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【第1話 運命のライバル】2037.06
① 楓
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「駅伝」の面白さをもっと広めたい!
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(2025.2.13)
さて、今日の横浜ランドマークタワーのお天気は、ぴっかり晴れ空、のち曇り空。楓とエリカの運命の交差点。一体何が起きるの?
✻*˸ꕤ*˸*⋆。✻*˸ꕤ*˸*⋆。✻*˸ꕤ*˸*⋆。
「ゼッケン取れてない?」
「うん、大丈夫」
「お手洗いは?」
「ちゃんと行ったよ。……三回」
6月の相模原(さがみはら)ヒバリスタジアムは、熱気で揺れていた。スタート時刻の17時がじりじりと迫ってきている。選手入場ゲートに集合すると、視界の先に見えてきたのは、スタンドを埋め尽くす大観衆。栗原(くりはら)楓(かえで)は、思わず目が眩(くら)みそうになり、隣に立つ同じ一年生のチームメイトの手をキュッと握りしめた。
「ねえ、ラギちゃん。私たち本当に、こんな大勢の人前で走るの?」
声が震えていることに自分でも気づいた。けれど、マネージャー兼選手のラギちゃんこと柊木(ひいらぎ)成実(なるみ)は、さっきから目を輝かせながらスタジアム一周を眺めている。まるで、選手じゃなくて観客のテンションだ。この状況を楽しめてしまう彼女の度胸が羨ましくて仕方がない。
「私たち、ってねぇ、あなた」
ラギちゃんはそう言って、楓の後ろに回り、両肩を掴んでゴリゴリと揉み始めた。
「あのね、何度も説明したと思うけど。高校まで中距離専門だった私じゃ、5000メートルなんて長すぎて戦力になれないの。私はあくまで人数合わせ。タイムのほうは、期待の新人・栗原選手がちゃーんと稼いでくれないと!」
こらこら。試合前に全プレッシャーを丸投げしてくるチームメイトがどこにいる。
「はぁ、そっか。スタートしたら一人なんだよね……」
楓はいっそう心細くなって、ぽつりと小声を漏らした。周りの選手たちはとっくに臨戦態勢モードで出番を待っている。軽快に膝を高く上げたり、ジャンプを繰り返したり。クシャクシャとスパイクの擦れる音が耳に届くたび、気持ちが急かされるような感覚に襲われた。みんな速そう……。そう思うと、喉がひりつくように渇いた。
冷えたスポーツドリンクを少し口に含む。甘さとわずかな酸味が口の中に広がり、ひんやりと喉元を通り抜けていく。しかし、その潤いもほんの束の間、すぐに熱が追いかけてくる。夕方とはいえ、気温は25度を超えている。これだけ体内に水分を蓄えておいても、きっとすぐに汗で全て吹き飛んでしまうのだろう。楓はボトルを締めながら、これから灼熱の走り場(トラック)へ出ていく不安で胃がキリキリした。
「バンビなら大丈夫だって」
楓が駅伝部で「バンビ」と呼ばれるようになってから二ヶ月弱。とある先輩が名付けたそのあだ名はすっかりチームに浸透している。可愛がってくれているのは伝わってくる。でも、みんなの期待に応えられるだろうか。
ラギちゃんが楓の背中をポンと叩く。
「笑顔、笑顔!」
うーん、難しい。口角の上げ方を忘れてしまったみたい。それでも、「痛いの痛いの飛んでいけ」じゃないけど、言葉をかけてもらえるだけで、張り詰めていた胸の奥がいくらか和らいでいる。
時折、高台特有の壁のような風が吹き抜け、楓の頬を叩(はた)いていった。先ほどまでのウォーミングアップで汗を吸った栗色のショートヘアーが無造作になびいた。
「あっ、バンビ!」
ラギちゃんが突然楓の足元を指さした。
「え?」
「靴紐!」
「わっ、うそっ! 気づいてよかったぁ」
足元に目をやると、靴紐がほどけて地面にだらりと垂れていた。思い返せば、ウォーミングアップのときに緩めに結んで、そのままだった。後で固く結び直すつもりだったのに、非日常の慌ただしさに流され、そのまま忘れてしまっていたらしい。
楓は陽のもとへ出てしゃがみ込んだ。タンクトップ型のユニフォームからむき出しになっている肩を、日光がじゅわっと焼き付けてくる。
(はぁ。大丈夫って思ったり、やっぱ無理かもって思ったりの繰り返しだよ)
楓は一度大きく息を吐いた。かかとをトントンと鳴らし、シューズの後ろをしっかり合わせる。ランナーにとって、かかとのズレは致命的だ。左右の紐を指先でぐっと引き、蝶結びを作る。クロスさせるときに二周巻きつけるのがほどけにくくなるコツだと、先輩に教えてもらったっけ。シューズが足にフィットすると、地面の硬さがダイレクトに感じられるようになった。
(これでよし、と)
「ススス……」
(ん、ラギちゃん、どこ行くの?)
