば速く走れるのか、目の前で真似しながらコツを掴んでいく。
このままどこまででも行けるんじゃないかと思えてきた。
今は、エリカさんの背中を追いかけるのが楽しくてしょうがない。
ペースのことなんて、いつの間にかすっかり忘れていた。
とにかく夢中だった。
エリカさんがどこまでも連れていってくれるような。そんな気がした。
そのうち、自分一人で何でもできるような気になってきて。
(なぜだかどうしてか。私は——)
エリカさんに勝とうと、考え始めるのだった。
◇
ぼやけたような周りの景色が、妙にゆっくりと通り過ぎていく。
『ジャスミン大学の神宮寺さんを先頭に、まもなく3000メートルを通過……9分36秒。この間の千メートル、3分10秒』
(あれっ、いつの間に?)
楓は気づかないうちに、先頭のラップタイムを読み上げる場内のアナウンスが聞こえていなかったほど、走りにのめり込んでいた。
周りの声援は遠くに聞こえ、二人以外の選手のことは完全に意識から飛んでいた。
5000メートルのレースでは、3000から4000が一番キツくなるところのはずなのだが、あとトラック五周でこの時間が終わってしまうのが名残惜しいとすら思った。
エリカさんの腕振りと足の動きに合わせ、楓がそれに続いていく。呼吸のリズムまで真似していた。この心地よい連続のほかには、何も要らなかった。
額からは汗が滴り落ち、熱を帯びた筋肉はどんどん重くなってきている。
しかし今日は、それでもまだ動かせる体力が残っている。
限界を超えるというより、限界のラインがめりめり押し上がっていく感じだ。
カーブに差し掛かる。そこで、エリカさんが今までにはなかった仕草をした。
彼女の動きをひたすら真似していたこともあって、変化にはすぐ気がついた。
何やら、右の足元を気にしているみたいだ。
(右足が、痛いのかな?)
考えているうちに、エリカさんがまた下を向いた。その時、最初は心配する気持ちだけだった楓の中に、徐々に別の感情が芽生え始めていた。
そういえば、エリカさんほどの選手が1組にエントリーされているのは調子が悪いからかもしれない、と先輩たちが話していたのを思い出した。
(……チャンスかもしれない)
楓が動く。直線で加速してアウトコースから抜き去る。
楓は初めてエリカさんの前に出た。
会場の声援が波を打って湧き上がった。
『先頭代わりまして、栗原さん。アイリス女学院大学』
「おいおい。神宮寺さんの前に出ちゃったよ」
「あの子、まだ一年生らしいぞ?」
「マジで?」
楓はチャンスを見逃さず、スパートのカードを切った。
無名の1年生が神宮寺エリカを抜いてトップに立ったと、観客席が大騒ぎになっていることなど知るよしもなかった。
転がり込んできた勝機を逃さない。とにかく今はその一点のみに集中している。
込み上げてくる自信が止められない。
(行ける! 絶対勝てる!)
「エリカ、何をやっているんだ! さっさと抜き返せ!」
ジャスミン大学の神宮寺監督の怒号が飛ぶ。
快感だった。
楓が前に出たことで、相手の監督が慌てているのだ。
(また、この見え方)
楓は再び、周りの景色がスローモーションに見えるようになった。
自分が自分じゃないような、そんな感覚がみなぎっていた。
しかも、こんな大勝負に出ておいて、まだ会場の大型スクリーンを確認する余裕すらあった。
だが、楓はそこに映し出された自分の姿を見て、途端に血の気がサーっと引いた。
スクリーンには、まず楓が映る。だがほぼ同時に、後ろに同じ身長の影がついてきていたのだ。
今の瞬間まで、てっきり楓は後ろをつき離せていると思っていた。
足音もしない。気配もない。聞こえているのは自分の足音だけ。
それなのに、映像には確かに二人のランナーの姿が映っている。
「ねえ!!」
肩口から声が飛んできた。
「さっきからそれ、スパートのつもり?」
(えっ!?)
「ペースをジリジリ上げるだけじゃ、相手はちっとも怖くないんだよ?」
つまり、楓の飛び出しはエリカさんには痛くも痒くもなかったのだ。
自分はフルパワーで走っているのに、相変わらず向こうははまだ喋れる余裕がある。その恐ろしいほどの冷静さが、首元にナイフを突きつけるかのごとく楓を追い込んでくる。
「いい? スパートっていうのは……こうやるんだよっ!」
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