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①
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牢屋に入れられる前に、八重咲きの[山茶花を見つけた。隙を見て、袖にしまう。
花ぐらいなら問題無いだろうと劉亮は判断し、彼を牢屋に押し込んだ。
花をしまう事ができた事に衛玉は顔をほころばせた。
[山茶花は寒さに強い。衛玉の好きな人にそっくりな特徴を持っているこの花を見ていると、元気になる。
鎖に繋がれている間、大人しく花を愛でては劉亮を見上げほほ笑んでいた。
***
全面が石でできたひんやりとした牢屋に、桃色の衣服をまとった青年が背中を丸めて座っている。
長い三つ編みを左肩に垂らしたその艶やかな黒髪は地面につきそうなほど長い。
「はぁ」と両手に息を吐き、手を暖める。
いつもはぷくりと膨らんでいる彼の唇は寒さのせいでヒビ割れ、少し血がにじんでいた。
足音が聞こえ、衛玉(エイ ギョク)の陶器のような白い耳がピクリと動く。
大きな瞳をクルリと動かした。
入ってきた男は衛玉のよく見知った人物だ。男は耳の高さで髪を後ろに束ねている。
いかにも真面目で、厳格な雰囲気を持っていた。この瀏亮(リウ リョウ)こそ、衛玉をこの牢屋に閉じ込めた張本人だ。
まとめられた一束の黒髪が左右に揺れる。彼は何か唱え、手を上下に動かした。薄く青い陣が地面から現れる。結界術だ。その術から、男の修位の高さが伺える。
「私は逃げる事はおろか、繋がれた鎖で歩く事もままならない。結界を増やす必要は無いと思いますが」
瀏亮は予想外の行動に出た。彼はいくつもの南京錠を全てはずし、檻を開いてしまったのだ。
「なぜ貴方まで檻の中へ入ってくるのです?」
石の鎖で片足を繋がれている状態だ。
扉が開いたからと言って何ができるわけでもないものの、この行動には驚いてしまう。
衛玉と劉亮は「檻から出して」「だめだ」「出して」「だめだ」というやりとりを今日だけで100回以上繰り返していた。劉亮から会話は控えたいという様子が感じられる。
瀏亮が一歩足を踏み入れ、狭い牢屋を見回す。
「不謹慎ではないですか?いくら私の両腕と片足に鎖がついているからと言って、こんなに簡単に扉を開けてしまうなんて。おじい様にこの事がバレたら、きっと叱られてしまいますよ。こりゃ劉亮!廊下へ出て立っていなさい!とか言われちゃうかも」
衛玉はとにかくお喋りができればなんでも良かった。何か一つ返事が欲しくて色々話すが、瀏亮は何も言わず壁や地面を触って何かを確かめている。衛玉は膝を抱え、その様子を見ていた。冷気でかじかんだ手にハァと息を吐いて眺めていたら「衛玉」と名を呼ばれる。
「寒くないか」
「…え?」
赤く燃えるように色づいていた紅葉はみな枯れ葉となって地面に落ちつつある。
季節は冬に移り変わろうとしていた。
あまりに寒くて歯がカタカタと鳴るほど寒い。
暖を取るための上着は回収されてしまった。
袖部分が乾坤袋と同じつくりになっているからだ。そこには武器が多く収納されており、使用されては危険だという理由から檻に入る前に脱がされてしまった。
収納に使えるこの便利な衣服の部分は乾坤袖と呼よばれている。どんなに重くて大きなものでも袖口に近づければなんでも吸いこまれ、納められるようになっているのだ。
この霊獣石でできた鎖のせいで霊力を使って暖をとる術は使えない。
春が訪れるまでずっと寒さに耐え続けなければならないのだろうと諦めていた。
そこへ、寒くないかと質問をされて衛玉はきょとんと目を丸くする。
気遣ってくれるとは思わなかったのだ。
衛玉の今の扱いは罪人。処刑されたのち生首はどこかでさられるはずだった。劉亮は殺すつもりは無いと言っているが、長老共と向かい合ったとき「あ、これ殺されるな」という空気を衛玉は肌で感じていた。
そのような底辺の扱いを受けている者がいる場所に、丸腰ではないにしろ何をするかわからない奴と同じ檻の中へ入り、あまつさえ寒さの心配をしてくれている。衛玉はあっけにとられ、しばらく黙ってしまった。
(とんだお人よしに育ったものだ…)
劉亮は彼を観察した。何も履いていない素足の指は小刻みに震えている。寒いかどうかなど、聞くまでもなかった。
己が寒さに強い分、他人が寒いのかどうか気を配る事を忘れてしまう。寒さで赤く腫れてしまっている衛玉の足先を見て、もう少し早く気付くべきだったと劉亮は内心舌打ちした。
同門の宗派である長老達が次々と言っていた事を瀏亮は思い出す。
『悪しき魔族を片親に持つ衛玉なら、少しばかり寒くとも死なないだろう』『いや、そのまま処刑日まで待つ必要は無い、凍死させてしまおう』
衛玉は劉一族の門派生として修錬していた時代があった。ある時劉亮に寿命を集めている事がばれてしまい、その日から衛玉は追われる身となってしまったのである。衛玉の父親が魔族の者だと明るみになったのもその時だ。
魔族の血筋である事は一部の人間だけが知りえる情報にととどめていた。外に漏れ出ないよう真実は隠されていたのだ。実際にはその真実が明るみに出る前から衛玉の半魔族の噂は広まっており、劉門派生のほとんどは知っていたわけだが。
門派の規則の中にはとても厳しい内容が入っていた。
一般の人間を襲ってしまった場合は生涯を檻の中で過ごすか、命を絶って償わなければならない。これは門派の最も遵守している規則の一つだ。
短命な己の生を伸ばすためとは言えど、罰則は免れない。
衛玉が言うには「襲ったのではなく寿命を報酬としてもらっていた」という事ではあるが、劉門派からすればそれは言い訳にすぎないのだ。
人の寿命を減らすという行為は罰するに十分値する非人道的な行為だと、劉亮含めその場にいた劉門派全員が決断した。
そして、先日。
やっと劉亮が衛玉を捕らえる事に成功したのである。
***
~捕まる直前~
「報酬で寿命をもらうなど、人殺しと同じだ」
「…ッ!…殺めた事なんて、一度もありません!」
そんなやりとりをしてから、接近戦に持ち込んだ。
衛玉は先ほどの人殺しという言葉にひどく心を痛めたのか、攻撃の要領が悪く、動きが鈍くなっていた。
「遅い!」
劉亮が金色の糸でつくられた紐を投げてきた。咄嗟に身をかわすが、その紐は意志を持ったように衛玉にまきついてきた。
「こんな高いものを使うなんて!どうして私にそんなに執着するんですか!」
「劉家の名を汚さないためだ」「このわからずや!頑固者!寿命が無いと、私は死んでしまうのに!」「ここ数年でかなりの寿命を採取したはずだ。十分だろう」
****
今の衛玉は霊力を封じられている身。普通の人間と同様に、術や霊力を使って暖を取る事ができない。劉亮はつい先ほど長老達が話しているのを耳にし、牢屋の中は寒いだろう事に気づいてやってきたのだ。
「寒いですよ。冬がもう来ていますからね。もしかして、貴方が暖めてくださるのですか?」
両腕を伸ばし微笑む衛玉に瀏亮はギョっとして眉を上げる。からかわれているのだと気づき、「違う」と否定してからすべての錠に再度鍵をかけて出ていった。
締め切られた戸の隙間からかろうじて細い日の光が入ってきていた。
その光が弱まり、暗闇がやってくる。
夜が訪れたのだとわかった衛玉はコロリと横になる。固い石に皮膚が擦れ、素足がひりついた。
昼よりも夜の方が寒さは厳しい。まだ冬の始まりとは言えど、さすがにこたえた。
体を両手でさすり、寒さに凍える。早く眠りについてしまおうと、懸命に意識を夢の中へと向かわせようとした。眠ってしまえば、寒さなどすぐに忘れてしまえるからだ。
しかし空腹でなかなか眠りにつけない。なんとか素足をこすり合わせて暖をとろうと努力した。
「せめて、術が使えれば…」
独り言は霊獣石の鎖にすべて吸い込まれる。
風や虫の音も聞こない。
どうせ無駄だとわかっていても、つい試してみてしまう。自らの親指を咬み、血で地面に陣を描く。そして丸い火玉を作るための術を唱えてみた。ほんの少しの暖でいいからと願いながら。
「やはり………ダメですか…………………」
何も起こりはしなかった。こうなったら何かに八つ当たりでもしないとやってられない。
(---もう、こうなれば………この石にイタズラでもしてやる)
爪を立て、カリカリと石に繋がった眉毛を描き上げる。目を凝らす事で夜でもある程度は見えた。霊獣の新しい表情に自画自賛し、ウンと頷く。
ついこの間、好きな相手の顔に見惚れていたら捕まってしまった。
劉亮とは接近戦で戦っていて、予想よりも遥かに男前になっていた彼のその左右対称の美しさに力が緩んだのだ。
間違いなく、捕まったのは己のせいであり、どこにも霊獣石に非はない。だがこうしてうっぷんをぶつけるように手を動かしていたら、いつのまにか繋がり眉の間抜けな霊獣石が出来上がっていた。
戸が開き、食べ物の香りに鼻をヒクリと動かす。
劉亮が夕食を持ってきたのだ。
「瀏亮!食事を持ってきてくれたのですか?よくあの頑固な長老達が許しましたねっ」
衛玉は両手を上げて大喜びした。
松明を壁にかけ、もう片方で持っていた盆を地面に置いた。腹ぺこだった衛玉は犬のように四つん這いで食事の元へ急いだが、ビンと鎖が張って前に進めない。
「これは、長老達の預かり知らない事だ」
「瀏亮が勝手に判断したんですか。それって………あとで貴方怒られませんか?勝手な事しおって!とか言われたり……」
門派生だった頃、衛玉は劉亮の師兄として共に暮らしていた。つい、劉亮が叱られてしまうのではと師兄の目線で心配してしまう。
「余計な詮索はするな。俺の方は問題ない」
瀏亮は格子の間から、衛玉の手が届く場所へ一つずつ椀を手渡ししていく。
梅で色づいた握り飯、魚の汁物とたくあんが盛られていた。
「豪華なお食事ですね。私にこういった食事を出していいのですか?元気になったら逃げだすかもしれませんよ」
「その石に繋がれて逃げきれるワケがない」
「ふふ、確かに難しそうだ。あの…お箸は?」
彼が手に持っている盆の上にも、手渡された椀の上にも箸は無い。
ハッとした顔をする瀏亮に、忘れた事を察した衛玉が笑う。
「持ってくる」
「いいえ、大丈夫です。このまま頂きます」
手で握り飯をつかみ、ぱくりと一口ほおばる。梅のコクのあるうまみが口の中に広がり、爽やかさが体中にいきわたる。肩が軽くなったような気がした。
「うん、とても美味しいです。これ、瀏家の皆さんが食べている食事処からもらってきたんですか?」
「そうだ」
食事があってもせいぜい犬のエサのようなものが出てくるだろうと思っていた。一日ぶりの食事が体に染みる。次々とすべての椀を平らげていった。
「ふぅ……………おいしかったです。わ、ぷ」
胴服(どうふく)【綿入りの上着】を頭に投げられた。
いつのまにか檻の中に入ってきていた瀏亮がわらで編んだ敷物を石の地面に置く。
「これなら寒さは凌げるだろう」
胴服からは瀏亮の香りがした。その香りを体中に溶け込むように吸った。幸福感が手足にまで行き渡った気がする。
「ありがとうございます…」
瀏亮が敷いたわらの敷物に寝転がり、もらった綿入りの上掛けにくるまる。
「どうだ。まだ寒いか?」
「いえ、暖かいです。あの、こんなに立派な着物、いいんですか?ここは石で出来た牢屋で、土ぼこりもあります。すぐに汚れてしまいますよ」
「俺の胴服だ。どれだけ汚そうと誰も文句は言わない」
衛玉がすぅすぅと胴服のにおいを嗅いでいる事に気づく。
天日干しを定期的に行い、清潔に保管をしていたものだ。特にカビ臭さもなかったはずである。なぜあのように鼻をすぅすぅとさせているのかと眉を寄せた。
他人が気になるニオイでもあったのかと劉亮は気になる。
「臭うか?もし嫌なら別の」
「いえ!これがいいです!」
頭を出し、ぜったいに手放すもんか!という強固な意志が伝わる。劉亮は少したじろぎ、頷いた。
「それならいいが…」
(どんなに高級で肌触りのいい最上級の胴服を用意されたとしても、これよりも良質な胴服など、ありはしないっ)
これをずっと肌身離さず身にまとえるなら、もう一生冷たい石に繋がれた牢屋住まいでも構わないとさえ衛玉は思う。それほどにこの胴服には多大な価値を感じた。
しかし、と衛玉は眉を下げた。己がいなくなったあと、この布はまた劉亮の元へ戻る。その頃はきっとこの固い地面のせいでボロボロになっているはずだ。
「私が死刑になったあと、使えなくなってしまうかも」
「もう捨てようと思っていた物だ。それに…死刑には俺がさせない」
ドクドクと衛玉の心音が耳に響く。抑えていた気持ちが襲ってきた。
何も答えない衛玉の様子に、おそらく眠りに入ったのだろうと思った瀏亮はそのまま牢屋を出たのだった。
(本当に、優しい大人になりましたね)
胴服のおかげで身も心も暖かい。そして瀏亮の残り香をかぎ、うっとりとした。
幸せとは、こんなにも簡単に感じられるものだったのかと感慨深くなる。
「ここで死ぬのも…悪くないかもしれない…」
***
牢屋の戸を後ろ手に閉じてすぐ、声が聞こえた。
『ここで死ぬのも悪くないかもしれない』
と。
その言葉を聞いた瞬間、心臓の奥がえぐられるような感覚に陥った。
衛玉を捕らえたのは自分だ。衛玉の扱いは瀏亮が決めるつもりで劉一門に衛玉を連れ帰ったのである。しかし、そう簡単なものではなかった。
長老達は皆早急に衛玉を処刑するようにと言ってくる。普段反抗などしない瀏亮だが、こればかりは了承できず意を唱えていた。
翌日、やはり祖父を筆頭に長老達は同じ事を言ってきた。
白髪の目立つ老人、瀏咎(リウ キュウ)が昨日同様に孫である瀏亮に指示をする。
「はやくあの者を始末しなさい」
「なりません」
「なぜ生かす?あやつの悪業を見つけたのはお前だ。亮。そして捕らえたのもお前。殺すために連れてきたのではないのか?」
「俺たちは衛玉に多大な恩義があります。確かに彼のした事は道義に反するものではありますが、処刑するのはいかがなものかと思います」
衛玉は弱い立場の者を助け、悪を征する信念を曲げず生きてきていた。それは今も昔も変わらない。報酬として寿命をもらっているという事を除けば、修士の鏡のような存在なのだ。
さらに衛玉には強い霊力と聡明さがあった。10代から彼は難解な問題を次々と解決に導き、数万もの民や修士を救ってきたのだ。
今この場所が平和なのも、衛玉のおかげだと言っても過言ではない。
年を取るほどに「恩義」という言葉に弱くなる。祖父は好きにしろと孫に言い、食堂へ向かった。
頂点に立つ長老がいなくなると、次に権力がある者は跡取りの孫となる。すなわちこの場所で最も強い意見を放てるのは劉亮なのだ。
他の長老どもは居心地悪そうにし、ぞろぞろと祖父のあとについて食堂へ向かった。
祖父さえ丸め込めばその他はラクなものだ。やっと折れてくれた事に小さく安堵の息を吐く。祖父達に続き、瀏亮も食堂へ向かった。
(衛玉が腹を空かせているはずだ)
結界内であれば、数時間外へ出してやる事もできる。
あのような冷たい石の牢屋ではそのうち「飽きました!外で遊ばせてください!」と暴れまわるに違いない。うまい飯を食わせて大人しくさせるつもりである。
今日は結界内で行動できる場所まで運動させてやろうと劉亮は考えた。
衛玉の事を考えると自然と笑みがこぼれてしまう。瀏亮は出来てしまったえくぼを隠すように頬をもんだ。いつもの平然さを保ち、食堂に一歩入る。
食堂として扱っている場所は来た門派生全員が座って食事できるように端から端までが見えないほど広い空間となっている。様々な性格の生徒達が座っていた。皆血は繋がっていないが、全員が劉の姓を持つ仲間だ。
盆を持ち、食事の列に並ぶといろんな話が耳に入ってくる。
次に受ける試験の話、将来の夢、今日の朝食で一番おいしい飯は肉まんだった、などなど。
瀏家は数千人の門派生をかかえていた。用意される食事も千差万別である。今日は衛玉と共に食事を取ろうと、持ち運びがしやすい肉まんを選ぶ。そこへ、ドタドタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
「当主様!若様も!た…ッ、大変です!また、あの事件が!!」
入ってきたのは妹弟子の瀏玲(リウ レイ)だ。丸みを帯びたその幼さの残る顔には赤紫色の血がついたままである。魔物の血であることはすぐにわかった。彼女はフラリとその場に倒れこんだ。
瀏咎と瀏亮は急いで彼女の元へ向かう。
「誰か!丹薬を持って参れ!!どうしたのじゃ!」
「はぁ…はぁ…!人が…焼かれ………ッ」
皆一同に驚く。先週から人体の自然発火が立て続けに発生している。また起こったのかとどよめいた。
「共に向かった兄弟子はどうした?」
劉漢と共に彼女は魔物退治に向かっていた。なぜ一人なのかと疑問に思う。彼女は悔しそうに顔を歪めた。
「ッぅ…ぅぅ!焼かれたのは…劉漢師兄です!」
これまでは一般人のみが襲われていた。修錬を積んでいる瀏亮と同じ修真者まで焼かれるのは初めての事だった。
未だ原因が不明で、多くの修真者達が追っている難解な問題である。
瀏玲は「劉漢師兄を死なせてしまい、申し訳ありません」と涙を流していた。
瀏玲の話が聞こえた門派生一同はがあまりの事に恐れおののき、明日は我が身かもしれないとざわめく。
「はいはい!怖がるんはもうおしまいおしまい。私たちは一体なんのために修錬しとるんでしたっけ?ここで怖がるのはおかしいでしょ」
パンパンと手を叩いた男は、最近この劉家に入った門派生である。少し口調が雅で、特徴的な風貌を持つ青年だった。
「お前!兄弟子が一人死んだんだぞ!」
周りにいた弟子の一人が怒りをあらわにする。
「劉漢師兄って人も私らと同じ修真者なんでしょう?こうなってしまう覚悟があって修練しとったんやんか。確かに死んだのは残念やけど、それはそれとして早く事件解決の糸口探さんと。あと、なんでお嬢さん…えっと、ここでは師妹(しまい)って呼ぶんですっけ?なんで顔血まみれなん?」
「君の言う通りだ。瀏玲師妹、その血の色は魔族のものだろう。戦ったのか」
劉亮は雅な口調の青年に同意し、玲に話すよう促した。
劉亮から一口水をもらい、瀏玲はまだ恐怖の残っている手をぎゅっと握った。幾分か落ち着いた様子だが、彼女の目にはまだ涙がたまっている。
「はい。一匹は滅する事ができたのですが、もう一匹は…いえ、その人間はとても強く、私では到底倒せるようなものではありませんでした。朝日に弱いのか、太陽が昇るとその人間は逃げるようにその場から離れていきました」
「人間じゃと?人間が、魔物を従えていたというのか!」
祖父と劉亮は目を合わせる。魔物を自分の手ごまにするなど、衛玉ただ一人にしかできない。これまではそうだった。そして彼は檻の中。逃げる事はまず不可能だ。となれば、新たな魔道の道へと走った強敵が現れたという事になる。
「従えていた‥‥ように見えました。」
劉亮は祖父を見た。お互い、これからどうすべきか理解しあっている。
「私が向かいます。当主はこの劉家と門派の守護を頼みます」
瀏咎は頷く。
場所と事の成り行きを全て聞きだしたあと、劉亮は肉まんを竹の葉で20個も包みだした。
「お前、そんなに飯を食う奴だったか?」
子供のころから劉亮を知っている祖父は驚く。
「衛玉は大食らいですから」
名前を聞いた途端、祖父のこめかみに突然青い筋が入る。
「まさか、あやつを外に出すつもりではなかろうな!」
「そのまさかです」
「許さんぞ!」
「では聞きますが、あいつ以外に誰がこの事件を解決できるとお思いですか?」
うぐ、と老人が口を一度閉じる。衛玉ほどこの事件に適任した人物はいない。衛玉は 魔物についての知識が豊富な上、聡明だ。きっとこの事件を解決する糸口を見つけられる。
しかし今後どのような事があっても衛玉のような危険な者は外に出してはならないと、劉当主は使命感を感じた。
「許可は出せん」
「なら、どうすれば許可を出して頂けるのですか?こうしているうちに、また次の人体発火が起こるかもしれないのに!」
一度劉当主は考え、髭を数回撫でる。
「あやつを傀儡にでもできるのなら、許可を出そう。お前にできるか?」
劉亮は即座に可能な方法を伝えた。
一同、驚愕する。
「………よかろう」
***
「わはひがはほのはいじ?」(私が魔物退治?)
「飲み込んでから話せ。何を言っているのか全くわからない」
「-ウグッ」
詰まったのか、ドンドンと胸を叩いている。
「あわてて食べるな」
肉まんを竹に入った水で飲み干し、フゥと衛玉は口元を拭いた。
「飲み込んで話せと言うから飲み込んだんですよ」
「しっかり嚙め」
数回目の注意に、とうとう衛玉は我慢できずにクククと笑いをもらす。
「笑うな。人が一人死んでいるんだぞ」
殺されたのは劉漢だ。衛玉にとってはどうでもいいというのが本音だった。
なぜなら劉漢は昔から衛玉の食事にこれでもかというほどゴミを混ぜ込んできた嫌な奴だったからである。
劉亮の話によれば、これまで焼かれた一般人は無抵抗な魔族を見るといじめたり殺したりする輩が多かったらしい。ならばきっと劉漢も魔族に対し、不平等な事をやらかしたに違いないと衛玉は予想した。
「クク…すみません。ただ、貴方が私にたくさん注意するのも、もうすぐ処刑される私に協力しろと願ってくるのも、どれもおかしくて。あなた本当に私が協力するとお思いで?」
真面目に頷く劉亮に、おもわずブフ!と衛玉は吹いてしまった。
「笑うなと言っている」
「あはは!すみません、ふふ、だって、おかしいんですもん。私はこの世では完全な悪で、明日処刑されてもおかしくない立場だったというのに。しかもあなたは本気で私が皆さんを助けるために尽力する事を信じて疑わない。これほどおかしい事、ありますか?」
「私はおかしいとは思わない」
同じ冷たい牢屋の中へ入り同じ目線で肉まんを食べ、話をしてくれている。そして衛玉の心根を信じているようだ。
「お前は弱い者を助ける側の人間だ。その志が変わる事はずっと無いだろう」
笑った後、衛玉は少し泣きたくなった。好いている相手から人間だと認められ、これほど信じてもらえるなら、答えは決まったも同然だ。
「はぁ、わかりました。お手伝いしますよ」
「首を貸せ」
突然片手で首元をつかまれた。
(油断した!)
衛玉は焦るが、首をつかむその手にほとんど力が込められていない事に気づく。しかしすでに術にはまってしまい、上半身の体を動かせない。逃げようともがくが、動くのは足先だけだった。
「何のマネですか!」
「黙ってろ。術をかける。これを施さない限り、お前を外に出せない」
衛玉の背中がジワリと湿気を帯びる。寒さからの汗ではない。
首をつかんで実行する代表的な術と言えば一つしか思い浮かばなかった。それだけは嫌だと衛玉はじたばたした。
「ま、待ってください、劉…ッ」
「殺首術」
「あ…!」
痛みは感じない。ただ、首筋に細くて黒い線がのどぼとけあたりに入っていくのが感覚でわかる。それは首を一周していた。
「あんまりです…これ、貴方が私を殺したいと思えば、念一つで首を飛ばせるようにする術じゃないですか!殺すつもりは無いと、私を捕らえる時に言っていたじゃないですか……」
「殺すつもりはない」
「ではなぜ!!」
衛玉は涙目になっていた。信じていた相手に裏切られたと感じ、悲しんでいるのがわかる。その顔を見て、劉亮は胸の奥に一寸の痛みを感じた。
「話を聞け。俺と共に旅に出る事になる。今回の奇怪な事件には、お前の力が必要だ」
「逃げるかもしれないから、私に術を?もし逃げたら?」
「俺がお前を殺す事になる」
つい想像してしまい、衛玉はゾワリと鳥肌が立った。
「もし敵を倒せたら、私は自由の身、もしくは同等の対価を得ることができますか?」
「自由にはできない。終われば身柄を俺が確保し、ここで生活してもらう。ただし俺が不在の時でも処刑をされる心配はなくなる。今回の件を解決すれば、お前の寿命が尽きるまで生活の面倒は保証してやる」
逃げれば即死。
協力してもずっとこのまま。
ガクリと衛玉は肩を落とす。
「お前が逃げない限り、大丈夫だ。殺すつもりはない」
「はぁ…協力しないって今言ったらどうなります?」
「俺は発火事件の解決に向かう。俺が留守の間、お前はこの檻に待機しなければならなくなる。その間、処刑から守ってやる事ができない」
長老達がお前を殺したがっている、と付け足す頃にはもう衛玉は全ての訴えが無意味だという事を理解する。
「選択肢が無いじゃないですか!」
「そんなもの、はじめから無い」
***
出立はすぐだった。久しぶりの外に両腕を上げ、朝日を体中に浴びる。
「やっぱり外は気持ちいい」
「この事件が終わったらまた牢屋へ戻ってもらうぞ」
「気が滅入る事を言わないでください。あと私を自由にしてください」
「ぜったいに逃さない」
「残念です。そこまで悪い事はしていないと思いますよ?お金を払う事が出来ず、生活に困っている人から、ちょこっと寿命を頂いているだけなんです。最近は餓死しかけてる人にお金を渡して寿命を頂く事の方が多かったですし。餓死で死ぬよりマシだと思いませんか?むしろこれは人助けに入るのでは?それにね、寿命っていうのは本来あと十年あったとしても、一年後に死んじゃう人だっているんです。それくらい、人の寿命っていうのは曖昧なものなんですよ」
「一人に対し、どれほどもらっていたんだ」
「人によりますね。ご老人なら一日だけとか」
「若い者相手には」
「んー・・・一、二年分はもらってましたね」
「もらい過ぎだ!」
「長生きしたいだけなんですよ、こっちは」
本当に、長生きをしたいだけだった。特に何かを守りたいわけでも、成し得たいもの
もない。昔はあったが、好いていた相手に許嫁がいると聞いて諦めた。
ただ、今回の一件で自分の幸せはやはりこの堅物な男と共にあるのだと確信してしまった。
「睨まないでくださいよ。貴方といる間は寿命を採取したりしませんから。安心してください」
(どうせ、事件が解決したあとは檻に放り込まれてしまう。寿命も採取できないのだから、そう長くも生きられない。なら、好き勝手やらせてもらいます)
衛玉は上がった口角が見られないようそっと手で口元を覆った。
「もうお喋りはしまいだ。行くぞ」
「目的地は?」
「大坂」
「大坂!あそこは商売が繫盛してる国ですよね。楽しい旅になりそうです」
「遊びにいくわけじゃないぞ」
刀に乗り、二人は東へ向かう。今いる薩摩から大坂まで寝ずに歩いても二日はかかるところだが、空を飛べばものの半日で到着する。
人通りの少ない宿の裏側に二人は着地した。薩摩に住む人間にとっては人間が空を飛んでいても何も驚かれないが、他の国ではそうもいかない。驚かれて矢を飛ばされる事もある。極力人前では御刃【刀で空を飛ぶ事】しないのが得策なのである。
「ちょうどいい所に降りられましたね。ここは…私の勘が正しければ牧方あたり?」
「そうだ。まずは笠を買いに行くぞ」
「どうしてですか?日差しは強くないですし、雨もふっていません」
「お前は人に顔を知られているだろう。悪い方面で」
顔を隠すようにと言われているのだと理解する。
「そうでもないですよ」
「私は行く先々でお前の似顔絵を見たぞ。この男に気をつけろ、寿命を取られるぞと掲示板にいつも貼り付けてあった」
「それは貴方が私をずっと追っていたから、そんなけったいな村の掲示板なんか見る事になるんです」
「けったい?」
「大坂の言葉で、あやしげな、という意味です」
この点だけは劉亮は全く譲らず、適当な店を選んで物色する。衛玉の頭に合いそうな笠を一つ選んで劉亮は戻ってきた。藁で編まれた笠を衛玉の頭に被せてくる。
「ちょっとこの笠チクチクします。作り手は下手ですね」
「買ってもらったくせに文句を言うな。行くぞ」
「次はどこへ?」
「発火事件があった村だ。ここからは長く歩く」
えっ!と衛玉は衝撃を受ける。すぐ傍には立派な宿や食事処があるのだ。そしてもうすぐ夕日が終わる頃合い。当然ここで一晩休んでから次の場所へ行くものだと思っていた。
「ちょ、ちょっと、予定がきつすぎませんか。もう少しゆっくり…」
「また同じ場所で発火事件が起きたらどうする」
衛玉は反論できなくなってしまった。しかし腹はすいた。せめてこの目の前にあるそば・うどん処と書かれた店へ寄ってから村へ行きたいと思う。
「わかりました。今日中に村へ行きましょう。でも、長く歩くのでしょう?腹ごしらえしてから行かせてもらってもいいですか?私、おなかがすくと歩けなくなるんです…」
「子どものように駄々をこねるな。それにお前も修士だろう。食を抜いたぐらいで…」
「お願いします」
本当に、本当に腹が減っていたのだ。衛玉は両手を合わせ、上目遣いで劉亮にねだった。
「…わかった」
「やった!」
店へ入ってすぐ、従業員に手を上げて「私、肉うどん三人分で!」と注文した。
「遠慮というものを知らないのか」
財布を持っていないため、もちろん勘定はすべて劉亮持ちになる。
「だって、私の私物は全部あなたに取り上げられてしまったんですから」
「ホラを吹くな。最初からお前の財布にはびた一文何も入っていなかったぞ」
「はは、バレちゃってましたか」
劉亮はきつねそばを頼む。
「大坂ってうどんが美味しいんでしょう?なぜそばを頼むんです?」
「俺はそばが一等好きなんだ」
「へぇ‥‥。わ、早いですね!」
男の従業員が「へいお待ち!」とうどんを長椅子に置いた。
「あと二つも持ってくっから、ゆっくり食べてェな!」
ひそ、と衛玉は劉亮に耳打ちする。
「大坂の人の喋り方って、なんか…陽気ですね」
「お前も似たようなものだろう」
「失礼な事を言わないでください。うどん、味見させてあげませんよ」
「いらん」
「本当に?」
衛玉はフー、フーとうどんの熱を取り、箸を劉亮の方へ向ける。
「はい、お口開けてください」
「な…ッ」
「ふふ、昔から貴方、これすると慌てますよね」
「からかうな!」
「あはは!…ねぇ劉亮。やっぱり、今回の旅で私を自由にする気はありませんか?」
「無い」
衛玉はうなだれる。それでも諦めず交渉を続けた。
「本当、鬼のように手厳しい。なら、お願いを一つ聞いて頂けますか?」
「なんだ」
「今回の事件が終わったあとも、私と食事をしてください。できれば毎日が良いです。あの檻の中じゃなくて…結界の中ならどこでもいいんでしょう?芝生の上とかで…」
「そんな事でいいのか?」
「はい。この条件、のんでくれますか?あなたが忙しい時期なら、三日に一度でも良いですよ」
「わかった。それでいいなら」
衛玉は嬉しそうにほほ笑んだ。自由な身では無いが、劉亮と死ぬまで一緒に食事ができるという約束を取り付ける事ができた。
これは衛玉にとって、何よりも嬉しい事だった。
それに、と衛玉は別の事を考える。
(好きな人に死を看取ってもらえるなら、それはそれで幸せかもしれない)
ソバをすする劉亮を見ていたら、ムっとした顔で「やらんぞ」と言われた。即座に「い、いりませんよ!」と衛玉は答える。
(その時に告白をしよう。別に、死ぬ間際なら…………好きだと言ってしまっても迷惑はかからないはずです………)
修真者の国、薩摩と徳川家康の国はまったくの別国となっていた。
表向きでは徳川家康が天下統一を果たしたという事になっているが、実際はそうではない。薩摩とその周辺国には複数人の修真者がくらしており、劉家以外の数の門派が多数存在する。
そこ一帯は修真者としての見込みがある人間が多数生まれ、気づけば独立国になっていたのである。
修真者は権力に溺れず、仙人になる事を望みその身を修行させている者がほとんどだ。そのため、誇り高い志を持ち、権力にこびへつらう事を非常に嫌がる。
そういった性格のものが集まった国であるからこそ、古代から派閥のようなものが出来ていた。そこを、代々徳川家がうまく均衡を保ち、今の平和な形成されていったのである。
方法はとても単純なものである。その時々の天下を取った人間の娘または息子を修真者は養子として迎え入れ、結婚して親族関係を朝廷と保つ事で平和を守ってきたのだった。
そして劉一族の一人息子である劉亮こそが、次の徳川家康の選んだ娘と縁談する事になっていた。まだ相手は決まってはいないが、近い将来必ず結婚を余儀なくされる。
修真者全員の平和にかかわる事だ。無理やり劉亮を術などで自分のものにするわけにいかないのである。
少し前に、織田信長が興味本位で修真者に戦争をふっかけたのだが、その時はことごとく衛玉がたった一人で数万の兵を打ちのめした。
今は鉄砲技術などが進化している。あの時はなんとかなったものの、次にまた同じように朝廷側が攻撃をしかけてきたらどうなる事かわからない。
万が一にでも劉亮が衛玉を選び、徳川家康の娘を拒んでしまったら、劉家と徳川家の戦争で多くの人が亡くなる可能性がある。圧倒的に劉家の方が強く、負けるはずなどないのだが、一人でも人が死ねば劉一門としては負けも同然。
戦争を起こさないよう均衡を保つ事こそが勝利なのだ。劉亮はそれほど重いものを背負っており、軽はずみに告白などはしてはいけない相手なのである。
「あんたらあんま見ィひん顔つきやけど…どこの人?」
「薩摩だ」
二つ目の肉うどんを置きながら聞いてきたのは10歳ほどの子どもだった。おかっぱがよく似合う女の子だ。
「そないな遠いところから?よぉお越しくださりました。ゆっくりしてってェな。お母ちゃん、このお客さんごっついエエ男やわ!三つ目の肉うどん、多めにしたって!」
「よっしゃあ任せときぃ!」
従業員の娘と厨房に立つ母親のやりとりは名物のようだ。客人はハハハと笑い、店内は良い雰囲気に包まれていた。その時。
「ウッウアアァァ!!」
店内にいた男が突然火だるまになった。服の端から突然火があがり、あっという間に髪まで到達する。男は何とか火を消そうとゴロゴロとのたうち回るが、いっこうに消える気配は無い。突然の出来事に店内の客は叫び、我先にと店の外へ飛び出る。
厨房にいた先ほどの少女の母親だけが果敢にも鍋に水を汲み、男の火を消そうと動き始める。
「水!水ふっかけて!手伝って!」
衛玉はすぐさま反応した。胸元から符を取り出し、自分の血で術式を書いていく。
すると、ニュっとその符から柔らかいものが出てきた。魔物のようだ。その水色のかたまりはフワァと欠伸をして衛玉の方を向く。
「店内を水浸しにするくらいでお願いします!」
衛玉が言うと、大きく口を開けた魔物から、滝のように水が勢いよく噴出された。
衛玉は契約した魔物や精霊を呼び寄せ、命令する事ができる。
本人自体は病弱だが、様々な術式と天賦の戦術で困難を乗り越えてきた男だった。
魔物をはじめて見る少女は恐ろしさで体がすくんでしまっている。ぽん、と衛玉は少女の肩に手を置き、大丈夫だよと声をかけてやった。数秒で店内の火は沈下され、水色の魔物はまた欠伸を一つし、符の中へニュウと戻っていった。
店内は水がどこもかしこもしたたっている。大変な有様ではあったが、火だるまになった男の命を取り留める事はできた。ごろりと力尽きている男の容体を確認する。
「劉亮、丹薬は持ってますか?」
「ああ」
丹薬を飲ませると、たちまち火傷でただれた部分の修復が始まる。
店の外から見ていた客人達は「おお……!」と歓声を上げた。
「衛玉、いつのまに符を」
「最初から持ってましたよ。さすがに殺されるのは嫌でしたからね。何かあった時のためにと思って隠していたんです。貴方が私の上半身を剝いて確認する作業を怠ったものですから、この符だけは守ることができました」
ソバ屋の二階は従業員の住まいになっている。劉亮と衛玉も二階へ行き、男の容体を見届ける。
火だるまになった男が目を覚ましてから、何があったか聴取した。いつもと変わらず、大工仕事を終わらせ、ソバを食べに来たらしい。何かいつもと違う事が無かったか聞いたところ、大工は決定的な事を言った。
―――魔物らしき小さな生き物を蹴った、と。
今回の人体発火で共通している事はただ一つ。弱い魔物に危害を加えた人間が襲われ死亡しているのだ。今回の件も連日劉亮が追っていた人体発火の事件と条件が酷似していた。
魔物を守っている何者かがやったに違いないと劉亮は推測していた。
男の話を聞いたあと、劉亮は衛玉に聞く。
「どう思う」
「そうですねぇ。感情を持っている魔物もいますから。やったらやり返したくなるのは当然だと思います」
「それだけか?」
もっと何か、真実にせまる意見が衛玉の口から出されると期待していた。
「痕跡も特になし。火をつけた相手の情報もなし。推測するには情報が足らなすぎます」
「確かに」
「劉亮、話は変わるんですが」
「なんだ」
「お金を稼ぐ許可をください」
***
劉亮は戦闘に至っては天才的な能力を発揮するが、それ以外については鈍感な男だった。道中ずっと一緒だったのにも関わらず、衛玉が裸足だったことをすっかり忘れていたのだ。そして足の裏にトゲが刺さり、血が出て痛くなってしまったため衛玉は靴が欲しくなった。どうせ劉亮は靴を買ってくれないだろうと思った衛玉は、自分で売れそうな符を作って稼ごうと考えたのである。
「なぜもっと早くに言わなかった!」
「怒らないでくださいよ…………」
衛玉の足に傷薬を塗りながら、劉亮はカンカンに怒っていた。
ひと塗りすると、たちまち傷が癒えていく。劉家秘伝の傷薬だ。
「で、お金は稼いでもいいですよね?寿命をお金でくれる人がいてですね…」
ソバ屋の向かい側がちょうど靴屋になっていた。そこでちょうどいい大きさのをいくつか見繕い、揃えてもらう事ができた。しかし金はあった方が断然良いと考える衛玉は引き続き稼ぐ許可をもらおうとする。
「だめだ!」
「いつからそんなにケチになったんですか?そういう風に育てた覚えはないんですが」
「お前に育てられた記憶はない!」
「それに、お金が無いと武器が買えません。刀だけじゃ私はアリンコ同然なんです。呪符ももうなくなってしまったし。呪具が無いといざという時何もできずに殺されてしまいます」
「…やはり、お前の衣服は返した方がいいか?」
「返してもらえるなら、ぜひ」
取り上げられた衣服には乾坤袖というなんでも収納できる便利なものがついているのだ。あそこには戦いに使えるあらゆるものをしまってある。
乾坤袖に備蓄してあるモノ達を使えばこうして自分の血を使わなくても、十分に戦えるようになる。他にも劉亮にイタズラするために衛玉が開発した「忘れ薬」の材料も収納されているのだ。ぜひとも返してほしい代物だった。
「乾坤袖に入った武器がなくても戦えますけど、そのうち自分の血を使いすぎて貧血で倒れるかもしれません。返してもらえるんですか?」
劉亮はしばし衛玉を見つめる。乾坤袖の中を見たが、確かに武器になりそうなものはたくさんあった。薬になりそうな材料も豊富に。
万が一何かあってもそれらを使って脱走できる事はまずありえないだろうと劉亮は考えた。
「変な事は考えるなよ」
「ええ、誓いましょう」
夜更け前に目的地へ到着した。道中何度も「飛んで行きませんか?もうへとへとです」と弱音を吐く衛玉を無視し歩き続けた結果、予定より早く移動できたのである。
「靴を履いても履かなくても歩く速度が同じなのはなぜだ?」
「貴方の歩く速度が早すぎるだけです」
酒屋や宿の明かりがチラホラとついてはいるものの、町はシンと静かだった。
宿で部屋を二つとり、それぞれが就寝する頃に事件は起こった。
「何もしないと俺に誓ったばかりだろう」
「ええ。変な事は何もしませんよ」
「ならこの術を解け!言っておくが、お前の首にかけた術はな、俺が死んだ場合祖父が引き継ぐようになっている。俺を殺しても意味は無い。わかったらさっさと自分の部屋で寝て明日に備えろ!」
「どうせそんな事だろうと思ってましたよ。それに、別にあなたの事殺すために術をかけたのではありません」
劉亮は「止」と書かれた符を両足、両腕、胴体の5か所に貼り付けられ、寝台で大の字で寝転がっている状態だった。その上にまたがるように衛玉がのっかっている。劉亮にとって、なんとも不思議すぎる光景だった。
「貴方、今年で何歳になりますか?」
「21だ」
「もう立派な大人ですね」
「何が狙いだ?」
「ふふ、なんだと思いますか?」
ツツ、と頬を指で撫でられる。
「ジッとしててくださいね」
ドキリと劉亮の胸が大きく動いた。
「何…を」
「今からわかりますよ」
劉亮は劉家の唯一の跡取りだ。いつか来る徳川家康公の姫君を迎え入れるため、房中術の知識は育ての祖父からもらった本で十分学んでいる。とっさにそれらの本の内容が劉亮の頭によぎった。
「こうするんですっ」
ぼすん、と衛玉が胸に飛び込んできた。
劉亮の首から上は動かす事はできた。頭を少し上げ、意味不明な男の行動を見守る。
彼はフー、と何かを達成したような表情していて、かなり満足そうだ。
「……………何をしている?」
「何って、見た通り貴方の胸をお借りしています」
「俺を動けなくしてまでやる事か?」
「私がコレをお願いして、貴方はこうして胸をかしてくれるんですか?」
「……………」
「ぜったい断るに決まっているんです」
「男の胸などに寝転んで、何が楽しい?俺への嫌がらせか?」
「単純に人恋しいんですよ。ちょっとだけ我慢してください」
そうして、一本分の蝋燭が半分まで溶けてきた頃に衛玉は顔を上げて「ありがとうございました」と言った。
「早く術を解け」
「これを飲んでくれたらいいですよ」
ぽいと口に何かを入れられた。
「何を口に入れた!」
吐き出そうとすると、手を口に塞がれる。それでも舌で押し出そうとしたら鼻をつままれた。飲み込むまで呼吸をできなくさせるつもりだとわかり、劉亮は衛玉を睨んだ。
「飲み込んでください。今から二時間ほどさかのぼり、記憶を消してくれる薬です。私が作ったものなので安心ですよ。ショウガやクズの根なども入れておきました。体に良いので明日調子が良くなるはずです」
衛玉の乾坤袖には武器だけでなく、薬品に使えるものが様々に収納されている。劉亮が沐浴している間に調合していたのだった。
衛玉は人を殺すような質ではない。衛玉の信念だけは疑わなかった。
しかし、自分が生き延びるため他人の寿命を働いた対価としてもらうような男だ。そうやすやすと信用してはいけない相手でもある。
人を操る薬というものが存在するとは聞いたことも無いが、衛玉なら作れるかもしれない。もし他者を操る事ができる薬だった場合、己は操られ、衛玉にかけた首の術を解除してしまう恐れだってある。劉亮は舌の裏に放り込まれた薬をはさみこんだ。
「はい。竹筒に入れておいた湧き水です。美味しいですよ」
衣服にこぼれるほどの水をダバダバと口に流し込まれる。劉亮は舌の裏に張り付いた薬まで飲みこまないよう、水をのどに流し込んだ。
「もう一度お口開けてください」
ガパリと劉亮の口を開けさせて、中を確認する。すっかり何も無い状態なのを確認し、パっと劉亮から離れる。
「その薬、催眠作用もあるのでぐっすり眠れますよ。いい夢を」
衛玉は扉の方へ行き、自分の部屋の方へ戻っていった。
扉を背に、ずるずると両手で顔を覆ってしゃがみこむ。
(劉亮に、抱き着いてしまった…………!)
