狐の呪い

kenagesennmon

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この世界の設定あらすじ
古代中国を舞台にしたファンタジーです。


ここでの宦官とは、去勢(睾丸のみを切除)した男性のことで、皇帝や后たちの身の回りを世話する官吏をさします。


*********

蔡倫(さいりん)は奴婢(奴隷)だった。9歳まで家族のように扱ってくれていた主人の奥方が亡くなり、ことあるごとに主人の子ども達に殴られ蹴られと無慈悲な扱いを受けるようになった。
逃げるように蔡倫はその家から離れ、様々な家を転々と渡り歩いた。

数奇なる運命で彼は宦官への道が開け、進んで宦官となった。無事に安定した生活を手に入れ、20歳までを平穏に暮らす。

蔡倫は自分の誕生日がとても嫌いだった。忘れてしまいたい。しかし忘れる事ができない。その日は自分の命日となる日だったからだ。


蔡倫は蔡家の最後の生き残りだった。
蔡家は呪われた一家だった。

20歳までに好きな人と口づけを交わさなければ狐になって死ぬ。という呪いだ。初めて親からその話を聞いた時、笑い転げてしまった。

しかしその呪いは本物で、好きな人と添い遂げられなかった姉は20歳で狐となり、翌日に死んだ。狐の寿命は長くても4年ほど。すでに20年も生きてしまっている。そのため人間から狐になってしまうと長く生きられないのだ。


蔡倫が7歳の時、山賊に家を焼かれ、人買いに奴婢として売られた。他の家族は残虐に殺され、いっそのこと自分も死んで家族に会いに行こうかと悩んだ事がある。

蔡倫は母の「生きられるだけ、めいいっぱい生きなさい」という言葉を思い出して自害する事は諦めた。

その後宦官となった蔡倫は報われない想いを抱いてしまうことになる。





宦官になってしまったからには、もう女性とは恋をする事はできない。せめて同じ宦官同士ならと思った事はあるが、一切そのようなトキメキを感じる事はなかった。そんな時、蔡倫が育てていた薬草畑に皇帝が足を踏み入れた。

位の低い蔡倫は皇帝の顔を見たことがなく、親し気に「どうされましたか?」と聞いた。相手が皇帝―――王だとも知らずに。

「貝母(バイモ)を育てていると聞いた。少しわけてくれ…ケホッ」
「ええ。いいですよ…風邪ですか?」
「ああ。貝母は咳止めに効くと母上から聞いたのでな」
「なら、私が煎じましょうか」
「煎じられるのか?」
「はい。ここ一帯は私が育てている薬草なのです。また、お料理にも通じておりますので、苦くないお薬をお渡しする事もできますよ」
「ハハ、それは頼もしい。ひとつ頼もう」

咳はすぐに治まったものの、なぜかたびたび体を壊す王于。
その後、高熱を出した王于は一定期間の記憶を喪失した。

それから20歳になるまで、ひそやかに皇帝を想い続ける事になってしまった。


皇帝となり、様々な情報を集め、優れた人間を登用、派遣し、国の平定に尽力した。その結果、王于が皇帝となってから10年もの間に国は活気づき、国民が安心して暮らせるようになった。

しかし朝廷内は悲惨だった。仕事ばかりに目が行っていた王于は妻子同士が毒殺で殺し合いをしている事を見抜けず、愛した女は全て亡くなった。


[newpage]


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【第一章】

額を地面につけ、首を切られるのを待つ姿勢を取っていた。
「蔡倫(サイリン)、何か言い残したことはあるか」

執行人が蔡倫に聞きいた。
蔡倫は後ろの首に冷たい剣の先がヒタリと当たるのを感じた。

どうせ殺される。
なら、最後に言いたい事を言ってもバチはあたるまいと蔡倫は考えた。
青年が顔を上げる。大きな潤いのある黒い瞳と、皇帝の目が合った。
青年は美しい顔立ちだった。儚く美しい花を連想させる。どこかで見た事がある顔だと王于(ワンユー)が片眉を動かす。

