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【2区 7.3km 二神 心枝(2年)】
③ 焦燥に心しだれて [前編]
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私のお姉ちゃんは凄い人。
中学に上がったお姉ちゃんは、塾の無い日にランニングクラブで走るようになった。最初は普通に部活に入っていたんだけど、塾の時間と合わなくなって、それで、好きな日に通える学外のクラブに。
荒神山スポーツ公園まで全員で競争するんだって。入ったばかりのはずなのに、お姉ちゃんはすっかり輪の中心にいて、チームメイトみんなを引き連れて先頭で走っていた。そして私は、そんなお姉ちゃんの妹なんだ。って、誇らしく思った。
送り迎えに母と一緒に行くうち、私もやってみたいってお願いしたの。母は少し心配そうだったけれど、「大丈夫、心枝もきっと楽しめるよ」と笑顔で言ってくれたのが、立花先生だった。お姉ちゃんも「一緒に走ろう」と優しく手を取ってくれて、私は嬉しくて仕方がなかった。
お姉ちゃんの世界はどんどん広がっていく……。佐久東高校に進学して、1年生からいきなりエース。都大路(全国高校駅伝)の時は、私も京都まで応援に行ったよ。
追いかけるように、私も佐久東に進んだ。けれどその背中はますます遠い。三年間怪我ばかりで、時間だけが過ぎていった。
わかっている。私だって、もう気づいている。いくら真似をしたって、同じように走れるわけじゃない。けれどせめて少しでも近くで、走りを見ていたかった。追いかけていたかった。アイリスでの二年間は、最後のチャンスなんだ。
中学、高校、大学、次はもうきっと、お姉ちゃんは——。
(声の届かないところまで行ってしまうから……!)
お願い。動いて。持ちこたえて、私の身体。
* * *
(ん、んん……)
気づくと、心枝は天井を見上げていた。ベッドの中は少し汗ばむくらい、ビニールハウスの中のような暖かさに包まれていた。
みなと駅伝の約五ヶ月前、ゴールデンウィーク中の出来事である。
「心枝、よかった、本当によかった……」
姉はホッとした表情で涙を浮かべながら、心枝を抱きしめた。
身の周りを囲む、牛乳多めのいちご牛乳みたいな、ナースさんの制服を思わせる淡いピンク色のカーテン。その連想も助けになって、ここが病院のベッドの上だと察するのにそれほど時間はかからなかった。
(そっか。私、朝練中に倒れて救急車に……)
走り終わってすぐ、目の前の景色が銀世界になってしまって。頭がグルグルし始めた次の瞬間、突然上から地面が降ってきて、そこからは何も覚えていない。
「私のせいだ。二人で親元を離れているんだから、姉の私が心枝を守らないといけないのに」
「ううん。お姉ちゃんのせいじゃないよ。顔上げて?」
それはキャプテンとしてではなく、家族としての言葉だった。心枝は、姉の小刻みに震える肩を抱き返した。姉がそばにいてくれる安堵感と同時に、だんだんと罪悪感が押し寄せてきた。
(ごめんね、私のほうこそ……)
「ちょっといい? ごめんなさいね」
そこへ、カーテン越しにキビキビとした人影が現れた。
「はい、どうぞ」
「起きたね? どう、気分は?」
「あっ、はい。少し、良くなりました」
「そうね。顔色は戻ってきたかな」
入ってきたのは、三十代くらいの女性の看護師さんだった。水色の制服の脇で、何かボードのようなものを抱えていた。ナースといえばピンク、という固定観念は、ドラマの見過ぎなのかもしれないと思った。
「あっかんべーさせてね」
枕元に近づき、そう言って心枝の涙袋を軽く引っ張ったので、ちょっとビックリした。
「うーん、まだ白いね。健康な人はね、下の瞼の裏のここが少し赤みを帯びているものなの。あ、腕のところ、点滴がつながっているから気をつけてね」
唇の色素が薄かったり、爪を強く押して色が戻るまで数秒かかったり。他にも貧血の兆候は出ているという。
「多分ね、慢性的なエネルギー不足もあると思うの。心枝さん、最後に来たのはいつ?」