あとで薬を飲ませて記憶を飛ばさせるつもりだったとはいえ、本当に劉亮に抱き着けるのかどうかわからなかった。もしかしたら術が効かないという可能性もあったのだ。
明日、ちゃんとすべてを忘れてくれていますようにと薬の効き目を願ったのだった。
***
翌日。
昨夜の出来事について、劉亮は一人で考え込んでいた。
なぜ衛玉はあのような事をしたのか、まったく理解できないでいる。人恋しいからという理由で、家族でもない他人に抱き着くのは普通じゃない。ましてや女でなく男に。
「朝食をお持ちしました。こちらの部屋にお持ちして良いですか?」
宿の従業員が朝食の知らせに来た。
「ああ。この部屋で」
「わかりました」
初老の女性がてきぱきと二人分の食事を並べていく。ごゆっくり、と従業員が部屋を出ていく。
今度は衛玉が部屋に入ってきた。
「朝食って声が聞こえたので来ました…おはようございます」
少し頬が赤い。衛玉はさすがに気まずさを感じるのか、背中を丸めて劉亮の向かいに正座した。劉亮とて気まずい。しかし忘れたフリをすべきだと己の勘が言っている。
「あの…昨日の事、何か覚えていますか?」
「なんの事だ?」
衛玉はわかりやすくホっと安堵したような様子を見せ、「私の考え違いです。忘れてください」と言った。
安堵した衛玉は目の前に広がる海の幸に目移りする。
「美味しそう。見た事の無い料理がたくさんある」
「このあたりは海が近い。海鮮料理が豊富なんだろう」
「これは?海鮮料理ですか?」
「天ぷらだ。食べた事ないのか?」
無いです、と答える衛玉に劉亮は首をかしげる。劉門派の食堂にはありとあらゆる料理が並べられていく。天ぷらなど月に一度は見かける品だ。
「食堂はあまり利用する機会がありませんでしたから」
そういえば、と劉亮は衛玉がまだ劉門派の生徒として穏やかに過ごしていた昔を思い出す。彼はいつも部屋の庭で料理をしていた。そして、誰かと食事をしているのを一度も見た事は無かった。ただ一人を除いて。
「なぜ、食堂を利用せずに自分で料理を用意していた?」
「ちょっと面倒だったんですよ」
食堂で盆を取っておかずを物色していると必ず誰かがわざとぶつかってくる上、座ろうとしたら荷物で座らないように邪魔をされ、やっと席を見つけて座ったら今度はゴミをおかずに投げられる。本当に面倒な事が多かったのだ。
そんな事をこのお坊ちゃまに言ったとして、どうせ「劉門派にそのような馬鹿なマネをする奴はいない」と言い張るだろう事は目に見えていた。衛玉は適当に流し、初めて食べる天ぷらを口にする。
「ほいひい…!(美味しい)」
ほのかな塩味と、中のエビが口の中で踊りだす。パリ、シャク、という食感が面白くて、一口を小さくして何度も天ぷらを口に入れては噛んだ。天ぷらを完食した衛玉はフウと満足そうに顔を上げる。劉亮と目があった。少し笑っていて、ドキリとする。一呼吸おいて、幸せだと思う感覚がわいてきた。
「劉亮、変わっているとよく言われませんか?」
「一度も無い。なぜそのようなことを聞く」
心外だと言わんばかりに劉亮は眉を寄せ、その表情に衛玉はクスクスと笑った。
「私と普通に食事をしてくれるのは、家族をのぞいて貴方だけなんですよ。半分は魔族の血が流れているんです。誰だって知れば気味が悪くなるはずなのに」
劉門派へ入門し、十分に力が蓄えられたのちに己が魔族との半分の子だという事が劉門派の長老に知れ渡ってしまった。その頃、衛玉は劉門派に必要な人材として重宝されており、半分は人間だという理由で破門にされる事は回避されたのだ。
しかし噂は一人歩きをし、半分どころか衛玉は両親が魔族であるにも関わらず、人間に化けて虎視眈々と劉門派を乗っ取ろうとしているという話にまで膨らんでいた。
恵まれた才能を妬む生徒達は衛玉を追い出そうという動きを始めたのだ。
噂を信じたり、はたまた噂を広めたりする輩のほとんどは修位の低いもの達ばかり。真面目に修錬に励んでいる者は噂などに惑わされる事はなく、己で見たもの感じたもので物事を判断する。劉亮はまさにそうだった。
「お前には色々と噂が流れていたが、ほとんどデタラメだった」
「おや、噂の事をご存じで?」
「まったく荒唐無稽な話が多かった。衛玉は人の肉を食べるだの、実は男が好きで毎晩夜には誰かの部屋に入り浸っているだの……あんなものを信じる方が馬鹿だ。お前は根っからの女好きだというのに」
「ちょっと待ってください。最後のなんですか?」
「お前が女好きだと言ったが。何か問題が?」
「………いえ、何も問題はありません」
(なんですかその噂!私が毎晩男の部屋に?!ありえない!)
女好きというのもなんだか納得できないが、今は触れないでおいた。
不幸中の幸いで、劉亮はどうやらその噂を全く信じていない。それは救いだったが、嘘と本当が混じっているので衛玉は冷や汗をかいた。衛玉は男性しか好きにならない。これは真の話だった。
(誰か、勘の良い人がいたのだろうか………)
衛玉が劉亮と出会ったのは15歳の春。まだ幼さの残る劉亮は愛らしく、そして今と変わらずまっすぐな信念を持った少年だった。
(劉亮だけは、昔から私と食事を共にしてくれていた)
まだ劉亮が純粋に衛玉兄さん!と慕ってくれていた昔を思い出す。劉亮と過ごしたその日々は衛玉にとって何にも代えられない大切な思い出だった。
***
―――1582年。天正10年。織田信長の死亡で世は乱れていた。
また天下を求め、あらゆる武将が戦争を起こすのではと人々は安寧の地を求めた。唯一安全と言える場所、劉門派の生徒になるため入試試験を受けに来る者が毎日絶えない。
一歩入れば迷宮入りしてしまうとても危険な山があった。
その名は劉霊山。劉家の祖先が施した強固な術が張られている。
相当の秘めたる力を持っている者でなければそうそう突破できない。通行札という一部の者が所持している札があれば道に迷う事はないが、持っている者はごくわずかだ。
そのため一度劉霊山を下りたあとは自力では二度と戻ることができない。
もし戻りたければ己の師に劉霊山を下山してもらい、道に迷わないよう迎えに来てもらわなければならないのだ。
入るのが厳重な劉派だったが、入門者がどっと増えた時期には修士として大成するかどうかの見極めが緩くなってしまう。安定した食事と仕事にありつくためという理由で入門してくる者が半分以上だった。
本来ならそのような者は山の門さえくぐる事も許されないが、今回は状況が違った。人々は魔物から襲われる不安だけでなく、人間同士の戦争にも不安があったのだ。
もともと人助けを生業としている劉家一門。仙人になる見込みのある者は例え入門時に性格に難があるとわかっていても、良心から門派生として何人もの人間を受け入れてしまったのである。
そして性格に難がある生徒はおのずと劣等感を抱き、才能の塊である衛玉を妬み、いじめをするようになった。
劉霊山は劉家が管轄しており、劉家の本家と門派が住まう場所でもある。
湖と自然に恵まれた広大な土地を過ぎたその先に、門派生が住まう家が点々としている。その一つの古びた建物の庭で、一人の青年がフウフウと火に息を吹きかけていた。
彼は足音に気づき、顔を上げる。
「衛玉兄さん」
『劉』の姓は取り上げられて、『衛』に戻ってしまった。片親が魔族だという事が長老に知られてしまったからだ。
劉亮は姓が戻った理由を知っているというのに、今までと分け隔てなく接してくる。衛玉は笑顔で彼を迎えた。
「阿亮。今日も来たのですか?」
衛玉は親しみを込め、いつも劉亮の事を瀏玲と呼ぶ。この国ならではの呼び方だ。
「ケガをしたと聞いた」
両手いっぱいに治療薬や白い布を持っている。衛玉はプッと右手の甲を口に押えて笑いをこらえる。
「ほとんどかすり傷ですよ。でも、嬉しいな。ありがとう」
やってきた劉亮の頭を撫でてやり、両手にあるそれらを受け取る。足元にあったカゴにまとめて置いた。
「頬が切れている」
衛玉のまだ少年とも呼べる彼の頬に、一本の赤い線が走っていた。
「かすり傷です。放っておけば治りますよ」
「よく効く傷薬があるんだ。ぬってやる」
劉亮が持ってきた治療薬は手元にあったカゴにどさりと置かれている。包帯として使う白い布を腕にひっかけ、塗り薬を手に持つ。丹念に頬に塗った後、劉亮が言う。
「腕を出せ」
「はいはい」
せっせと薬をぬってくれる人など劉亮ぐらいだ。多方面から感じる蔑みや殺気で心は殺伐としていた。
(優しい触り方だ)
無骨なこの少年は何かと細かな作業が苦手なのだが、丁寧に塗り薬をぬってくれていた。衛玉は心がゆっくりと癒えていくのを感じる。
「織田の軍がやってきたと聞いた。衛玉兄さん一人でひねりつぶしたと聞いたぞ」
衛玉は首を振る。織田軍は劉霊山に来ていないと言った。
「ひねりつぶすだなんて。ただ襲ってくる前日に、兵全員に美味しい梅干しを届けただけですよ」
織田信長の興味はすさまじかった。そして、誰も信じられなかった事が起こったのである。織田は仙人の力を秘めた能力を持っており、難攻不落、一歩入れば一生出られないと言われていいる劉霊山を突破したのだ。織田信長はいったん自分の城へ戻り、もし劉一門を自分の配下に出来ればどんなに面白いだろうと考えた。
調子に乗った織田信長は兵を集め、劉門派を我が物にしようとしたのである。当時、魔族の動きが活発になり、各国全土に強い修士が派遣されていた。
手薄になったところを狙われたのだ。
いち早く情報を集めた衛玉は5千人分の毒の入った梅干しを兵に送り付けたのである。その後衛玉は織田軍に乗り込んだ。大多数がその梅干しを口に含んだのを見計らい、腹痛でばたばたと倒れ弱った状態の兵を倒しきった。
加勢を要求することもなくたった一人で織田信長と対峙し、「次に我らを狙えば呪いだけではすまない」と脅して二度と干渉しないという約束をとりつけたのである。その数日後、織田信長が死亡した事で劉一門に歯向かうと祟りが起きるという噂が流れるまでになった。
少しばかり傷を負った程度で、よく怪我をする衛玉にとっては傷というほどのものではない。しかしまだ戦いに出た事のない少年は心配をそうな顔をして衛玉の傷の処置にあたっていた。
「できた」
「相変わらず不器用ですね」
「なんだと」
巻かれた布の結び目が緩い。そして巻き方も不格好だ。しかし料理を続ける分には支障はない。
「芋と豚の塩煮込みを作っています。一緒に食べますか?」
「食べる」
***
「衛玉。…おい、衛玉。」
「え?あ、はい…えっと、なんでしたっけ?」
美しい昔の思い出にうっかり思いを馳せてしまった。衛玉は少し慌てて返事をする。
「だから、将来を共にする予定の女はいるのかどうかと聞いている」
「へ?そんなの一生作るつもりはありませんよ」
(旦那さんになってほしい人はいますけど)
「なぜそんな事を聞くのですか?」
「もしいたのなら、別れの挨拶ぐらいはさせてやろうと思った」
「それはご親切にどうも」
劉亮が食べ終わった頃に衛玉は聞いてみた。
「あの、一つ聞いていいですか?」
「なんだ」
「私って、まだ………貴方の師兄ですか…?」
「違う」
劉亮の一言にガンと何か固いもので叩かれたような痛みを感じた。
「そうですよね‥‥」
ちょっと涙目になってしまう衛玉だった。
***
忘れ薬はあと一粒。もう一度だけ、また劉亮に甘える事ができる。
歩きながらカラカラと薬が入った瓶を振る衛玉に劉亮が急かした。
「何度も言っている事だが、もう少し早く歩けないのか」
「貴方の長い足と私の平均的な足の長さを比較してからモノを言って頂けませんかね」
「背が低くても、男だろう。せっせと歩くくらいできるはずだ」
「頭2個分もあなたと身長が離れているのですよ。無茶言わないでください。協力してあげてるんですから、歩く速度くらい合わせてほしいです。あともう足が疲れたので休みたいです」
「駄目だ」
言い合っていたら、目の前に年頃の女の子が道を阻んできた。
「旅のお方、今は通らないでください」
舞い上がる煙が見えた。
進む方向の先には50人ほどの人が集まり、皆手を合わせている。
僧がお経を唱えていた。
「どなたかの葬儀ですか?」
衛玉が女の子に尋ねる。
「ええ…私の祖父と祖母です。代々、私たちの村はこの先の道にあるお地蔵様の前で焼香する決まりがあって…。旅のお方には申し訳ないけど、今は道をあける事ができないの」
「そうでしたか‥‥」
衛玉は劉亮を見て言う。
「劉亮、宿で頂いたお菓子を食べましょう。ちょっと休憩しませんか?」
「ああ」
「すみません」
女の子が頭を下げる。
「いいですよ。ちょうど足が疲れたってこっちの男性に文句言ってたところなんです」
「お前はいつも文句ばかりだろう」
衛玉は木の木陰に座り、乾坤袖から風呂敷包みの箱を出した。
宿の女将がくれた栗おこしを半分に割り、劉亮に手渡す。劉亮はなぜかすぐに口に入れようとせず、衛玉をいぶかしむように見ていた。
「どうしたんですか?栗おこし、嫌いですか?」
「いや…」
「変なものなんて入ってませんよ。ほら。」
ぱくりと半分に割った残りの栗お越しを口に入れる。ほのかな栗の甘みが口の中にほろりと広がる。
「いらないならもらっちゃいますよ。劉亮、あなた甘いもの大好きでしょう?いらないんですか?」
「‥‥いる」
衛玉はクスクスと笑い、香炉に抹香を落とし入れ、合掌をしている人たちを遠くから眺める。
「劉亮、なぜ焼香なんてする必要があるかご存じですか?」
「あの世でも死んだ遺族が幸せになるよう祈るためだろう。そして己の邪気を取り払い、精神と肉体の穢れを取る」
「うん。正解です」
衛玉は少年時代から物知りで、まだ衛玉が門派にいたころはこうして問題を劉亮に出してやる事があった。
こうして経を聞いていると、自分の命がはかなく短いものであった事を思い出す。
採取した寿命は衛玉が発明した「寿命囊」に入っている。寿命囊は乾坤袋に入ってはいなかった。恐らく劉亮が持っているのだ。
衛玉の寿命はもってあと数か月。力を使えばもっと寿命はみじかくなる。それまでには自然発火の事件は解決できるだろうと衛玉は見込んでいた。
己の命があとどれだけで尽きるのかを言えば、寿命囊を返してくれるだろうかと衛玉は考える。でももし、劉亮が返さないと言ったらどうしようと、衛玉は怖くて寿命囊を返してほしいとは言えないでいた。返してもらえなければ、劉亮に「死ね」と言われているも同然なのだから。
寿命囊の事はいったん忘れ、一つ劉亮に願い出る。
「劉亮、お願があるんですけど」
「お前のお願いは一日に何回あるんだ?」
衛玉は困ったように笑った。
「今度は冗談でなく、本当のお願いです」
「内容によっては聞き入れてやれない」
「ケチですね。私の焼香がそんなに嫌ですか?」
劉亮は一瞬口を左右に引き結ぶ。
焼香をしてくれと願い出るとは思わなかったのだ。衛玉はいつも劉亮の考えの及ばない事を言ってくる。冗談のつもりかどうかを見極めるように劉亮は彼を見つめる。
「劉亮、あなたは正しい。他人の寿命を奪うなんて、魔物とたいして変わらない。その自覚は私にもあるんですよ。だからもし私が逃げきれずに誰かに捕まったその時は、それはそれでいいと思っていたんです。でも、長生きをしたい気持ちは消えません」
「なぜそこまで長寿を願う。金丹を持っているお前なら、200年は裕に生きられるだろう」
「200年どころか、私の寿命はもう過ぎてしまっているんです」
「どういう事だ?」
衛玉は笑ってごまかす。
「確実に、貴方より先に私が死ぬという事です。その時は焼香、お願いしますよ。あの世で美味しいものをいっぱい食べたいんです」
衛玉は立ち上がり、尻についた土をパンパンと落とす。
「葬儀が終わったようです。行きましょうか」
先にスタスタと道を歩く衛玉の背を見て、劉亮もすぐに立ち上がる。
足がふらついた。疲れは全く感じていない。衛玉がこの世にいない未来を考えた途端、足に力が入りにくくなったのだ。なんとか気を保ち、前へ進む。一歩足を前に出すと、いつもの調子で歩きだす事ができた。
「衛玉」
「なんですか?」
「これを」
劉亮が差し出したそれは、衛玉が今もっとも欲しいと思っていたものだ。
「これがあれば、お前はあと何年生きられる?」
衛玉は両手でそれを奪うように掴んだ。そして中身を見る。
「良かった…減ってない」
衛玉は寿命嚢を大事に胸に当て、ほっと息を吐いた。
「ありがとう、劉亮。これであと20年は生きられる」
20年。長く聞こえるが、結丹した身である衛玉には短すぎる年月だ。
「なぜそんなにも寿命が短いんだ。お前の修位は高い。心配しなくとも嫌でも長生きをする事になる」
理由を話せば長くなる。劉亮に知られているとはいえ、己が魔族の息子である事をあらためて口にして言うのは嫌だった。衛玉は話を変える事にした。
「そんなことより、劉亮。お願いがあるんですけど~…」
「お願いごとが多すぎやしないか」
疲れた、腹がすいた、もう歩きたくないなどなど。様々な欲求を劉亮はぶつけられていた。なぜこんなにもひ弱な男を捕らえるのに何年もかかったのか劉亮は不思議に思う。
「お金かしてくれません?」
「なぜだ」
「欲しいものがあるんです」
「内容による」
「薬を調合したいんです」
ペラリと紙を見せられた。紙に記載されたそれら材料は一見なんの問題も無さそうだが、衛玉がまた悪さを考えているだろうと劉亮は感じて却下する。
「駄目だ」
「どうしてですか?もしかして、劉亮……私をすぐに処刑しなかったから、おじい様からお金取られちゃったとか?」
「無駄な詮索をするな。金は十分にある」
そこへ、一人の青年が話しかけてきた。
「そこの…貴方様はもしや、劉家の若様ではありませんか?」
劉亮とさほど年が変わらない、まだ若い青年だった。
「ああ、そうだが…あなたは?」
「これは申し遅れました。わたくしはこの村の村長、矢部(やべ)と申します」
「まだお若いのに。村長なんですね」
衛玉が口をはさんだ。
「ええ。まだまだ先だと思っていたのですが、村長だった祖父はもう死んでしまいましたから。‥‥あの、劉さん、魔物退治の依頼をしたいのですが」
「何か事件があったのか」
「事件…なのかはわかりません。でも、もしかすると、『夢食い』に憑かれてるかもしれない人がいるんです」
「夢食い?珍しい。良い魔物に取りつかれましたね。あの魔物は毎度いい夢を見せてくれるから、安眠できるんですよ」
矢部は大きく首を振った。
「安眠にもほどがあります。父の様子がおかしいんです。一日に必ず数回起きては来るのですが、食事と厠をすませたあとはずっと眠っているんです」
「なんですって?なんて贅沢な。食事を取り上げてしまえば治るのでは?」
「ええ。試してみました。けれど、父は食料を集める事より、眠る事を優先するんです。『小夜子(さよこ)が俺を待ってる』と。食事を用意しなければしないで、何も食べずに数分座り、また眠り始めるんです。やせ細っていく姿が痛ましくて、つい食事を出してしまうんです」
「さよこ?誰ですか?」
「私の母です。父とは喧嘩別れをして、私が10歳の時に家を出て行ったきり戻ってきていません。なのに、先月から父は毎日母さんと会うんだって‥‥これ、夢食いの仕業なんじゃないかって村のみんなと話していたんです。どうか、一度父に何か取り憑いていないか見て頂けませんか?」
「劉亮、これは人助けです。発火事件も大事ですが、もしかしたらこのまま放置しておけば彼のお父さんは残念な結果を迎える事になるやもしれません」
「ああ」
二人は矢部の家へと向かった。
家に入ると、布団でスヤスヤと眠る男性がいた。
「これが父です。本当は父が村長になるはずだったのですが、見ての通りで…」
「働かざる者食うべからずって言葉を書いて顔に張り付けてやりたいですね。私なんか、毎日を生きていくだけでも手一杯だというのに」
タシ、と衛玉がはたくように男性の額を軽くたたく。額に手を当て、衛玉は目を瞑った。しばらくその状態で動かなくなる。
「あの‥‥あの方は?」
「魔物に関してはアイツの方が詳しい。しばらく様子を見ていなさい」
「は、はい‥‥」
10分ほどして、衛玉は目を開けた。
「矢部さん」
「は、はい!」
「次にこのお父さんが起きたらぜひやってほしい事があるんですけど」
「はい?」
「起きたらそこにあるホウキの柄でおもいっきり突いてやってください。この人、自ら望んで夢を見に行ってる。しかも、『夢食い』をどこかに封じて、自分が毎度見たい夢を見られるように命じているみたいです」
額を触り、魔物の気配を追った。確かに『夢食い』と思わしき気配を感じた。そして聞こえたのだ。”タスケテ。逃げられない。この人死んじゃうかも”と。
『この人』とはおそらく矢部の父親だ。『夢食い』という魔物は人間にいい夢を見させ、その夢で得た生気を食らう。一人の人間に固執する事はなく、転々と宿主を変えて夢を見させる。でなければ憑いた人間が夢に捕らわれ、今の矢部の父親のように廃人と化してしまう。人間に死なれては困る。大事な食事を死なせるわけにはいかない。
夢食いは人間とうまく共存している珍しい魔物だった。
「矢部さん、お父さんが大事にしている何か…木箱とかありませんか?」
矢部はすぐに何かを思い出し、走って部屋の奥へ向かった。
「あった!これだ!」という声が聞こえ、劉亮と衛玉はその声の方へ足を運ぶ。
「わっ!待って!開けないでください!」
矢部は衛玉が最後まで言う前に、しゅるりと木箱の赤いひもを解いてしまった。
すると、瞬時にその箱から黒いもやみたいなものがあらわれる。
「劉亮、部屋から出て!この黒いもやは太陽の下では弱い!目と口を閉じて…耳と鼻も!」
「無茶を言うな!」
鼻と口は片手で塞げるが、耳は左右両側についているのだ。片方の手では到底足りない。
ひゅぽ、塞がれていない方の耳から黒いもやが入り込む。
「あーあ、入っちゃったみたいですね」
外へ出たあと、衛玉が劉亮に言った。
「もし体内に入り込んだら、どうなる?」
「数日は夢食いの餌になります。まぁ、いい夢を見るだけなんですけどね。ただ、その夢に取りつかれると、矢部さんのお父さんのように廃人になってしまう恐れがあります」
「夢程度で己の道を外す事は無い」
「貴方なら、‥‥大丈夫かもしれませんね」
「すみません、すみません、まさかあんな黒い者が出てくるなんて思わず…殺す前に自由にしてしまいました」
「良いですよ。そこまで悪い魔物じゃないですし。それに今回悪いのは貴方のお父さんです。夢食いを封印し、無理やり自分の見たい夢を見せさてたんですから。ほら、あなたの持ってるその木箱、魔物を封印するためのものなんですよ。その木箱に自分の体の一部…髪でもいいんですけど…を、入れると奴隷のように扱う事のできる上等な代物なんですよ」
「詳しいな」
「もちろん。だって私が発明した品ですから」
「お二方!来てください!」
矢部に呼ばれ、劉亮と衛玉は向かった。
「どうしました?お父さん起きましたよね。さっそくそのホウキの柄で…」
「まだ起きないんです!頬を叩いても体を揺らしても!」
「はぁ。まだ夢食いの一部をほかの木箱に封印しているようですね」
衛玉は呆れ、嘆息する。
「探そう」
劉亮が衛玉の肩を叩く。すると衛玉は先ほどの呆れ顔とは打って変わり、機嫌よく「はい」と答えたのだった。
その後夜半まで探したが魔物が封じられた木箱を見つける事はできず、その晩は矢部の家へ泊る事になった。
***
その晩、劉亮は不思議な夢を見た。寝台の上で、衛玉が服をはだけさせて劉亮を待っていた。
『これは‥‥夢?』
これが夢である事は感覚でわかった。夢食いの一部分である黒いもやを体内に入れてしまった事を思い出す。その影響だという事まで理解し、仁王立ちで目の前の男を観察する。
『何をしている?』
『何をですって?見てわかりませんか?』
脱げかけていた服は全てはだけ、劉亮の目はつい衛玉のツンとした胸の先に視線を集中させてしまった。ハッと我に返り、顔を左にそむけた。
『ふ、服を着ろ。はしたない』
(これは俺の夢のはず。衛玉は良い夢を見られるぞと言っていたが…。なぜ衛玉の裸を見なければならないんだ)
『ふふ、言う通り服を着ました。こっちを向いてください』
『!!』
騙された、と劉亮は後ずさる。衛玉は服を全て脱ぎ去っていた。まだ衛玉が劉の姓を持っていた時、何度か衛玉の肌を目にしたことがある。
己はまだまだ子供で、川遊びについ夢中になっていた。体が冷えたままでは風邪をひいてしまうと、衛玉が湯を用意してくれた。順番に湯に浸かり、とても気持ちが良かったのを覚えている。そして衛玉の濡れた髪も、湯が滴る肌もしっかり記憶に刻まれていた。
衛玉のその肌から目を離せない。ゴクリと劉亮の喉が鳴る。
『劉亮、こちらへ来てください』
劉亮は気づけば寝台の方へ歩いていた。衛玉が嬉しそうに両手を広げ、劉亮を待つ。
(これは、夢)
劉亮はそれ以降、何も考えられなくなっていた。誘われるまま衛玉の傍に座り、目を合わせる。衛玉は劉亮の頭を胸に抱えるように引き寄せた。
『いい子ですね』
劉亮は目を瞑った。心地いい衛玉の肌を感じる。
劉亮は細身の衛玉の腰に腕を回した。衛玉が劉亮の頭を抱えたまま、トサリと寝台に横になる。
『劉亮…』
劉亮が目を開けると、衛玉のぷっくりと膨らみのある唇が見えた。ゆっくりと近づいてくる。
『口づけを下さい』
衛玉のお願いに、心臓が一回り大きく跳ねる。劉亮は衛玉の頬を包み、答える。
『いいのか?』
『はい。してほしいです』
その唇に、触れたい。そう思った時だった。
**
「劉亮!起きてください。朝ですッ」
「――――― ッ!!」
衛玉が寝台の傍に肘をつき、劉亮を見下ろしている。
「なんの夢見てたんですか?にやにやしてましたけど」
「なんでもない。それより、夢食いは見つかったのか」
「私も今起きたところですよ。朝ごはん、用意してくれたみたいです。食べに行きましょう」
「わかった。顔を洗って行く」
「はーい。待ってますよ」
衛玉が扉を閉めてすぐ、水場へ向かおうと立ち上がる。
劉亮は己の鼻に違和感を感じた。鼻をつまむようにグっと親指と人差し指で鼻を挟む。指を放した瞬間、ポトリと床に赤い液体が落ちる。
鼻血だ。
「な‥‥ッ」
女性の夢でなく、男である衛玉の夢を見て鼻血をだしてしまった。自分はおかしくなってしまったのではないかと混乱する。まずは鼻血を止めねばならない。上を向き、寝台に座った。己でもわからない感情が働いているのは認めなければならない。
なぜあんな夢を見たのか納得するような理由を適当に見つけ、劉亮は呼吸を整え鼻血を止める事に集中したのだった。
朝食を済ませ、再び夢食いを探す。あと探していないのは食糧庫だ。劉亮が米俵を一つずつどかせ、入念に探す。
「さすがにそこにはないでしょう。米俵何個目ですか?」
50以上もの米俵を持ち上げては別のところに置いている。誰も触らなそうな所を見るべきだという劉亮の提案があった。非力な衛玉は乗り気でなかった。
重い物を持つのが大嫌いだったからだ。
「あった」
「え?!」
劉亮の手元には昨日見つけた木箱と同じものがある。赤い紐で封印されていた。
「そこまでして元奥さんの夢を見たかったんですね‥‥いっそ、本物の奥様を探しに行ってよりを戻してもらえるよう努力すればいいのに」
衛玉は受けとり、木箱の周りにだけ結界を張った。
「解!」
人差し指と中指を合わせ、衛玉が術を唱える。すると結界内で、黒い靄と小さな人型の魔物が現れた。
「はぁ~、せまかった。お二人さんですか?ボクを助けてくれたのは」
「助けたのはアッチ。髪を一束に結っている人です。貴方が夢食いですね」
「うん。ボクが夢食いだ。あのおじさん、サイアクだよ!ボクをこんなところに閉じ込めてさ!それに、ボクに毎度夢で生気を吸われると死んじゃうよって怒っても、解放してくれないんだ。タスケテって念を送ってよかったよ。お兄さんありがとう」
魔物は劉亮に向かって頭を下げる。
「いや…」
魔物に礼を言われるのは初めてだった。なんと返したらいいものかと劉亮は言葉に詰まる。
「お礼にいい夢を見させてあげるよ。昨日の夢の続き、見たいでしょう?好きな人と口づけする寸前で終わっちゃったもんね」
「なにを…」
劉亮は一歩引いた。まさか己の夢が他者に筒抜けになっているとは思わなかったのだ。
「ボクの黒いもやを吸い込んだ人の夢と、その時感じて高まった生気は全て僕の養分になるんだ。だから、お兄さんが見た夢も全部知ってるんだよ。大丈夫。男の人はみんなスケベな夢を見るもんだから。あ、でもお兄さんの夢はぜんぜんスケベな範疇ではなかったかな」
衛玉は目を見開く。
「貴方、好きな人がいたんですか‥‥」
「うるさい。魔物のでまかせだ。好きな奴なんていない」
「顔が少し赤くなってます」
「口を閉じろ」
「いーえ閉じません。それになんですって?口づけ?」
二人の男が言い合いをしている間に、夢食いは両手を上げて結界を解いてしまった。衛玉が集中を劉亮に向けてしまったからだ。
「あ。」
「じゃあね!また逢えたらいいな。さよなら!」
魔物は黒いもやに乗って貯蔵庫から空へと飛んで行ってしまった。
「どうする。捕まえるか」
「まぁいいでしょう。あれは悪い魔物ではりません。人間の生気を吸いますが、その分いい夢を見させてくれるんです。それより…」
また夢の話をぶり返されるのはごめんだと思った劉亮は貯蔵庫を出る。
「発火事件が起こった場所へ向かうぞ」
「さっきの夢の件はまだ片付いてません!」
「俺が誰とどういう夢を見ようと、お前には関係ないだろう!」
恥ずかしさが頂点に達した劉亮はつい、強く衛玉に当たってしまった。衛玉は口を引き結び、眉を下げて下を向く。
「確かに…その通りです」
****
父親が正気を取り戻し、おいおいと息子の胸で泣いているのを見届け二人は当初の目的だった村へ向かう。
向かった先は思っていたよりも繁盛している地域だった。見たこともない食べ物がいくつか売られている。
「ここで二手に分かれよう」
「それぞれで人体発火について聞き込みを行うというわけですね・・。了解です…」
明らかに衛玉の覇気がない。
強めに言った自覚があった劉亮だが、そこまで気を落とすほどきつく言ったつもりはない。解決するには衛玉の力が必要だ。ここはひとつ彼の機嫌でもとっておくべきかと劉亮は考える。
「聞き出しの前に、何か食べるか?」
ピクリと衛玉の耳が動く。
「はい。食べたいです」
顔を上げた衛玉の顔に、劉亮はドキリとした。夢で見た、口づけをせがんだ男がよぎったのだ。
(私は馬鹿か。相手は男だぞ)
劉亮は首を一つふり、今しがた感じた気持ちを忘れようと努める。
「劉亮、あそこ、あそこが良いです。しゃぶしゃぶですって。なんでしょうね?豚って看板に書いてありますし、たぶんハズレではないでしょう。ね、行きましょう」
入るとすぐに従業員が両手をスリスリと合わせ、「いらっしゃい!二名様ですかね?」と聞いてきた。
「はい。しゃぶしゃぶって初めてで、勝手がわからないんです。教えてもらえますか?」
ええ、ええ、もちろん!と男の従業員は世話焼きなのか箸の使い方まで二人に伝え始めたところで話を区切る。
「えっと、ありがとうございます。もうよくわかりましたから」
「ああそうですか。そうですか。ではあたしゃこれで失礼しますよ」
「ちょっと待ってください。今追いかけてる事件があって、少しお話を伺ってもいいですか?」
「ええ、ええ。いいですよ。今は混む時間でもありませんからね。なんでしょう」
この村で連続で起こっている人体の自然発火について、何か知らないかを衛玉は尋ねた。
「ああ…その件ね。よく聞かれるんですよ。行商を営んでる人にね。その手の話はもうあたしの十八番と言っても過言でもありません」
さっそく当たりを引けたかと衛玉は目を輝かせる。
「なんでもいいんです。知ってることを教えて頂けますか?」
「いいでしょう!」
従業員の男は両手を広げ、なんとも嘘っぽい話を繰り広げた。聞いていて楽しいが、作り話なのが丸わかりだ。冒頭から、なんとも嘘くさかった。仏様がなんやらと話しはじめた時点で衛玉は残念そうな顔をした。従業員は意気揚々と話した。「仏様からお告げありましてね。『今日は人が燃える事件が起こるから、気を付けなさい』と宣告されたんです。夢でね。その日は仕事が休みで、愛想の良い魔物と出会い一緒に握り飯を作ったんです。鮎を釣りに行ったり、笛を一緒に吹いたり…楽しかったんですよ」とにかく発火事件と関係の無い事ばかりをベラベラと喋り続ける。
「あの~・・・発火事件については?」
「おっとそうでしたそうでした。そのね、実はここだけの話なんですがね…」
突然声の大きさを落として話し出す。今度こそ実のある話でありますようにと劉亮と衛玉は願う。
「その愛想の良い魔物と別れたあと、あたし見たんです。その日いちにち中一緒に遊んだ魔物が、空飛ぶ人間に襲われていたんです!その人間は不思議な札を私の友に張り付けて、川へ落っことしたんです。なんて酷いんでしょう!あたしは助けようと走りました!でも、川の流れが早くて‥‥今も時間があれば探していますが、ずっと見つかっていないんです」
ずび、と従業員が鼻をすすった。本当の話のようだ。
劉亮と衛玉は目を見合わせる。
「どうか、土左衛門になって、川からあの魔物の死体が出てこないよう祈るばかりです…あたしにゃそれしかできませんからね‥‥その数日後です。魔物を襲った、空飛ぶ人間が火だるまになったのは。その場で背が高いお面をかぶった男の人と、女の子が戦いを始めたんです。店の前でおっぱじめましたからね。現場にいたんですあたし。摩訶不思議でしたよ。女の子も、お面をかぶった人も、どちらも空を飛ぶんですから」
空飛ぶ人間---つまり霊力を扱い、刀で空を飛べる人間の事だと二人はすぐに把握する。火だるまになったのは劉漢で、面をした者と対峙したのは瀏玲で間違いない。
「その、友達になった魔物の名はなんというんです?」
「名前なんか、お互い名乗ってません。あんた、お前、で呼び合ってましたから」
劉亮が口を挟む。
「男か女かだけでも教えてくれ」
「男でしたよ。年も背格好はあたしと一緒ぐらい。なんだか顔も私に似ていたような‥‥?あ!あたしはれっきとした人間ですからね!」
「わかってますよ、疑う余地なくあなたは人間です」
妖気がまったく感じられない。彼が人間である事は一目でわかる。
「ほかに、人体発火について知っている情報は無いか?」
「いえ、これで終わりです。すみませんね、こんな話しかできなくて」
「十分です。ありがとうございました」
従業員が肉と野菜が入った鍋を取りに一度厨房へ戻る。
「初回から、幸先良いですね」
「ああ。だが、一人の話を全て真に受けるのは良くない」
「わかってます。あとで二手に分かれて事情聴取はちゃんとしましょう」
従業員が持ってきた品を見て、ぐうぅと衛玉の腹が鳴る。たっぷりの昆布ダシに、彩り豊かな野菜が詰まってる。そして、隙間に一枚ずつ従業員が目の前で一枚ずつ隙間に肉を投入していく。
「わぁ!なんて美味しそうなんでしょう。大当たりですね!劉亮」
「ああ」
すぐ隣の個室から、女性客の声が聞こえた。
「ネェあなた知ってる?三堂のお山にある、光る木のお話」
「ええそれはもちろん。その木の下で気持ちが通じ合うと、生涯を添い遂げる事ができるんだとか?」
「そうそう」
「私には許嫁がいるんですけどね、どうにもお相手は親同士の決めた結婚に納得がいってないようで…私は絶対にその人の奥さんになりたいの。おもいきって、彼を連れてあの光を放つ木の下で好きだと言ってしまおうかしら」
「いいわね。でもあそこは三堂様のお山だから、許可を頂かないと」
「そうだったわね‥たしか、うん千という大金を払わないとお山には入れないのでしょう?」
「そうなのよ。残念な話よね。百くらいなら用意できるけど、千はちょっとね」
「空でも飛べたらねぇ」
衛玉は聞き耳を立てて隣の女性陣の話を頭に入れた。
(三堂の山…ですか)
「衛玉、肉がちょうどいい加減だ」
聞き取りの際に、三堂の山の噂についても聞きこもうと決め、意識を鍋に移した。
衛玉は笑顔を崩さないようにと努力した。せっかく美味しいものを口にしているのだ。空気を悪くさせたくはなかった。しかしどれだけ気を紛らわそうとしても、劉亮の好きな人について考えてしまう。
いつかは劉亮だって、嫁を貰い、お家の義務を果たすのだろうと衛玉は覚悟をしていた。しかし、劉亮が誰かを好きになるというのはどうしても嫌だと感じたのだ。
きっと劉亮の事だ。徳川家康からもらったおなごを自分の嫁として受け入れなければならない立場を考え、きっと好きな相手が出来たとしても一生気持ちを伝えないだろう。だが、劉亮は伝える事のできなかった気持ちを胸に抱いたままずっと相手を密かに想い続けるのかと思うと胃がキリキリと痛む。
(忘れ薬はあと、ひと粒)
衛玉は決心した。もし今夜、月が出ていたなら――――――――――。
***
二手に分かれての聞きこみを続けていた。気づけばとっぷりと日が暮れている。酉の刻に宿で落ち合う約束だ。
宿へ戻ったがまだ劉亮はいない。ガラリと戸を開け、空を見上げる。
「綺麗ですね」
三日月が出ていた。美しい曲線を描き、まるで笑っている口元のようだ。
(大丈夫。言っても、どうせ忘れてしまうのだから)
本当は、死の直前に言うつもりだった。しかし劉亮に好きな相手がいると知り、いてもたってもいられなくなった。せめて、劉亮が初めて告白を受ける相手は自分でありたかった。叶わない恋だとわかっていたとしても。
女の体でない事をうらめしく感じた。結婚をする事が出来なくても、劉亮に恋愛対象として意識してもらえる可能性もあったからだ。
フウ、と意気消沈して空を見続けていた。ふと隣に気配を感じる。
「月を見ているのか」
「はい。三日月を。はっきり見えて、綺麗ですよ」
「どれ」
劉亮も戸から空を見上げる。精悍な整った顔の劉亮と、美しく発光する月が同時に目の中に飛びこんだ。なんて贅沢な絵なのだろうと衛玉はホウと見惚れる。
確かに綺麗だと言って劉亮は戸から離れる。
「聞き出しの成果はどうだった?」
「なんとも言い難いですね。やはり今日一緒に聞いたあの従業員の話が一番有力です。ただ、このあたりで魔物と劉玲が戦ったのは本当のようだという事はわかりました」
「そうか。俺は新しい情報を仕入れたぞ」
「なんです?」
「突然少女と面をかぶった人間が空を舞って戦い始めた際、近くに二本足で立つトカゲがいたそうだ。身長は人間の膝丈くらいだったらしく、人語を話していたと」
「へぇ。人型でない魔物が人語をね…」
「なんだ。驚かないのか?」
「ほかに一人・・・いえ、一匹、人語を話す猫が身近にいたので」
「次の情報はお前もきっと驚くだろう。そのトカゲ、火を噴いて相手…劉玲を攻撃していたらしい」
「なんですって?火を?馬鹿な」
火を噴く魔物など見たことも聞いた事もない。予想通りの反応に劉亮は胸を張る。
「これは自然発火ではないのかもしれないですね」
「ああ。トカゲは人型の魔物と行動を共にしているそうだ」
その人型は空を飛び、北西の方へ飛んで行ったという情報までが、劉亮が今日仕入れた情報の全てだった。
「北西…京の都の方角ですね」
劉亮は頷く。
「と、待ってくださいよ。まさか今すぐ京へ向かうなんて言わないですよね?」
「そのまさかだ。空を飛べばすぐに着く。人命がかかっているんだ。また誰かが襲われ死んでしまうかもしれない。京までの道のりは村もなく、人も少ない」
人通りが少ない道だから空を飛んで行けるぞと言われても、衛玉は行く気にはなれなかった。もう夜なのだ。ご飯を食べて就寝してもいい頃合いである。
「だめ!ぜったいだめです!」
「なぜだ」
「あのですね。魔物っていうのは夜の方が強いんです。しかも今日は綺麗な三日月。月が出る夜はより魔物の力を増幅させるって、劉門派で習いましたでしょう?!」
「そうだが………」
「私は反対です!」
それに、今日は劉亮を連れて行きたい山がある。ぜったいに阻止すべく、衛玉は両手を組んでそっぽを向いて反対の意思を示した。
「‥‥わかった。お前の意見を通そう」
衛玉はやったと心の内で喜んだ。
「ところで劉亮。三堂の山の噂を耳にしたことは?」
ああ、と思い出したように劉亮が返事をする。もう休む気なのか、寝台に座り、靴を脱ぎ始めている。
「年中光る木があるという山か」
「そうですそうです。一度見に行きませんか?手掛かりになる可能性は低いですが、不思議な力が働いているのかも。ね、行きましょう?」
あまり乗り気ではない劉亮を無理やり引っ張り出し、二人は刀に乗って山の頂上へ向かった。
「やはりお山のてっぺんは少し・・・息苦しいですね」
「修行が足りないぞ」
「劉亮門派のお山から離れて何年も経つんです!修行は十分にしてきましたよ。あ!あれですね」
真っ暗な闇夜の中で、際立って目立つ一本の木があった。見事な桜の木だ。
その桜が放つ木のおかげであたりが明るい。不思議な現象に、劉亮は感嘆の声を上げた。
「すごいな。どうなっているんだ?少し霊力を感じるが」
「ふむ…誰かが術をかけてますね………かけたのは相当の術師でしょう。こんな難しい陣、よく思いつきましたね」
木の周辺に、術式が円を描くように書かれていた。
「美しいが、それだけだな。宿へ戻るぞ。腹が減っただろう」
急に、衛玉は緊張してきた。ぐ、と息を飲み込む。
緊張をなくすべく何度かスーハーと息を整えた。
「り、劉亮!あの‥‥こちらへ来てください」
腕を引かれるまま、劉亮は歩く。
木の下から見上げる暗闇の中の桜は格段に美しかった。
「劉亮、ごめんなさい」
両手をぎゅっと握られ、劉亮の胸がドクンと跳ねる。
「何がだ?なにかしでかしたのか?」
「まだ、してません。今から、します…というか、‥‥言います」
劉亮を見上げるのその面持ちは真剣だった。衛玉の頬は高揚し、目が少しうるんでいる。
ふいに、この山の噂が頭をよぎる。月明かりの夜、三堂の光を放つ木の下で結ばれた二人は生涯を共に添い遂げ、幸せになれるという噂だ。
濡れた大きな瞳が伺うように劉亮を見ていた。突然、衛玉の容貌が完璧なほど整っているのだったと、思い出したように劉亮は息を飲む。
「聞いたら…忘れてほしい」
「忘れてほしいなら、なぜ言うんだ…?」
「あなたに告白する人は、私が一番でありたかった。それだけです。叶う恋だとは………最初から思っていません」
劉亮は鼓動の音が大きく感じた。ドクドクと耳に響くほど。
ふっくらとした血色の良い唇に目がいく。その口元がゆっくりと開かれた。
「―――好きです、劉亮。貴方の事を、愛しています」
とす、と劉亮の胸に衛玉が飛び込んできた。
「どうしても、言いたくて。‥‥おや?劉亮、心臓の音が…やっぱり男の私でも、告白されると鼓動がこうなるものなんですね」
劉亮は何も言えず、ただ衛玉の肩をつかんで停止していた。
「!」
劉亮は己の体に自由がきかなくなった事に気づく。この感覚には覚えがある。
また、「止」と書かれた呪符を体に張られたのだ!