深い憂いを帯びたその瞳に吸い込まれそうだと王于は思った。

静かに蔡倫が微笑む。
「陛下、愛しておりました」
刹那、王于の心に何かが灯る。

「蔡倫、お前。この後に及んで命乞いでもするつもりか?見苦しい。やれ」

中老の太った宦官が執行人に命ずる。剣を持った男が一瞬、躊躇した。

「やれ!」

男は執行人として人を殺すのに慣れていなかった。意を決して剣を引き、蔡倫を一刺ししようとしたその瞬間。

「待て」

帝の声に剣を持つ執行人の腕がピタリと止まる。その場にいる全員が玉座にいる皇帝に目を向けた。

「そいつを私の部屋へ連れていけ」
「な?!こいつは毒薬を自分で…!」
「口答えをするな。食事をさせて、身を清めてから来させろ。これは命令だ」


* * *



(命拾い、してしまった)

蔡倫は吊り灯籠の明かりが照らす回廊を進む。燭台を手にした宦官が蔡倫に振り向いた。
「ここだ。くれぐれも失礼の無いよう」
案内をしてくれた宦官に頭を下げ、礼をする。中にいるだろう皇帝に声をかけた。

「陛下、蔡倫が参りました」
「入れ」
心地の良い、しかし冷ややかさをも感じさせる声が蔡倫の耳に入る。緊張で手が震える。
「失礼いたします」
扉を開けてすぐに王于はいた。寝台の上で剣を布で拭いている。薄暗い中、蝋燭に照らされる精悍な顔にしばし蔡倫は見惚れる。

王于は気に入らない宦官を部屋で切り殺す事がある。もしかすれば自分もそうなってしまうのではと蔡倫は恐れていた。

(どうせ明日には死んでしまう命)
死ぬときはなるべく痛みを感じない方法でと思っていたが、致し方ないと諦める。一歩前に出て、扉を閉めた。

王は訪れた蔡倫に目もくれず、剣を磨き続けている。手持ちぶさたで、蔡倫はどうしたものかとその場で立ち尽くす。
ホー…とフクロウの鳴き声が聞こえた。

王于は剣を磨く手を止め、格子窓を開ける。外の冷気が蔡倫の薄い肌をすべり、つい蔡倫は寒さからクシュンとくしゃみを漏らす。

「失礼しました」

先ほど、くれぐれも失礼のないようにと注意されたのを思い出す。さっそくやってしまったと蔡倫は恥じた。

「いくつか聞きたい。なぜ毒薬をもっていた」

木の上のフクロウを見上げたまま、王于は言った。
蔡家の生き残りは自分だけ。秘密を外部に漏らしてもかまわないだろうと思った。
どうせなら、自分が生きていた事を誰かに覚えておいてもらうのも悪くないかもしれないと考える。

「苦しんで死ぬより、昏睡状態から自然に死ぬ道がラクだと考えたからです」
「それは自分で飲む用に煎じたものと、お前が供述したと報告を受けている。本当か?」
「本当です」
「なぜ死のうとする?」
「…何もしなくても、明日死ぬからです」

「なぜ己の命日がわかるのだ。私でさえ、何度も死にかけたが、こうして生き延びている。いつまで生きられるかなど、天にしかわからぬことだ」

「私には‥私の一族にはわかるのです。狐の呪いがかけられた、私たちには」
ようやくフクロウから目を離し、蔡倫に視線を移す。

「20歳までに恋をし、その相手と毎日口づけをしないと死ぬという呪いにかかっています」
「面白い童話だな」
「童話ではないのです。実際に、私の姉やそのほかの同胞はこの呪いで亡くなっています。私は蔡家最後の末裔なのです」

「蔡家など、聞いたことのない名だ」
「山奥で隠れ生きておりました。…ご存じ無いのは当然かと」

「質問を増やす。他の仲間はどうした」
「山賊に虐殺されました」

ポタ、と蔡倫の頬に涙が落ちる。この事を他人に話すのは初めてだった。

「明日、…月が真上まで来た頃、私の命は終わります。私は痛みに弱いので、狐の呪いにより苦しみながら死ぬよりは、人間のままラクに逝く方が良いと考えました。決して、陛下に謀反を起こすために作った毒薬ではありません」

