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【第1話 運命のライバル】2037.06
③ 予選会スタート
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一瞬、何が起こったのかわからなかった。
聞こえていたのは、スタンドで選手入場を待ちわびていた観客たちによる拍手喝采だった。
(もしかして、これ全部拍手の音なの?)
パチパチパチ、というよりはバチバチバチに近い。押し寄せてくる波のような轟音に、楓はつい飲まれそうになった。
各大学の応援合戦が始まり、スタジアムのボルテージは最高潮に達している。
こんなに大勢いて、勝ち上がれるのは上位4チームだけ。改めて考えると足がすくんで上手く回せなくなってきて、いつまで経ってもスタートに辿り着かない感じがした。
57、56、55……。会場の巨大スクリーンでは既にカウントダウンが始まっていた。
フットギアを着用して実施されるレースでは、必ずスタート前に一分間の試走時間が設けられる。
選手たちはこの時間を使ってフットギアのセッティングをする。
ある程度の設定は、あらかじめ気象条件や自分の好みなどから決めておくものだが、最終的には実際のコースで短いダッシュなどをしながら微調整する。
とはいえフットギアを履いて間もない楓には、設定と言われてもまだよくわかっていない。
グリップサポート、ON。クッションはソフト、ソールはフラット、ピンは一番長いやつ。
監督からアドバイスしてもらった通りの、典型的な初心者向け設定のまま、その場をウロウロするだけの時間になった。
出遅れた楓からは、前方でエリカさんが慣れた様子で真っ先に試走を開始し、第1コーナーまで勢いよく疾走していくのが見えていた。
スタートしたらちょうどあんなふうにすぐ置いていかれるのが容易に想像できた。実力が違いすぎる。
さっきのは、最初で最後の接点だった。
次にエリカさんと接近できるチャンスといえば、せいぜい周回遅れにされる時ぐらいだろう。
『Ready』
このアナウンスが聞こえたら、速やかに試走を止めてそれぞれのスタート位置に戻ることになっている。
次第に、それまでの盛り上がりが嘘のように静寂が会場を包み込んだ。
楓はフゥーと息を吐き、両の手のひらで挟むように頬を二回叩いた。
『On your marks——』
位置について、という意味の合図が、会場のスピーカーから流れる。
その声に呼応するように、これから走るコースに向かって一礼してから、17チーム34名の選手たちがグッと身をかがめた。
無音の中、今にも張り裂けそうな心臓の鼓動が、自分の中でだけくっきりと聞こえる。
時間にしてわずか二、三秒ほどの短い空白のはずだが、時間が止まっているようにさえ感じられた。
パァン、というピストル音が鳴り渡ると同時に、凍りついていた時間が雪崩のように氷解した。
全日本大学女子横浜みなと駅伝・関東地区予選、第1組のレースが始まった。
選手たちは反時計回り、つまりは左回りに、一周四〇〇メートルのトラックを全部で12・5周する。
通常のスタートラインよりも前方のアウトレーンのグループでスタートした楓は、最初の百メートルだけは、縁石の外側を通らなければならない。
(えっと、最初のカーブは縁石を踏まないようにして……っと、痛っ!)
近くの選手の肘とぶつかってしまった。あまり足元ばかり見ているわけにもいかないようだ。しかし、次は後ろから押され、今度は左右から。
(痛っ。もう! わざとやってるでしょ!)