同じ失態を繰り返してしまった事に情けなさを感じた。しかし、なぜか、衛玉にこうして抱き着かれても、嫌な気はしない。むしろ‥‥
「劉亮。ごめんなさい。あなたと口づけを…してみたいです」
「‥‥ッ」
衛玉が背伸びをして劉亮の唇に触れようと顔を近づける。体が動かないのだ。声を発する事もできない。劉亮はぎゅ、と目を瞑った。
「‥‥?」
数秒待つも、何も起きない。ちらりと目を開けると、泣きそうな顔をした衛玉が見えた。
「やっぱり、やめておきます。初めての口づけが私だなんて、貴方が可哀想だ」
何も可哀想な事など無い、とその時劉亮は思った。
「つきあって頂いてありがとうございます。ハイ、またこれ飲んでください」
グ、と口の中に一粒入れられる。
「前と同じ忘れ薬です。私が告白をした事なんて、すっかり忘れられます。飲み込んで」
鼻をつままれ、以前と同じように竹に入った水を口に入れこまれ無理やり薬を流そうとする。今回も舌は動いた。劉亮は舌の裏に薬をしまいこみ、飲み込んだふりをする。
「‥‥じゃあ、おやすみなさい」
トン、と額を小突かれると急激な眠気が劉亮に襲った。
ぜったいに、忘れ薬だけは飲みたくなかった。怪しい薬を飲まされるのが嫌だという感情からではない。衛玉が見せた心の内を、ぜったいに忘れたくなかったのだ。
意識が朦朧とする。眠たくて仕方がない。
衛玉にバレないよう、劉亮は倒れる間際、地面に向かってペッと薬を吐き出したのだった。
****
霧が濃い。地面はツルツルとした石のようなものでできている。中央には柔らかな布団があった。
『ここは…』
『夢だよ、劉のお兄さん』
『お前は‥‥夢食い!』
夢食いは柔らかい髪の毛をクルクルといじり、ふわりと宙を舞う。
『ふふ、そうだよ。お兄さん、まだ僕の力が取りついてるんだ。今夜はね、お兄さんに特別な夢を見させてあげようかなって思ってるんだ』
『特別な夢?』
『うん。そう。お兄さん、あの半分魔物の…えっと名前は…』
『衛玉の事か?』
『そうそう、衛さん。その衛さんと夢を繋いであげたよ』
『どういう…意味だ』
『そのままの意味さ。今夜会う人は、君の作った想像の人物じゃなく、本人ってことだよ!衛さんの生気は吸い取れないけどね‥‥他人と夢を繋げる力は結構体力使うんだ。だから今回だけ、特別!あ、来たみたいだよ。じゃあね。楽しんで!』
『おい!』
『…劉亮?』
そこに現れたのは、衛玉だった。
『ああ。これ、夢ですね』
やはり衛玉も修行をした身。夢かどうかの判断はすぐについたようだ。
『ふふ、夢でも劉亮の事を考えるなんて。よほど私は貴方の事が好きなようですね』
完全に相手は己の作った想像上の人物だと思い込んでいるようだ。
『えーっと…中央には一つの布団と二つの枕ですか。なるほど。今日、貴方との口づけを諦めたから、せめて夢でシたいと私は考えたわけだ』
坦々と己の夢の分析をしている。いたって冷静だ。
こちらは相手が本物だとわかっている分、かなり緊張しているというのにと、劉亮は息を吐く。
『劉亮、こちらへ』
手を握られた。すでに衛玉の気持ちは知っている。手を引かれ、すとんと布団の上に座り込む。
『劉亮、大きくなりましたよね。少し前までは、私より小さかったのに』
頬を撫でられる。触れられた部分がカッと熱くなっていくのを感じた。
『劉亮、もし嫌じゃなかったら、私を抱きしめてくださいませんか…?』
言う通りにした。嫌ではなかったからだ。
『夢の中の貴方はとても素直ですね』
スリ、と満足そうに衛玉は劉亮の胸にすり寄った。
『嬉しいです…』
ズッ、と鼻をすする音が聞こえた。見ると、衛玉の目元からツゥ、と涙がこぼれていた。
『どうした?どこか痛むのか』
『いえ、違います‥‥幸せで‥‥こうして、抱きしめてもらえるだけで、…』
『衛玉‥‥!』
劉亮は力強く衛玉を抱きしめた。今まで気づかないようにしていた感情があふれ出す。
衛玉のアゴに手をかけ、クイと上を向かせた。
『ンッ‥‥?!』
これは夢だ。後先の事など考えなくてもいい。そう思ったら、自然と衛玉に口づけを落としていた。
『ふ、ぁ‥‥‥ん、む‥‥‥劉亮‥‥、劉亮‥‥っ』
ちゅ、ちゅ、と唇を食んだり吸ったりする度、音が響く。
ある程度の作法は書物で得たが、どのように口づけをすればいいのか、はたまた手順などはこうすべきなど、全ての学んだ内容は無と化した。したいように衛玉をむさぼった。
食べるように、衛玉のふっくらとした唇に口づけ、吸い、舌を差し込む。
一つ一つの変化にビクビクと体を震わせている衛玉の様が可愛らしく、愛しいと感じた。
『あ?!』
劉亮はズボと衛玉の衣服の中に手を入れ、衛玉自身をつかむ。
口づけにより興奮したのか、衛玉のソレの先端から、粘り気のある液体が漏れ始めていた。
『り、劉亮!そこは‥‥!いくらなんでも‥‥アンン!駄目、駄目です…』
恥ずかしい、と衛玉は涙を流し始めた。力が入らない両手で劉亮の手をどかそうとするが、生半可な力では到底適わない。
『フンン‥‥フ、ン‥‥ウゥン‥‥っ』
もう手をどかす事はできないと諦めたのか、今度は劉亮の胸元をつかみ、顔をおしつけて快感による声を我慢しようと努力をし始めた。
ガクガクと内ももが震え、足先をに力が入る。
上下にこする度、衛玉から溢れた愛液が粘り気のある音を出した。
『劉亮…あ、ん…劉亮…!』
ビュク、と衛玉の先から白濁が放たれる。ぴくぴくとその間体を震わせ、眉を寄せて甘い息を吐いた。
『今度は、俺のを』
『は、い………ンッ』
劉亮は服をずらし、はちきれんばかりのソレを衛玉の手をひっぱり、触らせる。
『触っても…いいんですか?』
衛玉がおず‥‥と力の入りきらない手で劉亮のソレを包む。両手で優しく撫でてみた。すると劉亮が「くッ…」と息を飲む。
感じてくれているとわかり、衛玉は嬉しくなった。
それから、時間がくるまで二人は口づけし、お互いを思う存分に触り合ったのだった。
***
チチチ、とスズメの鳴く声がした。
起きたのは同時。
まだ寝ぼけてる二人は甘い空気を放っている。
「劉亮‥‥ん」
衛玉が両手を劉亮の首に回す。ついさきほどまで、一糸まとわぬ姿でぴったりとくっついていたのだ。恥ずかしさなど無かった。劉亮も同様だ。口づけをせがんでいるのがわかり、衛玉の腰を片手でつかんで顔を彼に寄せた。
コンコンと扉を叩く音がした。
「お客さん、早く朝食を食べに来てください。もうすぐ時間が過ぎますよ」
宿の従業員の声で、ハッと二人は覚醒する。
「あ…おはよう、ございます」
衛玉は両腕を下げ、ぎこちなく挨拶をする。至近距離だった。もう、今にも口づけができそうなほど。
劉亮は驚き、パッと衛玉から離れる。先ほど見ていたのは夢で、目の前にいるのは現実の衛玉だと理解した。
「なぜ、同じ寝台に?」
「あなた、倒れこんじゃったんですよ。突然眠気が襲ったみたいで」
「‥‥倒れこんだ?」
記憶を辿る。
(いや、違う。衛玉が俺に告白の件を忘れさせるために、忘れ薬を飲ませようとしたんだ)
額をトンと小突かれたときに睡眠関連の術をかけられ、倒れたのである。
飲み込まず、地面へ吐き出した。幸い暗かったこともあり衛玉には気づかれなかったようだ。
「あなたを運んでいるうちに、私も眠くなってしまって。自分の部屋に戻るのも億劫だったので、つい横になって一緒に寝ちゃったんです」
衛玉がむくりと起き上がる。胸元がはだけ、胸の中心にある桃色の突起に目がいく。サッと劉亮は顔をそむけ、ばくばくと鳴り出した心臓を抑える事に努める。
身を整えた時、衛玉は己の下半身を見てビシリと固まった。前を隠すように衛玉は扉へ向かう。
劉亮は察した。己も同じような状態なのだ。
「部屋で着替えてから食事に向かいます。この宿の朝食には時間制限があるようです。急ぎめで来てくださいね」
「ああ」
パタンと扉が閉まったと同時に、バッ!と己の下の状況を確認した。
思った通りシミが出来ている。下履きを脱ぐと、粘着質のある液体が音を立てた。
「はぁ」
この部屋には手洗い用の水が桶にたっぷりと常備されている。手持ちの布を濡らし、体を拭いていく。ふいに、夢の中の衛玉が思い出される。確かにあれは夢の中ではあったが、夢食いの話が本当ならばアレは衛玉本人だったという事になる。
一度治まったはずの下半身がムクムクと元気になりそうになり、劉亮は頭を振って冷静になれと念仏を唱え始めた。
一方、衛玉は先ほど見た夢の相手が本物の劉亮だったとは知らず、いい夢を見たと気分を良くしていた。下半身の気持ち悪さを除けば、最高の朝だった。
「あまり夢精はしないほうなんですけど‥‥」
性欲は10代の頃からほとんどなかった。人生で一度あったくらい。今日のこれが二度目だ。衛玉に用意された部屋にも手洗い用の桶が常備されている。布を絞り、己の放った液体を拭いた。
さっぱりとしてから一階におりると、従業員が声をかけにきた。
「やっと気なすった。もう一度呼ぼうとしてた所なんですよ」
「すみません。ここは朝食の時間帯は決まっているんですね」
「そうさね、辰の刻にはもう朝食の片付けをするって、昨日説明したでしょう。」
「はは、そうでしたね。ちょっと色々あったもので。すみません」
朝食は少し冷めたご飯にみそ汁、きゅうりと白菜の漬物があった。
「おじさん、これはもしかして、栗?」
「ちょっと忙しいから後にしてくれ」
愛想が悪い従業員だと衛玉は感じた。
(瓦版より客を優先したらどうなんですか)
もしも自分が宿屋の従業員なら、もっと愛想よくふるまうのにと思いながら黄色いものを口に含む。
「甘い‥‥!美味しい!これ、なんていう食べ物なんでしょう?」
「栗きんとんだな」
やってきた劉亮が席に座って従業員の代わりにこたえる。
「これが栗きんとん。書物では読んだことがありますよ、その料理名。クセになりそうなお味ですね」
食事を終え、ちょっと気になっていた瓦版を横目で眺める。まだ従業員隣で熱心に瓦版を読み続けていた。
衛玉は驚く。
「ちょ、ちょっと、おじさん、その瓦版貸してください!」
「いやこれは…」
「アンタ!お客は大切にしなさいよ!」
従業員の男は少し嫌そうな顔をしたが、厨房から女将らしき女性の厳しい意見が飛んできて渋々といった顔をして衛玉に瓦版を手渡した。
「劉亮、劉亮、見てください」
「二本足で立つ…トカゲだ」
目は幼い子供のようにクリクリとしていて、可愛らしく描かれている。
「もし実物がこの絵の通りだとしたら、私にこの魔物を殺す事はできませんよ、劉亮、あなたに託します」
「放棄するな」
話をしながら文字に目を通していく。
「この魔物を生きたまま捕まえれば報酬として米一年分、この男を捕らえれば米5年分に牛一頭を褒美として授ける‥‥。なるほど、お上はもう、誰が犯人か気づいていたという事ですか」
「男の顔が特徴的だ」
「和人ではないようですね。完全に、異国の血が入っている」
髪は緩やかで、目は大きい。二重でハッキリとしている。鋭利な耳から、普通の人間ではなく魔物であることが伺える。
頭には見た事の無い形状の布を乗せていた。
海には魔界に繋がる門がいくつもある。
薩摩もそうだった。薩摩は魔界とのつながりが深い地域なのか、魔界と現世を行き来するための門が開きやすい。気づき次第、劉亮ほどの修位の高い者が門を破壊する。今は修士者が住まう国となったが、以前までは魔界と繋がる門が薩摩に開き、魔物がひっきりなしに出現していた。そこへ他国からやってきた修士者が魔物を根絶やし、国を広げていったのである。
門は破壊しなければ、永遠に魔物が出入りしてしまう。海にも同じように魔界とつながる小さな門が自然と生まれる事があった。
海にのまれて死ぬ魔物が多いが、生き延びるものもいる。海には魔物がウヨウヨといるため、そう簡単に海を渡って他国へ来る事は難しい。しかしまれに和の国へ訪れる強者がいる。
海を渡れる魔物は、大抵強い。
「大変なお仕事になってきましたね。きっと強いですよ。戦って勝てるといいですけど」
「どんな敵であろうと、人間を襲う奴は私の敵だ。負けはしない」
朝食を済ませ、京の都に向かう事になった。劉亮の言う通り、人通りが少ない。刀に乗って飛んでも、途中で矢を射られる心配は無かった。
「劉亮は刀で空を飛んでいる時に矢を射られた事があるのですか?」
「一度だけある。お前は?」
「矢はないですね。鉄砲はありますが」
「…当たったのか」
「術で常に体を守っていますから」
劉亮がホッと息を吐くのがわかった。劉亮はいつも衛玉が怪我を作る事を嫌がる。
いつまでたっても変わらない劉亮に、衛玉はクスリと密かに笑った。
運悪く雨が降ってくる。雨風なら問題なく空を浮遊できるが、ゴロゴロと雷までなり出してしまった。
地上に降り、雑木林の中を乾坤袋から取り出した傘をさして歩いていく。
やはり歩くとなかなか遠く、いつのまにか夕方になっていた。ざわざわと木の葉がざわめく。
異様な空気を感じた。暗くなってゆく景色の中、四方からギラリと怪しく光る対の目玉が見えた。
「‥‥劉亮」
「ああ」
衛玉は胸元から呪符を出し、劉亮は刀を抜いた。
複数からの視線を感じ取る。いつでも応戦できるよう、互いの背中を合わせて臨戦態勢を取った。
「来ますよ」
「数が多い。気をつけろ」
バ!と草木の隙間から様子を伺っていた小鬼たちが劉亮と衛玉を襲った。それぞれ小刀を持っている。戦闘知能の高い小鬼だ。こうして鬼同士で集落を作り、人間を襲っては金品を巻き上げる、ずる賢い魔物が存在する。
「2.3‥‥40体はいますね。どうなってるんですか!」
衛玉が呪符を数枚空に投げ、術を唱える。すると、空から雷が小鬼をめがけてドオン!と音を鳴らして落ちてきた。
術を唱える度、一度に5体の小鬼が雷に打たれて丸焦げになる。
「衛玉!雷を使うな。俺を巻き込むつもりか!」
「仕方ないでしょう、こっちは二人!敵は40匹もいるんですから!」
劉亮は衛玉の戦い方に度肝を抜いた。
まさか天候を利用して戦うやり方があるとは知らなかった。
初めて見たその巧みな技は素直にすごいとは思ったが、いつその雷が自分に当たってしまうのかと恐々とする。
突如、ベンベンと勢いのある音がした。振り向いた先には男が楽器を持ってこちらに近づいてきていた。まんまるとした目を持つ、二本足のトカゲと共に。音の正体が琵琶だと気づいた瞬間、体が鉛のように重くなった。
これは聴覚に訴える類の術だと気づき、すぐに耳を塞ぐ。衛玉の動作に気づき、劉亮もすぐに耳を塞いでいた。人間には腕が二本しかない。攻撃が出来なくなった二人は刀に乗って空高く舞い上がる。
「琵琶の音が聞こえなくなるまで遠くへ逃げましょう!」
「わかった」
耳を塞いでいても、口の動きで多少は何を言っているかはわかる。劉亮は衛玉の後ろに続く。
「衛玉、逃げられそうもない。耳を塞ぐ術は知らないか」
結界が張られている。さらに上空へ上がる事は不可能のようだ。
今日かな結界だった。解けない事もないが、術式の解読に一日はかかりそうである。
「ありますが‥‥まったく耳が聞こえなくなりますよ。長ければは1時間は耳が聞こえなくなります」
「かまわない。自分にもそれはかけられるのか」
「かけられます」
呪符と何やら黒くて細い棒を乾坤袖から取り出す。
「その棒は?」
「万年筆」
「私が作りました。墨や血がなくとも文字が書けます」
「変わったものを作るな‥‥」
サラサラと本当に墨も無い所で書き始めた。衛玉がハ!とその呪符を劉亮に向けると、声がまったく聞こえなくなる。
「敵が来ましたよ。しかも、大物だ」
衛玉の口元を見て、何を言ったか劉亮は理解する。衛玉も己に耳が聞こえなくなる術をかけた。
この国ではあまり見た事の無い風貌の男だ。髪は金で、目は青い。
そして、耳が尖っている。人間の形をした、魔物だ。
「初めまして。こんにちは。そして………」
瞬間移動のような速さで接近される。
「いただきます」
衛玉の背後に回り、金髪の男は鋭利な歯を立てて首へ噛みつこうとした。
「衛玉!」
背後に回られた時に何か術でもかけられたのか、衛玉は何も言わずただ前を見つめ立っているだけだ。
劉亮は小刀を抜き、金髪の男にめがけて放つ。
劉亮の霊力がこもった短剣は敵の目に命中した。
「グワアァ!」
敵は目を押さえる。しかし敵は衛玉をあきらめず、衛玉の細い腰を放そうとはしなかった。強い力で衛玉をつかんだ拍子に、その長い爪が衛玉の腹に食い込んだ。
「ア・・・ぐ!」
痛みに衛玉はうめき、ハッとする。衛玉は自力で男から逃れ、袖から一枚の呪符を出して空へと投げた。結界を破るため、雷を結界の中心へと落とす。ドォン!ドォン!と体に響くほどの雷が結界に落ちた。
劉亮は素早く刀を相手の目から抜き、敵の腕を霊力をこめて叩き切る。敵は分断された己の腕をもう片方の手でつかんだ。そしてあまりの痛さに叫び、地へ落ちていった。
衛玉と劉亮は背中がゾワリとした。恐ろしいとう感覚だ。
地面から見たことも無いような大きさの炎の渦を口から吐き、飛んでくる魔物がいた。これを相手にすればこちらが死んでしまうと思った二人は立ち向かうという選択肢は取らなかった。よく見ればトカゲは涙している。
そのトカゲは金髪の男を両手で抱え、ゆっくりと地面へと降りていった。
結界が解け、衛玉は劉亮の背を引っ張る。
「逃げます!」
衛玉の口元を見て、まずはこの場を離れる事を理解する。
途中で襲われる可能性を見越し、二人は全力で薩摩の方面へと向かった。あのトカゲの攻撃力は底を知れない。
幸い敵は二人を追ってくる事は無かった。
修真者の国、薩摩へと刀を飛ばした。
「はぁ‥‥なんなんですか、あのトカゲは。勝てる気がしない相手を見たのは貴方以来です」
衛玉がゴロンと芝生に転がる。刀で飛ぶのは大量の力を使う。霊力を使い果たし、両手の力すら入らない。
「確かにあのトカゲは恐ろしいが、どうやら金髪の男を大事にしているようだ。あの男の目は深く突き刺している。恐らく数日は追ってこないだろう」
「そうですね」
「休養が必要だ。行くぞ」
「え?待ってください。休養が必要ならもっとココで…」
「あそこを見ろ」
休みたい、と続けようとしたら劉亮がある建物を指さした。旅館宿だ。
宿の周りには飲食店がずらりと軒を並べており、幾人もの客を提灯が照らしていた。
「温泉宿ですか。これは良い!」
「鋭気を養い、十分に休息をとる。そののちに、あの敵を倒そう」
庭の枯山水庭園に風情を感じる。三階建ての、ゆとりある宿だ。
「広いですね」
「ああ」
従業員に案内された部屋の中央にどかりと座り、劉亮は衛玉を呼んだ。
「なんですか?」
「腹を見せろ」
「そんなに大した事は無いですよ」
「いいから脱げ。薬をぬる」
脱げ、という言葉に一瞬ドキリとしたが、衛玉はあまり深く考えないようにした。そろそろと上半身を脱ぎ、腹部の状態を見せる。劉亮は眉を寄せた。引っかかれた程度ではない。えぐられている。もう少し強く爪を立てられていたらで内臓まで届いていた。
「‥‥深いな」
「大丈夫です。温泉で少し休めばこんな傷、すぐに塞がります」
止血の術を己で施し、衛玉は朗々と言った。
「この傷では風呂など無理だ」
「大丈夫です。術にお湯が染みないようにしますから」
***
脱衣所で衛玉は同時に気づいた。
この場所に来るまで歩きながら風呂をやめた方がいい、いやだ入りたい、やめた方がいいと言い合っていた。諦める気が無いとわかった劉亮は衛玉に「好きにしろ」と言って先に服を脱いで温泉へ浸かったのである。
「大丈夫…かな」
傷については術で湯があたらないようにした。安全に温泉に浸かる事が出来るのだが、問題はそこではない。好きな人の裸を目前に、己の下半身が反応してしまわないか心配だった。言い合っていた時は大丈夫だ大丈夫だと劉亮に主張してたいが、今ここで己が劉亮を好きだったことをふと思い出してしまったのだ。
だが、ここで引きたくはない。どうしても温泉に入りたい。
「離れてお湯に浸かればいいですよね‥‥」
扉を開くと、湯けむりがぶわりと前方の視界を奪う。空を見上げると満点の星と三日月が見えた。視線を前に戻す。温泉かと思われる囲みと、その両側に赤い提灯が複数見えた。
「劉亮、いますか?」
「ああ。いる。足元に気をつけろ」
少し安心した。この白い湯煙のおかげで、反応した己の下半身を見られずにすみそうだった。かけ湯をし、ゆっくりと湯に浸かる。
石膏のようなにおいが仄かに漂っている。良い温泉だと思った。じんわりとした温かみに包まれ、疲れが癒えていく。
突如、目の前の景色が開けた。風が吹き、モクモクとした煙が無くなってしまったのだ。他に人はおらず、劉亮と二人きり。彼は対角に座って石を背に両腕を広げてくつろいでいる。
衛玉はどうしてか恥ずかしくなった。パッと彼に背中を向け、下を向く。不自然な動きをしてしまったかもしれないと焦った衛玉は、まとまらない頭のまま口を開く。
「良いお湯ですね‥‥っ」
そうだなという声が返ってきた。己の下半身を確認する。まだ反応はしておらず、ホッと一安心した。
劉亮はジッと衛玉の白い肌を見つめた。
湯をはじき、肌はつるつるとなめらかだ。この肌を夢で思う存分に撫でていたことを思い出した。劉亮はバシャリと大きな音を立てる。
「劉亮………?どうしましたか………?」
「なんでもない」
何でもなくなかった。とんでもなかった。己は衛玉の背を見て、完全に勃起してしまったのだ。劉亮も衛玉と同じように方向を変え、背を向ける。
数分して、衛玉からザパリと音がした。
「もう、出ますね」
「ああ」
カラスの行水のごとく、衛玉は立ち上がり、脱衣所へ向かう。とてもゆったりとできなかった。時間がたつにつれ、確実に己のソレは天を向いて明らかな形を作っていったからだ。
(先に部屋に行って、抜いてしまおう‥‥ッ)
体をササと吹き、術で強い風を呼び起こして髪を乾かす。
浴衣に着替えた衛玉はフスマが隙間なくしっかり閉じられているのを確認し、そろりと下半身に手を伸ばす。
「ん………」
すぐに劉亮が来てしまうかもしれない。急いで出してしまわないといけなかった。衛玉は劉亮の先ほど見たたくましい体を思い出し、無我夢中でそこをこする。
先端から液が漏れ出し、くちゅくちゅと卑猥な音が鳴る。
「ふ、んん………!」
なるべく声は殺し、竿を刺激する。思っていたよりも早く達する事ができた。紙で垂れた白濁を拭き、ボウ…としながらやはりまた劉亮の事を思い出す。
「劉亮………」
やはり劉亮が愛しい。抱きしめてもらいたい。あと一度でいいから、劉亮と抱き合う夢が見たいと思ったのだった。
***
一方、衛玉の肌を見て反応してしまった我が息子を劉亮は睨んでいた。ここで抜いてしまってはいけない。そう理性が指示している。己の身はいつか娶る嫁のためにある。
だから、衛玉の事を考え抜く事は許されない。
なんとか深呼吸をし、意識を違う方向へ向けようとした。
数拍、無の状態でいられたがまた衛玉が頭をよぎる。透き通るあの肌を舐めてみたいと考えてしまい、ぶんぶんと頭をふる。
一度湯を出て頭を冷やす事にした。しかしいっこうに収まる気配は無い。
「‥‥」
劉亮は理性に負け、衛玉の裸を思い出しながら抜いてしまったのだった。
欲に負けてしまい、気が晴れないまま部屋へ戻る。
「劉亮、おかえりなさい」
湯上り姿の衛玉も、先ほどの裸と劣らないほどの魅力を放っていた。一歩後ずさりそうになったのをなんとか耐え「ああ」と返事をする。
「ゴマ豆腐がとても美味しそう。早く食べましょう」
従業員が並べた料理を前に、犬のように待てをしていたのだ。衛玉は早く早くと劉亮を急かす。笑顔で聞いてくる衛玉に、フと劉亮は笑う。
「食べよう」
山菜・きのこ・馬刺しに海鮮。
自然の幸をふんだんに使われたそれぞれの味に舌鼓を打つ。甘酒も用意されており、ついつい調子に乗った衛玉はソレを飲み干してしまった。
敵がまだ生きているかもしれない事や、火を噴くトカゲの事を話し終える前に衛玉は酔いつぶれたのである。
人体発火の件は十中八九あのトカゲと金髪の男の仕業だろうと予測していた。あとはあの火を吹くトカゲを倒し、金髪の男が死んだかどうかを確かめる事でこの事件は一件落着となる。
ぐで、と衛玉は畳の上に四肢を預け、ぐーぐーと寝こけている。
劉亮は衛玉の乾坤袖の中身を確かめる。変なものが入っていないかどうか確かめるためだ。ピラリと一枚の紙を見つける。そこには「忘れ薬の材料」と書かれた品々が記載されている。劉亮はげんなりとした顔をし、それを適当に乾坤袖に仕舞った。
「劉亮‥‥」
衛玉へ視線をやる。どうやら寝言のようだ。完全に衛玉を信用してはいけない。裏切るような事はしないと信じてはいるが、首にかけた術を解くために何かしてくる可能性があったからだ。
乾坤袖には怪しいものは入っていなかった。劉亮は納得したように服をたたむ。
従業員があらかじめ敷いてくれていた布団へと衛玉を移動させた。
スゥスゥと眠る彼の口元に目がいく。夢の中での彼の言葉を思い出す。
口づけをしたがった衛玉の濡れた瞳。「初めての口づけが私だなんて、貴方が可哀想だ」と言った時の、寂しそうな表情。そして、口づけたあと、涙を流して喜んだ時のあの笑顔。
気づけば衛玉の口元を指でなぞっていた。
「んむ」
「!」
ぱくりと指を食べられた。慌てて引っこ抜き、胸を押さえる。
「俺は何をしてるんだ」
いくらなんでも、夢で卑猥な光景を目にしたからと言って現実の衛玉にしていいわけがない。
その後数日の間は温泉で体を癒した。衛玉のえぐられた肉が完全に治った頃、同じ場所へ向かう事となる。
「もう腹の傷は痛まないか」
「ええ。おかげさまで」
「また同じ場所へ向かうが、背後に気をつけろ」
「わかってますよ」
あの時、休憩していた場所で小鬼が襲ってきたのはたまたまだろうが、それの襲撃に乗じて金髪の男が襲ってきたのも、強い結界が張られていたのも、偶然ではないはずだと踏んでいた。何かしらの情報を得て、劉家から討伐担当がやってきたのだと知った敵は気配を消して追ってきていたのだ。
刀で空を飛び、同じ場所へ向かう。
あの場所に、敵はまだいた。二人は警戒しながらゆっくりと近づく。
「劉亮はあの男をお願いします。私はトカゲを倒します」
「大丈夫なのか?」
トカゲの炎の威力は異常だ。一度火を放たれれな一貫の終わりである。
「魔物によく効く催眠粉を作っておきました」
「上等だ」
衛玉と劉亮は驚いた。敵はもう、死にかけている。
「はぁ。来ましたか‥‥でも、無意味でしたね。私はもう死ぬ」
片腕が無くなった金髪の男はゼェゼェと、顔色の悪い顔で木を背に座っていた。
その膝にはあの火を噴くトカゲが眠っている。
「静かにしてください。この子が起きてしまう」
もう片方の腕でトカゲの頭を撫でた。その目には涙が浮かんでいる。
「なぜ、泣いている?」
劉亮は防御となる結界を張り、相手に問う。見た通り、男の先は長くないようだ。そして、男の顔は慈愛に満ちている。攻撃してきそうな気配はなかった。
「おや、泣いている?‥‥ああ、本当だ」
自分の目をぬぐい、目元が濡れている事に気づく。
「私が死んだあと、この子は生きていられるかどうか心配なんです。賢いし、人語も話せます。うまく使ってくれれば仕事だってできるんです‥‥」
トカゲの頭を撫で続け、金髪の男は一滴の涙を流す。
「ああそうだ‥‥すみませんが、この子を雇っていただく事はできますか?」
今度は衛玉が前に出る。
「それなら、私の十八番です」
「そうですか‥‥それは安心です」
「聞かせてください。貴方は何者で、そして人体発火の事件は貴方の仕業ですか?」
金髪の男は「そうですよ」とニコリと笑った。劉亮は刀を抜こうとしたが、衛玉が静止する。
「なぜ人を火にあぶらせて死なせた!何人も!」
劉亮の強い口調にも敵はひるまず話し続けた。
「因果応報です。彼らも私の仲間を殺した。敵意も何も無かった魔物を。だから殺してやったまでです。貴方たち人間もそうでしょう。やったらやり返される。当然の事です。言い返せますか?」
劉亮は公平な人間だった。やったらやり返される。それは妥当な理由だと感じてしまった。劉家の規則には害もなく、罪のない命を悪戯に殺してはいけないという決まりがある。魔物だからという理由でむやみに殺してはいけないのだ。人間に害を与えない限りは。
「もう少し、役に立てる人生を歩きたかった……」
「どういう意味ですか?」
衛玉が尋ねる。結界を出て彼の元へ歩き始める衛玉の袖を劉亮はつかんだが、衛玉はそれを振りほどいた。
「そのままの‥・・・意味、ですよ‥・・・誰かの‥‥役に立つ‥‥のが、好き‥‥で‥‥たまに、人間のお手伝い…を‥‥してました」
「人間の手伝いを?」
声がだんだんと弱弱しくなる。
死が近い。
「ええ……」
「貴方は何者ですか?どこの国からやってきたのですか?」
衛玉は金髪の男の傍にしゃがみこむ。すぐそばにはトカゲがいるのだ。劉亮は急いで彼の傍に行き、火を噴かれた時のことを考え結界をかけ直す。
「私は…ヤーカム‥‥この国では、八雲(やくも)と呼ばれて‥‥ました。吸血鬼…で、人の血を少々…頂いて‥・・・生きて‥‥きました。そうだ、この子を起こさなくては‥‥」
劉亮と衛玉はバッと後ろへ下がる。劉亮がトカゲの首を切り落とそうとしたが、またもや衛玉が止めた。
「衛玉!あのトカゲは人を殺している!」
「劉亮、待ってください。私は、間違えたくないんです」
「間違える?どういう意味だ」
金髪の男が「あめ、あめ……起きなさい」と優しくトカゲを揺らす。
トカゲは「あめ」とう名のようだ。
「ん?なんだよ八雲、ボクはまだ眠いんだ‥‥」
「大事な…話が…あるんだよ」
声が弱っているのをトカゲはすぐに察知する。
「どうしたの?また具合悪くなった?また人に化けて薬をもらってくるよ。待ってて!」
「うん…ありがとう。でも、もうお薬は必要…無いんだよ」
「どうして?このまま休んでたら元気になるって、八雲言ってたのに、どうして悪くなっていくの?」
トカゲは衛玉達の存在に気づいていない。
「あいつのせいだ。あいつが八雲の腕を切ったせいだ!」
ガルル…と狼のように低い声を出す。
「あめ、約束…だ。人を殺してはいけない‥‥何があっても。もう、私は守って………やれないから」
「どうして?人間は俺たちの仲間を殺すんだ。なんでボクらはアイツらを殺しちゃいけないの?」
金髪の男はにっこりとほほ笑む。
「弱い者は、強い者に‥‥従わなければ‥‥いけない。後ろにいるのが、‥‥今から君の主人になる‥‥人だよ」
トカゲは振り向く。劉亮を見た途端、ガルルと低い声でうなり、目を吊り上げた。大きく息を吸い、腹を膨らませる。そして息を噴こうとしたが、手を添えられ不発となった。
「むぐむぐ!」
トカゲの口の中でボン!と何かがはじけるような音がする。そしてトカゲの口の中からモクモクと白い煙が上がった。
「痛―---!!火傷しちゃったじゃないか!八雲のバカ!」
「ふふ‥‥ごめんね、君がせっかちなのが…いけないんだよ‥‥。さあ、挨拶をするんだ。あちらの人が‥‥君の主だ‥‥」
「え?嫌だよ、ボク人間に支配されたくないよ!」
「‥・・・元気でね」
トカゲの頭を撫でていた手がダランと下がる。
「や…八雲?八雲?どうしたの?眠っちゃった?」
八雲の顔や首元を触る。どうして動かないのか理解できないようだ。
衛玉が劉亮に言った。
「もしかして、私たちは殺してはいけないものを…殺してしまったのではないでしょうか」
「人間に危害を加える魔物は全員、敵だ」
衛玉は傷ついた顔で劉亮を見上げる。
「それは、私も‥‥あなたの敵だといういう事になりますか?」
「お前は‥‥敵じゃない」
トカゲが死体にせまりつき、八雲、八雲と名前を呼んでいる。なんとも後味の悪いものが残った。
その後、死んだ事を衛玉がトカゲに説明してやった。するとワンワンとトカゲは泣き出し、嗚咽が止むまでに時間がかかった。
「あんたが…ひっく…ボクのご主人さま…?」
「そうですよ。八雲さんが言ってたでしょう?この花を食べて、この呪符に飛び込んでください。そうすれば契約は成立します」
「でもアンタ、あいつの仲間だろう?」
ギ、とトカゲが劉亮を睨んだ。劉亮は大好きな八雲を殺したカタキなのだ。
「いえ。違います」
衛玉の答えに、劉亮は眉を上げる。
「弱い者は強い者の言う事をきかなくちゃいけないって先ほど教わりましたよね。私もね、実は半分魔物なんです。でも、あの人の方が強いから言う事をきかなくちゃいけなくて」
「じゃあ、アンタの下についたら、ボクはあの男の言う事きかなくちゃいけないの?」
「それは違いますよ。君は私が守りますし、私の指示以外には従わなくていいんです」
ふ~ん、とトカゲは大きな目をクルリと回した。
「なら、食べる。この花、美味しい?」
「ええ。魔物からは大人気です」
衛玉はトカゲを呪符に封じ込め、使役する事に成功する。
「ふう。一件落着ですね」
「…この男は一体何だったんだ」
「それはおいおいトカゲに‥‥いえ、アメ君に聞きましょう。色々知ってるだろうし。あなたのいない所で聞いておきます」
「頼んだ」
「それで…お願いがあるんですけど」
「またか…なんだ」
「作りたい薬があるんです!ナツメグサと、ハッサクと、クズノハと‥‥」
それからそれからと続けて言おうとする衛玉の手を口で塞ぐ。
「却下」
「うーーー!」
「前々からずっと同じ材料を言っているが、一体何を…」
作るつもりなんだ?と聞こうとして劉亮は口を閉じた。それらは以前見た忘れ薬の材料と一致していた。衛玉はまた、劉亮に抱き着いたり、木の下で愛の告白でもしたいのかとそんな事を考える。すると、必死に薬の材料をねだる衛玉が可愛くして仕方なくなってしまった。
プハ!と衛玉は劉亮の大きな手から逃れてほかの提案をしてくる。
「なら、お金を稼ぐ許可をください!それならいいでしょう?」
「もう帰る。早く長老に報告しなければならない」
「そんなぁ!」
肩を落とし、衛玉は背中を丸めて空を飛ぶ。
今から牢屋に入るのだ。滅入る気持ちもわからなくもなかった。劉亮は口数がめっきり減った彼に話を振る。
「弟は元気か?」
「魁(かい)ですか‥‥たぶん元気にしていると思いますよ」
「思う?会ってないのか」
「会ってませんよ。もっぱら評判が悪いのは私だけなんです。会ったりして魁に火の粉が飛ぶのは避けたいですからね。あ、でも去年一度顔を合わせました。ほんの短い時間でしたが」
魁は動物から寿命を吸える、半分が人間、半分が魔物である衛玉の弟だ。人間から寿命をもらう必要はないため、のびのびと気楽に生きていられるのである。
「二重人格は治ったのか」
「いーえ。全然です。もう一生アレでも、別に困らないと思いますよ。むしろ二重人格があるからこそ、あの子は‥‥魁は無事に生きられるんです」
***
長老の前に再びひざまづく瞬間が来てしまった。衛玉は気乗りしないがしぶしぶ跪いた。右手で拳をつくり、左手でそれを包み込んで挨拶をする。
「お久しぶりです、瀏咎(リウ キュウ)長老」
瀏咎は劉の名を汚した衛玉を殺したがっている側ではあるが、礼儀には忠実だ。相手が誰であっても拱手礼をされれば自らも同じように挨拶を返す。
発火事件が解決した件を説明し、衛玉は檻の中へ戻る事となった。戻る時、瀏咎長老が孫に写し絵を渡してきた。お前の結婚相手だと言って。
***
「はぁ。外が恋しいです」
まだ鎖に繋がれたばかり。さっそく文句が始まったと劉亮はため息を吐く。
「約束は守ってくださいよ。毎日あなたとご飯が食べたいんですからね」
少し前まではただ寂しいからこのような事を言ってくるのだと思ってたが、今は衛玉の気持ちを知っている。こう言われる度、好きだと告白されているような気がして劉亮はむずがゆくなった。
「わかっている」
「できれば今夜は揚げ物がいいです」
「わかった」
劉亮が食事を取りに行ったあと、衛玉はボロリと涙をこぼした。劉亮が結婚してしまう。覚悟を決めていたはずなのに、全然覚悟なんて出来ていなかったのである。
「うぅ~~‥‥!」
相手が羨ましい。代わりたい。自分が劉亮の奥さんになりたい。‥‥劉亮の結婚など、見たくない。
衛玉はハラハラと短い時間、泣いた。そして、やっとここで気持ちを固める。
衛玉は「父さん!」と叫んだ。
「いるんでしょう?父さん、出てきてください!」
シタッ、と少し大きめの黒猫が現れた。この猫はどんな結界もなんなく通り抜けられる。死神と呼ばれる父に、この世の術は何一つ効かない。
だからと言って大きな力を持っているというわけでもなく、この牢にいる衛玉を救い出すという事は出来ないのだ。まれに人間の姿になり、酒を飲んでは息子を気にかける、どこにでもいる普通の父親である。感情が無いという点を除いて。
「どうした、玉」
「決めた。死に場所。ここにする」
「わかった。それだけか?」
「うん」
父親はミャーと鳴き、その姿は煙のようにゆらめき、消えた。
父である黒猫、銅(ドウ)は人間であった母親、小町(コマチ)に恋をし、6人の子供を設けた。生まれた子はそれぞれ特徴的ではあったが、全員元気に育った。20歳までは。
20歳が近づくとそれぞれ衰弱し死んでいった。どうすれば長生きできるのかと考えた小町は娘一人と息子二人を修真者にさせるため、劉門派に子を預けたのだった。
3人とも資質はあり、早い段階で結丹する事ができた。これで短くとも百年は生きられる。そう町子は安心していた。
しかし運命を変える事はできなかった。娘は20に死んだのだ。娘が死ぬ前に、寿命を採取する術を銅は編み出し、人間の姿となって娘に寿命の採取方法を教えた。
しかし娘は拒んだ。
『お父さんありがとう‥‥でも、人の寿命を削ってまで、生きたくないわ』と。
父親は感情を持っていなかった。人間の寿命を無理やり与えて生きる道を強要する事は無かった。娘の希望通り、20歳まで生きる姿を見守る事しかできなかったのである。
息子は違った。二人は生きたいと願った。一人は人間からしか寿命を採取できず、もう一人は人間からも、動物からも寿命を採取する事ができた。強く、たくましい息子は20歳を過ぎても元気にしていた。
安心した父母は息子二人を完全に手放し、全国を夫婦‥‥人間と黒猫一匹で行脚している。
父親は息子が呼ぶと必ず来れる特殊な能力を持っていた。衛玉が呼ばずとも来ている日もある。あらかじめ衛玉が伝えたのは、母親に気持ちの準備をしてもらうためだ。
衛玉を産んだ母親も、さっぱりとした性格をしている。自分の人生なのだから、死ぬのか生きるのかは己で決めなさいと言うのである。他人の寿命を採取してまで生きたくないなら、無理に頑張らなくてもいいとも。
「………めいっぱい、劉亮に甘えてやります」
ぽつりと衛玉は呟いた。
劉亮には言っていなかったが、術を使うと衛玉の寿命は縮む。そのため取り上げられた寿命嚢の中にはもう何も入っていない。
もってあと一ヶ月カの命だ。
そして、劉亮の婚儀もあと二ヶ月。
ちょうどいいと衛玉は感じた。劉亮の婚儀を見ずに死ぬ事ができる。
劉亮は家に忠実で、きっとあと一か月で寿命が尽きると伝えても、この檻から出してもらう事はできない。伝えたら伝えたで、気まずい一ヶ月となる。それなら、劉亮にはあと一ヶ月で死ぬことは伝えず、楽しい時間を過ごそうと考えた。
***
発火事件が解決したあとも、劉亮の日常は忙しかった。魔物は絶えず現れる。報告がある度に奔走していた。
それでも劉亮は疲れを一切見せず、それどころか以前よりも精力的に仕事に励んでいる。それは全て、衛玉による効果であるという事は、誰一人知らない。本人である劉亮にでさえも。
「劉亮!お帰りなさい」
食事を持って檻の中へ入ってきた劉亮を衛玉は歓迎する。
「寒い寒い」と言うから、「俺の服に潜り込んでしまえば温かいぞ」と冗談半分で言った。すると、喜んで潜り込んできたのだ!