毒薬を許可なく保持していれば処刑される。それはこの朝廷内で誰しもが知っている事だ。だからこそ蔡倫は細心の注意を払い、毒薬を保管していたというのに。同期の宦官に見つかってしまったのだ。

真剣みを帯びた顔で蔡倫を射るように見る。真意を確かめるような、そんな目だ。
「信じられぬな」
ひゅ、と蔡倫の胸の奥に冷たい風が通った。
(何を期待していたんだろう、私は)
王于なら理解してくれると期待していた自分がいたことに気づく。首を下にさげ、項垂れた。
もぞ、と臀部に違和感を感じる。振り向くと下衣から狐の尻尾が見えた。

「ヒッ」
「どうした」
「っし、しっぽが…!」

姉も死ぬ間際、狐の体になるまではゆっくりと時間をかけて変化していた。あの時は手足から変化していた為、自分も同じように手足からだと思っていた。尻尾が先に出始めるものだから、平静を取り繕う事ができずにアタフタとしてしまう。個々それぞれなのか、と新たに知った。

鞘に剣を納め、素早い速さで王于が来た。その目にフサフサとした尻尾が映り、瞠目する。
「これは…本当だったのか!」
ぐっ!ぐっ!と尻尾を何度も確かめるように握りこまれる。
「ひ、ひ…陛下、おやめください…!」
そこを握られるとなんだかおかしな気分になる。体から力が抜け、へたりと崩れ落ちる。床に座りこむ寸前で王于に抱き留められた。

「呪いを解く方法は」
先ほど蔡倫が言った呪いがまだ信じられず、再度聞く。

「好きな人と…口づけをする事です」
「お前は私を愛していると言ったが、それは本心か」
どきりとした。
「そ、それは‥」
口ごもり、何も言えない。あと数刻もすれば自分はこの世からいなくなる。それがわかっていても、安易に答えられるものではない。あれは処刑される寸前だったからこそ言えた事なのだ。こうも至近距離だと恥ずかしさが上回る。

「もういい。返答はあとで聞こう」

王于は蔡倫の腰を強く抱き寄せ、顎をつかむ。
「んッ…?!」
王于から口づけをされ、蔡倫は驚きから目を見開く。

「ん、う」
ちゅ、と唇から音が鳴り、カアと蔡倫の頬が熱くなった。
「…尻尾がまだ出たままだぞ。引っ込まないのか」
「一度狐化した部分は治りません…そういう呪いなのです。あの…ありがとうございます」

平静を保ちつつ答えたかったが、王于は長年恋焦がれていた存在だ。まだ唇の感触が残っていて、蔡倫の顔は赤く、足は震えていた。

「手遅れなのか。そんな尻尾がついたままで庁内の仕事ができるのか?」
王于の言葉に驚く。

「明日の仕事には支障はありませんが…殺さないのですか…?」
「殺されたいのか」
ぶんぶんと蔡倫は首を振る。
「いえ、いえ。生きたいです」
「なら生きればいい。明日はその尻尾、どう隠すのだ?」
死を受け入れてはいるものの、生にしがみつきたい願望はある。一日でも延命できるのなら嬉しい。まだ生きられるのかと、喜びを感じた。


「紐で腰にくくりつけようかと思います」
ユラユラと左右に揺れている尻尾を腰に抑え、蔡倫が答えた。今は白く薄い寝間着の服を着ている。尻尾が上がれば服はめくれあがり、飛び出してしまう状態だ。
幸い、この尻尾は自らの意思で動きを調節できるようだった。これなら大丈夫だと蔡倫は思う。

「ちょうどいい紐がある。渡そう。来い」

椅子に座り、几の上の木箱を開けた。
「寄贈品だ。縁起のいいものだから身に着けておいた方がいいと、半ば無理やり渡されたのだ。安心しろ、これは信頼できる者から預かったものだ」

