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【3区 8.0km 安藤 ヘレナ(1年)】
① 笑顔の連鎖
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駅伝部のみんなは気づいているだろうか。寮の献立で、納豆が出る時には、必ずお魚がセットになっていることを――。
安藤ヘレナ・シェフェール。アイリス女学院大学の1年生。フットギアは適性表の左上、冷静と活発を司る青のブルーホークを履いている。
そんな彼女の秘密。焼魚にかけた醤油を、最後に納豆にかけて食べるのが好きだ。醤油に混ざっている魚の脂が、苦手な納豆の風味を消してくれるということに、ある時気がついたのだ。
(まぁでも、お行儀が悪くて恥ずかしいので、もちろん寮ではそんなこと――コッソリ敢行しています。誰も見ていないスキを突いてね)
フランスに住んでいた頃にも、一応食べたことはあった。日本人の母がたまにわざわざ日系のスーパーで買ってくるのだ。(フランスの納豆は冷凍で売られている)
最初の感想は、ナンジャコレ。ニオイもネバネバも気になるけれど、噛むたびに大豆本来の味がニヤリと顔を出してくるのが一番キツかった。家族で喜んで食べるのは母だけで、フランス人の父同様、ヘレナもお手上げだった。
大学生になって駅伝部での寮生活が始まってすぐ、ヘレナは頭をかかえてしまった。テーブルにいらっしゃるのだ、納豆様が。
大豆は女性ホルモンを補うイソフラボンや、ランナーに重要な植物性タンパク質を含んでおり、寮の食卓ではかなりの高頻度で登場する。
寮母のサツキさんが「無理しなくていいよ」「ヘレナだけ別のメニューに変えることもできるよ」と、気を遣って言ってくれるのが逆にいたたまれなかった。せっかく日本に来て、こんなに日本らしい食べ物を避けて暮らすだなんて……。
もともと駅伝にそこまで興味があったわけではなかった。日本に来たのは、中学生の時に世界ジュニア選手権で茉莉センパイの走りを見て、彼女と同じチームで競技をやってみたいという気持ちと同時に、そのレースをきっかけに、自分の中に日本人としてまだ磨ける余地が残っているのではないかと感じたからだった。
今のヘレナにとっては、なんてことはない。必ずお魚の後に食べるから、むしろジャンルとしてはデザートに近い。ヘレナの食べ方を、サツキさんだけは知ってくれている。
「これか!」
まるで雷にでも打たれたような衝撃は、ちょうどその組み合わせを編み出した時に似ていた。走り出してすぐ、受け取ったタスキを右肩にかけたその瞬間、ヘレナの頭の中で全てが繋がったような気がした。
中継所で出番を待っていた時、後ろのほうから他の選手たちが「外国人いるじゃん、ズルいだろ」とコソコソ話しているのが聞こえてしまった。ヘレナは咄嗟に振り向き、流暢な日本語で、「おはようございます、あなたたちと一緒に走れて光栄です、今日はよろしくお願いします!」と挨拶してやった。それが効いたのか、その人たちはたじろいでいたが、ヘレナ自身は胸がすく思いをしたと同時に、やはり時々思い出してはイライラしていたのだった。
しかし、リレーゾーンから心枝センパイの姿が見えて、そんな気持ちはすっ飛んだ。もっと鮮烈な感情で容易に塗り替えることができたからだ。
カントクが「心理的安全性」の話をした日、実を言うと、ヘレナはあの話があまりしっくり来ていなかった。
話の意味は大方理解できた。少なくとも、自分の日本語能力の差の問題ではなかったと思う。フランスに居た頃だって日本人の母とは日本語で話していたし、日本の高校に入るために勉強もした。それでも、監督の言っている心理的安全性というワードは、ピントがボケたような味がしていた。
フランスは、個人主義の国だ。駅伝だって、団体スポーツのように見えて、走っている時は一人きりである。つまるところ、個人個人がベストな走りをすればいい。ただそれだけの話だろう。と、その時は信じて疑わなかった。
この2区と3区の順番は、ヘレナにとって大きな意味をもたらした。先月の記録会で一緒に自己ベストも出した心枝センパイが、先頭に迫る勢いでスパートしてきているのが見え、胸が熱くなった。
初めて知り合った頃の心枝センパイは、お世辞にもアイリスの練習についていけているとは言えなかった。走り終わった後は、すぐにおでこから下にかけての顔色を雪のように白くしながら、いつまで経っても息を切らしている姿が印象に残っていた。
アイリス駅伝部の寮にサツキさんが来て食事を作ってくれるようになってから、心枝センパイはみるみる変わっていった。今日の表情は白く曇ってなどいなかった。
個人個人がベストを尽くせばいい、それは確かに間違っていなかったけれど、駅伝にはその先があったのだ。
心枝センパイは、中継所で待っているヘレナの姿に気づくと、顔つきがパッと一段明るくなった。タスキを渡す勢いではじけた水滴は、世界一ピュアな結晶だと思った。
(そんな表情をされたら、こっちまで力がわいてきてしまうじゃないか!)
そう思った時、全てが繋がった。足し算だと思っていたものが、掛け算になった。
ヘレナはこれから、尊敬する4区の茉莉センパイにタスキを届ける。茉莉センパイは、ずっとリハビリを続けてきて今日ようやく舞台に帰ってこられたのだ。
心枝センパイが自分にしてくれたように、茉莉センパイにタスキでパワーを届けられるのは、今日アイリスでこの3区を走っている自分にしかできないことだ。
(これなんだ!)