そして、劉亮が返ってくるたびこうして衣服に腕を滑らせ、くっついてくるようになったのである。劉亮自身、衛玉を可愛いと思い始めていた。悪い気はしないという理由から、好きなようにさせている。
「今日のお食事はなんでしょう?わ!肉うどんですか?やった!」
冬が本格的に始まる。温かいものを食べ、この寒い場所でも元気に過ごせるよう精のつくものを劉亮は選ぶようにしている。
何度か長老である祖父に衛玉の過去の業績を鑑みて、結界を張った普通の部屋に移してやる事はできないかと嘆願していた。しかし毎度却下されている。
諦めず、いつかは衛玉のためにも暖かい部屋を用意してやるつもりだ。
「ふー、おなか一杯!」
衛玉は食べるのがとても早い。劉亮が半分しか食べていないというのに、もう二人分を平らげてしまった。
衛玉はニコニコと機嫌よく劉亮を待っている。食べ終わると、衛玉は湯に入りたいと必ずせがんでくる。
「わかった」
一苦労だが、衛玉を閉じ込めたのは自分だ。時間がある限り、衛玉の希望を通してやりたかった。
湯を張り、鎖が届く位置に樽を持ってきてやる。
しばらく一人にしてやり、また牢屋へ向かう。
「劉亮‥‥寒いです」
この牢屋は劉亮の張る特殊な結界以外の霊力を全て奪い去る。この牢屋を作った先祖がそうなるよう設計したのだ。
牢屋に暖を取る術を掛ける事ができない。そして劉門派で罪を犯した人間は命を取るかこの牢屋で生涯を終えるかどちらかの選択しか無い。
衛玉が寒さに震える姿は見ていたくなかった。劉亮は頷き、衛玉に用意してやった布団の中に一緒に入る。
衛玉の気持ちを知っている劉亮に、なぜこのように男と共にねる事を好む?などといった無粋な事は聞かない。劉亮自身も、衛玉と眠るのは好きになっていた。
「そういえば劉亮、なぜ私が女好きだと思っていたのですが?私、大の女好きというほどの趣味はありませんよ」
「お前の弟が、お前は相当の女好きだと話していた」
「それは‥‥弟の勘違いですね。あの子は色々抜けていますから‥‥‥」
騙されやすく、勘違いしやすい弟の性格を思い出し、フフと衛玉は笑った。
「あったかいですね」
「ああ」
かすかに照らされた月の光が衛玉の柔らかい表情を際立たせる。
話していたら、いつのまにか衛玉は眠ってしまっていた。
すると、「劉亮‥‥」と彼がつぶやいたのが聞こえた。寝ている衛玉は劉亮の名をよく呼ぶ。劉亮はフワリと笑った。
きっと、この先もこのように温かな気持ちで過ごせるだろうと、本気で劉亮は思っていた。
悲痛な未来が待っているとも知らずに‥・・・。
雪がごうごうと強くふぶいていた。
ケホケホと咳をする声で劉亮は目覚める。
「衛玉、どうした?」
「ん‥‥少し、風邪気味のようです‥‥ケホッ」
トントンと背中をさすってやり、衛玉の喉が通りやすくなるよう丹薬を飲ませる。すると、朝食を終えた頃にはもう咳は止まり、紫色に変色し、カサカサと水気の無くなっていた唇が元の赤い、ぷっくりとしたものに戻っていった。
「これでもう大丈夫だ」
「やはり劉家のお薬は効きます。怪我の無いように気を付けてくださいね?いってらっしゃい」
「ああ。行ってくる。一応、安静にしていろ」
「ふふ、面白い事を言う。ここで繋がれているのに、安静にする以外の事がありますか?」
「‥‥いつか、芝生で遊べる時間を設けられるぐらいには‥‥自由にしてやるつもりだ。長老に許可を求めている所で、まだいい答えが返ってこない」
「へえ!初めて聞きました。長老から許可が出ると良いですねぇ」
「まったくだ」
元気な衛玉を見たのはその日が最後だった。
***
孫が衛玉を牢から出し、医者に見せに行こうとしているのを聞きつけた瀏咎は急いで駆けつける。
「劉亮!何をしておる!」
「長老!お願いします。衛玉を医者へ!」
ここまで必死の形相の孫を見るのは初めてだった。
孫は両腕に死んだように眠る衛玉を抱え、結界の外へ出ようとしていた。
「何があった」
「衛玉が‥‥衛玉の霊脈が‥‥!」
瀏咎は衛玉の脈を計る。
「・・・・これは、もう助けるのは難しい」
脈が弱っている。体の中全ての生気が、息耐えようとしている。普通の医者が作った薬などを使っても、到底助からない。
「劉亮‥‥」
「衛玉!」
「劉亮と、‥‥ふたりで話したいです…戻りましょう‥‥?」
「わかった‥‥わかった‥‥戻ろう」
衛玉はいつも二人で寝ている牢屋に戻りたがった。しかしあそこは霊力を吸い取る。今の衛玉をあの場に寝かせるわけにはいかなかった。衛玉は一度風をひいた。その日は丹薬ですぐに治ったものかと思っていたが、劉亮が仕事から帰ると容体は悪化していた。目が見えなくなっていたのだ。寿命嚢を手渡しても、衛玉は元気にならなかった。
医者に見せたいと嘆願したが、外出の許可は下りなかった。
「衛玉、お前はまだ生きられる。まだ、20年分の寿命が残ってるんだろう?」
衛玉は「ごめんなさい」と言った。
「何がだ?」
「嘘をついてました。もう、寿命は‥‥残っていないんです」
手元の[山茶花を触り、衛玉はもう一度謝った。
「な‥‥ぜ、黙っていた」
劉亮の口元が震える。
衛玉ははにかみ、まったく違う事を口にする。もう長くないと感覚でわかった。
「あの、劉亮。私がなぜ、[山茶花をいつも手に持ってあなたを待っているのか、知っていますか?」
衛玉は[山茶花の押し花を欲しがった。作って渡してやると、大層喜び、それからずっと彼はその押し花を手に持っている。
「[山茶花はね、冬にとても強い花なんです。まるで、貴方みたいに‥‥」
土気色だった肌に、少しの朱が混じる。きっとこれは治る兆しだと思った劉亮は衛玉のその頬を撫でた。
「また冗談を‥‥俺に嘘を言って困らせたいんだろう。わかるぞ、寿命がもう無いなんて‥‥嘘だろう?」
「‥‥寿命がもう無いのは本当ですよ。だから死ぬ前に貴方に言いたい事があったんですけど‥‥あの、ずっと‥‥ずっとね‥‥‥あなたの事‥‥‥‥‥。あの‥‥」
死ぬなんて、絶対に嘘だと劉亮はこの時決めつけていた。信じたくなかった。きっと、衛玉お得意の嘘だろうと思っていたかった。
「なんだ?」
「‥・・・言えないものですね」
両手で[山茶花の押し花を握り、恥ずかしそうに劉亮の胸に顔を隠す。
告白をしようとしているのがわかった。可愛い衛玉に、劉亮の胸が動く。
己に許嫁がいようと、もう関係無いと思えた。その口から、好きと聞けるならなんでもしてやりたい。
「なんだ?」
衛玉の顔をこちらに向け、優しく問う。
「衛玉?」
目を閉じたままだ。見えなくなっても、美しいその目はいつも劉亮を写していた。
「こら、衛玉。俺をからかうな‥‥衛玉、目を開けろ」
指で衛玉の首元を触る。この世から衛玉が消える事を考えた事はある。あるが、それもほんの一瞬。つい最近まで、衛玉と共に生きられるこの幸せが、もっと長く続くと思っていた。
「衛玉‥‥、衛玉‥‥嘘だろう‥‥寿命が必要なら、俺のをやろう!目を覚ませ‥‥‥‥!」
返事をしない口元。動かない瞳。そして冷たくなっていく体。
何もかもが信じられない。愛しいという気持ちがこんなにも己の中にあった事に今更気づく。こんな事なら家訓など無視して衛玉を外に逃がしてやるべきだった!
「俺が‥殺したのか‥‥?」
そもそも、劉亮が躍起になって罪を重ねる衛玉を捕まえてやろうと考えたのが発端だった。衛玉を捕まえる事など、劉亮意外の修行者にできるわけがない。劉亮が、この牢屋に彼を閉じ込めた。
「う…ああ‥‥!アア‥‥!!」
衛玉の頬に額を当てる。後悔が募る。頭がおかしくなりそうだった。
***
冬が終わろうとしていた。
劉亮は結婚の延長を希望した。相手はまだ8歳。まだまだ子供だと理由から、劉亮の願いは聞き入れられた。
到底、今の気持ちで誰かを娶るという事などできそうも無かった。劉亮は進んで東北の国、北海道へ行くことを望んだ。そこには薩摩で修行した劉門派の精鋭たちが月替わりで守っている魔界と人間を繋ぐ大きな入口だった。
人間界を守る結界に切り口が入り、そこを修復し続けているのだ。あまりにも大き過ぎる切り口のため、なかなか塞がらない。
複数の修真者と入れ替わり立ち代わりで魔物の侵入を防いでいる。皆平等に家を与えられ、劉亮も単身用の家を用意されていた。ミャーと声がする。
家には一匹の白と黒が混じった猫がいた。口元には[山茶花を加えている。
目元が衛玉に似ていた。
「どこから入ってきた?」
劉亮は衛玉に似た猫を抱き上げ、椅子へ座る。
「なぜ花を加えてるんだ」
猫が加えていた[山茶花を手に持ち、眺めた。
この花を見ていると、彼の死を思い出す。鼻の奥が痛んだ。こみ上げるものを押さえるように、劉亮は深呼吸をする。手が震えた。ペロリと慰めるように猫が劉亮の指を舐める。
「お前が、衛玉だったらいいのに」
猫がミャーと鳴いた。
衛玉の死後、突然妙齢の男が現れた。本人が衛玉の父親だと名乗った時、衛玉と同じ声だと気づいた。書物で読んだ、死神と呼ばれている魔物に似ていると感じた。
不思議と怖さは全く感じず、ただ近づいてくる男を呆然と見上げていた。
衛玉を渡したくなかったのに、遺体はいつのまにか衛玉の父親の腕におさめられていた。男は何も言わず、死んだ衛玉と共にゆらゆらと煙のように消えたのである。
「衛玉‥‥」
衛玉の事を考えなかった日は無い。朝も、昼も、夜も、衛玉の声と笑顔を思い出す。
そして、好きだと言ってきたあの木の下での衛玉の顔も。
胸が痛くなる。衛玉は嘘つきなのだ。寿命がまだまだあると、ずっと嘘をついていた。
なぜあのような嘘を吐いていたのかずっと考えていた。いくつもの理由が出たが、どれも憶測だ。
ミャーミャーと鳴き続ける猫を撫で、腹が減ったのか?と劉亮が聞く。
ボン!と肌を叩くような強い風を感じた。思わず目を閉じる。ズシリと膝の上に重みを感じた。目を開けた瞬間、口がふさがらなくなった。
「劉亮、おなかがすきました!」
膝に、愛しい彼が笑顔で座っていたのだった。
****
「あのー。劉亮?」
「なんだ」
「もうそろそろ離して頂いても‥‥」
「断る」
衛玉が猫から人間に戻ってから、劉亮はずっと衛玉を抱きしめていた。
正直な気持ちを言えば嬉しいが一時間も同じ態勢でいるのはこたえる。
「こんな事していいんですか?浮気になりますよ」
からかう気持ちで言った。劉亮が自分を好きになるはずがないと衛玉は思っているからだ。きっと死んだはず師兄が生き返り、感極まって変な行動をしているだけだろうと。
劉亮は渋々衛玉から離れた。
「服を貸してください。布団も心地いいですが、そろそろ人間らしく振舞いたいです」
衛玉の申し出に劉亮は少し耳を赤くして服を差し出した。
この小一時間、抱きしめられながら衛玉は己の事を話していた。死んだあと、気づけば父親と母親の元で目が覚めていたと。しばらくは歩くのも一苦労で、元の体力に戻るのに時間がかかったのだ。
衛玉には複数の兄と姉がいた。皆20歳で死んだが、遺体を寝かせて観察していたら全員生き返ったという。そして今は皆猫となって生きていると、生き返った時に教えられた。なぜ教えてくれなかったのか問うたら、死んだあと生き返られるかどうかわからなかったし、姉以外は皆自我をなくして魔物としてどこかに去ってしまったからだという。そのような未来が待っていると知れば、嫌な気持ちになると思ったから父は言わなかったのだと白状した。
姉だけは、猫として生き、片思いだった人の飼い猫として今も穏やかに生きている。
そして衛玉ただ一人が、猫と人間の姿を交互に保てるようになったのだ。
「劉亮がそんなに喜んでくれると思いませんでした」
「それは‥‥」
当たり前だ。好きな人間が生き返ったのだから喜ばないわけはなかった。その言葉を劉亮は口を押さえて飲み込んだ。
好き、愛しい、大切だ。それらを言える立場では無い。徳川家は劉亮の妻を決めており、未だ婚姻を破棄する事ができないでた。
「ところで‥‥」
服を整え、衛玉がおずおずと聞いてきた。
「結婚、は‥‥もうされたんですか‥‥‥‥‥‥?」
悲しそうな、寂しそうな瞳だった。こんな衛玉を抱きしめない選択などできない。
強く劉亮の腕に納められ、衛玉は慌てる。
「どうしました?また、生き返った事に感極まっちゃいましたか?」
「―――しない」
「はい?」
「結婚など、するものか」
「‥‥‥‥‥‥‥はい?」
劉亮の結婚に、劉一族だけでなく薩摩やそのほか近隣国すべての平和が握られている。
彼の言葉に、衛玉は固まるしかなかった。
***
実家に戻ってきた劉亮の一言に長老一同開いた口が塞がらなかった。衛玉は密かに驚き方が劉亮と一緒だなと感想を持った。
続いて祖父の怒号が飛ぶ。
「何を言っておる!」
「結婚以外の道を決めましょう」
劉亮の提案に「何を今更」と長老が次々と口を並べていく。徳川家の選んだ娘と婚姻を結ぶことは何年も前に決まっている事で、そして娘も選ばれた。あとは祝言を祝うだけという段階である。
政治の頂点に立つ徳川家と、修真界の頂点に立つ劉家が強いつながりを保つ事で世の中は戦争もなくうまく働いていた。もしここで断るような事をすれば、何が起こるかわからないのだ。
「養子として迎え入れる。それだけでいいと思うのです。婚姻までする必要はあるのでしょうか?」
劉亮の発言に、祖父はワナワナと震えた。あまりの事に吐血し、気絶する。
「だ!誰か!担架を持って参れ!」
側近が家僕【炊事係】に申し付ける。
倒れた瞬間はさすがに心配したが、すぐに気を持ち直し、「この、親不孝者めがぁ…」と喋ったので劉亮はその場をすぐに離れた。
肩に乗っていた衛玉は腹を抱えて笑いたかった。猫となった衛玉の事には誰も気を留めなかった。大人しくしていろと劉亮にくぎを刺されていたので、忠実にそれを守った。
御殿から出てすぐ、猫と目が合う。一目で姉だと分かった。ニャ!と声を出し、挨拶をする。向うも気づいたようでナー!ナー!と喜んだ。
姉は飼い主の腕から逃げ、タッと地面へ降りる。衛玉も同じように地面へ降り立つ。
「衛玉?」
「メイ?どしたん?」
劉亮と、衛玉の姉の飼い主の目が合う。劉亮は彼の顔に覚えがあった。確か食堂で劉玲が発火事件の事を放した際、雅な言葉で空気を変えた男だ。名は確か―――。
「劉浄(りう じょう)です。お久しぶりです。若様」
「ああ。‥‥その猫は」
「私の奥さんですよ」
劉浄の答えに一番驚いたのは衛玉だ。衛玉は浄の顔を覚えていた。確か姉が片思いをしていた相手だ。両思いになったのかと、嬉しくなった。姉の耳を肉球で触り、良かったねと伝える。
「そうか‥‥少し急いでいるのでこれで」
「ええ。ではまた」
その後劉亮の部屋に初めて足を踏み入れる。劉亮の部屋の中をフンフンと猫の姿で嗅いでいく。存分に嗅いで満足したあと、寝台の枕あたりでボンと風を吹かせ、人間の姿になる。猫の姿のまま首元に乾坤袋をかけて持ち歩いていた。乾坤袋に手を差し込み、服を取り出す。
どんなに大きい者も収まってしまうこの袋は本当に重宝すると衛玉は思った。着替えつつ、せっせと荷造りをしている劉亮に問う。
「どこかへ旅立つのですか?」
「ああ」
「どこへ?」
「徳川家康公の元へ行く」
「‥‥何をしに?」
「縁談について話し合いに」
「それは…大仕事だ。どうして縁談を破棄しようとするんです?」
「好きな人がいる」
衛玉は固まった。少し涙ぐみ、そうですか‥‥と下を向く。また何か勘違いしていなと感じた劉亮は彼を引き寄せ、抱きしめた。するとみるみる衛玉の首元が朱に染まる。
「ななな、なんですか‥‥っ?」
「抱きしめてほしそうだったから」
「い、いつのつのまに‥‥そんな冗談を言うようになったんでしょうね!」
衛玉が死ぬ前、何度もこうやって寒いと文句を言う彼を抱きしめてやっていた。照れが全く無いわけではないが、それ以上に幸福感が強い。劉亮はしばらく衛玉を放さなかった。
旅に出る間、刀が無い衛玉は猫でいる事を選んだ。今まで集めた武器は全て衛玉が死んだものだと思い、衛玉の母親が売り払ってしまったというのだ。
風を受けながら、衛玉は劉亮の片手で悪くない心地にウトウトと眠りそうになっていた。
「衛玉、猫と人間の姿、どちらの方が‥‥今の本当のお前なんだ?」
「どちらも本当ですよ。ただ、やっぱり人間の姿の方がしっくりきますね」
「そうか‥‥あのトカゲはどうした」
「今は父と母と仲良く旅をしていますよ。人間に変化できるので、楽しそうにしてます」
江戸ははるかに遠く、京の都で一泊してから向かう予定である。
そしてこれから、ある人物と劉亮は話をしなければならない。その間、衛玉はどこかで時間を潰さなければならかった。
「衛玉、くれぐれも勝手に一人で消えないように」
「子どもにしつけるように言うのはやめてください。貴方、なんだか変わりましたね」
変りもする。なんといっても衛玉は今劉亮にとって、最も愛しい人間なのだ。過保護に扱うのも、仕方ないのである。
話し合いの相手は、劉亮の妻となる予定の椿姫の側近だ。
「もしかして、あなたの好きな人って‥‥‥」
「違う。初めて会う人物をどうやったら好きになるんだ」
衛玉は近くの茶屋の傍でしばし待つ事にした。タシタシ、と白黒の猫は地面に尻尾をぶつける。女性と二人きりで話すのだから、面白いとは思えない。なんだかムカムカして、ジっとしていられない気持ちになった。どこにも行くなと言われたが、散歩をしたい気分になったのだからしょうがない。
衛玉は川沿いに歩き、町や人を目で楽しむ事にした。
「助けて‥‥ガボッ」
橋の下で女の子が溺れている。人通りが多く、女の子の小さな声は人込みのざわざわとした音でかき消えてしまっている。衛玉は隠れて人間に変化し、乾坤袋に入っている布を適当に選んでひっかけるようにして着た。川の流れが突然速くなった。急がなければ女の子は海の向こうまで流されてしまう。
衛玉は迷わず川へ向かって飛び込んだ。ドボンと入ってすぐ悲劇が起こる。足がつってしまった。激痛に耐えながら、女の子を救い出す。岸へ這い上がるよう促し、自分も上がろうと足を上げた瞬間。
――――ガン!
太い丸太が衛玉の頭を直撃した。女の子はキャア!と悲鳴を上げる。咄嗟に彼女が衛玉の手を握った。目の前がチカチカと光る。クラリとしたその頭で、このまま気を失っては衛玉の手を握った女の子までまた川に落ちてしまうと危機を感じた。
なんとか気を確かに持ち、気合で陸に這い上がった。同時にバタンとそこで気を失う。
***
劉亮は走った。どこにも行くなと言ったのに、さっそくこの短い時間で彼を見失ってしまった。よくよく考えれば、逃げないわけがないのだ。衛玉が劉亮を好きなのはわかっていたが、一緒にいればまた牢屋に入れられてしまうと考えるのは当然の事だ。
「衛玉!衛玉!どこにいる!」
喉が切れそうなほど叫んだ。
「起きて、起きてよ!」
声の方へ視線をやると、そこには意識を失った様子の衛玉がいた。女の子に口づけをされている。いったいどういう状況なのかと頭が混乱した。とにかく走る。
「衛玉!」
「―--カハッ」
水を吐いた衛玉がゲホゲホとせき込みながら起き上がる。
「衛玉、どうした、何があった」
彼の背中を支え、劉亮が裸同然の衛玉の姿を己の服で隠すようにする。
「女の子は‥‥ああ、良かった」
「ぐすん、良かった、死んじゃうのかとおもったのよ。息が弱かったから、いっぱい口に空気を入れてあげてたんだから!」
グスグスと泣いている女の子の頭を衛玉が撫でた。
「そうでしたか。それはどうもありがとう。助かりました。‥・・・泣かないでください。女の子に泣かれると、どうしたらいいかわからなくなります」
劉亮は衛玉を抱いたまま、驚愕する。その女の子の顔は、写し絵で見た顔と瓜二つだったからだ。
「椿姫…ですか?」
「どうしてその名を?」
「俺の顔に見覚えありませんか」
椿姫はジッと劉亮の顔を見る。
「あ!写し絵の人!」
「そうです。こんなところで何故あなたが‥・・・衛玉??!」
意識がまたプツリと切れた衛玉はガクリとその場で体を投げだしたのだった。
***
左右対称の整った眉。
ぷくりと丸みのある唇。今は閉じられているが、大きくて丸い、優し気な瞳。
どれも椿姫の好みの造形だった。綺麗で美しい女性は何人も見てきたが、綺麗で美しいという言葉が似合う男に出会ったのは初めてだった。
側近が劉亮と会うという情報を椿姫は聞きつけた。城を抜け出し、側近のあとをついてきたのだ。そして苦手な犬と出くわし、途中で川に落ちた。行きかう人は椿姫に気づかず、助けを求めても誰も助けに来なかった。とても怖い思いをしていた最中、衛玉に助けられたのである。
城を出た時は、結婚を延長する失礼な旦那に一言文句を言ってやろうと思って意気揚々と側近たちの目を盗んで城を出た。
今はもう、劉亮の事などどうでも良かった。この長髪のよく似合う男を夫にするにはどうすればいいのだろうと、そればかり考えていた。
劉亮が薬を持って部屋へ入ってくる。
「椿姫、城へ戻らなければ。私がお送りましょう」
「結構ですわ。衛玉さまが起きるまで、ここにおります」
言葉遣いが先ほどと違い、姫らしい。幼くとも姫なのだなと感じさせる。
「しかし‥‥」
「わたくしが城を脱走するのはよくある事なのです。皆、さほど心配はしていないはずです。だいたい夕方にはいつも一人で帰っています。お気になさらずに」
気にならないわけがない。劉亮の妻に選ばれる女性なのだから相当の地位にある姫に違いないのだ。早く城に戻さなければならない。
「ン…ぅ…劉亮?」
「いるぞ、ここに」
衛玉の手を握り、存在を伝えてやる。すると安堵したような顔になり、また安らかな顔で眠りに落ちる。
ドンドンと強い足跡が聞こえる。やっと来たかと劉亮は肩の荷が下りた。
手紙を書き、術を使って鳥に似せて折った手紙を椿姫の側近に送っておいたのだ。頭に届けたい人の顔を思い浮かべ、飛ばせば何があっても必ず相手に届く。
幸い、今日初めて会ったので顔はしっかり覚えていたのである。
「姫様!」
しわがれた声に椿姫はビク!と肩を揺らす。ゆっくりと振り向くと、年老いてはいるが、足腰がしっかりとした元気そうな老婆がいた。
「ばぁや!」
「戻りますよ!どうしてこんなところに!」
「貴方を追ってきたのよ!老婆のくせに足が早いんだから!途中で見失って、大変な事になったのよっ」
「大変な事ですと?!どこかお怪我でもされたのですか!」
周囲の従者達がわらわらと姫を取り囲む。騒がしくなった部屋の中心で、衛玉がウーンと居心地悪そうに眉を寄せる。
「申し訳ないのですが、ここに眠っているのは先ほど姫を助け、怪我をした者だ。安静にさせてやりたい」
老婆は謝り、嫌がる椿姫を連れて部屋を出ていったのだった。
シンと静かになる。しばらくして衛玉が目を覚ました。
「気分はどうだ」
「頭がずきずきしますが、悪くは無いです」
「見つけた時、少女と口づけをしていたから驚いた」
「ひがまないでください。貴方より先に口づけを経験しちゃったからって‥‥んん!」
劉亮は衛玉の後頭部を押さえ、口づけを落とした。
ふるふると衛玉は口元を押さえ、顔を真っ赤にしていた。
「な、なぜ‥‥?」
「少し、むかっ腹が立った」
「そ、それは‥‥ごめんなさい」
なぜむかついたからと言って躊躇なく男に口づけができるのかと衛玉は混乱する。先に口づけを経験したという点がむかついたのか。しかし相手は少女で、女性と呼ぶにはまだまだ子供だ。そんな相手に口づけをされてもなんとも感じない。それ以前に衛玉は男性しか好きになれず、さらに言えば一番口づけたい相手は目の前の男なのだ。
変なところでむかっ腹を立てられても衛玉は困るだけである。
しかし貴重な口づけに、衛玉はフワフワと体が浮いてしまいそうなほど喜んだ。
(劉亮と‥‥劉亮と口づけをしてしまった‥‥!)
顔がニヤけないよう、衛玉はぷるぷるとして表情筋が動かないように努めたのであった。
***
劉亮は許せなかった。あの少女を。緊急で仕方なかったとはいえ、衛玉にとっては初めての口づけだったはずなのだ。夢ではしたが、現実世界の衛玉は誰とも口づけた事がなく、衛玉が死んで復活してからその初めての相手はきっと己になるだろうとどこかで思っていたのだ。
それが、己の将来の妻になるはずだった少女に奪われ、腹の底からムカムカとしていた。なんとも複雑な気分だ。
翌日、徳川家康公のいる京都の伏見城へと呼ばれた。家康公が江戸に滞在しているという情報は間違っていたのだ。
会ってみると、家康は結婚の話は無かった事にし、養子縁組のみの扱いにしたいと言ってきた。
椿姫が家康公に嘆願したらしい。劉家の養子になるが、結婚は好きな人としたいと。劉亮が己から願うつもりが、思わぬ形で幕を閉じた。
衛玉を連れて帰路へつこうと、猫の姿の衛玉に手の平に乗るよう促す。猫は首を振り、ナーと断る。
「なぜだ?」
衛玉は周りを確認し、誰もいないと判断するとボンと音を立てて人間の姿に変化する。慣れた様子で簡易な衣を体にひっかける。
「私は寿命を採取しなければいけない身です。ここで‥‥お別れしましょう」
衛玉は劉亮の反応を見る。また昔のように寿命を奪うような真似はやめろと鬼ごっこをするように追ってくるのか、はたまた牢屋に入れと言ってくるのか見極めたかったのだ。どちらにせよ衛玉には逃げる算段がある。ジッと劉亮を見つめた。
すると劉亮は予想外の言葉を言った。
「俺も、共に行く」
衛玉は目を丸くする。
「なんですって?」
「手伝うと言っているんだ。金があれば‥‥寿命と交換してくれる人間がいるのだろう。金なら、持っている」
寿命を採取する事に否定的などころか、手伝うと言ってきた。
「嘘でしょう、貴方本当に、劉亮ですか?それともどこかおかしくなった?」
「おかしくなったのかも‥‥しれないな」
劉亮は衛玉を竹林の奥へ連れ込む。川辺の近くあたりで衛玉を座らせた。水のせせらぎと、鳥の鳴く音、笹が風で揺れる音だけが二人を包む。
「衛玉、聞いてほしい」
衛玉の心臓は破裂しそうだった。何が起こっているのか理解できそうもない。劉亮は愛しそうに衛玉の頬を撫でもう片方の腕で劉亮の腰を抱いているのだ。そして覗き込むように話しかけてきている。
劉亮のとんでもない行動に、バクバクと鳴る心臓が口から飛び出そうだった。
「お前が好きだ」
とうとう心臓が爆発したんじゃないかと、衛玉は思った。体がはじけ飛びそうな衝撃だった。手の指先がぷるぷると震える。信じられない。生き返り、意識を取り戻した時はただただ劉亮に会いたいと思った。誰かのものになっていてもいい。二番目でもいい。ただの飼い猫としてでもいいから、劉亮の傍にいたかった。
「婚約を完全に破棄できるまで、言えなかった。すまない」
すまないと言う事は、衛玉の気持ちは筒抜けていたという事になる。
「いつから‥‥気づいて‥‥?」
「木の下で、お前が告白をしてきた時から」
カッ!と頬が熱くなる。聞いていたどころの話ではない。直接本人が相手に好きだと言っているのを、劉亮はなぜか覚えているのだ。衛玉は頭から煙が出そうなほど混乱した。
「ななな、なぜ記憶が?」
「忘れ薬は飲まなかった。舌の裏に隠し入れたり、お前の見えないところで吐いたりしていた」
穴があったら入りたいとはまさに今の状況だと思った。
どんな顔をすればいいかわからないと小さく呟き、衛玉は両手で顔を押さえる。
「普通でいればいい。さて、返事を聞かせてくれるだろうか」
「そんなの、返事をしなくてもわかりきってるじゃないですか‥‥‥‥」
「お前の口からききたい」
劉亮は何度も頭に浮かべた。木の下で、衛玉に「好きです」と言われたあの光景を。目の前で言ってくれるなら、これほど幸福な事はない。
劉亮が待っている。衛玉は言わなければと口を開いた。
劉亮の甘い声に、ドクドクとこれ以上ないほど心臓がうるさくなっていく。
「あ‥‥あなたの‥‥あなたの事が‥‥‥‥‥‥」
どうせ忘れてくれると思った時はすらすらと告白ができた。今回はワケが違う。
死ぬ前ですら言えなかったのだ。現実の劉亮を前に、正直に好きだと言おうとすると不自然にどもり、口が固まってしまう。
口づけをしてきた時から、もしかしてとは思っていた。劉亮は己を好いているのではないかと。予測が当たってしまい、いじいじと両手の人差し指をクルクルと回して前へ進めない。劉亮の顔を見る事もできずひたすらうつむいていた。
ふ、と笑う気配がした。
「う、‥‥ん」
劉亮が口づけてきた。はじめは軽く。そして深く。
衛玉は目を閉じ、心地よさにうっとりとした。後頭部を支えられ、何度も唇をこすれさせたり、角度を変えてついばみ合った。
「衛玉、聞かせてほしい。俺の事が好きか?」
とろんとした目で、目の前のたくましい男を見つめる。力は抜けきり、くたりと劉亮に身を預けていた。衛玉の無駄な緊張は取り払われ、自然に口を動かす事ができる。
「好き、好きです。劉亮。貴方の事を‥‥愛しています」
劉亮は顔をくしゃりとさせた。
「劉亮のそんな顔、初めて見ます‥‥んっ」
深く重なる口づけを知るのはこの大地と空だけだ。劉亮は衛玉を押し倒し、我慢していた全てをぶつけるように衛玉を愛する。
「わ、あ‥‥劉亮、もしかして‥‥?」
衣服の間に指を入れてきた。脱がせるつもりだ。
「いいか‥‥?」
切なそうな、擦り切れるような低い声で耳にささやかれ断れるワケがない。
「は‥‥はい‥‥」
顔を真っ赤にし、そう答えるのがやっとだった。
「良くないだろう」
「「!!」」
第三者の声に二人は仰天する。即座に刀を抜かなかったのは、聞き覚えのある声だったのと、見知った顔だったからだ。
「父さん!」
決まりが悪すぎる。神出鬼没な父だが、最低限の礼儀はある方だ。こんな最中で現れ、声をかけてくるなんてありえないと衛玉は思った。
「お前の体は今魔物寄りだ。まぐわえば子を成してしまうぞ」
「子ども‥‥ですって?」
「そうだ。私もただの猫だったが、死んで生き返る度に魔物の体に近づいていった」
突然とんでもない話が始まり、劉亮は急いで衛玉の身なりを整える。
「その、父さんはよく知っているかもしれないですが、私は男ですよ」
「お前は体は人間でいうと男だが、魔物は男でも産める奴がいる。少数だが。尻以外に穴があるだろう。お前」
劉亮が先に驚き、口を開いて衛玉に聞く。
「あるのか?」
「そんなの知らないですよ!」
恥ずかしくて、つい強く返してしまった。
「せめて寿命を十分に採取してから事に励め」
ポイと寿命嚢を投げてきたあと、男は黒猫の姿に戻る。猫の体は陽炎のようにゆらめき、フッと消えた。
「‥‥‥‥入れるつもりはなかったんだが」
「な、何を言ってるんですか‥・・・」
劉亮の言葉に衛玉は思わず突っ込む。改めて劉亮は衛玉と向き合った。正座をし、背筋を正す彼に衛玉は見惚れる。
「衛玉、妻になってほしい。そして、私の子を産んでほしい。何があっても、お前を守ると誓う」
この男はどれだけ喜ばせれば気が済むのかと、涙腺を緩ませながら衛玉はほほ笑んだ。
「怖い、です」
「怖い?」
「貴方といると、幸せ過ぎて怖くなります」
泣き出した衛玉を胸に抱きしめ、ポンと頭を撫でてやる。
「もっと怖くなればいい。これからもっと幸せにする」
わぁんと声を上げて涙を流す衛玉を、劉亮は笑って背中をさすってやるのだった。
fin.