立ち上がろうとしたそのとき、楓はふと顔を上げた。突然、正面が影に覆われたからだ。
「栗原楓さん、よね?」
「はい、そうですけど……」
頭上から降ってきたのは、氷のように透き通った、知らない声だった。
楓には、その人が音もなく現れたように感じられた。スタジアムに響く歓声や、はためく応援旗にかき消されていたのか、気配に全く気がつかなかった。
声の主は、顎のラインで几帳面に切り揃えられた髪をかきあげながら、膝に手をついて屈(かが)み、こちらを覗き込んでいる。信じられない光景に、楓は息を呑んだ。
(ええっ!?)
太陽と重なり、後光でも差しているのかと思った。いや、これは天使の降臨だ。あながち間違っていない。その洗練されたシルエットに見惚れていたら、視界がぐるりと回転。
(わっ!)
バランスを崩し、体が傾く。ドサッ。支えようとした足がもつれ、あえなく転倒。
「あらあら、大丈夫?」
終わった。残念ながら、楓は全く大丈夫ではない。
よりにもよって、こんな初対面。ボロボロすぎて、現実を受け入れたくない気持ちが押し寄せる。なのに、その人は微笑みながら楓に手を差し伸べている。
鼓動が跳ね上がる。楓はウヨウヨ紆余曲折(うよきょくせつ)、迷った末に、頭が大渋滞のまま、謝りまくりつつ恐れ多くもそっと手を取る。指先がツルツルしていて、じんわりと温かい。軽く引かれると、体がすんなり起き上がった。
「こちらこそ、急にごめんなさい。私、ジャスミン大学三年の神宮寺(じんぐうじ)エリカといいます」
神宮寺、エリカ――。名前を聞いた瞬間、楓の脳裏にひと月前のレースが鮮明によみがえる。何度思い返したかわからない。
初めて見た瞬間、心を奪われた。スイスイと加速していくあの軽やかなフォーム。そして終始冷静な表情のまま、圧倒的な差で勝ってしまう。
身長147センチの楓とほぼ変わらない小柄な体格ながら、周囲に埋もれるどころか、ひときわ存在感を放つ大学女子駅伝界のトップランナー。そんな人が今、すぐ目の前にいるなんて。
「あっ、えっと……も、も、もちろん知っています!」
楓の声は裏返り、周囲に漏れ聞こえる音量になってしまった。エリカさんの緑色のユニフォームには『1』のゼッケン。トップチームの象徴であるその番号は、傷ひとつない美術品にあしらわれた装飾にすら見えてくる。
「お互い頑張りましょうね、期待の新人さん」
「え、ええっ!? い、いや、そんな!」
それはラギちゃんが勝手に言っただけであって。というか、さっきの話、聞かれていたんだ。恥ずかしい。楓は反射的に否定したが、エリカさんは首を傾げて「そう?」と涼しげな表情を浮かべている。
圧倒されっぱなしの楓だが、気がかりなことがある。
(どうして私なんかに話しかけてきたんだろう……)
ただ、楓には一つだけ心当たりがあった。
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さて、今日の横浜ランドマークタワーのお天気は、ぴっかり晴れ空、のち曇り空。楓とエリカの運命の交差点。一体何が起きるの?