赤と金の糸で作られた太めの紐だった。
「どれ、巻いてやろう。ここへ立て」
「いえ、自分で…」
「遠慮するな」
皇帝に言われればハイと返事をする他ない。
フサフサとした尻尾を前触れもなく握られた。
「ひっ」
「悪い、痛かったか?」
「い…たくはありませんが、どうやら、そこは私には急所のようです…」
「ふむ、ならば手短に巻こう」

するすると尻尾を挟むようにして紐を括り付ける。二、三周ほど回したところでくくりつける。

「苦しくないか」
「はい」

ゆら、と自分で尻尾を動かしてみる。尻尾は大人しく腰にぴったりとくっついている。
これは丁度いい紐を頂いたと蔡倫は感謝する。
「ありがとうございます。寄贈のものであれば、とても高価な品のはず。お借りしてもよろしいのでしょうか」
「かまわない。それより、今後の話をしよう」
「今後、とは?」

「いつ口づけをすると良いのか、どれほど長く口づけをすれば良いのかという話だ」

ぼ!と蔡倫は顔から火がふき出そうなほど顔を赤くした。
「その反応…口づけをしたことがなかったのか?」
「ええ…お恥ずかしながら」
皇帝の口づけを明日ももらえるのかと、心臓がバクバクとしていた。

「いくつに朝廷に入った」
「10歳の時です」
「ほぉ。それで、私に惚れたのはいつの時だ」

「…そ、それは…」
冬が始まったばかり。気温は低い。にもかかわらず、蔡倫の額や首筋には羞恥による汗がタラタラと出始めていた。

「答えたくないならいい。次の質問には答えろ。私を愛しているのは間違いないか?」

もし嘘なら明日彼は狐と化す。ならばこの話し合いも無駄になるのだ。念のため確認しておきたかった。
ゴク、と蔡倫の喉が鳴る。緊張しているようだ。
「…ぃ」
小さい声でハイ、と言った。両腕の袖で顔を隠している。見えている耳は真っ赤だった。

************

王于(ワンユー)から香を持ってくるようにと命じられた。慧可(フェイ カ)はヤレヤレと肩をすくめる。銀色の薫炉を主の几(つくえ)に置き、灰に香を乗せた。

「その香は木箱に納めておいたもので間違いないか」
「ええ、陛下。ご安心ください」

王于と同年代である慧可は生死を共にした仲だ。しかし誰が用意したものであっても、毒の混入がされていないかどうかを確認する。
微量であっても、香でも長く吸う事で死に追いやるものもある。毒に詳しい王于は自らその香りを確かめる。

しばし香りを嗅ぎ、良い匂いだと感想を漏らして寝台に座った。問題は無かったようだ。
「慧可、笛を吹け」
笛を所望するときはいつだって気分のいい時だ。よほど今夜の来訪者を心待ちにしているらしいと慧可は小さく笑う。
「かしこまりました」

穏やかな笛の音に耳を澄ませる。昨日の青年―――蔡倫の顔がよぎった。

クスリと主の笑う声が聞こえた。
「どうされましたか」

「いや、昨日の夜を思い出した」
「さようですか」

女を抱けない体になってしまった。いざその時になると体が拒否をするようになってしまったのだ。かといって性欲は無くなったわけではなく、やむなく宦官を抱こうかと考えた事もある。しかし男は趣味ではなかった。心に深い傷を負ってからここ数年、主は他人と褥を共にする事は無かった。
「楽しそうで、何よりです」
「楽しそうに見えるか?」
「ええ。とても」