花ぐらいなら問題無いだろうと劉亮は判断し、彼を牢屋に押し込んだ。
花をしまう事ができた事に衛玉は顔をほころばせた。
[山茶花は寒さに強い。衛玉の好きな人にそっくりな特徴を持っているこの花を見ていると、元気になる。
鎖に繋がれている間、大人しく花を愛でては劉亮を見上げほほ笑んでいた。
***
全面が石でできたひんやりとした牢屋に、桃色の衣服をまとった青年が背中を丸めて座っている。
長い三つ編みを左肩に垂らしたその艶やかな黒髪は地面につきそうなほど長い。
「はぁ」と両手に息を吐き、手を暖める。
いつもはぷくりと膨らんでいる彼の唇は寒さのせいでヒビ割れ、少し血がにじんでいた。
足音が聞こえ、衛玉(エイ ギョク)の陶器のような白い耳がピクリと動く。
大きな瞳をクルリと動かした。
入ってきた男は衛玉のよく見知った人物だ。男は耳の高さで髪を後ろに束ねている。
いかにも真面目で、厳格な雰囲気を持っていた。この瀏亮(リウ リョウ)こそ、衛玉をこの牢屋に閉じ込めた張本人だ。
まとめられた一束の黒髪が左右に揺れる。彼は何か唱え、手を上下に動かした。薄く青い陣が地面から現れる。結界術だ。その術から、男の修位の高さが伺える。
「私は逃げる事はおろか、繋がれた鎖で歩く事もままならない。結界を増やす必要は無いと思いますが」
瀏亮は予想外の行動に出た。彼はいくつもの南京錠を全てはずし、檻を開いてしまったのだ。
「なぜ貴方まで檻の中へ入ってくるのです?」
石の鎖で片足を繋がれている状態だ。
扉が開いたからと言って何ができるわけでもないものの、この行動には驚いてしまう。
衛玉と劉亮は「檻から出して」「だめだ」「出して」「だめだ」というやりとりを今日だけで100回以上繰り返していた。劉亮から会話は控えたいという様子が感じられる。
瀏亮が一歩足を踏み入れ、狭い牢屋を見回す。
「不謹慎ではないですか?いくら私の両腕と片足に鎖がついているからと言って、こんなに簡単に扉を開けてしまうなんて。おじい様にこの事がバレたら、きっと叱られてしまいますよ。こりゃ劉亮!廊下へ出て立っていなさい!とか言われちゃうかも」
衛玉はとにかくお喋りができればなんでも良かった。何か一つ返事が欲しくて色々話すが、瀏亮は何も言わず壁や地面を触って何かを確かめている。衛玉は膝を抱え、その様子を見ていた。冷気でかじかんだ手にハァと息を吐いて眺めていたら「衛玉」と名を呼ばれる。
「寒くないか」
「…え?」
赤く燃えるように色づいていた紅葉はみな枯れ葉となって地面に落ちつつある。
季節は冬に移り変わろうとしていた。
あまりに寒くて歯がカタカタと鳴るほど寒い。
暖を取るための上着は回収されてしまった。
袖部分が乾坤袋と同じつくりになっているからだ。そこには武器が多く収納されており、使用されては危険だという理由から檻に入る前に脱がされてしまった。
収納に使えるこの便利な衣服の部分は乾坤袖と呼よばれている。どんなに重くて大きなものでも袖口に近づければなんでも吸いこまれ、納められるようになっているのだ。
この霊獣石でできた鎖のせいで霊力を使って暖をとる術は使えない。
春が訪れるまでずっと寒さに耐え続けなければならないのだろうと諦めていた。
そこへ、寒くないかと質問をされて衛玉はきょとんと目を丸くする。
気遣ってくれるとは思わなかったのだ。
衛玉の今の扱いは罪人。処刑されたのち生首はどこかでさられるはずだった。劉亮は殺すつもりは無いと言っているが、長老共と向かい合ったとき「あ、これ殺されるな」という空気を衛玉は肌で感じていた。
そのような底辺の扱いを受けている者がいる場所に、丸腰ではないにしろ何をするかわからない奴と同じ檻の中へ入り、あまつさえ寒さの心配をしてくれている。衛玉はあっけにとられ、しばらく黙ってしまった。
(とんだお人よしに育ったものだ…)
劉亮は彼を観察した。何も履いていない素足の指は小刻みに震えている。寒いかどうかなど、聞くまでもなかった。
己が寒さに強い分、他人が寒いのかどうか気を配る事を忘れてしまう。寒さで赤く腫れてしまっている衛玉の足先を見て、もう少し早く気付くべきだったと劉亮は内心舌打ちした。
同門の宗派である長老達が次々と言っていた事を瀏亮は思い出す。
『悪しき魔族を片親に持つ衛玉なら、少しばかり寒くとも死なないだろう』『いや、そのまま処刑日まで待つ必要は無い、凍死させてしまおう』
衛玉は劉一族の門派生として修錬していた時代があった。ある時劉亮に寿命を集めている事がばれてしまい、その日から衛玉は追われる身となってしまったのである。衛玉の父親が魔族の者だと明るみになったのもその時だ。
魔族の血筋である事は一部の人間だけが知りえる情報にととどめていた。外に漏れ出ないよう真実は隠されていたのだ。実際にはその真実が明るみに出る前から衛玉の半魔族の噂は広まっており、劉門派生のほとんどは知っていたわけだが。
門派の規則の中にはとても厳しい内容が入っていた。
一般の人間を襲ってしまった場合は生涯を檻の中で過ごすか、命を絶って償わなければならない。これは門派の最も遵守している規則の一つだ。
短命な己の生を伸ばすためとは言えど、罰則は免れない。
衛玉が言うには「襲ったのではなく寿命を報酬としてもらっていた」という事ではあるが、劉門派からすればそれは言い訳にすぎないのだ。
人の寿命を減らすという行為は罰するに十分値する非人道的な行為だと、劉亮含めその場にいた劉門派全員が決断した。
そして、先日。
やっと劉亮が衛玉を捕らえる事に成功したのである。
***
~捕まる直前~
「報酬で寿命をもらうなど、人殺しと同じだ」
「…ッ!…殺めた事なんて、一度もありません!」
そんなやりとりをしてから、接近戦に持ち込んだ。
衛玉は先ほどの人殺しという言葉にひどく心を痛めたのか、攻撃の要領が悪く、動きが鈍くなっていた。
「遅い!」
劉亮が金色の糸でつくられた紐を投げてきた。咄嗟に身をかわすが、その紐は意志を持ったように衛玉にまきついてきた。
「こんな高いものを使うなんて!どうして私にそんなに執着するんですか!」
「劉家の名を汚さないためだ」「このわからずや!頑固者!寿命が無いと、私は死んでしまうのに!」「ここ数年でかなりの寿命を採取したはずだ。十分だろう」
****
今の衛玉は霊力を封じられている身。普通の人間と同様に、術や霊力を使って暖を取る事ができない。劉亮はつい先ほど長老達が話しているのを耳にし、牢屋の中は寒いだろう事に気づいてやってきたのだ。
「寒いですよ。冬がもう来ていますからね。もしかして、貴方が暖めてくださるのですか?」
両腕を伸ばし微笑む衛玉に瀏亮はギョっとして眉を上げる。からかわれているのだと気づき、「違う」と否定してからすべての錠に再度鍵をかけて出ていった。
締め切られた戸の隙間からかろうじて細い日の光が入ってきていた。
その光が弱まり、暗闇がやってくる。
夜が訪れたのだとわかった衛玉はコロリと横になる。固い石に皮膚が擦れ、素足がひりついた。
昼よりも夜の方が寒さは厳しい。まだ冬の始まりとは言えど、さすがにこたえた。
体を両手でさすり、寒さに凍える。早く眠りについてしまおうと、懸命に意識を夢の中へと向かわせようとした。眠ってしまえば、寒さなどすぐに忘れてしまえるからだ。
しかし空腹でなかなか眠りにつけない。なんとか素足をこすり合わせて暖をとろうと努力した。
「せめて、術が使えれば…」
独り言は霊獣石の鎖にすべて吸い込まれる。
風や虫の音も聞こない。
どうせ無駄だとわかっていても、つい試してみてしまう。自らの親指を咬み、血で地面に陣を描く。そして丸い火玉を作るための術を唱えてみた。ほんの少しの暖でいいからと願いながら。
「やはり………ダメですか…………………」
何も起こりはしなかった。こうなったら何かに八つ当たりでもしないとやってられない。
(---もう、こうなれば………この石にイタズラでもしてやる)
爪を立て、カリカリと石に繋がった眉毛を描き上げる。目を凝らす事で夜でもある程度は見えた。霊獣の新しい表情に自画自賛し、ウンと頷く。
ついこの間、好きな相手の顔に見惚れていたら捕まってしまった。
劉亮とは接近戦で戦っていて、予想よりも遥かに男前になっていた彼のその左右対称の美しさに力が緩んだのだ。
間違いなく、捕まったのは己のせいであり、どこにも霊獣石に非はない。だがこうしてうっぷんをぶつけるように手を動かしていたら、いつのまにか繋がり眉の間抜けな霊獣石が出来上がっていた。
戸が開き、食べ物の香りに鼻をヒクリと動かす。
劉亮が夕食を持ってきたのだ。
「瀏亮!食事を持ってきてくれたのですか?よくあの頑固な長老達が許しましたねっ」
衛玉は両手を上げて大喜びした。
松明を壁にかけ、もう片方で持っていた盆を地面に置いた。腹ぺこだった衛玉は犬のように四つん這いで食事の元へ急いだが、ビンと鎖が張って前に進めない。
「これは、長老達の預かり知らない事だ」
「瀏亮が勝手に判断したんですか。それって………あとで貴方怒られませんか?勝手な事しおって!とか言われたり……」
門派生だった頃、衛玉は劉亮の師兄として共に暮らしていた。つい、劉亮が叱られてしまうのではと師兄の目線で心配してしまう。
「余計な詮索はするな。俺の方は問題ない」
瀏亮は格子の間から、衛玉の手が届く場所へ一つずつ椀を手渡ししていく。
梅で色づいた握り飯、魚の汁物とたくあんが盛られていた。
「豪華なお食事ですね。私にこういった食事を出していいのですか?元気になったら逃げだすかもしれませんよ」
「その石に繋がれて逃げきれるワケがない」
「ふふ、確かに難しそうだ。あの…お箸は?」
彼が手に持っている盆の上にも、手渡された椀の上にも箸は無い。
ハッとした顔をする瀏亮に、忘れた事を察した衛玉が笑う。
「持ってくる」
「いいえ、大丈夫です。このまま頂きます」
手で握り飯をつかみ、ぱくりと一口ほおばる。梅のコクのあるうまみが口の中に広がり、爽やかさが体中にいきわたる。肩が軽くなったような気がした。
「うん、とても美味しいです。これ、瀏家の皆さんが食べている食事処からもらってきたんですか?」
「そうだ」
食事があってもせいぜい犬のエサのようなものが出てくるだろうと思っていた。一日ぶりの食事が体に染みる。次々とすべての椀を平らげていった。
「ふぅ……………おいしかったです。わ、ぷ」
胴服(どうふく)【綿入りの上着】を頭に投げられた。
いつのまにか檻の中に入ってきていた瀏亮がわらで編んだ敷物を石の地面に置く。
「これなら寒さは凌げるだろう」
胴服からは瀏亮の香りがした。その香りを体中に溶け込むように吸った。幸福感が手足にまで行き渡った気がする。
「ありがとうございます…」
瀏亮が敷いたわらの敷物に寝転がり、もらった綿入りの上掛けにくるまる。
「どうだ。まだ寒いか?」
「いえ、暖かいです。あの、こんなに立派な着物、いいんですか?ここは石で出来た牢屋で、土ぼこりもあります。すぐに汚れてしまいますよ」
「俺の胴服だ。どれだけ汚そうと誰も文句は言わない」
衛玉がすぅすぅと胴服のにおいを嗅いでいる事に気づく。
天日干しを定期的に行い、清潔に保管をしていたものだ。特にカビ臭さもなかったはずである。なぜあのように鼻をすぅすぅとさせているのかと眉を寄せた。
他人が気になるニオイでもあったのかと劉亮は気になる。
「臭うか?もし嫌なら別の」
「いえ!これがいいです!」
頭を出し、ぜったいに手放すもんか!という強固な意志が伝わる。劉亮は少したじろぎ、頷いた。
「それならいいが…」
(どんなに高級で肌触りのいい最上級の胴服を用意されたとしても、これよりも良質な胴服など、ありはしないっ)
これをずっと肌身離さず身にまとえるなら、もう一生冷たい石に繋がれた牢屋住まいでも構わないとさえ衛玉は思う。それほどにこの胴服には多大な価値を感じた。
しかし、と衛玉は眉を下げた。己がいなくなったあと、この布はまた劉亮の元へ戻る。その頃はきっとこの固い地面のせいでボロボロになっているはずだ。
「私が死刑になったあと、使えなくなってしまうかも」
「もう捨てようと思っていた物だ。それに…死刑には俺がさせない」
ドクドクと衛玉の心音が耳に響く。抑えていた気持ちが襲ってきた。
何も答えない衛玉の様子に、おそらく眠りに入ったのだろうと思った瀏亮はそのまま牢屋を出たのだった。
(本当に、優しい大人になりましたね)
胴服のおかげで身も心も暖かい。そして瀏亮の残り香をかぎ、うっとりとした。
幸せとは、こんなにも簡単に感じられるものだったのかと感慨深くなる。
「ここで死ぬのも…悪くないかもしれない…」
***
牢屋の戸を後ろ手に閉じてすぐ、声が聞こえた。
『ここで死ぬのも悪くないかもしれない』
と。
その言葉を聞いた瞬間、心臓の奥がえぐられるような感覚に陥った。
衛玉を捕らえたのは自分だ。衛玉の扱いは瀏亮が決めるつもりで劉一門に衛玉を連れ帰ったのである。しかし、そう簡単なものではなかった。
長老達は皆早急に衛玉を処刑するようにと言ってくる。普段反抗などしない瀏亮だが、こればかりは了承できず意を唱えていた。
翌日、やはり祖父を筆頭に長老達は同じ事を言ってきた。
白髪の目立つ老人、瀏咎(リウ キュウ)が昨日同様に孫である瀏亮に指示をする。
「はやくあの者を始末しなさい」
「なりません」
「なぜ生かす?あやつの悪業を見つけたのはお前だ。亮。そして捕らえたのもお前。殺すために連れてきたのではないのか?」
「俺たちは衛玉に多大な恩義があります。確かに彼のした事は道義に反するものではありますが、処刑するのはいかがなものかと思います」
衛玉は弱い立場の者を助け、悪を征する信念を曲げず生きてきていた。それは今も昔も変わらない。報酬として寿命をもらっているという事を除けば、修士の鏡のような存在なのだ。
さらに衛玉には強い霊力と聡明さがあった。10代から彼は難解な問題を次々と解決に導き、数万もの民や修士を救ってきたのだ。
今この場所が平和なのも、衛玉のおかげだと言っても過言ではない。
年を取るほどに「恩義」という言葉に弱くなる。祖父は好きにしろと孫に言い、食堂へ向かった。
頂点に立つ長老がいなくなると、次に権力がある者は跡取りの孫となる。すなわちこの場所で最も強い意見を放てるのは劉亮なのだ。
他の長老どもは居心地悪そうにし、ぞろぞろと祖父のあとについて食堂へ向かった。
祖父さえ丸め込めばその他はラクなものだ。やっと折れてくれた事に小さく安堵の息を吐く。祖父達に続き、瀏亮も食堂へ向かった。
(衛玉が腹を空かせているはずだ)
結界内であれば、数時間外へ出してやる事もできる。
あのような冷たい石の牢屋ではそのうち「飽きました!外で遊ばせてください!」と暴れまわるに違いない。うまい飯を食わせて大人しくさせるつもりである。
今日は結界内で行動できる場所まで運動させてやろうと劉亮は考えた。
衛玉の事を考えると自然と笑みがこぼれてしまう。瀏亮は出来てしまったえくぼを隠すように頬をもんだ。いつもの平然さを保ち、食堂に一歩入る。
食堂として扱っている場所は来た門派生全員が座って食事できるように端から端までが見えないほど広い空間となっている。様々な性格の生徒達が座っていた。皆血は繋がっていないが、全員が劉の姓を持つ仲間だ。
盆を持ち、食事の列に並ぶといろんな話が耳に入ってくる。
次に受ける試験の話、将来の夢、今日の朝食で一番おいしい飯は肉まんだった、などなど。
瀏家は数千人の門派生をかかえていた。用意される食事も千差万別である。今日は衛玉と共に食事を取ろうと、持ち運びがしやすい肉まんを選ぶ。そこへ、ドタドタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
「当主様!若様も!た…ッ、大変です!また、あの事件が!!」
入ってきたのは妹弟子の瀏玲(リウ レイ)だ。丸みを帯びたその幼さの残る顔には赤紫色の血がついたままである。魔物の血であることはすぐにわかった。彼女はフラリとその場に倒れこんだ。
瀏咎と瀏亮は急いで彼女の元へ向かう。
「誰か!丹薬を持って参れ!!どうしたのじゃ!」
「はぁ…はぁ…!人が…焼かれ………ッ」
皆一同に驚く。先週から人体の自然発火が立て続けに発生している。また起こったのかとどよめいた。
「共に向かった兄弟子はどうした?」
劉漢と共に彼女は魔物退治に向かっていた。なぜ一人なのかと疑問に思う。彼女は悔しそうに顔を歪めた。
「ッぅ…ぅぅ!焼かれたのは…劉漢師兄です!」
これまでは一般人のみが襲われていた。修錬を積んでいる瀏亮と同じ修真者まで焼かれるのは初めての事だった。
未だ原因が不明で、多くの修真者達が追っている難解な問題である。
瀏玲は「劉漢師兄を死なせてしまい、申し訳ありません」と涙を流していた。
瀏玲の話が聞こえた門派生一同はがあまりの事に恐れおののき、明日は我が身かもしれないとざわめく。
「はいはい!怖がるんはもうおしまいおしまい。私たちは一体なんのために修錬しとるんでしたっけ?ここで怖がるのはおかしいでしょ」
パンパンと手を叩いた男は、最近この劉家に入った門派生である。少し口調が雅で、特徴的な風貌を持つ青年だった。
「お前!兄弟子が一人死んだんだぞ!」
周りにいた弟子の一人が怒りをあらわにする。
「劉漢師兄って人も私らと同じ修真者なんでしょう?こうなってしまう覚悟があって修練しとったんやんか。確かに死んだのは残念やけど、それはそれとして早く事件解決の糸口探さんと。あと、なんでお嬢さん…えっと、ここでは師妹(しまい)って呼ぶんですっけ?なんで顔血まみれなん?」
「君の言う通りだ。瀏玲師妹、その血の色は魔族のものだろう。戦ったのか」
劉亮は雅な口調の青年に同意し、玲に話すよう促した。
劉亮から一口水をもらい、瀏玲はまだ恐怖の残っている手をぎゅっと握った。幾分か落ち着いた様子だが、彼女の目にはまだ涙がたまっている。
「はい。一匹は滅する事ができたのですが、もう一匹は…いえ、その人間はとても強く、私では到底倒せるようなものではありませんでした。朝日に弱いのか、太陽が昇るとその人間は逃げるようにその場から離れていきました」
「人間じゃと?人間が、魔物を従えていたというのか!」
祖父と劉亮は目を合わせる。魔物を自分の手ごまにするなど、衛玉ただ一人にしかできない。これまではそうだった。そして彼は檻の中。逃げる事はまず不可能だ。となれば、新たな魔道の道へと走った強敵が現れたという事になる。
「従えていた‥‥ように見えました。」
劉亮は祖父を見た。お互い、これからどうすべきか理解しあっている。
「私が向かいます。当主はこの劉家と門派の守護を頼みます」
瀏咎は頷く。
場所と事の成り行きを全て聞きだしたあと、劉亮は肉まんを竹の葉で20個も包みだした。
「お前、そんなに飯を食う奴だったか?」
子供のころから劉亮を知っている祖父は驚く。
「衛玉は大食らいですから」
名前を聞いた途端、祖父のこめかみに突然青い筋が入る。
「まさか、あやつを外に出すつもりではなかろうな!」
「そのまさかです」
「許さんぞ!」
「では聞きますが、あいつ以外に誰がこの事件を解決できるとお思いですか?」
うぐ、と老人が口を一度閉じる。衛玉ほどこの事件に適任した人物はいない。衛玉は 魔物についての知識が豊富な上、聡明だ。きっとこの事件を解決する糸口を見つけられる。
しかし今後どのような事があっても衛玉のような危険な者は外に出してはならないと、劉当主は使命感を感じた。
「許可は出せん」
「なら、どうすれば許可を出して頂けるのですか?こうしているうちに、また次の人体発火が起こるかもしれないのに!」
一度劉当主は考え、髭を数回撫でる。
「あやつを傀儡にでもできるのなら、許可を出そう。お前にできるか?」
劉亮は即座に可能な方法を伝えた。
一同、驚愕する。
「………よかろう」
***
「わはひがはほのはいじ?」(私が魔物退治?)
「飲み込んでから話せ。何を言っているのか全くわからない」
「-ウグッ」
詰まったのか、ドンドンと胸を叩いている。
「あわてて食べるな」
肉まんを竹に入った水で飲み干し、フゥと衛玉は口元を拭いた。
「飲み込んで話せと言うから飲み込んだんですよ」
「しっかり嚙め」
数回目の注意に、とうとう衛玉は我慢できずにクククと笑いをもらす。
「笑うな。人が一人死んでいるんだぞ」
殺されたのは劉漢だ。衛玉にとってはどうでもいいというのが本音だった。
なぜなら劉漢は昔から衛玉の食事にこれでもかというほどゴミを混ぜ込んできた嫌な奴だったからである。
劉亮の話によれば、これまで焼かれた一般人は無抵抗な魔族を見るといじめたり殺したりする輩が多かったらしい。ならばきっと劉漢も魔族に対し、不平等な事をやらかしたに違いないと衛玉は予想した。
「クク…すみません。ただ、貴方が私にたくさん注意するのも、もうすぐ処刑される私に協力しろと願ってくるのも、どれもおかしくて。あなた本当に私が協力するとお思いで?」
真面目に頷く劉亮に、おもわずブフ!と衛玉は吹いてしまった。
「笑うなと言っている」
「あはは!すみません、ふふ、だって、おかしいんですもん。私はこの世では完全な悪で、明日処刑されてもおかしくない立場だったというのに。しかもあなたは本気で私が皆さんを助けるために尽力する事を信じて疑わない。これほどおかしい事、ありますか?」
「私はおかしいとは思わない」
同じ冷たい牢屋の中へ入り同じ目線で肉まんを食べ、話をしてくれている。そして衛玉の心根を信じているようだ。
「お前は弱い者を助ける側の人間だ。その志が変わる事はずっと無いだろう」
笑った後、衛玉は少し泣きたくなった。好いている相手から人間だと認められ、これほど信じてもらえるなら、答えは決まったも同然だ。
「はぁ、わかりました。お手伝いしますよ」
「首を貸せ」
突然片手で首元をつかまれた。
(油断した!)
衛玉は焦るが、首をつかむその手にほとんど力が込められていない事に気づく。しかしすでに術にはまってしまい、上半身の体を動かせない。逃げようともがくが、動くのは足先だけだった。
「何のマネですか!」
「黙ってろ。術をかける。これを施さない限り、お前を外に出せない」
衛玉の背中がジワリと湿気を帯びる。寒さからの汗ではない。
首をつかんで実行する代表的な術と言えば一つしか思い浮かばなかった。それだけは嫌だと衛玉はじたばたした。
「ま、待ってください、劉…ッ」
「殺首術」
「あ…!」
痛みは感じない。ただ、首筋に細くて黒い線がのどぼとけあたりに入っていくのが感覚でわかる。それは首を一周していた。
「あんまりです…これ、貴方が私を殺したいと思えば、念一つで首を飛ばせるようにする術じゃないですか!殺すつもりは無いと、私を捕らえる時に言っていたじゃないですか……」
「殺すつもりはない」
「ではなぜ!!」
衛玉は涙目になっていた。信じていた相手に裏切られたと感じ、悲しんでいるのがわかる。その顔を見て、劉亮は胸の奥に一寸の痛みを感じた。
「話を聞け。俺と共に旅に出る事になる。今回の奇怪な事件には、お前の力が必要だ」
「逃げるかもしれないから、私に術を?もし逃げたら?」
「俺がお前を殺す事になる」
つい想像してしまい、衛玉はゾワリと鳥肌が立った。
「もし敵を倒せたら、私は自由の身、もしくは同等の対価を得ることができますか?」
「自由にはできない。終われば身柄を俺が確保し、ここで生活してもらう。ただし俺が不在の時でも処刑をされる心配はなくなる。今回の件を解決すれば、お前の寿命が尽きるまで生活の面倒は保証してやる」
逃げれば即死。
協力してもずっとこのまま。
ガクリと衛玉は肩を落とす。
「お前が逃げない限り、大丈夫だ。殺すつもりはない」
「はぁ…協力しないって今言ったらどうなります?」
「俺は発火事件の解決に向かう。俺が留守の間、お前はこの檻に待機しなければならなくなる。その間、処刑から守ってやる事ができない」
長老達がお前を殺したがっている、と付け足す頃にはもう衛玉は全ての訴えが無意味だという事を理解する。
「選択肢が無いじゃないですか!」
「そんなもの、はじめから無い」
***
出立はすぐだった。久しぶりの外に両腕を上げ、朝日を体中に浴びる。
「やっぱり外は気持ちいい」
「この事件が終わったらまた牢屋へ戻ってもらうぞ」
「気が滅入る事を言わないでください。あと私を自由にしてください」
「ぜったいに逃さない」
「残念です。そこまで悪い事はしていないと思いますよ?お金を払う事が出来ず、生活に困っている人から、ちょこっと寿命を頂いているだけなんです。最近は餓死しかけてる人にお金を渡して寿命を頂く事の方が多かったですし。餓死で死ぬよりマシだと思いませんか?むしろこれは人助けに入るのでは?それにね、寿命っていうのは本来あと十年あったとしても、一年後に死んじゃう人だっているんです。それくらい、人の寿命っていうのは曖昧なものなんですよ」
「一人に対し、どれほどもらっていたんだ」
「人によりますね。ご老人なら一日だけとか」
「若い者相手には」
「んー・・・一、二年分はもらってましたね」
「もらい過ぎだ!」
「長生きしたいだけなんですよ、こっちは」
本当に、長生きをしたいだけだった。特に何かを守りたいわけでも、成し得たいもの
もない。昔はあったが、好いていた相手に許嫁がいると聞いて諦めた。
ただ、今回の一件で自分の幸せはやはりこの堅物な男と共にあるのだと確信してしまった。
「睨まないでくださいよ。貴方といる間は寿命を採取したりしませんから。安心してください」
(どうせ、事件が解決したあとは檻に放り込まれてしまう。寿命も採取できないのだから、そう長くも生きられない。なら、好き勝手やらせてもらいます)
衛玉は上がった口角が見られないようそっと手で口元を覆った。
「もうお喋りはしまいだ。行くぞ」
「目的地は?」
「大坂」
「大坂!あそこは商売が繫盛してる国ですよね。楽しい旅になりそうです」
「遊びにいくわけじゃないぞ」
刀に乗り、二人は東へ向かう。今いる薩摩から大坂まで寝ずに歩いても二日はかかるところだが、空を飛べばものの半日で到着する。
人通りの少ない宿の裏側に二人は着地した。薩摩に住む人間にとっては人間が空を飛んでいても何も驚かれないが、他の国ではそうもいかない。驚かれて矢を飛ばされる事もある。極力人前では御刃【刀で空を飛ぶ事】しないのが得策なのである。
「ちょうどいい所に降りられましたね。ここは…私の勘が正しければ牧方あたり?」
「そうだ。まずは笠を買いに行くぞ」
「どうしてですか?日差しは強くないですし、雨もふっていません」
「お前は人に顔を知られているだろう。悪い方面で」
顔を隠すようにと言われているのだと理解する。
「そうでもないですよ」
「私は行く先々でお前の似顔絵を見たぞ。この男に気をつけろ、寿命を取られるぞと掲示板にいつも貼り付けてあった」
「それは貴方が私をずっと追っていたから、そんなけったいな村の掲示板なんか見る事になるんです」
「けったい?」
「大坂の言葉で、あやしげな、という意味です」
この点だけは劉亮は全く譲らず、適当な店を選んで物色する。衛玉の頭に合いそうな笠を一つ選んで劉亮は戻ってきた。藁で編まれた笠を衛玉の頭に被せてくる。
「ちょっとこの笠チクチクします。作り手は下手ですね」
「買ってもらったくせに文句を言うな。行くぞ」
「次はどこへ?」
「発火事件があった村だ。ここからは長く歩く」
えっ!と衛玉は衝撃を受ける。すぐ傍には立派な宿や食事処があるのだ。そしてもうすぐ夕日が終わる頃合い。当然ここで一晩休んでから次の場所へ行くものだと思っていた。
「ちょ、ちょっと、予定がきつすぎませんか。もう少しゆっくり…」
「また同じ場所で発火事件が起きたらどうする」
衛玉は反論できなくなってしまった。しかし腹はすいた。せめてこの目の前にあるそば・うどん処と書かれた店へ寄ってから村へ行きたいと思う。
「わかりました。今日中に村へ行きましょう。でも、長く歩くのでしょう?腹ごしらえしてから行かせてもらってもいいですか?私、おなかがすくと歩けなくなるんです…」
「子どものように駄々をこねるな。それにお前も修士だろう。食を抜いたぐらいで…」
「お願いします」
本当に、本当に腹が減っていたのだ。衛玉は両手を合わせ、上目遣いで劉亮にねだった。
「…わかった」
「やった!」
店へ入ってすぐ、従業員に手を上げて「私、肉うどん三人分で!」と注文した。
「遠慮というものを知らないのか」
財布を持っていないため、もちろん勘定はすべて劉亮持ちになる。
「だって、私の私物は全部あなたに取り上げられてしまったんですから」
「ホラを吹くな。最初からお前の財布にはびた一文何も入っていなかったぞ」
「はは、バレちゃってましたか」
劉亮はきつねそばを頼む。
「大坂ってうどんが美味しいんでしょう?なぜそばを頼むんです?」
「俺はそばが一等好きなんだ」
「へぇ‥‥。わ、早いですね!」
男の従業員が「へいお待ち!」とうどんを長椅子に置いた。
「あと二つも持ってくっから、ゆっくり食べてェな!」
ひそ、と衛玉は劉亮に耳打ちする。
「大坂の人の喋り方って、なんか…陽気ですね」
「お前も似たようなものだろう」
「失礼な事を言わないでください。うどん、味見させてあげませんよ」
「いらん」
「本当に?」
衛玉はフー、フーとうどんの熱を取り、箸を劉亮の方へ向ける。
「はい、お口開けてください」
「な…ッ」
「ふふ、昔から貴方、これすると慌てますよね」
「からかうな!」
「あはは!…ねぇ劉亮。やっぱり、今回の旅で私を自由にする気はありませんか?」
「無い」
衛玉はうなだれる。それでも諦めず交渉を続けた。
「本当、鬼のように手厳しい。なら、お願いを一つ聞いて頂けますか?」
「なんだ」
「今回の事件が終わったあとも、私と食事をしてください。できれば毎日が良いです。あの檻の中じゃなくて…結界の中ならどこでもいいんでしょう?芝生の上とかで…」
「そんな事でいいのか?」
「はい。この条件、のんでくれますか?あなたが忙しい時期なら、三日に一度でも良いですよ」
「わかった。それでいいなら」
衛玉は嬉しそうにほほ笑んだ。自由な身では無いが、劉亮と死ぬまで一緒に食事ができるという約束を取り付ける事ができた。
これは衛玉にとって、何よりも嬉しい事だった。
それに、と衛玉は別の事を考える。
(好きな人に死を看取ってもらえるなら、それはそれで幸せかもしれない)
ソバをすする劉亮を見ていたら、ムっとした顔で「やらんぞ」と言われた。即座に「い、いりませんよ!」と衛玉は答える。
(その時に告白をしよう。別に、死ぬ間際なら…………好きだと言ってしまっても迷惑はかからないはずです………)
修真者の国、薩摩と徳川家康の国はまったくの別国となっていた。
表向きでは徳川家康が天下統一を果たしたという事になっているが、実際はそうではない。薩摩とその周辺国には複数人の修真者がくらしており、劉家以外の数の門派が多数存在する。
そこ一帯は修真者としての見込みがある人間が多数生まれ、気づけば独立国になっていたのである。
修真者は権力に溺れず、仙人になる事を望みその身を修行させている者がほとんどだ。そのため、誇り高い志を持ち、権力にこびへつらう事を非常に嫌がる。
そういった性格のものが集まった国であるからこそ、古代から派閥のようなものが出来ていた。そこを、代々徳川家がうまく均衡を保ち、今の平和な形成されていったのである。
方法はとても単純なものである。その時々の天下を取った人間の娘または息子を修真者は養子として迎え入れ、結婚して親族関係を朝廷と保つ事で平和を守ってきたのだった。
そして劉一族の一人息子である劉亮こそが、次の徳川家康の選んだ娘と縁談する事になっていた。まだ相手は決まってはいないが、近い将来必ず結婚を余儀なくされる。
修真者全員の平和にかかわる事だ。無理やり劉亮を術などで自分のものにするわけにいかないのである。
少し前に、織田信長が興味本位で修真者に戦争をふっかけたのだが、その時はことごとく衛玉がたった一人で数万の兵を打ちのめした。
今は鉄砲技術などが進化している。あの時はなんとかなったものの、次にまた同じように朝廷側が攻撃をしかけてきたらどうなる事かわからない。
万が一にでも劉亮が衛玉を選び、徳川家康の娘を拒んでしまったら、劉家と徳川家の戦争で多くの人が亡くなる可能性がある。圧倒的に劉家の方が強く、負けるはずなどないのだが、一人でも人が死ねば劉一門としては負けも同然。
戦争を起こさないよう均衡を保つ事こそが勝利なのだ。劉亮はそれほど重いものを背負っており、軽はずみに告白などはしてはいけない相手なのである。
「あんたらあんま見ィひん顔つきやけど…どこの人?」
「薩摩だ」
二つ目の肉うどんを置きながら聞いてきたのは10歳ほどの子どもだった。おかっぱがよく似合う女の子だ。
「そないな遠いところから?よぉお越しくださりました。ゆっくりしてってェな。お母ちゃん、このお客さんごっついエエ男やわ!三つ目の肉うどん、多めにしたって!」
「よっしゃあ任せときぃ!」
従業員の娘と厨房に立つ母親のやりとりは名物のようだ。客人はハハハと笑い、店内は良い雰囲気に包まれていた。その時。
「ウッウアアァァ!!」
店内にいた男が突然火だるまになった。服の端から突然火があがり、あっという間に髪まで到達する。男は何とか火を消そうとゴロゴロとのたうち回るが、いっこうに消える気配は無い。突然の出来事に店内の客は叫び、我先にと店の外へ飛び出る。
厨房にいた先ほどの少女の母親だけが果敢にも鍋に水を汲み、男の火を消そうと動き始める。
「水!水ふっかけて!手伝って!」
衛玉はすぐさま反応した。胸元から符を取り出し、自分の血で術式を書いていく。
すると、ニュっとその符から柔らかいものが出てきた。魔物のようだ。その水色のかたまりはフワァと欠伸をして衛玉の方を向く。
「店内を水浸しにするくらいでお願いします!」
衛玉が言うと、大きく口を開けた魔物から、滝のように水が勢いよく噴出された。
衛玉は契約した魔物や精霊を呼び寄せ、命令する事ができる。
本人自体は病弱だが、様々な術式と天賦の戦術で困難を乗り越えてきた男だった。
魔物をはじめて見る少女は恐ろしさで体がすくんでしまっている。ぽん、と衛玉は少女の肩に手を置き、大丈夫だよと声をかけてやった。数秒で店内の火は沈下され、水色の魔物はまた欠伸を一つし、符の中へニュウと戻っていった。
店内は水がどこもかしこもしたたっている。大変な有様ではあったが、火だるまになった男の命を取り留める事はできた。ごろりと力尽きている男の容体を確認する。
「劉亮、丹薬は持ってますか?」
「ああ」
丹薬を飲ませると、たちまち火傷でただれた部分の修復が始まる。
店の外から見ていた客人達は「おお……!」と歓声を上げた。
「衛玉、いつのまに符を」
「最初から持ってましたよ。さすがに殺されるのは嫌でしたからね。何かあった時のためにと思って隠していたんです。貴方が私の上半身を剝いて確認する作業を怠ったものですから、この符だけは守ることができました」
ソバ屋の二階は従業員の住まいになっている。劉亮と衛玉も二階へ行き、男の容体を見届ける。
火だるまになった男が目を覚ましてから、何があったか聴取した。いつもと変わらず、大工仕事を終わらせ、ソバを食べに来たらしい。何かいつもと違う事が無かったか聞いたところ、大工は決定的な事を言った。
―――魔物らしき小さな生き物を蹴った、と。
今回の人体発火で共通している事はただ一つ。弱い魔物に危害を加えた人間が襲われ死亡しているのだ。今回の件も連日劉亮が追っていた人体発火の事件と条件が酷似していた。
魔物を守っている何者かがやったに違いないと劉亮は推測していた。
男の話を聞いたあと、劉亮は衛玉に聞く。
「どう思う」
「そうですねぇ。感情を持っている魔物もいますから。やったらやり返したくなるのは当然だと思います」
「それだけか?」
もっと何か、真実にせまる意見が衛玉の口から出されると期待していた。
「痕跡も特になし。火をつけた相手の情報もなし。推測するには情報が足らなすぎます」
「確かに」
「劉亮、話は変わるんですが」
「なんだ」
「お金を稼ぐ許可をください」
***
劉亮は戦闘に至っては天才的な能力を発揮するが、それ以外については鈍感な男だった。道中ずっと一緒だったのにも関わらず、衛玉が裸足だったことをすっかり忘れていたのだ。そして足の裏にトゲが刺さり、血が出て痛くなってしまったため衛玉は靴が欲しくなった。どうせ劉亮は靴を買ってくれないだろうと思った衛玉は、自分で売れそうな符を作って稼ごうと考えたのである。
「なぜもっと早くに言わなかった!」
「怒らないでくださいよ…………」
衛玉の足に傷薬を塗りながら、劉亮はカンカンに怒っていた。
ひと塗りすると、たちまち傷が癒えていく。劉家秘伝の傷薬だ。
「で、お金は稼いでもいいですよね?寿命をお金でくれる人がいてですね…」
ソバ屋の向かい側がちょうど靴屋になっていた。そこでちょうどいい大きさのをいくつか見繕い、揃えてもらう事ができた。しかし金はあった方が断然良いと考える衛玉は引き続き稼ぐ許可をもらおうとする。
「だめだ!」
「いつからそんなにケチになったんですか?そういう風に育てた覚えはないんですが」
「お前に育てられた記憶はない!」
「それに、お金が無いと武器が買えません。刀だけじゃ私はアリンコ同然なんです。呪符ももうなくなってしまったし。呪具が無いといざという時何もできずに殺されてしまいます」
「…やはり、お前の衣服は返した方がいいか?」
「返してもらえるなら、ぜひ」
取り上げられた衣服には乾坤袖というなんでも収納できる便利なものがついているのだ。あそこには戦いに使えるあらゆるものをしまってある。
乾坤袖に備蓄してあるモノ達を使えばこうして自分の血を使わなくても、十分に戦えるようになる。他にも劉亮にイタズラするために衛玉が開発した「忘れ薬」の材料も収納されているのだ。ぜひとも返してほしい代物だった。
「乾坤袖に入った武器がなくても戦えますけど、そのうち自分の血を使いすぎて貧血で倒れるかもしれません。返してもらえるんですか?」
劉亮はしばし衛玉を見つめる。乾坤袖の中を見たが、確かに武器になりそうなものはたくさんあった。薬になりそうな材料も豊富に。
万が一何かあってもそれらを使って脱走できる事はまずありえないだろうと劉亮は考えた。
「変な事は考えるなよ」
「ええ、誓いましょう」
夜更け前に目的地へ到着した。道中何度も「飛んで行きませんか?もうへとへとです」と弱音を吐く衛玉を無視し歩き続けた結果、予定より早く移動できたのである。
「靴を履いても履かなくても歩く速度が同じなのはなぜだ?」
「貴方の歩く速度が早すぎるだけです」
酒屋や宿の明かりがチラホラとついてはいるものの、町はシンと静かだった。
宿で部屋を二つとり、それぞれが就寝する頃に事件は起こった。
「何もしないと俺に誓ったばかりだろう」
「ええ。変な事は何もしませんよ」
「ならこの術を解け!言っておくが、お前の首にかけた術はな、俺が死んだ場合祖父が引き継ぐようになっている。俺を殺しても意味は無い。わかったらさっさと自分の部屋で寝て明日に備えろ!」
「どうせそんな事だろうと思ってましたよ。それに、別にあなたの事殺すために術をかけたのではありません」
劉亮は「止」と書かれた符を両足、両腕、胴体の5か所に貼り付けられ、寝台で大の字で寝転がっている状態だった。その上にまたがるように衛玉がのっかっている。劉亮にとって、なんとも不思議すぎる光景だった。
「貴方、今年で何歳になりますか?」
「21だ」
「もう立派な大人ですね」
「何が狙いだ?」
「ふふ、なんだと思いますか?」
ツツ、と頬を指で撫でられる。
「ジッとしててくださいね」
ドキリと劉亮の胸が大きく動いた。
「何…を」
「今からわかりますよ」
劉亮は劉家の唯一の跡取りだ。いつか来る徳川家康公の姫君を迎え入れるため、房中術の知識は育ての祖父からもらった本で十分学んでいる。とっさにそれらの本の内容が劉亮の頭によぎった。
「こうするんですっ」
ぼすん、と衛玉が胸に飛び込んできた。
劉亮の首から上は動かす事はできた。頭を少し上げ、意味不明な男の行動を見守る。
彼はフー、と何かを達成したような表情していて、かなり満足そうだ。
「……………何をしている?」
「何って、見た通り貴方の胸をお借りしています」
「俺を動けなくしてまでやる事か?」
「私がコレをお願いして、貴方はこうして胸をかしてくれるんですか?」
「……………」
「ぜったい断るに決まっているんです」
「男の胸などに寝転んで、何が楽しい?俺への嫌がらせか?」
「単純に人恋しいんですよ。ちょっとだけ我慢してください」
そうして、一本分の蝋燭が半分まで溶けてきた頃に衛玉は顔を上げて「ありがとうございました」と言った。
「早く術を解け」
「これを飲んでくれたらいいですよ」
ぽいと口に何かを入れられた。
「何を口に入れた!」
吐き出そうとすると、手を口に塞がれる。それでも舌で押し出そうとしたら鼻をつままれた。飲み込むまで呼吸をできなくさせるつもりだとわかり、劉亮は衛玉を睨んだ。
「飲み込んでください。今から二時間ほどさかのぼり、記憶を消してくれる薬です。私が作ったものなので安心ですよ。ショウガやクズの根なども入れておきました。体に良いので明日調子が良くなるはずです」
衛玉の乾坤袖には武器だけでなく、薬品に使えるものが様々に収納されている。劉亮が沐浴している間に調合していたのだった。
衛玉は人を殺すような質ではない。衛玉の信念だけは疑わなかった。
しかし、自分が生き延びるため他人の寿命を働いた対価としてもらうような男だ。そうやすやすと信用してはいけない相手でもある。
人を操る薬というものが存在するとは聞いたことも無いが、衛玉なら作れるかもしれない。もし他者を操る事ができる薬だった場合、己は操られ、衛玉にかけた首の術を解除してしまう恐れだってある。劉亮は舌の裏に放り込まれた薬をはさみこんだ。
「はい。竹筒に入れておいた湧き水です。美味しいですよ」
衣服にこぼれるほどの水をダバダバと口に流し込まれる。劉亮は舌の裏に張り付いた薬まで飲みこまないよう、水をのどに流し込んだ。
「もう一度お口開けてください」
ガパリと劉亮の口を開けさせて、中を確認する。すっかり何も無い状態なのを確認し、パっと劉亮から離れる。
「その薬、催眠作用もあるのでぐっすり眠れますよ。いい夢を」
衛玉は扉の方へ行き、自分の部屋の方へ戻っていった。
扉を背に、ずるずると両手で顔を覆ってしゃがみこむ。
(劉亮に、抱き着いてしまった…………!)
