天使の隣

鉄紺忍者

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【第9話 結実の秋】2037.10

⑤ 帆を上げろ! みなと駅伝スタート

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朝陽はいったんアイリスの陣地へと戻る。少し汗ばんだ箇所が気持ち悪いから、今のうちにタオルで拭っておきたい。ブルーシートで張り巡らされた1区の選手待機用テントの中へ入ってくると。

「よかった、探していたんだよー」

(え?)

さっきの母といい、監督、付き添いの短距離部員の人まで。今日は朝陽を探している人ばかりだ。

175センチはあるであろう長身に、首元襟足スッキリのベリーショート。まるで歌劇団の男役のような風貌。それでいて底抜けに明るくて、見間違いようがないほど目立つ、デルフィ大学の黒田涼子さんだった。

なんだろう、いきなり。朝陽は身構えた。

(ニガテなんだよな、この人……)

黒田さんのいるデルフィ大学とは、夏合宿で一緒に練習試合をやった仲だ。ただ、朝陽は黒田さんと話す機会はなかった。というより、正確には朝陽が避けていたのだ。

忘れもしない。一学年上で、当時高三だった黒田さんにボロ負けした、三年前の高校駅伝。独走する黒田さんの後ろに一人でついていって、ロングスパートで完膚なきまでに振り切られたあの光景。走り終わった後、立ち上がれないほど泣いたことも。

朝陽の高校の駅伝部では、二年生の部員は朝陽たった一人、一年生はゼロ。つまり、三年の先輩たちが卒業すれば、部員が朝陽だけになってしまうことが決まっていた。あの日は、大好きだった先輩たちとの最後のタスキリレーであり、実質的には、朝陽の一年早い引退レースでもあった。向こうは覚えていなくても、負けたこっちはずっと覚えている。

ただ、あちらさんは一度試合をしたら友達だと思っているのか、バタバタと足音を立てて遠慮なくこちらへ近づいてくる。

「ねぇ。オーダー見た?」
「まだ、ですけど……」

そうか、もうスタートまで一時間を切ったから。そろそろ各校の正式な区間オーダーが発表されている頃だ。

大学駅伝では通常、体調不良者が出た場合だったり、他校の出方をうかがう為だったりで、一次エントリー発表の段階ではあえてレギュラー選手を控えとして登録しておくことがある。そして、最大3名まで変えられる当日の選手変更提出のタイミングを使って、正式なオーダーに差し替えるのだ。

「で、そのオーダーがどうしたんですか?」
「そうそう。ローズの姫路さんが1区にいないのよ。も~、本当にどうしよう」

黒田さんはそう言って頭を抱え、身体までクネクネさせ始めた。一体何が「どうしよう」なのだろうか。確かに、このテントの中にも姫路さんの姿は見当たらない。

「え、もしかして出ないんですか」
「ううん。今年は2区だって。さっきエントリー表見てビックリしちゃった」

一次エントリーの時点で控え登録になっていた姫路さんは、大方の予想では例年通り1区に入ると思われていたが、先ほど締め切られた当日変更で2区に入ると発表された。といったところか。

でも、それがどうかしたのか。今更そんなことで慌ててもしょうがない。何も、一昨年も去年も1区だったからといって今年も1区だとは限らないだろうに。

「私ってばエースでしょ?」
「はい?」

話が全然見えてこない。

「姫路さんが来ないんじゃ困るのよ」

朝陽は、だんだん目の前の大女おおおんなが鬱陶しく思えてきた。

「そもそも、どうして私のことを探していたんですか?」
「そうだった。あなたにお願いがあるの」
「え、嫌ですよ」
「まだ何も言っていないじゃない」

自分を中心に地球が回っているとでも思っていそうな人だ。きっと、とんでもないことを言い出すんじゃないか。

目の前で両手を合わせたポーズをしたままでいるこの女のお願いを、朝陽は何がなんでも絶対に聞き入れないことを固く決め、心を閉ざして立ち去ろうとしたのだが。

不意に、手を握られた。

「私と一緒に、前に出てほしいの」

(は?)