足が絡まりそうになって故意ではなく前の選手を押してしまうことはあるけど、一度ならまだしも、二度、三度。これは明らかに、偶然ぶつかってしまったという類いのものではなかった。
縁石の区間が終わりオープンレーンに変わると、外側と内側のグループが一同に合流した。楓が囲まれて集団の中に隠れる形になったのをいいことに、当たりがますます強くなった。
ラギちゃんはおそらくこのゴチャゴチャの集団よりもさらに後方を走っているのだと思うが、いかんせん周りがよく見えない。
突然訪れた、憧れの人との夢のような時間。今思えば、あれが災難の始まりだった。
チームの予選突破がかかっている大事なレースで、こんな子どもみたいなことをしてくる人たちには呆れたが、それだけ彼女たちの反感を買ってしまったということなのだと思う。
エリカさんは学生駅伝界では誰もが憧れるような存在。
だからそんな彼女と、どこの誰かも知らないような選手が二人きりで話をしていたら、面白くないと思う人がいても不思議じゃない。
今の楓を襲っているのは、物理的な痛み以上に、四方八方を悪意のあるランナーに囲まれているという恐怖心だった。
最後までちゃんと走り切れるのだろうか。チームに迷惑をかけてしまったらどうしよう。
今にも気持ちがひしゃげてしまいそうだった。
最初の一周の半分——200メートルほどを過ぎた頃だった。
集団の視線が、一斉に斜め右前へと向いたように感じた。
囲まれている楓には、彼女たちが何に気を取られているのかよく見えなかったが、人垣の隙間から飛び込んできた光景に、思わず目を丸くした。
なんと、先頭を走っていたはずのエリカさんが、何のアクシデントか、コーナーで大きく外側に寄り、今にも止まりそうなほどスピードを落としているのだ。
会場の歓声もこれまでの勢いを一気に失い、ざわめきに変わっていた。
楓の心境も、スタンドで冷や汗をかいて騒然としている観衆たちと丸っきり同じだった。
一体、エリカさんに何があったのだろうか。
誰かをペースメーカーにしようと戦略的に先頭を譲った様子でもない。
そもそも第1組には、各大学の七番手・八番手の選手がエントリーされている。彼女ほどの実力者を引っ張れるような選手はいないと考えるのが普通だ。
ジャスミン大学のもう一人の選手がすかさず代わりに先頭に出た一方で、エリカさんは外側を大回りしながら、他のランナーに内側から次々追い抜かれ、ズルズルと後退してきた。
そしてついには、楓のところまで。
するとエリカさんは突然、予想だにしない行動に出た。
聞こえていたのは、スタンドで選手入場を待ちわびていた観客たちによる拍手喝采だった。
(もしかして、これ全部拍手の音なの?)
パチパチパチ、というよりはバチバチバチに近い。押し寄せてくる波のような轟音に、楓はつい飲まれそうになった。
各大学の応援合戦が始まり、スタジアムのボルテージは最高潮に達している。
こんなに大勢いて、勝ち上がれるのは上位4チームだけ。改めて考えると足がすくんで上手く回せなくなってきて、いつまで経ってもスタートに辿り着かない感じがした。
57、56、55……。会場の巨大スクリーンでは既にカウントダウンが始まっていた。
フットギアを着用して実施されるレースでは、必ずスタート前に一分間の試走時間が設けられる。
選手たちはこの時間を使ってフットギアのセッティングをする。
ある程度の設定は、あらかじめ気象条件や自分の好みなどから決めておくものだが、最終的には実際のコースで短いダッシュなどをしながら微調整する。
とはいえフットギアを履いて間もない楓には、設定と言われてもまだよくわかっていない。
グリップサポート、ON。クッションはソフト、ソールはフラット、ピンは一番長いやつ。
監督からアドバイスしてもらった通りの、典型的な初心者向け設定のまま、その場をウロウロするだけの時間になった。
出遅れた楓からは、前方でエリカさんが慣れた様子で真っ先に試走を開始し、第1コーナーまで勢いよく疾走していくのが見えていた。
スタートしたらちょうどあんなふうにすぐ置いていかれるのが容易に想像できた。実力が違いすぎる。
さっきのは、最初で最後の接点だった。
次にエリカさんと接近できるチャンスといえば、せいぜい周回遅れにされる時ぐらいだろう。
『Ready』
このアナウンスが聞こえたら、速やかに試走を止めてそれぞれのスタート位置に戻ることになっている。
次第に、それまでの盛り上がりが嘘のように静寂が会場を包み込んだ。
楓はフゥーと息を吐き、両の手のひらで挟むように頬を二回叩いた。
『On your marks——』
位置について、という意味の合図が、会場のスピーカーから流れる。
その声に呼応するように、これから走るコースに向かって一礼してから、17チーム34名の選手たちがグッと身をかがめた。
無音の中、今にも張り裂けそうな心臓の鼓動が、自分の中でだけくっきりと聞こえる。
時間にしてわずか二、三秒ほどの短い空白のはずだが、時間が止まっているようにさえ感じられた。
パァン、というピストル音が鳴り渡ると同時に、凍りついていた時間が雪崩のように氷解した。
全日本大学女子横浜みなと駅伝・関東地区予選、第1組のレースが始まった。
選手たちは反時計回り、つまりは左回りに、一周四〇〇メートルのトラックを全部で12・5周する。
通常のスタートラインよりも前方のアウトレーンのグループでスタートした楓は、最初の百メートルだけは、縁石の外側を通らなければならない。
(えっと、最初のカーブは縁石を踏まないようにして……っと、痛っ!)