看護師さんが小声で聞いた。
最後に来た、と言われて、まさか来院歴を尋ねられているわけではあるまい。
下腹部を捻られるような、刺されるような、女性だけに訪れるあの痛みの波が最後にいつ来たのか。そう問われているのである。
「えっと……。三ヶ月くらい、前です」
誰にも告げていなかった。だから姉も驚いたような表情をしていたと思う。
「やっぱり」
看護師さんが、肩を落として溜め息を吐いた。三ヶ月はれっきとした緊急事態で、どうしてもっと早く婦人科に相談しなかったのかと叱られてしまった。
「大学の駅伝部なんですってね」
まだほとんど問診に答えていないのに、抱えている診察票には心枝の個人情報が想定以上に載っているようだった。おそらく救急車で運ばれる前後に、姉が代わりに応対してくれていたのだと思う。
「陸上選手はね、たくさん走るうちに足裏の毛細血管が潰れちゃって、ただでさえ貧血を起こしやすいの。心枝さん、食事はきちんと取れているかしら? 何か気になることがあって、食欲がなかったとかは?」
「どうなの、心枝」
起きがけの質問攻めに、普段なら狼狽えてしまいそうなところだけど、隣に姉がいてくれる安心感と、そんな姉のさっきから心配しきった顔を見ているから、淡々と事実を伝えようという心づもりに自然となった。
「その……、体重が気になって」
小さな声で呟く言葉に、重たい苦悩がにじんだ。それを聞いた看護師さんはため息をついた後で、穏やかながらもしっかりと忠告した。
「週に六日、月に数百キロのハードなランニング。ちゃんと食べなきゃダメよ」
「でも私、体重が増えると走れなく——」
心枝にとってはあまりに慣れ親しんでいる、何度も繰り返されてきた思考回路であった。しかし、それを外に表現した瞬間、看護師さんの口調が急に厳しくなった。
「子どもが産めない体になってしまうかもしれないのよ!?」
ハッとした。もちろん様々な選択肢があるとはいえ、事の重大さに気づくには十分すぎるショックだった。これまでの行動を思い返し、それらがどれほど危険なことであったか、瞬間冷凍のように心枝の実感へと変わっていった。手遅れになる一歩手前の崖っぷちに自分が立っていたのだと、そこでようやく自覚したのだった。
「その他にだって、歳を取ってから骨が脆くなって苦しんでいる人がたくさんいるの!」
周りに迷惑をかけたくない一心で自分を追い込んでいた。今だけ。大学二年の今年の間だけ。その期間さえ乗り切ってしまえば、後からいくらでも取り返せるような気がしていたのだ。しかし、それは大きな誤解だった。
「いい? 今は若いからなんとかなっているようでも、そう見えるだけ。体はずーっと無理をしている。スポーツも大事だけど、それはあなたの健康があってこそなのよ」
看護師さんの鋭い言葉の中には、心枝の健康を心から案じる気持ちが込められていた。
「はい……」
「良い結果を出したいのなら、なおさらきちんと栄養をとらないと」
看護師さんは最後に優しく諭すと、穏やかな笑みを浮かべた。もし心枝が行動を変えないのなら、この暖かな心配をも裏切ることになる。
姉の夢の実現がかかった、今度のみなと駅伝予選。走力的に言って、足手まといにしかなれないのが辛かった。
バンビちゃんのせいでは決してないけれど、4月に未経験で駅伝部に入ってきたにもかかわらず、あっという間に自分より速く走れてしまう彼女の姿を見て、焦りはさらに加速していた。
診察してもらった女医さんは、頼もしいベテランだった。
「今あなたが服用しているという鉄剤。これは応急処置の為のもので、日常的に飲むものではないんです。そうね、かといって、急に絶つのも危ないから、少しずつ量を減らしていくとして……。鉄分含め必要な栄養素は、しっかりと普段の食事から摂るようにしていきましょう。いいわね?」
「はい」
この人もまたキビキビとした喋り方をする。きっとさっきの看護師さんは、一緒に働くうちに似ていったんじゃないかと思った。
「それからお姉さん」
「は、はい」
怖いくらい語気が強くなって、何を言われるのかと、姉がビクッと背中を伸ばした。