「陛下、蔡倫です。いらっしゃいますか」

扉の外から声が聞こえた。声変わりをしたばかりの少年のような高さの声だった。
「蔡倫は…信用できる男でしょうか」
「案ずるな。人を見る目はある」
「確かに。男に関しては」
慧可は深く頷く。
「おい慧可(フェイ カ)。皇帝に嫌味を言うとは出世したな」
女を見る目は残念なほど無い。それを自覚している王于は目をすがめて慧可を見る。
「そのような事は決してありえませんよ。どうぞお楽しみくださいませ」
「楽しめって…私と蔡倫をどう見ているんだ?」
「…寝屋を共にする間柄でしょう?」
「ただの話し相手だぞ」
「しかし、男同士のあれやそれやについて読みふけっていたではありませんか。書庫で」
「お前見ていたのか」
男に興味が出た事をこの臣下に気づかれたくなかった王于は舌打ちする。なぜなら男を抱くなど暇人のする事だと慧可と話していた。その言葉は先週王于自身が放った言葉だ。
苦虫をかみつぶしたように眉を寄せる。

そんな君主の姿がよほどおもしろかったのか、慧可は肩を小刻みに揺らして笑う。
「陛下を陰ながらお守りしていただけです」
朝廷内でも敵が多かったのは随分昔の話だ。慧可はただ、王于がコソコソと何を調べているのかに興味を持ってついてきただけに違いないのだ。王于はため息をもらす。

「陛下…?」
蔡倫が扉の外で小さな声でもう一度呼んだ。

「入れ」

慧可は王于に一礼し、扉を開けた。蔡倫には一度小さく頭を下げ、にこりと微笑んでから部屋を離れた。

パタンと扉を閉め、王于の方を向く。
「こちらへ来い」
「はい」

***********************

王于は森のような静かな目をしていた。一重瞼は美しく張り、蔡倫を認めたその眼には光が宿る。
形の整った王于の唇につい目がいく。あの唇に昨夜は助けられた。そして今夜も。

王于には恐ろしい面がある。ひとたび皇帝の機嫌を損なえば、きっとこれまでの葬られた官吏のように無慈悲に剣で殺される。権力のある貴族の子でさえも、問答無用で殺すか追放をしていた。
どちらが本当の王于なのだろうと蔡倫は考える。少なくとも蔡倫には王于が優しい人間に見える。
毒を所有していれば死刑は免れない。王于は寛容にその件を流し、さらには狐の呪いの進行を止める手伝いまでしてくれるという。

頭が上がらないとはこの事だと蔡倫は身をもって知った。

「座れ」
「失礼、します」

「蔡倫」
肩を抱き寄せられ、顎の下を指でとらえられる。ゆっくりと近づく王于の顔が見え、きゅっと蔡倫は目を閉じた。
ふわりと唇が当たる。目を閉じた蔡倫の瞼がピクリと動いた。

何度この唇に触れる事を夢見ただろうかと、蔡倫は涙が出そうになる。昨日は心の準備が出来ていないままで、この口づけを味わう余裕は無かった。じんわりと胸の奥があたたまる。

離れていく唇をつい追いかけそうになるのをこらえ、蔡倫は目を開ける。

「今日の分はこの一度でいいだろう」
「はい…ありがとうございます」
昨夜は尻尾を隠す為の紐を腰に巻いたあと、すっかり安心しきった為か蔡倫の腹が鳴った。
その日は包子を二人で食べ、数刻呪いについて話し合ってから部屋を出た。

「身に余る施し、ありがとうございました」

立ち上がり、深く王于に頭を下げる。
今日もきっと話をして部屋を出るか、もしくは何もしないでこのまま部屋を出るかのどちらかだろうと思っていた。

「今夜も話さないか」
「はい」

良かった、と蔡倫の胸が高鳴る。王于の傍に居られるはとても嬉しい。しかし一つの懸念が頭の隅にはびこり、心が晴れない。

"男同士のあれやそれやについて読みふけっていたではありませんか"

先ほどの宦官が言っていた言葉が蔡倫の頭の中で反芻する。

「どうした?」
蔡倫に翳りが見えた。王于が聞く。

「陛下は、男性も…その…お相手に…その…夜の…」
言いにくいのか、その、その、とばかり言って結論が出ない。見かねて王于が言った。
「いや。今までは女しか抱いたことがない」
「さようで…」