あとで薬を飲ませて記憶を飛ばさせるつもりだったとはいえ、本当に劉亮に抱き着けるのかどうかわからなかった。もしかしたら術が効かないという可能性もあったのだ。
明日、ちゃんとすべてを忘れてくれていますようにと薬の効き目を願ったのだった。
***
翌日。
昨夜の出来事について、劉亮は一人で考え込んでいた。
なぜ衛玉はあのような事をしたのか、まったく理解できないでいる。人恋しいからという理由で、家族でもない他人に抱き着くのは普通じゃない。ましてや女でなく男に。
「朝食をお持ちしました。こちらの部屋にお持ちして良いですか?」
宿の従業員が朝食の知らせに来た。
「ああ。この部屋で」
「わかりました」
初老の女性がてきぱきと二人分の食事を並べていく。ごゆっくり、と従業員が部屋を出ていく。
今度は衛玉が部屋に入ってきた。
「朝食って声が聞こえたので来ました…おはようございます」
少し頬が赤い。衛玉はさすがに気まずさを感じるのか、背中を丸めて劉亮の向かいに正座した。劉亮とて気まずい。しかし忘れたフリをすべきだと己の勘が言っている。
「あの…昨日の事、何か覚えていますか?」
「なんの事だ?」
衛玉はわかりやすくホっと安堵したような様子を見せ、「私の考え違いです。忘れてください」と言った。
安堵した衛玉は目の前に広がる海の幸に目移りする。
「美味しそう。見た事の無い料理がたくさんある」
「このあたりは海が近い。海鮮料理が豊富なんだろう」
「これは?海鮮料理ですか?」
「天ぷらだ。食べた事ないのか?」
無いです、と答える衛玉に劉亮は首をかしげる。劉門派の食堂にはありとあらゆる料理が並べられていく。天ぷらなど月に一度は見かける品だ。
「食堂はあまり利用する機会がありませんでしたから」
そういえば、と劉亮は衛玉がまだ劉門派の生徒として穏やかに過ごしていた昔を思い出す。彼はいつも部屋の庭で料理をしていた。そして、誰かと食事をしているのを一度も見た事は無かった。ただ一人を除いて。
「なぜ、食堂を利用せずに自分で料理を用意していた?」
「ちょっと面倒だったんですよ」
食堂で盆を取っておかずを物色していると必ず誰かがわざとぶつかってくる上、座ろうとしたら荷物で座らないように邪魔をされ、やっと席を見つけて座ったら今度はゴミをおかずに投げられる。本当に面倒な事が多かったのだ。
そんな事をこのお坊ちゃまに言ったとして、どうせ「劉門派にそのような馬鹿なマネをする奴はいない」と言い張るだろう事は目に見えていた。衛玉は適当に流し、初めて食べる天ぷらを口にする。
「ほいひい…!(美味しい)」
ほのかな塩味と、中のエビが口の中で踊りだす。パリ、シャク、という食感が面白くて、一口を小さくして何度も天ぷらを口に入れては噛んだ。天ぷらを完食した衛玉はフウと満足そうに顔を上げる。劉亮と目があった。少し笑っていて、ドキリとする。一呼吸おいて、幸せだと思う感覚がわいてきた。
「劉亮、変わっているとよく言われませんか?」
「一度も無い。なぜそのようなことを聞く」
心外だと言わんばかりに劉亮は眉を寄せ、その表情に衛玉はクスクスと笑った。
「私と普通に食事をしてくれるのは、家族をのぞいて貴方だけなんですよ。半分は魔族の血が流れているんです。誰だって知れば気味が悪くなるはずなのに」
劉門派へ入門し、十分に力が蓄えられたのちに己が魔族との半分の子だという事が劉門派の長老に知れ渡ってしまった。その頃、衛玉は劉門派に必要な人材として重宝されており、半分は人間だという理由で破門にされる事は回避されたのだ。
しかし噂は一人歩きをし、半分どころか衛玉は両親が魔族であるにも関わらず、人間に化けて虎視眈々と劉門派を乗っ取ろうとしているという話にまで膨らんでいた。
恵まれた才能を妬む生徒達は衛玉を追い出そうという動きを始めたのだ。
噂を信じたり、はたまた噂を広めたりする輩のほとんどは修位の低いもの達ばかり。真面目に修錬に励んでいる者は噂などに惑わされる事はなく、己で見たもの感じたもので物事を判断する。劉亮はまさにそうだった。
「お前には色々と噂が流れていたが、ほとんどデタラメだった」
「おや、噂の事をご存じで?」
「まったく荒唐無稽な話が多かった。衛玉は人の肉を食べるだの、実は男が好きで毎晩夜には誰かの部屋に入り浸っているだの……あんなものを信じる方が馬鹿だ。お前は根っからの女好きだというのに」
「ちょっと待ってください。最後のなんですか?」
「お前が女好きだと言ったが。何か問題が?」
「………いえ、何も問題はありません」
(なんですかその噂!私が毎晩男の部屋に?!ありえない!)
女好きというのもなんだか納得できないが、今は触れないでおいた。
不幸中の幸いで、劉亮はどうやらその噂を全く信じていない。それは救いだったが、嘘と本当が混じっているので衛玉は冷や汗をかいた。衛玉は男性しか好きにならない。これは真の話だった。
(誰か、勘の良い人がいたのだろうか………)
衛玉が劉亮と出会ったのは15歳の春。まだ幼さの残る劉亮は愛らしく、そして今と変わらずまっすぐな信念を持った少年だった。
(劉亮だけは、昔から私と食事を共にしてくれていた)
まだ劉亮が純粋に衛玉兄さん!と慕ってくれていた昔を思い出す。劉亮と過ごしたその日々は衛玉にとって何にも代えられない大切な思い出だった。
***
―――1582年。天正10年。織田信長の死亡で世は乱れていた。
また天下を求め、あらゆる武将が戦争を起こすのではと人々は安寧の地を求めた。唯一安全と言える場所、劉門派の生徒になるため入試試験を受けに来る者が毎日絶えない。
一歩入れば迷宮入りしてしまうとても危険な山があった。
その名は劉霊山。劉家の祖先が施した強固な術が張られている。
相当の秘めたる力を持っている者でなければそうそう突破できない。通行札という一部の者が所持している札があれば道に迷う事はないが、持っている者はごくわずかだ。
そのため一度劉霊山を下りたあとは自力では二度と戻ることができない。
もし戻りたければ己の師に劉霊山を下山してもらい、道に迷わないよう迎えに来てもらわなければならないのだ。
入るのが厳重な劉派だったが、入門者がどっと増えた時期には修士として大成するかどうかの見極めが緩くなってしまう。安定した食事と仕事にありつくためという理由で入門してくる者が半分以上だった。
本来ならそのような者は山の門さえくぐる事も許されないが、今回は状況が違った。人々は魔物から襲われる不安だけでなく、人間同士の戦争にも不安があったのだ。
もともと人助けを生業としている劉家一門。仙人になる見込みのある者は例え入門時に性格に難があるとわかっていても、良心から門派生として何人もの人間を受け入れてしまったのである。
そして性格に難がある生徒はおのずと劣等感を抱き、才能の塊である衛玉を妬み、いじめをするようになった。
劉霊山は劉家が管轄しており、劉家の本家と門派が住まう場所でもある。
湖と自然に恵まれた広大な土地を過ぎたその先に、門派生が住まう家が点々としている。その一つの古びた建物の庭で、一人の青年がフウフウと火に息を吹きかけていた。
彼は足音に気づき、顔を上げる。
「衛玉兄さん」
『劉』の姓は取り上げられて、『衛』に戻ってしまった。片親が魔族だという事が長老に知られてしまったからだ。
劉亮は姓が戻った理由を知っているというのに、今までと分け隔てなく接してくる。衛玉は笑顔で彼を迎えた。
「阿亮。今日も来たのですか?」
衛玉は親しみを込め、いつも劉亮の事を瀏玲と呼ぶ。この国ならではの呼び方だ。
「ケガをしたと聞いた」
両手いっぱいに治療薬や白い布を持っている。衛玉はプッと右手の甲を口に押えて笑いをこらえる。
「ほとんどかすり傷ですよ。でも、嬉しいな。ありがとう」
やってきた劉亮の頭を撫でてやり、両手にあるそれらを受け取る。足元にあったカゴにまとめて置いた。
「頬が切れている」
衛玉のまだ少年とも呼べる彼の頬に、一本の赤い線が走っていた。
「かすり傷です。放っておけば治りますよ」
「よく効く傷薬があるんだ。ぬってやる」
劉亮が持ってきた治療薬は手元にあったカゴにどさりと置かれている。包帯として使う白い布を腕にひっかけ、塗り薬を手に持つ。丹念に頬に塗った後、劉亮が言う。
「腕を出せ」
「はいはい」
せっせと薬をぬってくれる人など劉亮ぐらいだ。多方面から感じる蔑みや殺気で心は殺伐としていた。
(優しい触り方だ)
無骨なこの少年は何かと細かな作業が苦手なのだが、丁寧に塗り薬をぬってくれていた。衛玉は心がゆっくりと癒えていくのを感じる。
「織田の軍がやってきたと聞いた。衛玉兄さん一人でひねりつぶしたと聞いたぞ」
衛玉は首を振る。織田軍は劉霊山に来ていないと言った。
「ひねりつぶすだなんて。ただ襲ってくる前日に、兵全員に美味しい梅干しを届けただけですよ」
織田信長の興味はすさまじかった。そして、誰も信じられなかった事が起こったのである。織田は仙人の力を秘めた能力を持っており、難攻不落、一歩入れば一生出られないと言われていいる劉霊山を突破したのだ。織田信長はいったん自分の城へ戻り、もし劉一門を自分の配下に出来ればどんなに面白いだろうと考えた。
調子に乗った織田信長は兵を集め、劉門派を我が物にしようとしたのである。当時、魔族の動きが活発になり、各国全土に強い修士が派遣されていた。
手薄になったところを狙われたのだ。
いち早く情報を集めた衛玉は5千人分の毒の入った梅干しを兵に送り付けたのである。その後衛玉は織田軍に乗り込んだ。大多数がその梅干しを口に含んだのを見計らい、腹痛でばたばたと倒れ弱った状態の兵を倒しきった。
加勢を要求することもなくたった一人で織田信長と対峙し、「次に我らを狙えば呪いだけではすまない」と脅して二度と干渉しないという約束をとりつけたのである。その数日後、織田信長が死亡した事で劉一門に歯向かうと祟りが起きるという噂が流れるまでになった。
少しばかり傷を負った程度で、よく怪我をする衛玉にとっては傷というほどのものではない。しかしまだ戦いに出た事のない少年は心配をそうな顔をして衛玉の傷の処置にあたっていた。
「できた」
「相変わらず不器用ですね」
「なんだと」
巻かれた布の結び目が緩い。そして巻き方も不格好だ。しかし料理を続ける分には支障はない。
「芋と豚の塩煮込みを作っています。一緒に食べますか?」
「食べる」
***
「衛玉。…おい、衛玉。」
「え?あ、はい…えっと、なんでしたっけ?」
美しい昔の思い出にうっかり思いを馳せてしまった。衛玉は少し慌てて返事をする。
「だから、将来を共にする予定の女はいるのかどうかと聞いている」
「へ?そんなの一生作るつもりはありませんよ」
(旦那さんになってほしい人はいますけど)
「なぜそんな事を聞くのですか?」
「もしいたのなら、別れの挨拶ぐらいはさせてやろうと思った」
「それはご親切にどうも」
劉亮が食べ終わった頃に衛玉は聞いてみた。
「あの、一つ聞いていいですか?」
「なんだ」
「私って、まだ………貴方の師兄ですか…?」
「違う」
劉亮の一言にガンと何か固いもので叩かれたような痛みを感じた。
「そうですよね‥‥」
ちょっと涙目になってしまう衛玉だった。
***
忘れ薬はあと一粒。もう一度だけ、また劉亮に甘える事ができる。
歩きながらカラカラと薬が入った瓶を振る衛玉に劉亮が急かした。
「何度も言っている事だが、もう少し早く歩けないのか」
「貴方の長い足と私の平均的な足の長さを比較してからモノを言って頂けませんかね」
「背が低くても、男だろう。せっせと歩くくらいできるはずだ」
「頭2個分もあなたと身長が離れているのですよ。無茶言わないでください。協力してあげてるんですから、歩く速度くらい合わせてほしいです。あともう足が疲れたので休みたいです」
「駄目だ」
言い合っていたら、目の前に年頃の女の子が道を阻んできた。
「旅のお方、今は通らないでください」
舞い上がる煙が見えた。
進む方向の先には50人ほどの人が集まり、皆手を合わせている。
僧がお経を唱えていた。
「どなたかの葬儀ですか?」
衛玉が女の子に尋ねる。
「ええ…私の祖父と祖母です。代々、私たちの村はこの先の道にあるお地蔵様の前で焼香する決まりがあって…。旅のお方には申し訳ないけど、今は道をあける事ができないの」
「そうでしたか‥‥」
衛玉は劉亮を見て言う。
「劉亮、宿で頂いたお菓子を食べましょう。ちょっと休憩しませんか?」
「ああ」
「すみません」
女の子が頭を下げる。
「いいですよ。ちょうど足が疲れたってこっちの男性に文句言ってたところなんです」
「お前はいつも文句ばかりだろう」
衛玉は木の木陰に座り、乾坤袖から風呂敷包みの箱を出した。
宿の女将がくれた栗おこしを半分に割り、劉亮に手渡す。劉亮はなぜかすぐに口に入れようとせず、衛玉をいぶかしむように見ていた。
「どうしたんですか?栗おこし、嫌いですか?」
「いや…」
「変なものなんて入ってませんよ。ほら。」
ぱくりと半分に割った残りの栗お越しを口に入れる。ほのかな栗の甘みが口の中にほろりと広がる。
「いらないならもらっちゃいますよ。劉亮、あなた甘いもの大好きでしょう?いらないんですか?」
「‥‥いる」
衛玉はクスクスと笑い、香炉に抹香を落とし入れ、合掌をしている人たちを遠くから眺める。
「劉亮、なぜ焼香なんてする必要があるかご存じですか?」
「あの世でも死んだ遺族が幸せになるよう祈るためだろう。そして己の邪気を取り払い、精神と肉体の穢れを取る」
「うん。正解です」
衛玉は少年時代から物知りで、まだ衛玉が門派にいたころはこうして問題を劉亮に出してやる事があった。
こうして経を聞いていると、自分の命がはかなく短いものであった事を思い出す。
採取した寿命は衛玉が発明した「寿命囊」に入っている。寿命囊は乾坤袋に入ってはいなかった。恐らく劉亮が持っているのだ。
衛玉の寿命はもってあと数か月。力を使えばもっと寿命はみじかくなる。それまでには自然発火の事件は解決できるだろうと衛玉は見込んでいた。
己の命があとどれだけで尽きるのかを言えば、寿命囊を返してくれるだろうかと衛玉は考える。でももし、劉亮が返さないと言ったらどうしようと、衛玉は怖くて寿命囊を返してほしいとは言えないでいた。返してもらえなければ、劉亮に「死ね」と言われているも同然なのだから。
寿命囊の事はいったん忘れ、一つ劉亮に願い出る。
「劉亮、お願があるんですけど」
「お前のお願いは一日に何回あるんだ?」
衛玉は困ったように笑った。
「今度は冗談でなく、本当のお願いです」
「内容によっては聞き入れてやれない」
「ケチですね。私の焼香がそんなに嫌ですか?」
劉亮は一瞬口を左右に引き結ぶ。
焼香をしてくれと願い出るとは思わなかったのだ。衛玉はいつも劉亮の考えの及ばない事を言ってくる。冗談のつもりかどうかを見極めるように劉亮は彼を見つめる。
「劉亮、あなたは正しい。他人の寿命を奪うなんて、魔物とたいして変わらない。その自覚は私にもあるんですよ。だからもし私が逃げきれずに誰かに捕まったその時は、それはそれでいいと思っていたんです。でも、長生きをしたい気持ちは消えません」
「なぜそこまで長寿を願う。金丹を持っているお前なら、200年は裕に生きられるだろう」
「200年どころか、私の寿命はもう過ぎてしまっているんです」
「どういう事だ?」
衛玉は笑ってごまかす。
「確実に、貴方より先に私が死ぬという事です。その時は焼香、お願いしますよ。あの世で美味しいものをいっぱい食べたいんです」
衛玉は立ち上がり、尻についた土をパンパンと落とす。
「葬儀が終わったようです。行きましょうか」
先にスタスタと道を歩く衛玉の背を見て、劉亮もすぐに立ち上がる。
足がふらついた。疲れは全く感じていない。衛玉がこの世にいない未来を考えた途端、足に力が入りにくくなったのだ。なんとか気を保ち、前へ進む。一歩足を前に出すと、いつもの調子で歩きだす事ができた。
「衛玉」
「なんですか?」
「これを」
劉亮が差し出したそれは、衛玉が今もっとも欲しいと思っていたものだ。
「これがあれば、お前はあと何年生きられる?」
衛玉は両手でそれを奪うように掴んだ。そして中身を見る。
「良かった…減ってない」
衛玉は寿命嚢を大事に胸に当て、ほっと息を吐いた。
「ありがとう、劉亮。これであと20年は生きられる」
20年。長く聞こえるが、結丹した身である衛玉には短すぎる年月だ。
「なぜそんなにも寿命が短いんだ。お前の修位は高い。心配しなくとも嫌でも長生きをする事になる」
理由を話せば長くなる。劉亮に知られているとはいえ、己が魔族の息子である事をあらためて口にして言うのは嫌だった。衛玉は話を変える事にした。
「そんなことより、劉亮。お願いがあるんですけど~…」
「お願いごとが多すぎやしないか」
疲れた、腹がすいた、もう歩きたくないなどなど。様々な欲求を劉亮はぶつけられていた。なぜこんなにもひ弱な男を捕らえるのに何年もかかったのか劉亮は不思議に思う。
「お金かしてくれません?」
「なぜだ」
「欲しいものがあるんです」
「内容による」
「薬を調合したいんです」
ペラリと紙を見せられた。紙に記載されたそれら材料は一見なんの問題も無さそうだが、衛玉がまた悪さを考えているだろうと劉亮は感じて却下する。
「駄目だ」
「どうしてですか?もしかして、劉亮……私をすぐに処刑しなかったから、おじい様からお金取られちゃったとか?」
「無駄な詮索をするな。金は十分にある」
そこへ、一人の青年が話しかけてきた。
「そこの…貴方様はもしや、劉家の若様ではありませんか?」
劉亮とさほど年が変わらない、まだ若い青年だった。
「ああ、そうだが…あなたは?」
「これは申し遅れました。わたくしはこの村の村長、矢部(やべ)と申します」
「まだお若いのに。村長なんですね」
衛玉が口をはさんだ。
「ええ。まだまだ先だと思っていたのですが、村長だった祖父はもう死んでしまいましたから。‥‥あの、劉さん、魔物退治の依頼をしたいのですが」
「何か事件があったのか」
「事件…なのかはわかりません。でも、もしかすると、『夢食い』に憑かれてるかもしれない人がいるんです」
「夢食い?珍しい。良い魔物に取りつかれましたね。あの魔物は毎度いい夢を見せてくれるから、安眠できるんですよ」
矢部は大きく首を振った。
「安眠にもほどがあります。父の様子がおかしいんです。一日に必ず数回起きては来るのですが、食事と厠をすませたあとはずっと眠っているんです」
「なんですって?なんて贅沢な。食事を取り上げてしまえば治るのでは?」
「ええ。試してみました。けれど、父は食料を集める事より、眠る事を優先するんです。『小夜子(さよこ)が俺を待ってる』と。食事を用意しなければしないで、何も食べずに数分座り、また眠り始めるんです。やせ細っていく姿が痛ましくて、つい食事を出してしまうんです」
「さよこ?誰ですか?」
「私の母です。父とは喧嘩別れをして、私が10歳の時に家を出て行ったきり戻ってきていません。なのに、先月から父は毎日母さんと会うんだって‥‥これ、夢食いの仕業なんじゃないかって村のみんなと話していたんです。どうか、一度父に何か取り憑いていないか見て頂けませんか?」
「劉亮、これは人助けです。発火事件も大事ですが、もしかしたらこのまま放置しておけば彼のお父さんは残念な結果を迎える事になるやもしれません」
「ああ」
二人は矢部の家へと向かった。
家に入ると、布団でスヤスヤと眠る男性がいた。
「これが父です。本当は父が村長になるはずだったのですが、見ての通りで…」
「働かざる者食うべからずって言葉を書いて顔に張り付けてやりたいですね。私なんか、毎日を生きていくだけでも手一杯だというのに」
タシ、と衛玉がはたくように男性の額を軽くたたく。額に手を当て、衛玉は目を瞑った。しばらくその状態で動かなくなる。
「あの‥‥あの方は?」
「魔物に関してはアイツの方が詳しい。しばらく様子を見ていなさい」
「は、はい‥‥」
10分ほどして、衛玉は目を開けた。
「矢部さん」
「は、はい!」
「次にこのお父さんが起きたらぜひやってほしい事があるんですけど」
「はい?」
「起きたらそこにあるホウキの柄でおもいっきり突いてやってください。この人、自ら望んで夢を見に行ってる。しかも、『夢食い』をどこかに封じて、自分が毎度見たい夢を見られるように命じているみたいです」
額を触り、魔物の気配を追った。確かに『夢食い』と思わしき気配を感じた。そして聞こえたのだ。”タスケテ。逃げられない。この人死んじゃうかも”と。
『この人』とはおそらく矢部の父親だ。『夢食い』という魔物は人間にいい夢を見させ、その夢で得た生気を食らう。一人の人間に固執する事はなく、転々と宿主を変えて夢を見させる。でなければ憑いた人間が夢に捕らわれ、今の矢部の父親のように廃人と化してしまう。人間に死なれては困る。大事な食事を死なせるわけにはいかない。
夢食いは人間とうまく共存している珍しい魔物だった。
「矢部さん、お父さんが大事にしている何か…木箱とかありませんか?」
矢部はすぐに何かを思い出し、走って部屋の奥へ向かった。
「あった!これだ!」という声が聞こえ、劉亮と衛玉はその声の方へ足を運ぶ。
「わっ!待って!開けないでください!」
矢部は衛玉が最後まで言う前に、しゅるりと木箱の赤いひもを解いてしまった。
すると、瞬時にその箱から黒いもやみたいなものがあらわれる。
「劉亮、部屋から出て!この黒いもやは太陽の下では弱い!目と口を閉じて…耳と鼻も!」
「無茶を言うな!」
鼻と口は片手で塞げるが、耳は左右両側についているのだ。片方の手では到底足りない。
ひゅぽ、塞がれていない方の耳から黒いもやが入り込む。
「あーあ、入っちゃったみたいですね」
外へ出たあと、衛玉が劉亮に言った。
「もし体内に入り込んだら、どうなる?」
「数日は夢食いの餌になります。まぁ、いい夢を見るだけなんですけどね。ただ、その夢に取りつかれると、矢部さんのお父さんのように廃人になってしまう恐れがあります」
「夢程度で己の道を外す事は無い」
「貴方なら、‥‥大丈夫かもしれませんね」
「すみません、すみません、まさかあんな黒い者が出てくるなんて思わず…殺す前に自由にしてしまいました」
「良いですよ。そこまで悪い魔物じゃないですし。それに今回悪いのは貴方のお父さんです。夢食いを封印し、無理やり自分の見たい夢を見せさてたんですから。ほら、あなたの持ってるその木箱、魔物を封印するためのものなんですよ。その木箱に自分の体の一部…髪でもいいんですけど…を、入れると奴隷のように扱う事のできる上等な代物なんですよ」
「詳しいな」
「もちろん。だって私が発明した品ですから」
「お二方!来てください!」
矢部に呼ばれ、劉亮と衛玉は向かった。
「どうしました?お父さん起きましたよね。さっそくそのホウキの柄で…」
「まだ起きないんです!頬を叩いても体を揺らしても!」
「はぁ。まだ夢食いの一部をほかの木箱に封印しているようですね」
衛玉は呆れ、嘆息する。
「探そう」
劉亮が衛玉の肩を叩く。すると衛玉は先ほどの呆れ顔とは打って変わり、機嫌よく「はい」と答えたのだった。
その後夜半まで探したが魔物が封じられた木箱を見つける事はできず、その晩は矢部の家へ泊る事になった。
***
その晩、劉亮は不思議な夢を見た。寝台の上で、衛玉が服をはだけさせて劉亮を待っていた。
『これは‥‥夢?』
これが夢である事は感覚でわかった。夢食いの一部分である黒いもやを体内に入れてしまった事を思い出す。その影響だという事まで理解し、仁王立ちで目の前の男を観察する。
『何をしている?』
『何をですって?見てわかりませんか?』
脱げかけていた服は全てはだけ、劉亮の目はつい衛玉のツンとした胸の先に視線を集中させてしまった。ハッと我に返り、顔を左にそむけた。
『ふ、服を着ろ。はしたない』
(これは俺の夢のはず。衛玉は良い夢を見られるぞと言っていたが…。なぜ衛玉の裸を見なければならないんだ)
『ふふ、言う通り服を着ました。こっちを向いてください』
『!!』
騙された、と劉亮は後ずさる。衛玉は服を全て脱ぎ去っていた。まだ衛玉が劉の姓を持っていた時、何度か衛玉の肌を目にしたことがある。
己はまだまだ子供で、川遊びについ夢中になっていた。体が冷えたままでは風邪をひいてしまうと、衛玉が湯を用意してくれた。順番に湯に浸かり、とても気持ちが良かったのを覚えている。そして衛玉の濡れた髪も、湯が滴る肌もしっかり記憶に刻まれていた。
衛玉のその肌から目を離せない。ゴクリと劉亮の喉が鳴る。
『劉亮、こちらへ来てください』
劉亮は気づけば寝台の方へ歩いていた。衛玉が嬉しそうに両手を広げ、劉亮を待つ。
(これは、夢)
劉亮はそれ以降、何も考えられなくなっていた。誘われるまま衛玉の傍に座り、目を合わせる。衛玉は劉亮の頭を胸に抱えるように引き寄せた。
『いい子ですね』
劉亮は目を瞑った。心地いい衛玉の肌を感じる。
劉亮は細身の衛玉の腰に腕を回した。衛玉が劉亮の頭を抱えたまま、トサリと寝台に横になる。
『劉亮…』
劉亮が目を開けると、衛玉のぷっくりと膨らみのある唇が見えた。ゆっくりと近づいてくる。
『口づけを下さい』
衛玉のお願いに、心臓が一回り大きく跳ねる。劉亮は衛玉の頬を包み、答える。
『いいのか?』
『はい。してほしいです』
その唇に、触れたい。そう思った時だった。
**
「劉亮!起きてください。朝ですッ」
「――――― ッ!!」
衛玉が寝台の傍に肘をつき、劉亮を見下ろしている。
「なんの夢見てたんですか?にやにやしてましたけど」
「なんでもない。それより、夢食いは見つかったのか」
「私も今起きたところですよ。朝ごはん、用意してくれたみたいです。食べに行きましょう」
「わかった。顔を洗って行く」
「はーい。待ってますよ」
衛玉が扉を閉めてすぐ、水場へ向かおうと立ち上がる。
劉亮は己の鼻に違和感を感じた。鼻をつまむようにグっと親指と人差し指で鼻を挟む。指を放した瞬間、ポトリと床に赤い液体が落ちる。
鼻血だ。
「な‥‥ッ」
女性の夢でなく、男である衛玉の夢を見て鼻血をだしてしまった。自分はおかしくなってしまったのではないかと混乱する。まずは鼻血を止めねばならない。上を向き、寝台に座った。己でもわからない感情が働いているのは認めなければならない。
なぜあんな夢を見たのか納得するような理由を適当に見つけ、劉亮は呼吸を整え鼻血を止める事に集中したのだった。
朝食を済ませ、再び夢食いを探す。あと探していないのは食糧庫だ。劉亮が米俵を一つずつどかせ、入念に探す。
「さすがにそこにはないでしょう。米俵何個目ですか?」
50以上もの米俵を持ち上げては別のところに置いている。誰も触らなそうな所を見るべきだという劉亮の提案があった。非力な衛玉は乗り気でなかった。
重い物を持つのが大嫌いだったからだ。
「あった」
「え?!」
劉亮の手元には昨日見つけた木箱と同じものがある。赤い紐で封印されていた。
「そこまでして元奥さんの夢を見たかったんですね‥‥いっそ、本物の奥様を探しに行ってよりを戻してもらえるよう努力すればいいのに」
衛玉は受けとり、木箱の周りにだけ結界を張った。
「解!」
人差し指と中指を合わせ、衛玉が術を唱える。すると結界内で、黒い靄と小さな人型の魔物が現れた。
「はぁ~、せまかった。お二人さんですか?ボクを助けてくれたのは」
「助けたのはアッチ。髪を一束に結っている人です。貴方が夢食いですね」
「うん。ボクが夢食いだ。あのおじさん、サイアクだよ!ボクをこんなところに閉じ込めてさ!それに、ボクに毎度夢で生気を吸われると死んじゃうよって怒っても、解放してくれないんだ。タスケテって念を送ってよかったよ。お兄さんありがとう」
魔物は劉亮に向かって頭を下げる。
「いや…」
魔物に礼を言われるのは初めてだった。なんと返したらいいものかと劉亮は言葉に詰まる。
「お礼にいい夢を見させてあげるよ。昨日の夢の続き、見たいでしょう?好きな人と口づけする寸前で終わっちゃったもんね」
「なにを…」
劉亮は一歩引いた。まさか己の夢が他者に筒抜けになっているとは思わなかったのだ。
「ボクの黒いもやを吸い込んだ人の夢と、その時感じて高まった生気は全て僕の養分になるんだ。だから、お兄さんが見た夢も全部知ってるんだよ。大丈夫。男の人はみんなスケベな夢を見るもんだから。あ、でもお兄さんの夢はぜんぜんスケベな範疇ではなかったかな」
衛玉は目を見開く。
「貴方、好きな人がいたんですか‥‥」
「うるさい。魔物のでまかせだ。好きな奴なんていない」
「顔が少し赤くなってます」
「口を閉じろ」
「いーえ閉じません。それになんですって?口づけ?」
二人の男が言い合いをしている間に、夢食いは両手を上げて結界を解いてしまった。衛玉が集中を劉亮に向けてしまったからだ。
「あ。」
「じゃあね!また逢えたらいいな。さよなら!」
魔物は黒いもやに乗って貯蔵庫から空へと飛んで行ってしまった。
「どうする。捕まえるか」
「まぁいいでしょう。あれは悪い魔物ではりません。人間の生気を吸いますが、その分いい夢を見させてくれるんです。それより…」
また夢の話をぶり返されるのはごめんだと思った劉亮は貯蔵庫を出る。
「発火事件が起こった場所へ向かうぞ」
「さっきの夢の件はまだ片付いてません!」
「俺が誰とどういう夢を見ようと、お前には関係ないだろう!」
恥ずかしさが頂点に達した劉亮はつい、強く衛玉に当たってしまった。衛玉は口を引き結び、眉を下げて下を向く。
「確かに…その通りです」
****
父親が正気を取り戻し、おいおいと息子の胸で泣いているのを見届け二人は当初の目的だった村へ向かう。
向かった先は思っていたよりも繁盛している地域だった。見たこともない食べ物がいくつか売られている。
「ここで二手に分かれよう」
「それぞれで人体発火について聞き込みを行うというわけですね・・。了解です…」
明らかに衛玉の覇気がない。
強めに言った自覚があった劉亮だが、そこまで気を落とすほどきつく言ったつもりはない。解決するには衛玉の力が必要だ。ここはひとつ彼の機嫌でもとっておくべきかと劉亮は考える。
「聞き出しの前に、何か食べるか?」
ピクリと衛玉の耳が動く。
「はい。食べたいです」
顔を上げた衛玉の顔に、劉亮はドキリとした。夢で見た、口づけをせがんだ男がよぎったのだ。
(私は馬鹿か。相手は男だぞ)
劉亮は首を一つふり、今しがた感じた気持ちを忘れようと努める。
「劉亮、あそこ、あそこが良いです。しゃぶしゃぶですって。なんでしょうね?豚って看板に書いてありますし、たぶんハズレではないでしょう。ね、行きましょう」
入るとすぐに従業員が両手をスリスリと合わせ、「いらっしゃい!二名様ですかね?」と聞いてきた。
「はい。しゃぶしゃぶって初めてで、勝手がわからないんです。教えてもらえますか?」
ええ、ええ、もちろん!と男の従業員は世話焼きなのか箸の使い方まで二人に伝え始めたところで話を区切る。
「えっと、ありがとうございます。もうよくわかりましたから」
「ああそうですか。そうですか。ではあたしゃこれで失礼しますよ」
「ちょっと待ってください。今追いかけてる事件があって、少しお話を伺ってもいいですか?」
「ええ、ええ。いいですよ。今は混む時間でもありませんからね。なんでしょう」
この村で連続で起こっている人体の自然発火について、何か知らないかを衛玉は尋ねた。
「ああ…その件ね。よく聞かれるんですよ。行商を営んでる人にね。その手の話はもうあたしの十八番と言っても過言でもありません」
さっそく当たりを引けたかと衛玉は目を輝かせる。
「なんでもいいんです。知ってることを教えて頂けますか?」
「いいでしょう!」
従業員の男は両手を広げ、なんとも嘘っぽい話を繰り広げた。聞いていて楽しいが、作り話なのが丸わかりだ。冒頭から、なんとも嘘くさかった。仏様がなんやらと話しはじめた時点で衛玉は残念そうな顔をした。従業員は意気揚々と話した。「仏様からお告げありましてね。『今日は人が燃える事件が起こるから、気を付けなさい』と宣告されたんです。夢でね。その日は仕事が休みで、愛想の良い魔物と出会い一緒に握り飯を作ったんです。鮎を釣りに行ったり、笛を一緒に吹いたり…楽しかったんですよ」とにかく発火事件と関係の無い事ばかりをベラベラと喋り続ける。
「あの~・・・発火事件については?」
「おっとそうでしたそうでした。そのね、実はここだけの話なんですがね…」
突然声の大きさを落として話し出す。今度こそ実のある話でありますようにと劉亮と衛玉は願う。
「その愛想の良い魔物と別れたあと、あたし見たんです。その日いちにち中一緒に遊んだ魔物が、空飛ぶ人間に襲われていたんです!その人間は不思議な札を私の友に張り付けて、川へ落っことしたんです。なんて酷いんでしょう!あたしは助けようと走りました!でも、川の流れが早くて‥‥今も時間があれば探していますが、ずっと見つかっていないんです」
ずび、と従業員が鼻をすすった。本当の話のようだ。
劉亮と衛玉は目を見合わせる。
「どうか、土左衛門になって、川からあの魔物の死体が出てこないよう祈るばかりです…あたしにゃそれしかできませんからね‥‥その数日後です。魔物を襲った、空飛ぶ人間が火だるまになったのは。その場で背が高いお面をかぶった男の人と、女の子が戦いを始めたんです。店の前でおっぱじめましたからね。現場にいたんですあたし。摩訶不思議でしたよ。女の子も、お面をかぶった人も、どちらも空を飛ぶんですから」
空飛ぶ人間---つまり霊力を扱い、刀で空を飛べる人間の事だと二人はすぐに把握する。火だるまになったのは劉漢で、面をした者と対峙したのは瀏玲で間違いない。
「その、友達になった魔物の名はなんというんです?」
「名前なんか、お互い名乗ってません。あんた、お前、で呼び合ってましたから」
劉亮が口を挟む。
「男か女かだけでも教えてくれ」
「男でしたよ。年も背格好はあたしと一緒ぐらい。なんだか顔も私に似ていたような‥‥?あ!あたしはれっきとした人間ですからね!」
「わかってますよ、疑う余地なくあなたは人間です」
妖気がまったく感じられない。彼が人間である事は一目でわかる。
「ほかに、人体発火について知っている情報は無いか?」
「いえ、これで終わりです。すみませんね、こんな話しかできなくて」
「十分です。ありがとうございました」
従業員が肉と野菜が入った鍋を取りに一度厨房へ戻る。
「初回から、幸先良いですね」
「ああ。だが、一人の話を全て真に受けるのは良くない」
「わかってます。あとで二手に分かれて事情聴取はちゃんとしましょう」
従業員が持ってきた品を見て、ぐうぅと衛玉の腹が鳴る。たっぷりの昆布ダシに、彩り豊かな野菜が詰まってる。そして、隙間に一枚ずつ従業員が目の前で一枚ずつ隙間に肉を投入していく。
「わぁ!なんて美味しそうなんでしょう。大当たりですね!劉亮」
「ああ」
すぐ隣の個室から、女性客の声が聞こえた。
「ネェあなた知ってる?三堂のお山にある、光る木のお話」
「ええそれはもちろん。その木の下で気持ちが通じ合うと、生涯を添い遂げる事ができるんだとか?」
「そうそう」
「私には許嫁がいるんですけどね、どうにもお相手は親同士の決めた結婚に納得がいってないようで…私は絶対にその人の奥さんになりたいの。おもいきって、彼を連れてあの光を放つ木の下で好きだと言ってしまおうかしら」
「いいわね。でもあそこは三堂様のお山だから、許可を頂かないと」
「そうだったわね‥たしか、うん千という大金を払わないとお山には入れないのでしょう?」
「そうなのよ。残念な話よね。百くらいなら用意できるけど、千はちょっとね」
「空でも飛べたらねぇ」
衛玉は聞き耳を立てて隣の女性陣の話を頭に入れた。
(三堂の山…ですか)
「衛玉、肉がちょうどいい加減だ」
聞き取りの際に、三堂の山の噂についても聞きこもうと決め、意識を鍋に移した。
衛玉は笑顔を崩さないようにと努力した。せっかく美味しいものを口にしているのだ。空気を悪くさせたくはなかった。しかしどれだけ気を紛らわそうとしても、劉亮の好きな人について考えてしまう。
いつかは劉亮だって、嫁を貰い、お家の義務を果たすのだろうと衛玉は覚悟をしていた。しかし、劉亮が誰かを好きになるというのはどうしても嫌だと感じたのだ。
きっと劉亮の事だ。徳川家康からもらったおなごを自分の嫁として受け入れなければならない立場を考え、きっと好きな相手が出来たとしても一生気持ちを伝えないだろう。だが、劉亮は伝える事のできなかった気持ちを胸に抱いたままずっと相手を密かに想い続けるのかと思うと胃がキリキリと痛む。
(忘れ薬はあと、ひと粒)
衛玉は決心した。もし今夜、月が出ていたなら――――――――――。
***
二手に分かれての聞きこみを続けていた。気づけばとっぷりと日が暮れている。酉の刻に宿で落ち合う約束だ。
宿へ戻ったがまだ劉亮はいない。ガラリと戸を開け、空を見上げる。
「綺麗ですね」
三日月が出ていた。美しい曲線を描き、まるで笑っている口元のようだ。
(大丈夫。言っても、どうせ忘れてしまうのだから)
本当は、死の直前に言うつもりだった。しかし劉亮に好きな相手がいると知り、いてもたってもいられなくなった。せめて、劉亮が初めて告白を受ける相手は自分でありたかった。叶わない恋だとわかっていたとしても。
女の体でない事をうらめしく感じた。結婚をする事が出来なくても、劉亮に恋愛対象として意識してもらえる可能性もあったからだ。
フウ、と意気消沈して空を見続けていた。ふと隣に気配を感じる。
「月を見ているのか」
「はい。三日月を。はっきり見えて、綺麗ですよ」
「どれ」
劉亮も戸から空を見上げる。精悍な整った顔の劉亮と、美しく発光する月が同時に目の中に飛びこんだ。なんて贅沢な絵なのだろうと衛玉はホウと見惚れる。
確かに綺麗だと言って劉亮は戸から離れる。
「聞き出しの成果はどうだった?」
「なんとも言い難いですね。やはり今日一緒に聞いたあの従業員の話が一番有力です。ただ、このあたりで魔物と劉玲が戦ったのは本当のようだという事はわかりました」
「そうか。俺は新しい情報を仕入れたぞ」
「なんです?」
「突然少女と面をかぶった人間が空を舞って戦い始めた際、近くに二本足で立つトカゲがいたそうだ。身長は人間の膝丈くらいだったらしく、人語を話していたと」
「へぇ。人型でない魔物が人語をね…」
「なんだ。驚かないのか?」
「ほかに一人・・・いえ、一匹、人語を話す猫が身近にいたので」
「次の情報はお前もきっと驚くだろう。そのトカゲ、火を噴いて相手…劉玲を攻撃していたらしい」
「なんですって?火を?馬鹿な」
火を噴く魔物など見たことも聞いた事もない。予想通りの反応に劉亮は胸を張る。
「これは自然発火ではないのかもしれないですね」
「ああ。トカゲは人型の魔物と行動を共にしているそうだ」
その人型は空を飛び、北西の方へ飛んで行ったという情報までが、劉亮が今日仕入れた情報の全てだった。
「北西…京の都の方角ですね」
劉亮は頷く。
「と、待ってくださいよ。まさか今すぐ京へ向かうなんて言わないですよね?」
「そのまさかだ。空を飛べばすぐに着く。人命がかかっているんだ。また誰かが襲われ死んでしまうかもしれない。京までの道のりは村もなく、人も少ない」
人通りが少ない道だから空を飛んで行けるぞと言われても、衛玉は行く気にはなれなかった。もう夜なのだ。ご飯を食べて就寝してもいい頃合いである。
「だめ!ぜったいだめです!」
「なぜだ」
「あのですね。魔物っていうのは夜の方が強いんです。しかも今日は綺麗な三日月。月が出る夜はより魔物の力を増幅させるって、劉門派で習いましたでしょう?!」
「そうだが………」
「私は反対です!」
それに、今日は劉亮を連れて行きたい山がある。ぜったいに阻止すべく、衛玉は両手を組んでそっぽを向いて反対の意思を示した。
「‥‥わかった。お前の意見を通そう」
衛玉はやったと心の内で喜んだ。
「ところで劉亮。三堂の山の噂を耳にしたことは?」
ああ、と思い出したように劉亮が返事をする。もう休む気なのか、寝台に座り、靴を脱ぎ始めている。
「年中光る木があるという山か」
「そうですそうです。一度見に行きませんか?手掛かりになる可能性は低いですが、不思議な力が働いているのかも。ね、行きましょう?」
あまり乗り気ではない劉亮を無理やり引っ張り出し、二人は刀に乗って山の頂上へ向かった。
「やはりお山のてっぺんは少し・・・息苦しいですね」
「修行が足りないぞ」
「劉亮門派のお山から離れて何年も経つんです!修行は十分にしてきましたよ。あ!あれですね」
真っ暗な闇夜の中で、際立って目立つ一本の木があった。見事な桜の木だ。
その桜が放つ木のおかげであたりが明るい。不思議な現象に、劉亮は感嘆の声を上げた。
「すごいな。どうなっているんだ?少し霊力を感じるが」
「ふむ…誰かが術をかけてますね………かけたのは相当の術師でしょう。こんな難しい陣、よく思いつきましたね」
木の周辺に、術式が円を描くように書かれていた。
「美しいが、それだけだな。宿へ戻るぞ。腹が減っただろう」
急に、衛玉は緊張してきた。ぐ、と息を飲み込む。
緊張をなくすべく何度かスーハーと息を整えた。
「り、劉亮!あの‥‥こちらへ来てください」
腕を引かれるまま、劉亮は歩く。
木の下から見上げる暗闇の中の桜は格段に美しかった。
「劉亮、ごめんなさい」
両手をぎゅっと握られ、劉亮の胸がドクンと跳ねる。
「何がだ?なにかしでかしたのか?」
「まだ、してません。今から、します…というか、‥‥言います」
劉亮を見上げるのその面持ちは真剣だった。衛玉の頬は高揚し、目が少しうるんでいる。
ふいに、この山の噂が頭をよぎる。月明かりの夜、三堂の光を放つ木の下で結ばれた二人は生涯を共に添い遂げ、幸せになれるという噂だ。
濡れた大きな瞳が伺うように劉亮を見ていた。突然、衛玉の容貌が完璧なほど整っているのだったと、思い出したように劉亮は息を飲む。
「聞いたら…忘れてほしい」
「忘れてほしいなら、なぜ言うんだ…?」
「あなたに告白する人は、私が一番でありたかった。それだけです。叶う恋だとは………最初から思っていません」
劉亮は鼓動の音が大きく感じた。ドクドクと耳に響くほど。
ふっくらとした血色の良い唇に目がいく。その口元がゆっくりと開かれた。
「―――好きです、劉亮。貴方の事を、愛しています」
とす、と劉亮の胸に衛玉が飛び込んできた。
「どうしても、言いたくて。‥‥おや?劉亮、心臓の音が…やっぱり男の私でも、告白されると鼓動がこうなるものなんですね」
劉亮は何も言えず、ただ衛玉の肩をつかんで停止していた。
「!」
劉亮は己の体に自由がきかなくなった事に気づく。この感覚には覚えがある。
また、「止」と書かれた呪符を体に張られたのだ!