「私、これから駅伝部の監督さんを呼んで大事なお話をするから。心枝さんのこと、お願いね」
「……わ、わかりました」
中学に上がったお姉ちゃんは、塾の無い日にランニングクラブで走るようになった。最初は普通に部活に入っていたんだけど、塾の時間と合わなくなって、それで、好きな日に通える学外のクラブに。
荒神山スポーツ公園まで全員で競争するんだって。入ったばかりのはずなのに、お姉ちゃんはすっかり輪の中心にいて、チームメイトみんなを引き連れて先頭で走っていた。そして私は、そんなお姉ちゃんの妹なんだ。って、誇らしく思った。
送り迎えに母と一緒に行くうち、私もやってみたいってお願いしたの。母は少し心配そうだったけれど、「大丈夫、心枝もきっと楽しめるよ」と笑顔で言ってくれたのが、立花先生だった。お姉ちゃんも「一緒に走ろう」と優しく手を取ってくれて、私は嬉しくて仕方がなかった。
お姉ちゃんの世界はどんどん広がっていく……。佐久東高校に進学して、1年生からいきなりエース。都大路(全国高校駅伝)の時は、私も京都まで応援に行ったよ。
追いかけるように、私も佐久東に進んだ。けれどその背中はますます遠い。三年間怪我ばかりで、時間だけが過ぎていった。
わかっている。私だって、もう気づいている。いくら真似をしたって、同じように走れるわけじゃない。けれどせめて少しでも近くで、走りを見ていたかった。追いかけていたかった。アイリスでの二年間は、最後のチャンスなんだ。
中学、高校、大学、次はもうきっと、お姉ちゃんは——。
(声の届かないところまで行ってしまうから……!)
お願い。動いて。持ちこたえて、私の身体。
* * *
(ん、んん……)
気づくと、心枝は天井を見上げていた。ベッドの中は少し汗ばむくらい、ビニールハウスの中のような暖かさに包まれていた。
みなと駅伝の約五ヶ月前、ゴールデンウィーク中の出来事である。
「心枝、よかった、本当によかった……」
姉はホッとした表情で涙を浮かべながら、心枝を抱きしめた。
身の周りを囲む、牛乳多めのいちご牛乳みたいな、ナースさんの制服を思わせる淡いピンク色のカーテン。その連想も助けになって、ここが病院のベッドの上だと察するのにそれほど時間はかからなかった。
(そっか。私、朝練中に倒れて救急車に……)
走り終わってすぐ、目の前の景色が銀世界になってしまって。頭がグルグルし始めた次の瞬間、突然上から地面が降ってきて、そこからは何も覚えていない。
「私のせいだ。二人で親元を離れているんだから、姉の私が心枝を守らないといけないのに」
「ううん。お姉ちゃんのせいじゃないよ。顔上げて?」
それはキャプテンとしてではなく、家族としての言葉だった。心枝は、姉の小刻みに震える肩を抱き返した。姉がそばにいてくれる安堵感と同時に、だんだんと罪悪感が押し寄せてきた。
(ごめんね、私のほうこそ……)
「ちょっといい? ごめんなさいね」
そこへ、カーテン越しにキビキビとした人影が現れた。
「はい、どうぞ」
「起きたね? どう、気分は?」
「あっ、はい。少し、良くなりました」
「そうね。顔色は戻ってきたかな」
入ってきたのは、三十代くらいの女性の看護師さんだった。水色の制服の脇で、何かボードのようなものを抱えていた。ナースといえばピンク、という固定観念は、ドラマの見過ぎなのかもしれないと思った。
「あっかんべーさせてね」
枕元に近づき、そう言って心枝の涙袋を軽く引っ張ったので、ちょっとビックリした。
「うーん、まだ白いね。健康な人はね、下の瞼の裏のここが少し赤みを帯びているものなの。あ、腕のところ、点滴がつながっているから気をつけてね」
唇の色素が薄かったり、爪を強く押して色が戻るまで数秒かかったり。他にも貧血の兆候は出ているという。
「多分ね、慢性的なエネルギー不足もあると思うの。心枝さん、最後に来たのはいつ?」
看護師さんが小声で聞いた。
最後に来た、と言われて、まさか来院歴を尋ねられているわけではあるまい。
下腹部を捻られるような、刺されるような、女性だけに訪れるあの痛みの波が最後にいつ来たのか。そう問われているのである。