毒殺で奥方同士が殺し合いをしたという痛手から、王于はすっかり女性不信になってしまった。
それからというもの、王于は数年前からずっと一人寝を続けているのだ。

「次は私が聞く番だ」
ぽん、寝台をたたく。座れという意味だとわかった蔡倫は微笑み、促されるままその場所へ腰を降ろす。
「はい。なんなりとどうぞ」

「なぜ、今日は寝間着で来なかったんだ?」
汗くさい体では失礼だと思い、体を清めてからここへ来た。昨夜は寝間着だったが、状況が状況だった。今夜は普段通り仕事着で向かおうと思ったのだ。

「申し訳ありません。着替えてまいります」
立ち上がり、扉へと向かおうとする蔡倫の腕をつかむ。

「別にいい。私のを着ろ」
「…は」
「何を着てこいとは言わなかったからな。一応用意してやった」

「そ、そんな…今すぐ自分のものを」
「いい。あまり私を煩わせるな」

「も、申し訳ありません…」
「立ったり座ったりとせわしないやつだ。座れ」

腕を引っ張られ、図らずも王于の腿の上に座る事になる。

「あっ、わっ、もうしわけ…っ」
「私が座らせたのだ。謝ることではない。しかしお前の肌はいったい…どうなっている。肌は白く玉のよう。そしてこの手に吸い付くような触り心地。これも狐の呪いの影響か?」

「いえ…母の肌に似たのだと思います」

呪いにかかっていたのは父の方だ。母は普通の農家の娘だった。

ほう、と王于がモチモチと蔡倫の頬や腕をもむように触る。

「む、肌が固くなったぞ。緊張をするな」

蔡倫も男だ。肉のつきにくい薄い体ではあったが、それなりに重いものを持つ仕事もしているため、筋肉はある。
王于に触られる事で柔らかい肌の下の筋肉が強張り、モチモチとした触り心地を楽しめなくなった。

緊張をするなと言われると、余計に緊張をする性質だ。せっかく王于が肌を触ってくれているのだから力を抜かなければと思えば思うほど、体が強張る。

「蔡倫、この香はどう思う」
「香り、ですか」
微量の甘い香りがすることに気づく。
「とても、良い香りです」
「だろう」

フっと蔡倫の肩の力が抜けるのを感じた王于が話を続ける。
「今夜はお前に頼みたい事がある」

「はい、なんなりと」
王于の頼み事ならなんでもやるという意気込みで振り向いたものの、近くで顔を見る事に慣れていない蔡倫は顔を赤くしてすぐに扉の方を向いた。

「夜の相手になってはくれないか」
「…!」
「嫌なら断っていい。無理強いはしない」
蔡倫に拒否をする意思はない。むしろ大歓迎だとも言える。
しかしハク、ハク、と口を開けたり閉めたりを繰り返す。驚いて何も言えない。

「嫌なら立って部屋を出ろ。もし良いなら…私に身をまかせろ」

ぐるりと視界が回る。いつのまにか仰向けになり、王于を見上げる態勢になっていた。

「本当は昨夜、抱いてしまおうかと考えた」
昨日は色々あった。疲れただろう思い深夜になる前に部屋へ帰した。しかしもっと口づけだけでもしておけばよかったと思うほど、王于は今夜ここへ来る蔡倫を心待ちにしていたのだ。

加えて男同士のやり方など知らなかった。初めは誰でも痛いだろうが、怪我をさせないよう学んでから蔡倫を抱こうと思ったのだ。

王于の唇が降りてくる。寝台の布を握り、蔡倫は息を止めた。ドクドクという心臓の音が相手に伝わりそうだと蔡倫は思う。
「もう一度問う。嫌ではないか?」
「いやなわけが…ありません」
目を伏せながら答えた。
ふりしぼった声は相手に届いただろうかと、ソロリと王于を見る。

優しく笑う王于を見たのは数年ぶりで、初めて会った時の事を思い出した。

「んん…」

両手首を寝台に縫い留められるように押さえられ、唇を吸われる。
なんとも心地の良い感覚に、蔡倫はこのまま自分は溶けてなくなってしまうのではないかと思った。


**********

「!」
舌を差し込むと、蔡倫はわかりやすく体を跳ねさせた。
「おびえるな。嫌だと思った事は口に出せ」
「今…し、舌が口の中、に」
「そういう口づけもあるのだ。嫌でなければ大人しくしていろ」
「は、はい…」