同じ失態を繰り返してしまった事に情けなさを感じた。しかし、なぜか、衛玉にこうして抱き着かれても、嫌な気はしない。むしろ‥‥
「劉亮。ごめんなさい。あなたと口づけを…してみたいです」
「‥‥ッ」
衛玉が背伸びをして劉亮の唇に触れようと顔を近づける。体が動かないのだ。声を発する事もできない。劉亮はぎゅ、と目を瞑った。
「‥‥?」
数秒待つも、何も起きない。ちらりと目を開けると、泣きそうな顔をした衛玉が見えた。
「やっぱり、やめておきます。初めての口づけが私だなんて、貴方が可哀想だ」
何も可哀想な事など無い、とその時劉亮は思った。
「つきあって頂いてありがとうございます。ハイ、またこれ飲んでください」
グ、と口の中に一粒入れられる。
「前と同じ忘れ薬です。私が告白をした事なんて、すっかり忘れられます。飲み込んで」
鼻をつままれ、以前と同じように竹に入った水を口に入れこまれ無理やり薬を流そうとする。今回も舌は動いた。劉亮は舌の裏に薬をしまいこみ、飲み込んだふりをする。
「‥‥じゃあ、おやすみなさい」
トン、と額を小突かれると急激な眠気が劉亮に襲った。
ぜったいに、忘れ薬だけは飲みたくなかった。怪しい薬を飲まされるのが嫌だという感情からではない。衛玉が見せた心の内を、ぜったいに忘れたくなかったのだ。
意識が朦朧とする。眠たくて仕方がない。
衛玉にバレないよう、劉亮は倒れる間際、地面に向かってペッと薬を吐き出したのだった。
****
霧が濃い。地面はツルツルとした石のようなものでできている。中央には柔らかな布団があった。
『ここは…』
『夢だよ、劉のお兄さん』
『お前は‥‥夢食い!』
夢食いは柔らかい髪の毛をクルクルといじり、ふわりと宙を舞う。
『ふふ、そうだよ。お兄さん、まだ僕の力が取りついてるんだ。今夜はね、お兄さんに特別な夢を見させてあげようかなって思ってるんだ』
『特別な夢?』
『うん。そう。お兄さん、あの半分魔物の…えっと名前は…』
『衛玉の事か?』
『そうそう、衛さん。その衛さんと夢を繋いであげたよ』
『どういう…意味だ』
『そのままの意味さ。今夜会う人は、君の作った想像の人物じゃなく、本人ってことだよ!衛さんの生気は吸い取れないけどね‥‥他人と夢を繋げる力は結構体力使うんだ。だから今回だけ、特別!あ、来たみたいだよ。じゃあね。楽しんで!』
『おい!』
『…劉亮?』
そこに現れたのは、衛玉だった。
『ああ。これ、夢ですね』
やはり衛玉も修行をした身。夢かどうかの判断はすぐについたようだ。
『ふふ、夢でも劉亮の事を考えるなんて。よほど私は貴方の事が好きなようですね』
完全に相手は己の作った想像上の人物だと思い込んでいるようだ。
『えーっと…中央には一つの布団と二つの枕ですか。なるほど。今日、貴方との口づけを諦めたから、せめて夢でシたいと私は考えたわけだ』
坦々と己の夢の分析をしている。いたって冷静だ。
こちらは相手が本物だとわかっている分、かなり緊張しているというのにと、劉亮は息を吐く。
『劉亮、こちらへ』
手を握られた。すでに衛玉の気持ちは知っている。手を引かれ、すとんと布団の上に座り込む。
『劉亮、大きくなりましたよね。少し前までは、私より小さかったのに』
頬を撫でられる。触れられた部分がカッと熱くなっていくのを感じた。
『劉亮、もし嫌じゃなかったら、私を抱きしめてくださいませんか…?』
言う通りにした。嫌ではなかったからだ。
『夢の中の貴方はとても素直ですね』
スリ、と満足そうに衛玉は劉亮の胸にすり寄った。
『嬉しいです…』
ズッ、と鼻をすする音が聞こえた。見ると、衛玉の目元からツゥ、と涙がこぼれていた。
『どうした?どこか痛むのか』
『いえ、違います‥‥幸せで‥‥こうして、抱きしめてもらえるだけで、…』
『衛玉‥‥!』
劉亮は力強く衛玉を抱きしめた。今まで気づかないようにしていた感情があふれ出す。
衛玉のアゴに手をかけ、クイと上を向かせた。
『ンッ‥‥?!』
これは夢だ。後先の事など考えなくてもいい。そう思ったら、自然と衛玉に口づけを落としていた。
『ふ、ぁ‥‥‥ん、む‥‥‥劉亮‥‥、劉亮‥‥っ』
ちゅ、ちゅ、と唇を食んだり吸ったりする度、音が響く。
ある程度の作法は書物で得たが、どのように口づけをすればいいのか、はたまた手順などはこうすべきなど、全ての学んだ内容は無と化した。したいように衛玉をむさぼった。
食べるように、衛玉のふっくらとした唇に口づけ、吸い、舌を差し込む。
一つ一つの変化にビクビクと体を震わせている衛玉の様が可愛らしく、愛しいと感じた。
『あ?!』
劉亮はズボと衛玉の衣服の中に手を入れ、衛玉自身をつかむ。
口づけにより興奮したのか、衛玉のソレの先端から、粘り気のある液体が漏れ始めていた。
『り、劉亮!そこは‥‥!いくらなんでも‥‥アンン!駄目、駄目です…』
恥ずかしい、と衛玉は涙を流し始めた。力が入らない両手で劉亮の手をどかそうとするが、生半可な力では到底適わない。
『フンン‥‥フ、ン‥‥ウゥン‥‥っ』
もう手をどかす事はできないと諦めたのか、今度は劉亮の胸元をつかみ、顔をおしつけて快感による声を我慢しようと努力をし始めた。
ガクガクと内ももが震え、足先をに力が入る。
上下にこする度、衛玉から溢れた愛液が粘り気のある音を出した。
『劉亮…あ、ん…劉亮…!』
ビュク、と衛玉の先から白濁が放たれる。ぴくぴくとその間体を震わせ、眉を寄せて甘い息を吐いた。
『今度は、俺のを』
『は、い………ンッ』
劉亮は服をずらし、はちきれんばかりのソレを衛玉の手をひっぱり、触らせる。
『触っても…いいんですか?』
衛玉がおず‥‥と力の入りきらない手で劉亮のソレを包む。両手で優しく撫でてみた。すると劉亮が「くッ…」と息を飲む。
感じてくれているとわかり、衛玉は嬉しくなった。
それから、時間がくるまで二人は口づけし、お互いを思う存分に触り合ったのだった。
***
チチチ、とスズメの鳴く声がした。
起きたのは同時。
まだ寝ぼけてる二人は甘い空気を放っている。
「劉亮‥‥ん」
衛玉が両手を劉亮の首に回す。ついさきほどまで、一糸まとわぬ姿でぴったりとくっついていたのだ。恥ずかしさなど無かった。劉亮も同様だ。口づけをせがんでいるのがわかり、衛玉の腰を片手でつかんで顔を彼に寄せた。
コンコンと扉を叩く音がした。
「お客さん、早く朝食を食べに来てください。もうすぐ時間が過ぎますよ」
宿の従業員の声で、ハッと二人は覚醒する。
「あ…おはよう、ございます」
衛玉は両腕を下げ、ぎこちなく挨拶をする。至近距離だった。もう、今にも口づけができそうなほど。
劉亮は驚き、パッと衛玉から離れる。先ほど見ていたのは夢で、目の前にいるのは現実の衛玉だと理解した。
「なぜ、同じ寝台に?」
「あなた、倒れこんじゃったんですよ。突然眠気が襲ったみたいで」
「‥‥倒れこんだ?」
記憶を辿る。
(いや、違う。衛玉が俺に告白の件を忘れさせるために、忘れ薬を飲ませようとしたんだ)
額をトンと小突かれたときに睡眠関連の術をかけられ、倒れたのである。
飲み込まず、地面へ吐き出した。幸い暗かったこともあり衛玉には気づかれなかったようだ。
「あなたを運んでいるうちに、私も眠くなってしまって。自分の部屋に戻るのも億劫だったので、つい横になって一緒に寝ちゃったんです」
衛玉がむくりと起き上がる。胸元がはだけ、胸の中心にある桃色の突起に目がいく。サッと劉亮は顔をそむけ、ばくばくと鳴り出した心臓を抑える事に努める。
身を整えた時、衛玉は己の下半身を見てビシリと固まった。前を隠すように衛玉は扉へ向かう。
劉亮は察した。己も同じような状態なのだ。
「部屋で着替えてから食事に向かいます。この宿の朝食には時間制限があるようです。急ぎめで来てくださいね」
「ああ」
パタンと扉が閉まったと同時に、バッ!と己の下の状況を確認した。
思った通りシミが出来ている。下履きを脱ぐと、粘着質のある液体が音を立てた。
「はぁ」
この部屋には手洗い用の水が桶にたっぷりと常備されている。手持ちの布を濡らし、体を拭いていく。ふいに、夢の中の衛玉が思い出される。確かにあれは夢の中ではあったが、夢食いの話が本当ならばアレは衛玉本人だったという事になる。
一度治まったはずの下半身がムクムクと元気になりそうになり、劉亮は頭を振って冷静になれと念仏を唱え始めた。
一方、衛玉は先ほど見た夢の相手が本物の劉亮だったとは知らず、いい夢を見たと気分を良くしていた。下半身の気持ち悪さを除けば、最高の朝だった。
「あまり夢精はしないほうなんですけど‥‥」
性欲は10代の頃からほとんどなかった。人生で一度あったくらい。今日のこれが二度目だ。衛玉に用意された部屋にも手洗い用の桶が常備されている。布を絞り、己の放った液体を拭いた。
さっぱりとしてから一階におりると、従業員が声をかけにきた。
「やっと気なすった。もう一度呼ぼうとしてた所なんですよ」
「すみません。ここは朝食の時間帯は決まっているんですね」
「そうさね、辰の刻にはもう朝食の片付けをするって、昨日説明したでしょう。」
「はは、そうでしたね。ちょっと色々あったもので。すみません」
朝食は少し冷めたご飯にみそ汁、きゅうりと白菜の漬物があった。
「おじさん、これはもしかして、栗?」
「ちょっと忙しいから後にしてくれ」
愛想が悪い従業員だと衛玉は感じた。
(瓦版より客を優先したらどうなんですか)
もしも自分が宿屋の従業員なら、もっと愛想よくふるまうのにと思いながら黄色いものを口に含む。
「甘い‥‥!美味しい!これ、なんていう食べ物なんでしょう?」
「栗きんとんだな」
やってきた劉亮が席に座って従業員の代わりにこたえる。
「これが栗きんとん。書物では読んだことがありますよ、その料理名。クセになりそうなお味ですね」
食事を終え、ちょっと気になっていた瓦版を横目で眺める。まだ従業員隣で熱心に瓦版を読み続けていた。
衛玉は驚く。
「ちょ、ちょっと、おじさん、その瓦版貸してください!」
「いやこれは…」
「アンタ!お客は大切にしなさいよ!」
従業員の男は少し嫌そうな顔をしたが、厨房から女将らしき女性の厳しい意見が飛んできて渋々といった顔をして衛玉に瓦版を手渡した。
「劉亮、劉亮、見てください」
「二本足で立つ…トカゲだ」
目は幼い子供のようにクリクリとしていて、可愛らしく描かれている。
「もし実物がこの絵の通りだとしたら、私にこの魔物を殺す事はできませんよ、劉亮、あなたに託します」
「放棄するな」
話をしながら文字に目を通していく。
「この魔物を生きたまま捕まえれば報酬として米一年分、この男を捕らえれば米5年分に牛一頭を褒美として授ける‥‥。なるほど、お上はもう、誰が犯人か気づいていたという事ですか」
「男の顔が特徴的だ」
「和人ではないようですね。完全に、異国の血が入っている」
髪は緩やかで、目は大きい。二重でハッキリとしている。鋭利な耳から、普通の人間ではなく魔物であることが伺える。
頭には見た事の無い形状の布を乗せていた。
海には魔界に繋がる門がいくつもある。
薩摩もそうだった。薩摩は魔界とのつながりが深い地域なのか、魔界と現世を行き来するための門が開きやすい。気づき次第、劉亮ほどの修位の高い者が門を破壊する。今は修士者が住まう国となったが、以前までは魔界と繋がる門が薩摩に開き、魔物がひっきりなしに出現していた。そこへ他国からやってきた修士者が魔物を根絶やし、国を広げていったのである。
門は破壊しなければ、永遠に魔物が出入りしてしまう。海にも同じように魔界とつながる小さな門が自然と生まれる事があった。
海にのまれて死ぬ魔物が多いが、生き延びるものもいる。海には魔物がウヨウヨといるため、そう簡単に海を渡って他国へ来る事は難しい。しかしまれに和の国へ訪れる強者がいる。
海を渡れる魔物は、大抵強い。
「大変なお仕事になってきましたね。きっと強いですよ。戦って勝てるといいですけど」
「どんな敵であろうと、人間を襲う奴は私の敵だ。負けはしない」
朝食を済ませ、京の都に向かう事になった。劉亮の言う通り、人通りが少ない。刀に乗って飛んでも、途中で矢を射られる心配は無かった。
「劉亮は刀で空を飛んでいる時に矢を射られた事があるのですか?」
「一度だけある。お前は?」
「矢はないですね。鉄砲はありますが」
「…当たったのか」
「術で常に体を守っていますから」
劉亮がホッと息を吐くのがわかった。劉亮はいつも衛玉が怪我を作る事を嫌がる。
いつまでたっても変わらない劉亮に、衛玉はクスリと密かに笑った。
運悪く雨が降ってくる。雨風なら問題なく空を浮遊できるが、ゴロゴロと雷までなり出してしまった。
地上に降り、雑木林の中を乾坤袋から取り出した傘をさして歩いていく。
やはり歩くとなかなか遠く、いつのまにか夕方になっていた。ざわざわと木の葉がざわめく。
異様な空気を感じた。暗くなってゆく景色の中、四方からギラリと怪しく光る対の目玉が見えた。
「‥‥劉亮」
「ああ」
衛玉は胸元から呪符を出し、劉亮は刀を抜いた。
複数からの視線を感じ取る。いつでも応戦できるよう、互いの背中を合わせて臨戦態勢を取った。
「来ますよ」
「数が多い。気をつけろ」
バ!と草木の隙間から様子を伺っていた小鬼たちが劉亮と衛玉を襲った。それぞれ小刀を持っている。戦闘知能の高い小鬼だ。こうして鬼同士で集落を作り、人間を襲っては金品を巻き上げる、ずる賢い魔物が存在する。
「2.3‥‥40体はいますね。どうなってるんですか!」
衛玉が呪符を数枚空に投げ、術を唱える。すると、空から雷が小鬼をめがけてドオン!と音を鳴らして落ちてきた。
術を唱える度、一度に5体の小鬼が雷に打たれて丸焦げになる。
「衛玉!雷を使うな。俺を巻き込むつもりか!」
「仕方ないでしょう、こっちは二人!敵は40匹もいるんですから!」
劉亮は衛玉の戦い方に度肝を抜いた。
まさか天候を利用して戦うやり方があるとは知らなかった。
初めて見たその巧みな技は素直にすごいとは思ったが、いつその雷が自分に当たってしまうのかと恐々とする。
突如、ベンベンと勢いのある音がした。振り向いた先には男が楽器を持ってこちらに近づいてきていた。まんまるとした目を持つ、二本足のトカゲと共に。音の正体が琵琶だと気づいた瞬間、体が鉛のように重くなった。
これは聴覚に訴える類の術だと気づき、すぐに耳を塞ぐ。衛玉の動作に気づき、劉亮もすぐに耳を塞いでいた。人間には腕が二本しかない。攻撃が出来なくなった二人は刀に乗って空高く舞い上がる。
「琵琶の音が聞こえなくなるまで遠くへ逃げましょう!」
「わかった」
耳を塞いでいても、口の動きで多少は何を言っているかはわかる。劉亮は衛玉の後ろに続く。
「衛玉、逃げられそうもない。耳を塞ぐ術は知らないか」
結界が張られている。さらに上空へ上がる事は不可能のようだ。
今日かな結界だった。解けない事もないが、術式の解読に一日はかかりそうである。
「ありますが‥‥まったく耳が聞こえなくなりますよ。長ければは1時間は耳が聞こえなくなります」
「かまわない。自分にもそれはかけられるのか」
「かけられます」
呪符と何やら黒くて細い棒を乾坤袖から取り出す。
「その棒は?」
「万年筆」
「私が作りました。墨や血がなくとも文字が書けます」
「変わったものを作るな‥‥」
サラサラと本当に墨も無い所で書き始めた。衛玉がハ!とその呪符を劉亮に向けると、声がまったく聞こえなくなる。
「敵が来ましたよ。しかも、大物だ」
衛玉の口元を見て、何を言ったか劉亮は理解する。衛玉も己に耳が聞こえなくなる術をかけた。
この国ではあまり見た事の無い風貌の男だ。髪は金で、目は青い。
そして、耳が尖っている。人間の形をした、魔物だ。
「初めまして。こんにちは。そして………」
瞬間移動のような速さで接近される。
「いただきます」
衛玉の背後に回り、金髪の男は鋭利な歯を立てて首へ噛みつこうとした。
「衛玉!」
背後に回られた時に何か術でもかけられたのか、衛玉は何も言わずただ前を見つめ立っているだけだ。
劉亮は小刀を抜き、金髪の男にめがけて放つ。
劉亮の霊力がこもった短剣は敵の目に命中した。
「グワアァ!」
敵は目を押さえる。しかし敵は衛玉をあきらめず、衛玉の細い腰を放そうとはしなかった。強い力で衛玉をつかんだ拍子に、その長い爪が衛玉の腹に食い込んだ。
「ア・・・ぐ!」
痛みに衛玉はうめき、ハッとする。衛玉は自力で男から逃れ、袖から一枚の呪符を出して空へと投げた。結界を破るため、雷を結界の中心へと落とす。ドォン!ドォン!と体に響くほどの雷が結界に落ちた。
劉亮は素早く刀を相手の目から抜き、敵の腕を霊力をこめて叩き切る。敵は分断された己の腕をもう片方の手でつかんだ。そしてあまりの痛さに叫び、地へ落ちていった。
衛玉と劉亮は背中がゾワリとした。恐ろしいとう感覚だ。
地面から見たことも無いような大きさの炎の渦を口から吐き、飛んでくる魔物がいた。これを相手にすればこちらが死んでしまうと思った二人は立ち向かうという選択肢は取らなかった。よく見ればトカゲは涙している。
そのトカゲは金髪の男を両手で抱え、ゆっくりと地面へと降りていった。
結界が解け、衛玉は劉亮の背を引っ張る。
「逃げます!」
衛玉の口元を見て、まずはこの場を離れる事を理解する。
途中で襲われる可能性を見越し、二人は全力で薩摩の方面へと向かった。あのトカゲの攻撃力は底を知れない。
幸い敵は二人を追ってくる事は無かった。
修真者の国、薩摩へと刀を飛ばした。
「はぁ‥‥なんなんですか、あのトカゲは。勝てる気がしない相手を見たのは貴方以来です」
衛玉がゴロンと芝生に転がる。刀で飛ぶのは大量の力を使う。霊力を使い果たし、両手の力すら入らない。
「確かにあのトカゲは恐ろしいが、どうやら金髪の男を大事にしているようだ。あの男の目は深く突き刺している。恐らく数日は追ってこないだろう」
「そうですね」
「休養が必要だ。行くぞ」
「え?待ってください。休養が必要ならもっとココで…」
「あそこを見ろ」
休みたい、と続けようとしたら劉亮がある建物を指さした。旅館宿だ。
宿の周りには飲食店がずらりと軒を並べており、幾人もの客を提灯が照らしていた。
「温泉宿ですか。これは良い!」
「鋭気を養い、十分に休息をとる。そののちに、あの敵を倒そう」
庭の枯山水庭園に風情を感じる。三階建ての、ゆとりある宿だ。
「広いですね」
「ああ」
従業員に案内された部屋の中央にどかりと座り、劉亮は衛玉を呼んだ。
「なんですか?」
「腹を見せろ」
「そんなに大した事は無いですよ」
「いいから脱げ。薬をぬる」
脱げ、という言葉に一瞬ドキリとしたが、衛玉はあまり深く考えないようにした。そろそろと上半身を脱ぎ、腹部の状態を見せる。劉亮は眉を寄せた。引っかかれた程度ではない。えぐられている。もう少し強く爪を立てられていたらで内臓まで届いていた。
「‥‥深いな」
「大丈夫です。温泉で少し休めばこんな傷、すぐに塞がります」
止血の術を己で施し、衛玉は朗々と言った。
「この傷では風呂など無理だ」
「大丈夫です。術にお湯が染みないようにしますから」
***
脱衣所で衛玉は同時に気づいた。
この場所に来るまで歩きながら風呂をやめた方がいい、いやだ入りたい、やめた方がいいと言い合っていた。諦める気が無いとわかった劉亮は衛玉に「好きにしろ」と言って先に服を脱いで温泉へ浸かったのである。
「大丈夫…かな」
傷については術で湯があたらないようにした。安全に温泉に浸かる事が出来るのだが、問題はそこではない。好きな人の裸を目前に、己の下半身が反応してしまわないか心配だった。言い合っていた時は大丈夫だ大丈夫だと劉亮に主張してたいが、今ここで己が劉亮を好きだったことをふと思い出してしまったのだ。
だが、ここで引きたくはない。どうしても温泉に入りたい。
「離れてお湯に浸かればいいですよね‥‥」
扉を開くと、湯けむりがぶわりと前方の視界を奪う。空を見上げると満点の星と三日月が見えた。視線を前に戻す。温泉かと思われる囲みと、その両側に赤い提灯が複数見えた。
「劉亮、いますか?」
「ああ。いる。足元に気をつけろ」
少し安心した。この白い湯煙のおかげで、反応した己の下半身を見られずにすみそうだった。かけ湯をし、ゆっくりと湯に浸かる。
石膏のようなにおいが仄かに漂っている。良い温泉だと思った。じんわりとした温かみに包まれ、疲れが癒えていく。
突如、目の前の景色が開けた。風が吹き、モクモクとした煙が無くなってしまったのだ。他に人はおらず、劉亮と二人きり。彼は対角に座って石を背に両腕を広げてくつろいでいる。
衛玉はどうしてか恥ずかしくなった。パッと彼に背中を向け、下を向く。不自然な動きをしてしまったかもしれないと焦った衛玉は、まとまらない頭のまま口を開く。
「良いお湯ですね‥‥っ」
そうだなという声が返ってきた。己の下半身を確認する。まだ反応はしておらず、ホッと一安心した。
劉亮はジッと衛玉の白い肌を見つめた。
湯をはじき、肌はつるつるとなめらかだ。この肌を夢で思う存分に撫でていたことを思い出した。劉亮はバシャリと大きな音を立てる。
「劉亮………?どうしましたか………?」
「なんでもない」
何でもなくなかった。とんでもなかった。己は衛玉の背を見て、完全に勃起してしまったのだ。劉亮も衛玉と同じように方向を変え、背を向ける。
数分して、衛玉からザパリと音がした。
「もう、出ますね」
「ああ」
カラスの行水のごとく、衛玉は立ち上がり、脱衣所へ向かう。とてもゆったりとできなかった。時間がたつにつれ、確実に己のソレは天を向いて明らかな形を作っていったからだ。
(先に部屋に行って、抜いてしまおう‥‥ッ)
体をササと吹き、術で強い風を呼び起こして髪を乾かす。
浴衣に着替えた衛玉はフスマが隙間なくしっかり閉じられているのを確認し、そろりと下半身に手を伸ばす。
「ん………」
すぐに劉亮が来てしまうかもしれない。急いで出してしまわないといけなかった。衛玉は劉亮の先ほど見たたくましい体を思い出し、無我夢中でそこをこする。
先端から液が漏れ出し、くちゅくちゅと卑猥な音が鳴る。
「ふ、んん………!」
なるべく声は殺し、竿を刺激する。思っていたよりも早く達する事ができた。紙で垂れた白濁を拭き、ボウ…としながらやはりまた劉亮の事を思い出す。
「劉亮………」
やはり劉亮が愛しい。抱きしめてもらいたい。あと一度でいいから、劉亮と抱き合う夢が見たいと思ったのだった。
***
一方、衛玉の肌を見て反応してしまった我が息子を劉亮は睨んでいた。ここで抜いてしまってはいけない。そう理性が指示している。己の身はいつか娶る嫁のためにある。
だから、衛玉の事を考え抜く事は許されない。
なんとか深呼吸をし、意識を違う方向へ向けようとした。
数拍、無の状態でいられたがまた衛玉が頭をよぎる。透き通るあの肌を舐めてみたいと考えてしまい、ぶんぶんと頭をふる。
一度湯を出て頭を冷やす事にした。しかしいっこうに収まる気配は無い。
「‥‥」
劉亮は理性に負け、衛玉の裸を思い出しながら抜いてしまったのだった。
欲に負けてしまい、気が晴れないまま部屋へ戻る。
「劉亮、おかえりなさい」
湯上り姿の衛玉も、先ほどの裸と劣らないほどの魅力を放っていた。一歩後ずさりそうになったのをなんとか耐え「ああ」と返事をする。
「ゴマ豆腐がとても美味しそう。早く食べましょう」
従業員が並べた料理を前に、犬のように待てをしていたのだ。衛玉は早く早くと劉亮を急かす。笑顔で聞いてくる衛玉に、フと劉亮は笑う。
「食べよう」
山菜・きのこ・馬刺しに海鮮。
自然の幸をふんだんに使われたそれぞれの味に舌鼓を打つ。甘酒も用意されており、ついつい調子に乗った衛玉はソレを飲み干してしまった。
敵がまだ生きているかもしれない事や、火を噴くトカゲの事を話し終える前に衛玉は酔いつぶれたのである。
人体発火の件は十中八九あのトカゲと金髪の男の仕業だろうと予測していた。あとはあの火を吹くトカゲを倒し、金髪の男が死んだかどうかを確かめる事でこの事件は一件落着となる。
ぐで、と衛玉は畳の上に四肢を預け、ぐーぐーと寝こけている。
劉亮は衛玉の乾坤袖の中身を確かめる。変なものが入っていないかどうか確かめるためだ。ピラリと一枚の紙を見つける。そこには「忘れ薬の材料」と書かれた品々が記載されている。劉亮はげんなりとした顔をし、それを適当に乾坤袖に仕舞った。
「劉亮‥‥」
衛玉へ視線をやる。どうやら寝言のようだ。完全に衛玉を信用してはいけない。裏切るような事はしないと信じてはいるが、首にかけた術を解くために何かしてくる可能性があったからだ。
乾坤袖には怪しいものは入っていなかった。劉亮は納得したように服をたたむ。
従業員があらかじめ敷いてくれていた布団へと衛玉を移動させた。
スゥスゥと眠る彼の口元に目がいく。夢の中での彼の言葉を思い出す。
口づけをしたがった衛玉の濡れた瞳。「初めての口づけが私だなんて、貴方が可哀想だ」と言った時の、寂しそうな表情。そして、口づけたあと、涙を流して喜んだ時のあの笑顔。
気づけば衛玉の口元を指でなぞっていた。
「んむ」
「!」
ぱくりと指を食べられた。慌てて引っこ抜き、胸を押さえる。
「俺は何をしてるんだ」
いくらなんでも、夢で卑猥な光景を目にしたからと言って現実の衛玉にしていいわけがない。
その後数日の間は温泉で体を癒した。衛玉のえぐられた肉が完全に治った頃、同じ場所へ向かう事となる。
「もう腹の傷は痛まないか」
「ええ。おかげさまで」
「また同じ場所へ向かうが、背後に気をつけろ」
「わかってますよ」
あの時、休憩していた場所で小鬼が襲ってきたのはたまたまだろうが、それの襲撃に乗じて金髪の男が襲ってきたのも、強い結界が張られていたのも、偶然ではないはずだと踏んでいた。何かしらの情報を得て、劉家から討伐担当がやってきたのだと知った敵は気配を消して追ってきていたのだ。
刀で空を飛び、同じ場所へ向かう。
あの場所に、敵はまだいた。二人は警戒しながらゆっくりと近づく。
「劉亮はあの男をお願いします。私はトカゲを倒します」
「大丈夫なのか?」
トカゲの炎の威力は異常だ。一度火を放たれれな一貫の終わりである。
「魔物によく効く催眠粉を作っておきました」
「上等だ」
衛玉と劉亮は驚いた。敵はもう、死にかけている。
「はぁ。来ましたか‥‥でも、無意味でしたね。私はもう死ぬ」
片腕が無くなった金髪の男はゼェゼェと、顔色の悪い顔で木を背に座っていた。
その膝にはあの火を噴くトカゲが眠っている。
「静かにしてください。この子が起きてしまう」
もう片方の腕でトカゲの頭を撫でた。その目には涙が浮かんでいる。
「なぜ、泣いている?」
劉亮は防御となる結界を張り、相手に問う。見た通り、男の先は長くないようだ。そして、男の顔は慈愛に満ちている。攻撃してきそうな気配はなかった。
「おや、泣いている?‥‥ああ、本当だ」
自分の目をぬぐい、目元が濡れている事に気づく。
「私が死んだあと、この子は生きていられるかどうか心配なんです。賢いし、人語も話せます。うまく使ってくれれば仕事だってできるんです‥‥」
トカゲの頭を撫で続け、金髪の男は一滴の涙を流す。
「ああそうだ‥‥すみませんが、この子を雇っていただく事はできますか?」
今度は衛玉が前に出る。
「それなら、私の十八番です」
「そうですか‥‥それは安心です」
「聞かせてください。貴方は何者で、そして人体発火の事件は貴方の仕業ですか?」
金髪の男は「そうですよ」とニコリと笑った。劉亮は刀を抜こうとしたが、衛玉が静止する。
「なぜ人を火にあぶらせて死なせた!何人も!」
劉亮の強い口調にも敵はひるまず話し続けた。
「因果応報です。彼らも私の仲間を殺した。敵意も何も無かった魔物を。だから殺してやったまでです。貴方たち人間もそうでしょう。やったらやり返される。当然の事です。言い返せますか?」
劉亮は公平な人間だった。やったらやり返される。それは妥当な理由だと感じてしまった。劉家の規則には害もなく、罪のない命を悪戯に殺してはいけないという決まりがある。魔物だからという理由でむやみに殺してはいけないのだ。人間に害を与えない限りは。
「もう少し、役に立てる人生を歩きたかった……」
「どういう意味ですか?」
衛玉が尋ねる。結界を出て彼の元へ歩き始める衛玉の袖を劉亮はつかんだが、衛玉はそれを振りほどいた。
「そのままの‥・・・意味、ですよ‥・・・誰かの‥‥役に立つ‥‥のが、好き‥‥で‥‥たまに、人間のお手伝い…を‥‥してました」
「人間の手伝いを?」
声がだんだんと弱弱しくなる。
死が近い。
「ええ……」
「貴方は何者ですか?どこの国からやってきたのですか?」
衛玉は金髪の男の傍にしゃがみこむ。すぐそばにはトカゲがいるのだ。劉亮は急いで彼の傍に行き、火を噴かれた時のことを考え結界をかけ直す。
「私は…ヤーカム‥‥この国では、八雲(やくも)と呼ばれて‥‥ました。吸血鬼…で、人の血を少々…頂いて‥・・・生きて‥‥きました。そうだ、この子を起こさなくては‥‥」
劉亮と衛玉はバッと後ろへ下がる。劉亮がトカゲの首を切り落とそうとしたが、またもや衛玉が止めた。
「衛玉!あのトカゲは人を殺している!」
「劉亮、待ってください。私は、間違えたくないんです」
「間違える?どういう意味だ」
金髪の男が「あめ、あめ……起きなさい」と優しくトカゲを揺らす。
トカゲは「あめ」とう名のようだ。
「ん?なんだよ八雲、ボクはまだ眠いんだ‥‥」
「大事な…話が…あるんだよ」
声が弱っているのをトカゲはすぐに察知する。
「どうしたの?また具合悪くなった?また人に化けて薬をもらってくるよ。待ってて!」
「うん…ありがとう。でも、もうお薬は必要…無いんだよ」
「どうして?このまま休んでたら元気になるって、八雲言ってたのに、どうして悪くなっていくの?」
トカゲは衛玉達の存在に気づいていない。
「あいつのせいだ。あいつが八雲の腕を切ったせいだ!」
ガルル…と狼のように低い声を出す。
「あめ、約束…だ。人を殺してはいけない‥‥何があっても。もう、私は守って………やれないから」
「どうして?人間は俺たちの仲間を殺すんだ。なんでボクらはアイツらを殺しちゃいけないの?」
金髪の男はにっこりとほほ笑む。
「弱い者は、強い者に‥‥従わなければ‥‥いけない。後ろにいるのが、‥‥今から君の主人になる‥‥人だよ」
トカゲは振り向く。劉亮を見た途端、ガルルと低い声でうなり、目を吊り上げた。大きく息を吸い、腹を膨らませる。そして息を噴こうとしたが、手を添えられ不発となった。
「むぐむぐ!」
トカゲの口の中でボン!と何かがはじけるような音がする。そしてトカゲの口の中からモクモクと白い煙が上がった。
「痛―---!!火傷しちゃったじゃないか!八雲のバカ!」
「ふふ‥‥ごめんね、君がせっかちなのが…いけないんだよ‥‥。さあ、挨拶をするんだ。あちらの人が‥‥君の主だ‥‥」
「え?嫌だよ、ボク人間に支配されたくないよ!」
「‥・・・元気でね」
トカゲの頭を撫でていた手がダランと下がる。
「や…八雲?八雲?どうしたの?眠っちゃった?」
八雲の顔や首元を触る。どうして動かないのか理解できないようだ。
衛玉が劉亮に言った。
「もしかして、私たちは殺してはいけないものを…殺してしまったのではないでしょうか」
「人間に危害を加える魔物は全員、敵だ」
衛玉は傷ついた顔で劉亮を見上げる。
「それは、私も‥‥あなたの敵だといういう事になりますか?」
「お前は‥‥敵じゃない」
トカゲが死体にせまりつき、八雲、八雲と名前を呼んでいる。なんとも後味の悪いものが残った。
その後、死んだ事を衛玉がトカゲに説明してやった。するとワンワンとトカゲは泣き出し、嗚咽が止むまでに時間がかかった。
「あんたが…ひっく…ボクのご主人さま…?」
「そうですよ。八雲さんが言ってたでしょう?この花を食べて、この呪符に飛び込んでください。そうすれば契約は成立します」
「でもアンタ、あいつの仲間だろう?」
ギ、とトカゲが劉亮を睨んだ。劉亮は大好きな八雲を殺したカタキなのだ。
「いえ。違います」
衛玉の答えに、劉亮は眉を上げる。
「弱い者は強い者の言う事をきかなくちゃいけないって先ほど教わりましたよね。私もね、実は半分魔物なんです。でも、あの人の方が強いから言う事をきかなくちゃいけなくて」
「じゃあ、アンタの下についたら、ボクはあの男の言う事きかなくちゃいけないの?」
「それは違いますよ。君は私が守りますし、私の指示以外には従わなくていいんです」
ふ~ん、とトカゲは大きな目をクルリと回した。
「なら、食べる。この花、美味しい?」
「ええ。魔物からは大人気です」
衛玉はトカゲを呪符に封じ込め、使役する事に成功する。
「ふう。一件落着ですね」
「…この男は一体何だったんだ」
「それはおいおいトカゲに‥‥いえ、アメ君に聞きましょう。色々知ってるだろうし。あなたのいない所で聞いておきます」
「頼んだ」
「それで…お願いがあるんですけど」
「またか…なんだ」
「作りたい薬があるんです!ナツメグサと、ハッサクと、クズノハと‥‥」
それからそれからと続けて言おうとする衛玉の手を口で塞ぐ。
「却下」
「うーーー!」
「前々からずっと同じ材料を言っているが、一体何を…」
作るつもりなんだ?と聞こうとして劉亮は口を閉じた。それらは以前見た忘れ薬の材料と一致していた。衛玉はまた、劉亮に抱き着いたり、木の下で愛の告白でもしたいのかとそんな事を考える。すると、必死に薬の材料をねだる衛玉が可愛くして仕方なくなってしまった。
プハ!と衛玉は劉亮の大きな手から逃れてほかの提案をしてくる。
「なら、お金を稼ぐ許可をください!それならいいでしょう?」
「もう帰る。早く長老に報告しなければならない」
「そんなぁ!」
肩を落とし、衛玉は背中を丸めて空を飛ぶ。
今から牢屋に入るのだ。滅入る気持ちもわからなくもなかった。劉亮は口数がめっきり減った彼に話を振る。
「弟は元気か?」
「魁(かい)ですか‥‥たぶん元気にしていると思いますよ」
「思う?会ってないのか」
「会ってませんよ。もっぱら評判が悪いのは私だけなんです。会ったりして魁に火の粉が飛ぶのは避けたいですからね。あ、でも去年一度顔を合わせました。ほんの短い時間でしたが」
魁は動物から寿命を吸える、半分が人間、半分が魔物である衛玉の弟だ。人間から寿命をもらう必要はないため、のびのびと気楽に生きていられるのである。
「二重人格は治ったのか」
「いーえ。全然です。もう一生アレでも、別に困らないと思いますよ。むしろ二重人格があるからこそ、あの子は‥‥魁は無事に生きられるんです」
***
長老の前に再びひざまづく瞬間が来てしまった。衛玉は気乗りしないがしぶしぶ跪いた。右手で拳をつくり、左手でそれを包み込んで挨拶をする。
「お久しぶりです、瀏咎(リウ キュウ)長老」
瀏咎は劉の名を汚した衛玉を殺したがっている側ではあるが、礼儀には忠実だ。相手が誰であっても拱手礼をされれば自らも同じように挨拶を返す。
発火事件が解決した件を説明し、衛玉は檻の中へ戻る事となった。戻る時、瀏咎長老が孫に写し絵を渡してきた。お前の結婚相手だと言って。
***
「はぁ。外が恋しいです」
まだ鎖に繋がれたばかり。さっそく文句が始まったと劉亮はため息を吐く。
「約束は守ってくださいよ。毎日あなたとご飯が食べたいんですからね」
少し前まではただ寂しいからこのような事を言ってくるのだと思ってたが、今は衛玉の気持ちを知っている。こう言われる度、好きだと告白されているような気がして劉亮はむずがゆくなった。
「わかっている」
「できれば今夜は揚げ物がいいです」
「わかった」
劉亮が食事を取りに行ったあと、衛玉はボロリと涙をこぼした。劉亮が結婚してしまう。覚悟を決めていたはずなのに、全然覚悟なんて出来ていなかったのである。
「うぅ~~‥‥!」
相手が羨ましい。代わりたい。自分が劉亮の奥さんになりたい。‥‥劉亮の結婚など、見たくない。
衛玉はハラハラと短い時間、泣いた。そして、やっとここで気持ちを固める。
衛玉は「父さん!」と叫んだ。
「いるんでしょう?父さん、出てきてください!」
シタッ、と少し大きめの黒猫が現れた。この猫はどんな結界もなんなく通り抜けられる。死神と呼ばれる父に、この世の術は何一つ効かない。
だからと言って大きな力を持っているというわけでもなく、この牢にいる衛玉を救い出すという事は出来ないのだ。まれに人間の姿になり、酒を飲んでは息子を気にかける、どこにでもいる普通の父親である。感情が無いという点を除いて。
「どうした、玉」
「決めた。死に場所。ここにする」
「わかった。それだけか?」
「うん」
父親はミャーと鳴き、その姿は煙のようにゆらめき、消えた。
父である黒猫、銅(ドウ)は人間であった母親、小町(コマチ)に恋をし、6人の子供を設けた。生まれた子はそれぞれ特徴的ではあったが、全員元気に育った。20歳までは。
20歳が近づくとそれぞれ衰弱し死んでいった。どうすれば長生きできるのかと考えた小町は娘一人と息子二人を修真者にさせるため、劉門派に子を預けたのだった。
3人とも資質はあり、早い段階で結丹する事ができた。これで短くとも百年は生きられる。そう町子は安心していた。
しかし運命を変える事はできなかった。娘は20に死んだのだ。娘が死ぬ前に、寿命を採取する術を銅は編み出し、人間の姿となって娘に寿命の採取方法を教えた。
しかし娘は拒んだ。
『お父さんありがとう‥‥でも、人の寿命を削ってまで、生きたくないわ』と。
父親は感情を持っていなかった。人間の寿命を無理やり与えて生きる道を強要する事は無かった。娘の希望通り、20歳まで生きる姿を見守る事しかできなかったのである。
息子は違った。二人は生きたいと願った。一人は人間からしか寿命を採取できず、もう一人は人間からも、動物からも寿命を採取する事ができた。強く、たくましい息子は20歳を過ぎても元気にしていた。
安心した父母は息子二人を完全に手放し、全国を夫婦‥‥人間と黒猫一匹で行脚している。
父親は息子が呼ぶと必ず来れる特殊な能力を持っていた。衛玉が呼ばずとも来ている日もある。あらかじめ衛玉が伝えたのは、母親に気持ちの準備をしてもらうためだ。
衛玉を産んだ母親も、さっぱりとした性格をしている。自分の人生なのだから、死ぬのか生きるのかは己で決めなさいと言うのである。他人の寿命を採取してまで生きたくないなら、無理に頑張らなくてもいいとも。
「………めいっぱい、劉亮に甘えてやります」
ぽつりと衛玉は呟いた。
劉亮には言っていなかったが、術を使うと衛玉の寿命は縮む。そのため取り上げられた寿命嚢の中にはもう何も入っていない。
もってあと一ヶ月カの命だ。
そして、劉亮の婚儀もあと二ヶ月。
ちょうどいいと衛玉は感じた。劉亮の婚儀を見ずに死ぬ事ができる。
劉亮は家に忠実で、きっとあと一か月で寿命が尽きると伝えても、この檻から出してもらう事はできない。伝えたら伝えたで、気まずい一ヶ月となる。それなら、劉亮にはあと一ヶ月で死ぬことは伝えず、楽しい時間を過ごそうと考えた。
***
発火事件が解決したあとも、劉亮の日常は忙しかった。魔物は絶えず現れる。報告がある度に奔走していた。
それでも劉亮は疲れを一切見せず、それどころか以前よりも精力的に仕事に励んでいる。それは全て、衛玉による効果であるという事は、誰一人知らない。本人である劉亮にでさえも。
「劉亮!お帰りなさい」
食事を持って檻の中へ入ってきた劉亮を衛玉は歓迎する。
「寒い寒い」と言うから、「俺の服に潜り込んでしまえば温かいぞ」と冗談半分で言った。すると、喜んで潜り込んできたのだ!