「えっと……。三ヶ月くらい、前です」
誰にも告げていなかった。だから姉も驚いたような表情をしていたと思う。
「やっぱり」
看護師さんが、肩を落として溜め息を吐いた。三ヶ月はれっきとした緊急事態で、どうしてもっと早く婦人科に相談しなかったのかと叱られてしまった。
「大学の駅伝部なんですってね」
まだほとんど問診に答えていないのに、抱えている診察票には心枝の個人情報が想定以上に載っているようだった。おそらく救急車で運ばれる前後に、姉が代わりに応対してくれていたのだと思う。
「陸上選手はね、たくさん走るうちに足裏の毛細血管が潰れちゃって、ただでさえ貧血を起こしやすいの。心枝さん、食事はきちんと取れているかしら? 何か気になることがあって、食欲がなかったとかは?」
「どうなの、心枝」
起きがけの質問攻めに、普段なら狼狽えてしまいそうなところだけど、隣に姉がいてくれる安心感と、そんな姉のさっきから心配しきった顔を見ているから、淡々と事実を伝えようという心づもりに自然となった。
「その……、体重が気になって」
小さな声で呟く言葉に、重たい苦悩がにじんだ。それを聞いた看護師さんはため息をついた後で、穏やかながらもしっかりと忠告した。
「週に六日、月に数百キロのハードなランニング。ちゃんと食べなきゃダメよ」
「でも私、体重が増えると走れなく——」
心枝にとってはあまりに慣れ親しんでいる、何度も繰り返されてきた思考回路であった。しかし、それを外に表現した瞬間、看護師さんの口調が急に厳しくなった。
「子どもが産めない体になってしまうかもしれないのよ!?」
ハッとした。もちろん様々な選択肢があるとはいえ、事の重大さに気づくには十分すぎるショックだった。これまでの行動を思い返し、それらがどれほど危険なことであったか、瞬間冷凍のように心枝の実感へと変わっていった。手遅れになる一歩手前の崖っぷちに自分が立っていたのだと、そこでようやく自覚したのだった。
「その他にだって、歳を取ってから骨が脆くなって苦しんでいる人がたくさんいるの!」
周りに迷惑をかけたくない一心で自分を追い込んでいた。今だけ。大学二年の今年の間だけ。その期間さえ乗り切ってしまえば、後からいくらでも取り返せるような気がしていたのだ。しかし、それは大きな誤解だった。
「いい? 今は若いからなんとかなっているようでも、そう見えるだけ。体はずーっと無理をしている。スポーツも大事だけど、それはあなたの健康があってこそなのよ」
看護師さんの鋭い言葉の中には、心枝の健康を心から案じる気持ちが込められていた。
「はい……」
「良い結果を出したいのなら、なおさらきちんと栄養をとらないと」
看護師さんは最後に優しく諭すと、穏やかな笑みを浮かべた。もし心枝が行動を変えないのなら、この暖かな心配をも裏切ることになる。
姉の夢の実現がかかった、今度のみなと駅伝予選。走力的に言って、足手まといにしかなれないのが辛かった。
バンビちゃんのせいでは決してないけれど、4月に未経験で駅伝部に入ってきたにもかかわらず、あっという間に自分より速く走れてしまう彼女の姿を見て、焦りはさらに加速していた。
診察してもらった女医さんは、頼もしいベテランだった。
「今あなたが服用しているという鉄剤。これは応急処置の為のもので、日常的に飲むものではないんです。そうね、かといって、急に絶つのも危ないから、少しずつ量を減らしていくとして……。鉄分含め必要な栄養素は、しっかりと普段の食事から摂るようにしていきましょう。いいわね?」
「はい」
この人もまたキビキビとした喋り方をする。きっとさっきの看護師さんは、一緒に働くうちに似ていったんじゃないかと思った。
「それからお姉さん」
「は、はい」
怖いくらい語気が強くなって、何を言われるのかと、姉がビクッと背中を伸ばした。
「私、これから駅伝部の監督さんを呼んで大事なお話をするから。心枝さんのこと、お願いね」
「……わ、わかりました」
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