このような関係になるなどと、蔡倫は予想もしなかった。

「そうだ、もう一つ頼みがある」
「なんなりと」
「あまり声を出さないようにできるか?」
「こ、声、ですか」

「そうだ。皆、ヨくなるとよがり声を出す。女が駄目なら男でと試そうと思った事があるのだが、どれだけ欲がたかぶっていても男の体を想像をするだけで萎えてしまう」

困ったものだ、と自分の下半身に目をやる王于(ワンユー)を蔡倫は不憫に思った。

「失礼を承知でお尋ねいたしますが、勃起する事は…?その、私は薬草を専門にして学んでまいりましたが、体について何か問題があればお手伝いできるやも」

「勃起をしないわけではない。毎朝元気だ」
「さようですか…なら、女人と行為をなされる前に、萎えないように何か煎じてお渡ししましょうか」

「…お前、本当に私の事が好きなのか?」
王于の問いに、カア、と蔡倫の首筋から耳まで赤くなる。両腕で顔を隠し、「はい」と答えた。

「…なら、いい。」

衣服をはがすと、腰におさまっているフサフサとしてる尻尾が見えた。
「今日一日、問題はなかったか?」
「はい。陛下のおかげです」

驚いた時に尻尾につい力が入るが、紐のおかげで衣服から飛びだす事は無かった。
しゅるしゅると紐は外され、蔡倫は一糸まとわぬ姿となる。
羞恥を感じた蔡倫は両目をきつく閉じた。

「やめるか?」
嫌がっているように見えた王于は最後にもう一度だけ聞いてやった。
蔡倫は目を閉じたまま顔を横にふる。

「そうか。まぁ私も男相手にどこまでできるかわからん。ほどほどに協力してくれ」

「かしこまりました」

蔡倫は目を開き、頷いた。
蔡倫もさほど男性同士の営みに詳しいほうではない。滑りが良くなるものを尻の方にぬりたくり、陽物を中に納めることで快楽を得られると本で読んだ事がある程度。
果たして本当なのかと半信半疑ではあった。
王于が寝台の傍に置いていた几の瓶を持ってくる。
「それは?」
「お前に塗る」
作業の用に蔡倫の足を割り開く。生まれたままの蔡倫はヒッと声を上げた。
「何かを訴えたい時は別だが、それ以外は声を出すな」
「か、かしこまりました。申し訳ありません」

両手を口におさえ、冷たくぬるぬるとした感触に耐える。ピタリと王于が止まった。

「…?」
どうしたのだろうと目を開けて王于を見る。
「やはり、男相手だと‥お前の顔なら問題ないと思ったのだが」

どうやら塗ったはいいが、気分が下がってしまったようだ。それもそのはずだと蔡倫は肩を落とす。予想はしていた。蔡倫は睾丸をとってはいるが、竿はそのままなのだ。蔡倫の竿は18を過ぎた頃から一度も勃起をすることなく過ごしてきた。今もだ。
しかしまったく機能しないからといって、竿がある限り蔡倫は男なのだ。
王于は寝台の端に座り、深呼吸をする。

蔡倫は座り、衣服を整える。
「まだ、待ってくれ。もう少し頑張ればできるはずだ」
まだ抱く気でいるようだ。蔡倫の胸に一つの花が咲くような嬉しさを感じた。

「ご安心ください。私が奉仕させていただきますから」

「できるのか?」
「経験はありませんが…なんとかできるかと…」

寝台の傍に跪き、そろりと王于の股の間に手を当てる。
「しっ、失礼します‥‥っ」
カチコチに固まってしまっている蔡倫を見て王于は思う。
(なんだか私がいじめているようではないか)
衣服の下を少しずらすと、まったく反応のない男根がボロンと現れた。