そして、劉亮が返ってくるたびこうして衣服に腕を滑らせ、くっついてくるようになったのである。劉亮自身、衛玉を可愛いと思い始めていた。悪い気はしないという理由から、好きなようにさせている。
「今日のお食事はなんでしょう?わ!肉うどんですか?やった!」
冬が本格的に始まる。温かいものを食べ、この寒い場所でも元気に過ごせるよう精のつくものを劉亮は選ぶようにしている。
何度か長老である祖父に衛玉の過去の業績を鑑みて、結界を張った普通の部屋に移してやる事はできないかと嘆願していた。しかし毎度却下されている。
諦めず、いつかは衛玉のためにも暖かい部屋を用意してやるつもりだ。
「ふー、おなか一杯!」
衛玉は食べるのがとても早い。劉亮が半分しか食べていないというのに、もう二人分を平らげてしまった。
衛玉はニコニコと機嫌よく劉亮を待っている。食べ終わると、衛玉は湯に入りたいと必ずせがんでくる。
「わかった」
一苦労だが、衛玉を閉じ込めたのは自分だ。時間がある限り、衛玉の希望を通してやりたかった。
湯を張り、鎖が届く位置に樽を持ってきてやる。
しばらく一人にしてやり、また牢屋へ向かう。
「劉亮‥‥寒いです」
この牢屋は劉亮の張る特殊な結界以外の霊力を全て奪い去る。この牢屋を作った先祖がそうなるよう設計したのだ。
牢屋に暖を取る術を掛ける事ができない。そして劉門派で罪を犯した人間は命を取るかこの牢屋で生涯を終えるかどちらかの選択しか無い。
衛玉が寒さに震える姿は見ていたくなかった。劉亮は頷き、衛玉に用意してやった布団の中に一緒に入る。
衛玉の気持ちを知っている劉亮に、なぜこのように男と共にねる事を好む?などといった無粋な事は聞かない。劉亮自身も、衛玉と眠るのは好きになっていた。
「そういえば劉亮、なぜ私が女好きだと思っていたのですが?私、大の女好きというほどの趣味はありませんよ」
「お前の弟が、お前は相当の女好きだと話していた」
「それは‥‥弟の勘違いですね。あの子は色々抜けていますから‥‥‥」
騙されやすく、勘違いしやすい弟の性格を思い出し、フフと衛玉は笑った。
「あったかいですね」
「ああ」
かすかに照らされた月の光が衛玉の柔らかい表情を際立たせる。
話していたら、いつのまにか衛玉は眠ってしまっていた。
すると、「劉亮‥‥」と彼がつぶやいたのが聞こえた。寝ている衛玉は劉亮の名をよく呼ぶ。劉亮はフワリと笑った。
きっと、この先もこのように温かな気持ちで過ごせるだろうと、本気で劉亮は思っていた。
悲痛な未来が待っているとも知らずに‥・・・。
雪がごうごうと強くふぶいていた。
ケホケホと咳をする声で劉亮は目覚める。
「衛玉、どうした?」
「ん‥‥少し、風邪気味のようです‥‥ケホッ」
トントンと背中をさすってやり、衛玉の喉が通りやすくなるよう丹薬を飲ませる。すると、朝食を終えた頃にはもう咳は止まり、紫色に変色し、カサカサと水気の無くなっていた唇が元の赤い、ぷっくりとしたものに戻っていった。
「これでもう大丈夫だ」
「やはり劉家のお薬は効きます。怪我の無いように気を付けてくださいね?いってらっしゃい」
「ああ。行ってくる。一応、安静にしていろ」
「ふふ、面白い事を言う。ここで繋がれているのに、安静にする以外の事がありますか?」
「‥‥いつか、芝生で遊べる時間を設けられるぐらいには‥‥自由にしてやるつもりだ。長老に許可を求めている所で、まだいい答えが返ってこない」
「へえ!初めて聞きました。長老から許可が出ると良いですねぇ」
「まったくだ」
元気な衛玉を見たのはその日が最後だった。
***
孫が衛玉を牢から出し、医者に見せに行こうとしているのを聞きつけた瀏咎は急いで駆けつける。
「劉亮!何をしておる!」
「長老!お願いします。衛玉を医者へ!」
ここまで必死の形相の孫を見るのは初めてだった。
孫は両腕に死んだように眠る衛玉を抱え、結界の外へ出ようとしていた。
「何があった」
「衛玉が‥‥衛玉の霊脈が‥‥!」
瀏咎は衛玉の脈を計る。
「・・・・これは、もう助けるのは難しい」
脈が弱っている。体の中全ての生気が、息耐えようとしている。普通の医者が作った薬などを使っても、到底助からない。
「劉亮‥‥」
「衛玉!」
「劉亮と、‥‥ふたりで話したいです…戻りましょう‥‥?」
「わかった‥‥わかった‥‥戻ろう」
衛玉はいつも二人で寝ている牢屋に戻りたがった。しかしあそこは霊力を吸い取る。今の衛玉をあの場に寝かせるわけにはいかなかった。衛玉は一度風をひいた。その日は丹薬ですぐに治ったものかと思っていたが、劉亮が仕事から帰ると容体は悪化していた。目が見えなくなっていたのだ。寿命嚢を手渡しても、衛玉は元気にならなかった。
医者に見せたいと嘆願したが、外出の許可は下りなかった。
「衛玉、お前はまだ生きられる。まだ、20年分の寿命が残ってるんだろう?」
衛玉は「ごめんなさい」と言った。
「何がだ?」
「嘘をついてました。もう、寿命は‥‥残っていないんです」
手元の[山茶花を触り、衛玉はもう一度謝った。
「な‥‥ぜ、黙っていた」
劉亮の口元が震える。
衛玉ははにかみ、まったく違う事を口にする。もう長くないと感覚でわかった。
「あの、劉亮。私がなぜ、[山茶花をいつも手に持ってあなたを待っているのか、知っていますか?」
衛玉は[山茶花の押し花を欲しがった。作って渡してやると、大層喜び、それからずっと彼はその押し花を手に持っている。
「[山茶花はね、冬にとても強い花なんです。まるで、貴方みたいに‥‥」
土気色だった肌に、少しの朱が混じる。きっとこれは治る兆しだと思った劉亮は衛玉のその頬を撫でた。
「また冗談を‥‥俺に嘘を言って困らせたいんだろう。わかるぞ、寿命がもう無いなんて‥‥嘘だろう?」
「‥‥寿命がもう無いのは本当ですよ。だから死ぬ前に貴方に言いたい事があったんですけど‥‥あの、ずっと‥‥ずっとね‥‥‥あなたの事‥‥‥‥‥。あの‥‥」
死ぬなんて、絶対に嘘だと劉亮はこの時決めつけていた。信じたくなかった。きっと、衛玉お得意の嘘だろうと思っていたかった。
「なんだ?」
「‥・・・言えないものですね」
両手で[山茶花の押し花を握り、恥ずかしそうに劉亮の胸に顔を隠す。
告白をしようとしているのがわかった。可愛い衛玉に、劉亮の胸が動く。
己に許嫁がいようと、もう関係無いと思えた。その口から、好きと聞けるならなんでもしてやりたい。
「なんだ?」
衛玉の顔をこちらに向け、優しく問う。
「衛玉?」
目を閉じたままだ。見えなくなっても、美しいその目はいつも劉亮を写していた。
「こら、衛玉。俺をからかうな‥‥衛玉、目を開けろ」
指で衛玉の首元を触る。この世から衛玉が消える事を考えた事はある。あるが、それもほんの一瞬。つい最近まで、衛玉と共に生きられるこの幸せが、もっと長く続くと思っていた。
「衛玉‥‥、衛玉‥‥嘘だろう‥‥寿命が必要なら、俺のをやろう!目を覚ませ‥‥‥‥!」
返事をしない口元。動かない瞳。そして冷たくなっていく体。
何もかもが信じられない。愛しいという気持ちがこんなにも己の中にあった事に今更気づく。こんな事なら家訓など無視して衛玉を外に逃がしてやるべきだった!
「俺が‥殺したのか‥‥?」
そもそも、劉亮が躍起になって罪を重ねる衛玉を捕まえてやろうと考えたのが発端だった。衛玉を捕まえる事など、劉亮意外の修行者にできるわけがない。劉亮が、この牢屋に彼を閉じ込めた。
「う…ああ‥‥!アア‥‥!!」
衛玉の頬に額を当てる。後悔が募る。頭がおかしくなりそうだった。
***
冬が終わろうとしていた。
劉亮は結婚の延長を希望した。相手はまだ8歳。まだまだ子供だと理由から、劉亮の願いは聞き入れられた。
到底、今の気持ちで誰かを娶るという事などできそうも無かった。劉亮は進んで東北の国、北海道へ行くことを望んだ。そこには薩摩で修行した劉門派の精鋭たちが月替わりで守っている魔界と人間を繋ぐ大きな入口だった。
人間界を守る結界に切り口が入り、そこを修復し続けているのだ。あまりにも大き過ぎる切り口のため、なかなか塞がらない。
複数の修真者と入れ替わり立ち代わりで魔物の侵入を防いでいる。皆平等に家を与えられ、劉亮も単身用の家を用意されていた。ミャーと声がする。
家には一匹の白と黒が混じった猫がいた。口元には[山茶花を加えている。
目元が衛玉に似ていた。
「どこから入ってきた?」
劉亮は衛玉に似た猫を抱き上げ、椅子へ座る。
「なぜ花を加えてるんだ」
猫が加えていた[山茶花を手に持ち、眺めた。
この花を見ていると、彼の死を思い出す。鼻の奥が痛んだ。こみ上げるものを押さえるように、劉亮は深呼吸をする。手が震えた。ペロリと慰めるように猫が劉亮の指を舐める。
「お前が、衛玉だったらいいのに」
猫がミャーと鳴いた。
衛玉の死後、突然妙齢の男が現れた。本人が衛玉の父親だと名乗った時、衛玉と同じ声だと気づいた。書物で読んだ、死神と呼ばれている魔物に似ていると感じた。
不思議と怖さは全く感じず、ただ近づいてくる男を呆然と見上げていた。
衛玉を渡したくなかったのに、遺体はいつのまにか衛玉の父親の腕におさめられていた。男は何も言わず、死んだ衛玉と共にゆらゆらと煙のように消えたのである。
「衛玉‥‥」
衛玉の事を考えなかった日は無い。朝も、昼も、夜も、衛玉の声と笑顔を思い出す。
そして、好きだと言ってきたあの木の下での衛玉の顔も。
胸が痛くなる。衛玉は嘘つきなのだ。寿命がまだまだあると、ずっと嘘をついていた。
なぜあのような嘘を吐いていたのかずっと考えていた。いくつもの理由が出たが、どれも憶測だ。
ミャーミャーと鳴き続ける猫を撫で、腹が減ったのか?と劉亮が聞く。
ボン!と肌を叩くような強い風を感じた。思わず目を閉じる。ズシリと膝の上に重みを感じた。目を開けた瞬間、口がふさがらなくなった。
「劉亮、おなかがすきました!」
膝に、愛しい彼が笑顔で座っていたのだった。
****
「あのー。劉亮?」
「なんだ」
「もうそろそろ離して頂いても‥‥」
「断る」
衛玉が猫から人間に戻ってから、劉亮はずっと衛玉を抱きしめていた。
正直な気持ちを言えば嬉しいが一時間も同じ態勢でいるのはこたえる。
「こんな事していいんですか?浮気になりますよ」
からかう気持ちで言った。劉亮が自分を好きになるはずがないと衛玉は思っているからだ。きっと死んだはず師兄が生き返り、感極まって変な行動をしているだけだろうと。
劉亮は渋々衛玉から離れた。
「服を貸してください。布団も心地いいですが、そろそろ人間らしく振舞いたいです」
衛玉の申し出に劉亮は少し耳を赤くして服を差し出した。
この小一時間、抱きしめられながら衛玉は己の事を話していた。死んだあと、気づけば父親と母親の元で目が覚めていたと。しばらくは歩くのも一苦労で、元の体力に戻るのに時間がかかったのだ。
衛玉には複数の兄と姉がいた。皆20歳で死んだが、遺体を寝かせて観察していたら全員生き返ったという。そして今は皆猫となって生きていると、生き返った時に教えられた。なぜ教えてくれなかったのか問うたら、死んだあと生き返られるかどうかわからなかったし、姉以外は皆自我をなくして魔物としてどこかに去ってしまったからだという。そのような未来が待っていると知れば、嫌な気持ちになると思ったから父は言わなかったのだと白状した。
姉だけは、猫として生き、片思いだった人の飼い猫として今も穏やかに生きている。
そして衛玉ただ一人が、猫と人間の姿を交互に保てるようになったのだ。
「劉亮がそんなに喜んでくれると思いませんでした」
「それは‥‥」
当たり前だ。好きな人間が生き返ったのだから喜ばないわけはなかった。その言葉を劉亮は口を押さえて飲み込んだ。
好き、愛しい、大切だ。それらを言える立場では無い。徳川家は劉亮の妻を決めており、未だ婚姻を破棄する事ができないでた。
「ところで‥‥」
服を整え、衛玉がおずおずと聞いてきた。
「結婚、は‥‥もうされたんですか‥‥‥‥‥‥?」
悲しそうな、寂しそうな瞳だった。こんな衛玉を抱きしめない選択などできない。
強く劉亮の腕に納められ、衛玉は慌てる。
「どうしました?また、生き返った事に感極まっちゃいましたか?」
「―――しない」
「はい?」
「結婚など、するものか」
「‥‥‥‥‥‥‥はい?」
劉亮の結婚に、劉一族だけでなく薩摩やそのほか近隣国すべての平和が握られている。
彼の言葉に、衛玉は固まるしかなかった。
***
実家に戻ってきた劉亮の一言に長老一同開いた口が塞がらなかった。衛玉は密かに驚き方が劉亮と一緒だなと感想を持った。
続いて祖父の怒号が飛ぶ。
「何を言っておる!」
「結婚以外の道を決めましょう」
劉亮の提案に「何を今更」と長老が次々と口を並べていく。徳川家の選んだ娘と婚姻を結ぶことは何年も前に決まっている事で、そして娘も選ばれた。あとは祝言を祝うだけという段階である。
政治の頂点に立つ徳川家と、修真界の頂点に立つ劉家が強いつながりを保つ事で世の中は戦争もなくうまく働いていた。もしここで断るような事をすれば、何が起こるかわからないのだ。
「養子として迎え入れる。それだけでいいと思うのです。婚姻までする必要はあるのでしょうか?」
劉亮の発言に、祖父はワナワナと震えた。あまりの事に吐血し、気絶する。
「だ!誰か!担架を持って参れ!」
側近が家僕【炊事係】に申し付ける。
倒れた瞬間はさすがに心配したが、すぐに気を持ち直し、「この、親不孝者めがぁ…」と喋ったので劉亮はその場をすぐに離れた。
肩に乗っていた衛玉は腹を抱えて笑いたかった。猫となった衛玉の事には誰も気を留めなかった。大人しくしていろと劉亮にくぎを刺されていたので、忠実にそれを守った。
御殿から出てすぐ、猫と目が合う。一目で姉だと分かった。ニャ!と声を出し、挨拶をする。向うも気づいたようでナー!ナー!と喜んだ。
姉は飼い主の腕から逃げ、タッと地面へ降りる。衛玉も同じように地面へ降り立つ。
「衛玉?」
「メイ?どしたん?」
劉亮と、衛玉の姉の飼い主の目が合う。劉亮は彼の顔に覚えがあった。確か食堂で劉玲が発火事件の事を放した際、雅な言葉で空気を変えた男だ。名は確か―――。
「劉浄(りう じょう)です。お久しぶりです。若様」
「ああ。‥‥その猫は」
「私の奥さんですよ」
劉浄の答えに一番驚いたのは衛玉だ。衛玉は浄の顔を覚えていた。確か姉が片思いをしていた相手だ。両思いになったのかと、嬉しくなった。姉の耳を肉球で触り、良かったねと伝える。
「そうか‥‥少し急いでいるのでこれで」
「ええ。ではまた」
その後劉亮の部屋に初めて足を踏み入れる。劉亮の部屋の中をフンフンと猫の姿で嗅いでいく。存分に嗅いで満足したあと、寝台の枕あたりでボンと風を吹かせ、人間の姿になる。猫の姿のまま首元に乾坤袋をかけて持ち歩いていた。乾坤袋に手を差し込み、服を取り出す。
どんなに大きい者も収まってしまうこの袋は本当に重宝すると衛玉は思った。着替えつつ、せっせと荷造りをしている劉亮に問う。
「どこかへ旅立つのですか?」
「ああ」
「どこへ?」
「徳川家康公の元へ行く」
「‥‥何をしに?」
「縁談について話し合いに」
「それは…大仕事だ。どうして縁談を破棄しようとするんです?」
「好きな人がいる」
衛玉は固まった。少し涙ぐみ、そうですか‥‥と下を向く。また何か勘違いしていなと感じた劉亮は彼を引き寄せ、抱きしめた。するとみるみる衛玉の首元が朱に染まる。
「ななな、なんですか‥‥っ?」
「抱きしめてほしそうだったから」
「い、いつのつのまに‥‥そんな冗談を言うようになったんでしょうね!」
衛玉が死ぬ前、何度もこうやって寒いと文句を言う彼を抱きしめてやっていた。照れが全く無いわけではないが、それ以上に幸福感が強い。劉亮はしばらく衛玉を放さなかった。
旅に出る間、刀が無い衛玉は猫でいる事を選んだ。今まで集めた武器は全て衛玉が死んだものだと思い、衛玉の母親が売り払ってしまったというのだ。
風を受けながら、衛玉は劉亮の片手で悪くない心地にウトウトと眠りそうになっていた。
「衛玉、猫と人間の姿、どちらの方が‥‥今の本当のお前なんだ?」
「どちらも本当ですよ。ただ、やっぱり人間の姿の方がしっくりきますね」
「そうか‥‥あのトカゲはどうした」
「今は父と母と仲良く旅をしていますよ。人間に変化できるので、楽しそうにしてます」
江戸ははるかに遠く、京の都で一泊してから向かう予定である。
そしてこれから、ある人物と劉亮は話をしなければならない。その間、衛玉はどこかで時間を潰さなければならかった。
「衛玉、くれぐれも勝手に一人で消えないように」
「子どもにしつけるように言うのはやめてください。貴方、なんだか変わりましたね」
変りもする。なんといっても衛玉は今劉亮にとって、最も愛しい人間なのだ。過保護に扱うのも、仕方ないのである。
話し合いの相手は、劉亮の妻となる予定の椿姫の側近だ。
「もしかして、あなたの好きな人って‥‥‥」
「違う。初めて会う人物をどうやったら好きになるんだ」
衛玉は近くの茶屋の傍でしばし待つ事にした。タシタシ、と白黒の猫は地面に尻尾をぶつける。女性と二人きりで話すのだから、面白いとは思えない。なんだかムカムカして、ジっとしていられない気持ちになった。どこにも行くなと言われたが、散歩をしたい気分になったのだからしょうがない。
衛玉は川沿いに歩き、町や人を目で楽しむ事にした。
「助けて‥‥ガボッ」
橋の下で女の子が溺れている。人通りが多く、女の子の小さな声は人込みのざわざわとした音でかき消えてしまっている。衛玉は隠れて人間に変化し、乾坤袋に入っている布を適当に選んでひっかけるようにして着た。川の流れが突然速くなった。急がなければ女の子は海の向こうまで流されてしまう。
衛玉は迷わず川へ向かって飛び込んだ。ドボンと入ってすぐ悲劇が起こる。足がつってしまった。激痛に耐えながら、女の子を救い出す。岸へ這い上がるよう促し、自分も上がろうと足を上げた瞬間。
――――ガン!
太い丸太が衛玉の頭を直撃した。女の子はキャア!と悲鳴を上げる。咄嗟に彼女が衛玉の手を握った。目の前がチカチカと光る。クラリとしたその頭で、このまま気を失っては衛玉の手を握った女の子までまた川に落ちてしまうと危機を感じた。
なんとか気を確かに持ち、気合で陸に這い上がった。同時にバタンとそこで気を失う。
***
劉亮は走った。どこにも行くなと言ったのに、さっそくこの短い時間で彼を見失ってしまった。よくよく考えれば、逃げないわけがないのだ。衛玉が劉亮を好きなのはわかっていたが、一緒にいればまた牢屋に入れられてしまうと考えるのは当然の事だ。
「衛玉!衛玉!どこにいる!」
喉が切れそうなほど叫んだ。
「起きて、起きてよ!」
声の方へ視線をやると、そこには意識を失った様子の衛玉がいた。女の子に口づけをされている。いったいどういう状況なのかと頭が混乱した。とにかく走る。
「衛玉!」
「―--カハッ」
水を吐いた衛玉がゲホゲホとせき込みながら起き上がる。
「衛玉、どうした、何があった」
彼の背中を支え、劉亮が裸同然の衛玉の姿を己の服で隠すようにする。
「女の子は‥‥ああ、良かった」
「ぐすん、良かった、死んじゃうのかとおもったのよ。息が弱かったから、いっぱい口に空気を入れてあげてたんだから!」
グスグスと泣いている女の子の頭を衛玉が撫でた。
「そうでしたか。それはどうもありがとう。助かりました。‥・・・泣かないでください。女の子に泣かれると、どうしたらいいかわからなくなります」
劉亮は衛玉を抱いたまま、驚愕する。その女の子の顔は、写し絵で見た顔と瓜二つだったからだ。
「椿姫…ですか?」
「どうしてその名を?」
「俺の顔に見覚えありませんか」
椿姫はジッと劉亮の顔を見る。
「あ!写し絵の人!」
「そうです。こんなところで何故あなたが‥・・・衛玉??!」
意識がまたプツリと切れた衛玉はガクリとその場で体を投げだしたのだった。
***
左右対称の整った眉。
ぷくりと丸みのある唇。今は閉じられているが、大きくて丸い、優し気な瞳。
どれも椿姫の好みの造形だった。綺麗で美しい女性は何人も見てきたが、綺麗で美しいという言葉が似合う男に出会ったのは初めてだった。
側近が劉亮と会うという情報を椿姫は聞きつけた。城を抜け出し、側近のあとをついてきたのだ。そして苦手な犬と出くわし、途中で川に落ちた。行きかう人は椿姫に気づかず、助けを求めても誰も助けに来なかった。とても怖い思いをしていた最中、衛玉に助けられたのである。
城を出た時は、結婚を延長する失礼な旦那に一言文句を言ってやろうと思って意気揚々と側近たちの目を盗んで城を出た。
今はもう、劉亮の事などどうでも良かった。この長髪のよく似合う男を夫にするにはどうすればいいのだろうと、そればかり考えていた。
劉亮が薬を持って部屋へ入ってくる。
「椿姫、城へ戻らなければ。私がお送りましょう」
「結構ですわ。衛玉さまが起きるまで、ここにおります」
言葉遣いが先ほどと違い、姫らしい。幼くとも姫なのだなと感じさせる。
「しかし‥‥」
「わたくしが城を脱走するのはよくある事なのです。皆、さほど心配はしていないはずです。だいたい夕方にはいつも一人で帰っています。お気になさらずに」
気にならないわけがない。劉亮の妻に選ばれる女性なのだから相当の地位にある姫に違いないのだ。早く城に戻さなければならない。
「ン…ぅ…劉亮?」
「いるぞ、ここに」
衛玉の手を握り、存在を伝えてやる。すると安堵したような顔になり、また安らかな顔で眠りに落ちる。
ドンドンと強い足跡が聞こえる。やっと来たかと劉亮は肩の荷が下りた。
手紙を書き、術を使って鳥に似せて折った手紙を椿姫の側近に送っておいたのだ。頭に届けたい人の顔を思い浮かべ、飛ばせば何があっても必ず相手に届く。
幸い、今日初めて会ったので顔はしっかり覚えていたのである。
「姫様!」
しわがれた声に椿姫はビク!と肩を揺らす。ゆっくりと振り向くと、年老いてはいるが、足腰がしっかりとした元気そうな老婆がいた。
「ばぁや!」
「戻りますよ!どうしてこんなところに!」
「貴方を追ってきたのよ!老婆のくせに足が早いんだから!途中で見失って、大変な事になったのよっ」
「大変な事ですと?!どこかお怪我でもされたのですか!」
周囲の従者達がわらわらと姫を取り囲む。騒がしくなった部屋の中心で、衛玉がウーンと居心地悪そうに眉を寄せる。
「申し訳ないのですが、ここに眠っているのは先ほど姫を助け、怪我をした者だ。安静にさせてやりたい」
老婆は謝り、嫌がる椿姫を連れて部屋を出ていったのだった。
シンと静かになる。しばらくして衛玉が目を覚ました。
「気分はどうだ」
「頭がずきずきしますが、悪くは無いです」
「見つけた時、少女と口づけをしていたから驚いた」
「ひがまないでください。貴方より先に口づけを経験しちゃったからって‥‥んん!」
劉亮は衛玉の後頭部を押さえ、口づけを落とした。
ふるふると衛玉は口元を押さえ、顔を真っ赤にしていた。
「な、なぜ‥‥?」
「少し、むかっ腹が立った」
「そ、それは‥‥ごめんなさい」
なぜむかついたからと言って躊躇なく男に口づけができるのかと衛玉は混乱する。先に口づけを経験したという点がむかついたのか。しかし相手は少女で、女性と呼ぶにはまだまだ子供だ。そんな相手に口づけをされてもなんとも感じない。それ以前に衛玉は男性しか好きになれず、さらに言えば一番口づけたい相手は目の前の男なのだ。
変なところでむかっ腹を立てられても衛玉は困るだけである。
しかし貴重な口づけに、衛玉はフワフワと体が浮いてしまいそうなほど喜んだ。
(劉亮と‥‥劉亮と口づけをしてしまった‥‥!)
顔がニヤけないよう、衛玉はぷるぷるとして表情筋が動かないように努めたのであった。
***
劉亮は許せなかった。あの少女を。緊急で仕方なかったとはいえ、衛玉にとっては初めての口づけだったはずなのだ。夢ではしたが、現実世界の衛玉は誰とも口づけた事がなく、衛玉が死んで復活してからその初めての相手はきっと己になるだろうとどこかで思っていたのだ。
それが、己の将来の妻になるはずだった少女に奪われ、腹の底からムカムカとしていた。なんとも複雑な気分だ。
翌日、徳川家康公のいる京都の伏見城へと呼ばれた。家康公が江戸に滞在しているという情報は間違っていたのだ。
会ってみると、家康は結婚の話は無かった事にし、養子縁組のみの扱いにしたいと言ってきた。
椿姫が家康公に嘆願したらしい。劉家の養子になるが、結婚は好きな人としたいと。劉亮が己から願うつもりが、思わぬ形で幕を閉じた。
衛玉を連れて帰路へつこうと、猫の姿の衛玉に手の平に乗るよう促す。猫は首を振り、ナーと断る。
「なぜだ?」
衛玉は周りを確認し、誰もいないと判断するとボンと音を立てて人間の姿に変化する。慣れた様子で簡易な衣を体にひっかける。
「私は寿命を採取しなければいけない身です。ここで‥‥お別れしましょう」
衛玉は劉亮の反応を見る。また昔のように寿命を奪うような真似はやめろと鬼ごっこをするように追ってくるのか、はたまた牢屋に入れと言ってくるのか見極めたかったのだ。どちらにせよ衛玉には逃げる算段がある。ジッと劉亮を見つめた。
すると劉亮は予想外の言葉を言った。
「俺も、共に行く」
衛玉は目を丸くする。
「なんですって?」
「手伝うと言っているんだ。金があれば‥‥寿命と交換してくれる人間がいるのだろう。金なら、持っている」
寿命を採取する事に否定的などころか、手伝うと言ってきた。
「嘘でしょう、貴方本当に、劉亮ですか?それともどこかおかしくなった?」
「おかしくなったのかも‥‥しれないな」
劉亮は衛玉を竹林の奥へ連れ込む。川辺の近くあたりで衛玉を座らせた。水のせせらぎと、鳥の鳴く音、笹が風で揺れる音だけが二人を包む。
「衛玉、聞いてほしい」
衛玉の心臓は破裂しそうだった。何が起こっているのか理解できそうもない。劉亮は愛しそうに衛玉の頬を撫でもう片方の腕で劉亮の腰を抱いているのだ。そして覗き込むように話しかけてきている。
劉亮のとんでもない行動に、バクバクと鳴る心臓が口から飛び出そうだった。
「お前が好きだ」
とうとう心臓が爆発したんじゃないかと、衛玉は思った。体がはじけ飛びそうな衝撃だった。手の指先がぷるぷると震える。信じられない。生き返り、意識を取り戻した時はただただ劉亮に会いたいと思った。誰かのものになっていてもいい。二番目でもいい。ただの飼い猫としてでもいいから、劉亮の傍にいたかった。
「婚約を完全に破棄できるまで、言えなかった。すまない」
すまないと言う事は、衛玉の気持ちは筒抜けていたという事になる。
「いつから‥‥気づいて‥‥?」
「木の下で、お前が告白をしてきた時から」
カッ!と頬が熱くなる。聞いていたどころの話ではない。直接本人が相手に好きだと言っているのを、劉亮はなぜか覚えているのだ。衛玉は頭から煙が出そうなほど混乱した。
「ななな、なぜ記憶が?」
「忘れ薬は飲まなかった。舌の裏に隠し入れたり、お前の見えないところで吐いたりしていた」
穴があったら入りたいとはまさに今の状況だと思った。
どんな顔をすればいいかわからないと小さく呟き、衛玉は両手で顔を押さえる。
「普通でいればいい。さて、返事を聞かせてくれるだろうか」
「そんなの、返事をしなくてもわかりきってるじゃないですか‥‥‥‥」
「お前の口からききたい」
劉亮は何度も頭に浮かべた。木の下で、衛玉に「好きです」と言われたあの光景を。目の前で言ってくれるなら、これほど幸福な事はない。
劉亮が待っている。衛玉は言わなければと口を開いた。
劉亮の甘い声に、ドクドクとこれ以上ないほど心臓がうるさくなっていく。
「あ‥‥あなたの‥‥あなたの事が‥‥‥‥‥‥」
どうせ忘れてくれると思った時はすらすらと告白ができた。今回はワケが違う。
死ぬ前ですら言えなかったのだ。現実の劉亮を前に、正直に好きだと言おうとすると不自然にどもり、口が固まってしまう。
口づけをしてきた時から、もしかしてとは思っていた。劉亮は己を好いているのではないかと。予測が当たってしまい、いじいじと両手の人差し指をクルクルと回して前へ進めない。劉亮の顔を見る事もできずひたすらうつむいていた。
ふ、と笑う気配がした。
「う、‥‥ん」
劉亮が口づけてきた。はじめは軽く。そして深く。
衛玉は目を閉じ、心地よさにうっとりとした。後頭部を支えられ、何度も唇をこすれさせたり、角度を変えてついばみ合った。
「衛玉、聞かせてほしい。俺の事が好きか?」
とろんとした目で、目の前のたくましい男を見つめる。力は抜けきり、くたりと劉亮に身を預けていた。衛玉の無駄な緊張は取り払われ、自然に口を動かす事ができる。
「好き、好きです。劉亮。貴方の事を‥‥愛しています」
劉亮は顔をくしゃりとさせた。
「劉亮のそんな顔、初めて見ます‥‥んっ」
深く重なる口づけを知るのはこの大地と空だけだ。劉亮は衛玉を押し倒し、我慢していた全てをぶつけるように衛玉を愛する。
「わ、あ‥‥劉亮、もしかして‥‥?」
衣服の間に指を入れてきた。脱がせるつもりだ。
「いいか‥‥?」
切なそうな、擦り切れるような低い声で耳にささやかれ断れるワケがない。
「は‥‥はい‥‥」
顔を真っ赤にし、そう答えるのがやっとだった。
「良くないだろう」
「「!!」」
第三者の声に二人は仰天する。即座に刀を抜かなかったのは、聞き覚えのある声だったのと、見知った顔だったからだ。
「父さん!」
決まりが悪すぎる。神出鬼没な父だが、最低限の礼儀はある方だ。こんな最中で現れ、声をかけてくるなんてありえないと衛玉は思った。
「お前の体は今魔物寄りだ。まぐわえば子を成してしまうぞ」
「子ども‥‥ですって?」
「そうだ。私もただの猫だったが、死んで生き返る度に魔物の体に近づいていった」
突然とんでもない話が始まり、劉亮は急いで衛玉の身なりを整える。
「その、父さんはよく知っているかもしれないですが、私は男ですよ」
「お前は体は人間でいうと男だが、魔物は男でも産める奴がいる。少数だが。尻以外に穴があるだろう。お前」
劉亮が先に驚き、口を開いて衛玉に聞く。
「あるのか?」
「そんなの知らないですよ!」
恥ずかしくて、つい強く返してしまった。
「せめて寿命を十分に採取してから事に励め」
ポイと寿命嚢を投げてきたあと、男は黒猫の姿に戻る。猫の体は陽炎のようにゆらめき、フッと消えた。
「‥‥‥‥入れるつもりはなかったんだが」
「な、何を言ってるんですか‥・・・」
劉亮の言葉に衛玉は思わず突っ込む。改めて劉亮は衛玉と向き合った。正座をし、背筋を正す彼に衛玉は見惚れる。
「衛玉、妻になってほしい。そして、私の子を産んでほしい。何があっても、お前を守ると誓う」
この男はどれだけ喜ばせれば気が済むのかと、涙腺を緩ませながら衛玉はほほ笑んだ。
「怖い、です」
「怖い?」
「貴方といると、幸せ過ぎて怖くなります」
泣き出した衛玉を胸に抱きしめ、ポンと頭を撫でてやる。
「もっと怖くなればいい。これからもっと幸せにする」
わぁんと声を上げて涙を流す衛玉を、劉亮は笑って背中をさすってやるのだった。
fin.
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