✻*˸ꕤ*˸*⋆。✻*˸ꕤ*˸*⋆。✻*˸ꕤ*˸*⋆。
「ゼッケン取れてない?」
「うん、大丈夫」
「お手洗いは?」
「ちゃんと行ったよ。……三回」
6月の相模原(さがみはら)ヒバリスタジアムは、熱気で揺れていた。スタート時刻の17時がじりじりと迫ってきている。選手入場ゲートに集合すると、視界の先に見えてきたのは、スタンドを埋め尽くす大観衆。栗原(くりはら)楓(かえで)は、思わず目が眩(くら)みそうになり、隣に立つ同じ一年生のチームメイトの手をキュッと握りしめた。
「ねえ、ラギちゃん。私たち本当に、こんな大勢の人前で走るの?」
声が震えていることに自分でも気づいた。けれど、マネージャー兼選手のラギちゃんこと柊木(ひいらぎ)成実(なるみ)は、さっきから目を輝かせながらスタジアム一周を眺めている。まるで、選手じゃなくて観客のテンションだ。この状況を楽しめてしまう彼女の度胸が羨ましくて仕方がない。
「私たち、ってねぇ、あなた」
ラギちゃんはそう言って、楓の後ろに回り、両肩を掴んでゴリゴリと揉み始めた。
「あのね、何度も説明したと思うけど。高校まで中距離専門だった私じゃ、5000メートルなんて長すぎて戦力になれないの。私はあくまで人数合わせ。タイムのほうは、期待の新人・栗原選手がちゃーんと稼いでくれないと!」
こらこら。試合前に全プレッシャーを丸投げしてくるチームメイトがどこにいる。
「はぁ、そっか。スタートしたら一人なんだよね……」
楓はいっそう心細くなって、ぽつりと小声を漏らした。周りの選手たちはとっくに臨戦態勢モードで出番を待っている。軽快に膝を高く上げたり、ジャンプを繰り返したり。クシャクシャとスパイクの擦れる音が耳に届くたび、気持ちが急かされるような感覚に襲われた。みんな速そう……。そう思うと、喉がひりつくように渇いた。
冷えたスポーツドリンクを少し口に含む。甘さとわずかな酸味が口の中に広がり、ひんやりと喉元を通り抜けていく。しかし、その潤いもほんの束の間、すぐに熱が追いかけてくる。夕方とはいえ、気温は25度を超えている。これだけ体内に水分を蓄えておいても、きっとすぐに汗で全て吹き飛んでしまうのだろう。楓はボトルを締めながら、これから灼熱の走り場(トラック)へ出ていく不安で胃がキリキリした。
「バンビなら大丈夫だって」
楓が駅伝部で「バンビ」と呼ばれるようになってから二ヶ月弱。とある先輩が名付けたそのあだ名はすっかりチームに浸透している。可愛がってくれているのは伝わってくる。でも、みんなの期待に応えられるだろうか。
ラギちゃんが楓の背中をポンと叩く。
「笑顔、笑顔!」
うーん、難しい。口角の上げ方を忘れてしまったみたい。それでも、「痛いの痛いの飛んでいけ」じゃないけど、言葉をかけてもらえるだけで、張り詰めていた胸の奥がいくらか和らいでいる。
時折、高台特有の壁のような風が吹き抜け、楓の頬を叩(はた)いていった。先ほどまでのウォーミングアップで汗を吸った栗色のショートヘアーが無造作になびいた。
「あっ、バンビ!」
ラギちゃんが突然楓の足元を指さした。
「え?」
「靴紐!」
「わっ、うそっ! 気づいてよかったぁ」
足元に目をやると、靴紐がほどけて地面にだらりと垂れていた。思い返せば、ウォーミングアップのときに緩めに結んで、そのままだった。後で固く結び直すつもりだったのに、非日常の慌ただしさに流され、そのまま忘れてしまっていたらしい。
楓は陽のもとへ出てしゃがみ込んだ。タンクトップ型のユニフォームからむき出しになっている肩を、日光がじゅわっと焼き付けてくる。
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楓は一度大きく息を吐いた。かかとをトントンと鳴らし、シューズの後ろをしっかり合わせる。ランナーにとって、かかとのズレは致命的だ。左右の紐を指先でぐっと引き、蝶結びを作る。クロスさせるときに二周巻きつけるのがほどけにくくなるコツだと、先輩に教えてもらったっけ。シューズが足にフィットすると、地面の硬さがダイレクトに感じられるようになった。
(これでよし、と)
「ススス……」
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立ち上がろうとしたそのとき、楓はふと顔を上げた。突然、正面が影に覆われたからだ。
「栗原楓さん、よね?」
「はい、そうですけど……」
頭上から降ってきたのは、氷のように透き通った、知らない声だった。
楓には、その人が音もなく現れたように感じられた。スタジアムに響く歓声や、はためく応援旗にかき消されていたのか、気配に全く気がつかなかった。
声の主は、顎のラインで几帳面に切り揃えられた髪をかきあげながら、膝に手をついて屈(かが)み、こちらを覗き込んでいる。信じられない光景に、楓は息を呑んだ。
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神宮寺、エリカ――。名前を聞いた瞬間、楓の脳裏にひと月前のレースが鮮明によみがえる。何度思い返したかわからない。
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身長147センチの楓とほぼ変わらない小柄な体格ながら、周囲に埋もれるどころか、ひときわ存在感を放つ大学女子駅伝界のトップランナー。そんな人が今、すぐ目の前にいるなんて。
「あっ、えっと……も、も、もちろん知っています!」
楓の声は裏返り、周囲に漏れ聞こえる音量になってしまった。エリカさんの緑色のユニフォームには『1』のゼッケン。トップチームの象徴であるその番号は、傷ひとつない美術品にあしらわれた装飾にすら見えてくる。
「お互い頑張りましょうね、期待の新人さん」
「え、ええっ!? い、いや、そんな!」
それはラギちゃんが勝手に言っただけであって。というか、さっきの話、聞かれていたんだ。恥ずかしい。楓は反射的に否定したが、エリカさんは首を傾げて「そう?」と涼しげな表情を浮かべている。
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