「去年のリベンジをしたかった姫路さんがいないから、代わりを演じろと?」

朝陽はすぐに手を振りほどいた。

「違うのよ、そうじゃなくって!」
「あの、すみませんけど。こっちもチームで動いているんで、勝手なことはできません」

その時、会場のスピーカーがキーンと鳴った。

『時間になりましたので、1区の選手はスタートラインへ入場してください』

(ラッキー。これで逃げられる)

「ごめんね、ヘンなこと言って。お互い頑張ろう」

さっきお願いをした時と同じく両手を合わせたポーズで謝る黒田さんに、朝陽は首だけでコクリと返事し、その場を離れた。

悔しいけど、朝陽の走力ではとても姫路さんの代わりなんか務まらない。それに黒田さんなんかのペースについていったら、またやられる。

(あれをもう一度やれと? 冗談じゃない。今日は大事なレースなんだ)

それなのに。さっきの黒田さんの言葉は、いつまで経っても頭から離れてくれなかった。

—— 私と一緒に、前に出てほしいの。




第56回全国大学女子・横浜みなと駅伝。スタートの時刻が迫ってまいりました。

『10秒前ー!』

紅蓮ぐれんのタスキ、ローズ大学の六連覇か。新緑のタスキ、ジャスミン大学の初優勝か。それともこの2校に待ったをかける大学が現れるでしょうか。

『3、2、1……』

さあ今、号砲一発、乾いたピストルの音。母校の誇り、仲間との絆を胸に、全16チームのランナーが一斉にスタートしました。選手たちはこの横浜市庁前からまずは北に進路を取り、みなとみらい21地区をぐるっと回っていくことになります。

センター解説は松田朱美さん、実況はわたくし真中でお送りしていきます。松田さん、よろしくお願いします。

「よろしくお願いします」

松田さんには注目チームをいくつか挙げていただきます。

「やはり今回はローズ大学とジャスミン大学、間違いなくこの2校を中心に優勝争いが展開されると思います」

今年はローズ大学の赤と、ジャスミン大学の緑のユニフォームが、一号車のカメラを独占しそうですね。ではまず、前回優勝ローズ大学の強さ、どのような点でしょうか。

「ローズ大学はなんといっても選手層の厚さですね。7名の出走メンバー全員が、一流ランナーの証である5000メートル15分台を持っています。駅伝女王らしい圧巻の走りを今日は期待したいですね」


ジャスミン大学については、どう見ていますか。

「まだ優勝はありませんが、エースの神宮寺エリカさんを中心に、非常に勢いがあります。」

神宮寺エリカは、エース区間5区で二年連続の区間賞を獲得しています。三年連続5区区間賞となれば、史上初ということになります。

「はい。ですが今年は他にも脇を固める選手たちが揃ってきていますので、優勝のチャンスもあると思います」

その他で気になるチームはありますか。

「前回準優勝の黄色のユニフォーム、デイジー大学。双子のエース・三浦姉妹に注目しています。あとはデルフィ大学ですかね。1区黒田さん・5区阪野さん・6区中川さんの3年生三本柱がいますので面白いと思います」


えー、それから今年は初出場校が1校、地元横浜のアイリス女学院大学。

「昨日の監督会見でね、監督の立花さんに少しお話を聞いたんですけど、表情に自信ありましたよ」

そうですか。まだ創部3年ですが、激戦区と言われる関東地区予選を2位で通過してきました。1位が、先ほど挙げていただいたジャスミン大学でした。あの、ちょうどアンカー7区をスタートしてすぐのところに大学のキャンパス、それから駅伝部の寮があるみたいですね。

「ねぇ。その点では、有利ですよね。知っている場所を走れて気持ちがそこで落ち着くんじゃないですか」

そうですね。さあ、松田さん。集団はローズ大学の佐伯日菜4年生を中心に、横浜ランドマークタワーのすぐ横を通り抜けまして、まもなく1キロというところですね。

「だいぶゆったりとしたペースに見えますね。集団も横長ですし」

さあ今、上空からの映像。2037年に鉄道開通165周年を迎えました桜木町駅の様子が映されています。

ここで実況センターから1号車へ、我々もタスキを繋いでまいります。それでは1号車解説は高梨聡子さん、実況は市川アナウンサーです。市川さんどうぞ。

【第9話 結実の秋】おわり
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