近くの選手の肘とぶつかってしまった。あまり足元ばかり見ているわけにもいかないようだ。しかし、次は後ろから押され、今度は左右から。
(痛っ。もう! わざとやってるでしょ!)
足が絡まりそうになって故意ではなく前の選手を押してしまうことはあるけど、一度ならまだしも、二度、三度。これは明らかに、偶然ぶつかってしまったという類いのものではなかった。
縁石の区間が終わりオープンレーンに変わると、外側と内側のグループが一同に合流した。楓が囲まれて集団の中に隠れる形になったのをいいことに、当たりがますます強くなった。
ラギちゃんはおそらくこのゴチャゴチャの集団よりもさらに後方を走っているのだと思うが、いかんせん周りがよく見えない。
突然訪れた、憧れの人との夢のような時間。今思えば、あれが災難の始まりだった。
チームの予選突破がかかっている大事なレースで、こんな子どもみたいなことをしてくる人たちには呆れたが、それだけ彼女たちの反感を買ってしまったということなのだと思う。
エリカさんは学生駅伝界では誰もが憧れるような存在。
だからそんな彼女と、どこの誰かも知らないような選手が二人きりで話をしていたら、面白くないと思う人がいても不思議じゃない。
今の楓を襲っているのは、物理的な痛み以上に、四方八方を悪意のあるランナーに囲まれているという恐怖心だった。
最後までちゃんと走り切れるのだろうか。チームに迷惑をかけてしまったらどうしよう。
今にも気持ちがひしゃげてしまいそうだった。
最初の一周の半分——200メートルほどを過ぎた頃だった。
集団の視線が、一斉に斜め右前へと向いたように感じた。
囲まれている楓には、彼女たちが何に気を取られているのかよく見えなかったが、人垣の隙間から飛び込んできた光景に、思わず目を丸くした。
なんと、先頭を走っていたはずのエリカさんが、何のアクシデントか、コーナーで大きく外側に寄り、今にも止まりそうなほどスピードを落としているのだ。
会場の歓声もこれまでの勢いを一気に失い、ざわめきに変わっていた。
楓の心境も、スタンドで冷や汗をかいて騒然としている観衆たちと丸っきり同じだった。
一体、エリカさんに何があったのだろうか。
誰かをペースメーカーにしようと戦略的に先頭を譲った様子でもない。
そもそも第1組には、各大学の七番手・八番手の選手がエントリーされている。彼女ほどの実力者を引っ張れるような選手はいないと考えるのが普通だ。
ジャスミン大学のもう一人の選手がすかさず代わりに先頭に出た一方で、エリカさんは外側を大回りしながら、他のランナーに内側から次々追い抜かれ、ズルズルと後退してきた。
そしてついには、楓のところまで。
するとエリカさんは突然、予想だにしない行動に出た。
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