駅伝って、この気持ちを繋げていくスポーツなんだ。
安藤ヘレナ・シェフェール。アイリス女学院大学の1年生。フットギアは適性表の左上、冷静と活発を司る青のブルーホークを履いている。
そんな彼女の秘密。焼魚にかけた醤油を、最後に納豆にかけて食べるのが好きだ。醤油に混ざっている魚の脂が、苦手な納豆の風味を消してくれるということに、ある時気がついたのだ。
(まぁでも、お行儀が悪くて恥ずかしいので、もちろん寮ではそんなこと――コッソリ敢行しています。誰も見ていないスキを突いてね)
フランスに住んでいた頃にも、一応食べたことはあった。日本人の母がたまにわざわざ日系のスーパーで買ってくるのだ。(フランスの納豆は冷凍で売られている)
最初の感想は、ナンジャコレ。ニオイもネバネバも気になるけれど、噛むたびに大豆本来の味がニヤリと顔を出してくるのが一番キツかった。家族で喜んで食べるのは母だけで、フランス人の父同様、ヘレナもお手上げだった。
大学生になって駅伝部での寮生活が始まってすぐ、ヘレナは頭をかかえてしまった。テーブルにいらっしゃるのだ、納豆様が。
大豆は女性ホルモンを補うイソフラボンや、ランナーに重要な植物性タンパク質を含んでおり、寮の食卓ではかなりの高頻度で登場する。
寮母のサツキさんが「無理しなくていいよ」「ヘレナだけ別のメニューに変えることもできるよ」と、気を遣って言ってくれるのが逆にいたたまれなかった。せっかく日本に来て、こんなに日本らしい食べ物を避けて暮らすだなんて……。
もともと駅伝にそこまで興味があったわけではなかった。日本に来たのは、中学生の時に世界ジュニア選手権で茉莉センパイの走りを見て、彼女と同じチームで競技をやってみたいという気持ちと同時に、そのレースをきっかけに、自分の中に日本人としてまだ磨ける余地が残っているのではないかと感じたからだった。
今のヘレナにとっては、なんてことはない。必ずお魚の後に食べるから、むしろジャンルとしてはデザートに近い。ヘレナの食べ方を、サツキさんだけは知ってくれている。
「これか!」
まるで雷にでも打たれたような衝撃は、ちょうどその組み合わせを編み出した時に似ていた。走り出してすぐ、受け取ったタスキを右肩にかけたその瞬間、ヘレナの頭の中で全てが繋がったような気がした。
中継所で出番を待っていた時、後ろのほうから他の選手たちが「外国人いるじゃん、ズルいだろ」とコソコソ話しているのが聞こえてしまった。ヘレナは咄嗟に振り向き、流暢な日本語で、「おはようございます、あなたたちと一緒に走れて光栄です、今日はよろしくお願いします!」と挨拶してやった。それが効いたのか、その人たちはたじろいでいたが、ヘレナ自身は胸がすく思いをしたと同時に、やはり時々思い出してはイライラしていたのだった。
しかし、リレーゾーンから心枝センパイの姿が見えて、そんな気持ちはすっ飛んだ。もっと鮮烈な感情で容易に塗り替えることができたからだ。
カントクが「心理的安全性」の話をした日、実を言うと、ヘレナはあの話があまりしっくり来ていなかった。
話の意味は大方理解できた。少なくとも、自分の日本語能力の差の問題ではなかったと思う。フランスに居た頃だって日本人の母とは日本語で話していたし、日本の高校に入るために勉強もした。それでも、監督の言っている心理的安全性というワードは、ピントがボケたような味がしていた。
フランスは、個人主義の国だ。駅伝だって、団体スポーツのように見えて、走っている時は一人きりである。つまるところ、個人個人がベストな走りをすればいい。ただそれだけの話だろう。と、その時は信じて疑わなかった。
この2区と3区の順番は、ヘレナにとって大きな意味をもたらした。先月の記録会で一緒に自己ベストも出した心枝センパイが、先頭に迫る勢いでスパートしてきているのが見え、胸が熱くなった。
初めて知り合った頃の心枝センパイは、お世辞にもアイリスの練習についていけているとは言えなかった。走り終わった後は、すぐにおでこから下にかけての顔色を雪のように白くしながら、いつまで経っても息を切らしている姿が印象に残っていた。
アイリス駅伝部の寮にサツキさんが来て食事を作ってくれるようになってから、心枝センパイはみるみる変わっていった。今日の表情は白く曇ってなどいなかった。
個人個人がベストを尽くせばいい、それは確かに間違っていなかったけれど、駅伝にはその先があったのだ。
心枝センパイは、中継所で待っているヘレナの姿に気づくと、顔つきがパッと一段明るくなった。タスキを渡す勢いではじけた水滴は、世界一ピュアな結晶だと思った。
(そんな表情をされたら、こっちまで力がわいてきてしまうじゃないか!)
そう思った時、全てが繋がった。足し算だと思っていたものが、掛け算になった。
ヘレナはこれから、尊敬する4区の茉莉センパイにタスキを届ける。茉莉センパイは、ずっとリハビリを続けてきて今日ようやく舞台に帰ってこられたのだ。
心枝センパイが自分にしてくれたように、茉莉センパイにタスキでパワーを届けられるのは、今日アイリスでこの3区を走っている自分にしかできないことだ。
(これなんだ!)
駅伝って、この気持ちを繋げていくスポーツなんだ。
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