(お…大きい)
蔡倫のものは睾丸を切除してしまった時から大きさはほとんど変わっていない。
他人と湯に入るような習慣も無いため、こうして大人の男根を見るのは初めてとなる。

「どうした」
凝視したまま停止している蔡倫の頭を撫でた。何を考えているのかが顔でわかる。蔡倫は顔に出やすい性格のようなのだ。観察眼に優れた王于にはすぐにわかった。きっとあまりの大きさに驚いているのだと。

「あっ、なんでもありません…」

スっ、スっと擦ってみたり、揉んだりしてみる。全く反応はない。


「その程度では夜が明けるぞ。口を使え」
「えっ?!く、くち…?!」
「ああ。そのつもりでそこにひざまずいたのだろう?」
違います、とは言わなかった。知らなかった。口で愛撫をする方法があるなどということは。
「失礼、します」
口の中に入るかどうか不安を感じた。
できるだけ大きく口を開けて王于のそれを含む。
「含むだけではだめだ。頭を上下に動かせ」
コク、と加えたまま蔡倫は頷き、言われた通りにする。
「そうだ…手で根本とその下を触れ…その調子だ。うまいぞ」

王于に褒められるのは嬉しかった。必死に王于が好きだと思う動きを覚え、奉仕した。
王于に飽きられないためにも。あと数か月生きられればまだいいほうだと蔡倫は考える。
愛し合えなくとも、こうして王于のためになる事ができるなら本望だった。

―――それから三年後。

「………っ………!………ッ、」

「蔡倫、声を出してもいいと言っただろう」

繋がった部分からの快楽にポロポロと蔡倫は涙を流す。声が出そうなのを必死で耐えていた。王于に声の事を言われ、首を振って拒否を示す。

「私に立てつくとはいい度胸だ」
「ちがっ…違います…!」

ピタリと蔡倫を穿つのをやめ、王于は聞く。
「ならばなぜ私の命令をきかない」

うるうると蔡倫は涙目で訴える。

「陛下は…私の嫌がる事は強要しないとおっしゃってくださいました…」

確かに、言った。初めて蔡倫を抱いた3年前のことだ。しかしこれは違うだろうと王于は続ける。

「声を我慢するのはなぜだ?」
「そ、それは…」

「私が男の声に萎えてしまうという心配なら無用だ」

ぐん、と深く突かれ、ゾクゾクと駆け上がるような気持ちよさに蔡倫は腰を反らす。
二時辰は経過していた。蔡倫の体力は尽きていた。ぐったりと意識を失い、目を閉じている。
王于は蔡倫の顔にかかった髪を優しくはらってやり、抱き寄せる。ピクン、と蔡倫が反応した。

まだ意識は失ったままだ。
この二年、ずっとこのようなやりとりをしている。蔡倫はもう声を出さずに行為ができるようになっていた。もはや声を我慢するのが癖のようになっている。

抱くたびに蔡倫の感度は高まっている。体調のいい日だと、蔡倫は一炷香だけで5回も達することがあった。

この間は声が出ようものなら自分の舌を噛んで耐えようとした程である。危ないため口の中に布を入れて蔡倫を抱くこともあった。声を我慢しなくていいと言っているのに、と頭の固い蔡倫に王于は少々頭を悩ませている。

王于は二年前の自らの愚行を悔いていた。
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二人の汗がじわりと交わり、ズチュズチュと部屋にはぬめりのある水音が響いていた。

『あんっ、あっ』
『こら、蔡倫、声を出すなと言っただろう』

蔡倫は宦官にしては声が低い方だ。今は興奮できているが、男の声に自分はいつかは萎えてしまうだろうと王于は考えていた。

『はぅっ、ぁ…申し訳ありません…』
ぐっぐ、と蔡倫の中を好きなだけ穿ち、王于は眉を寄せて程よい締め付けを楽しんだ。

『ぅぅん…っ』

王于のものが強く蔡倫のいいところをかすめる。ガクガクと蔡倫の腰が震えた。

『蔡倫』

咎められ、蔡倫は涙を流して謝る。

『申し訳ありません…!』

尻に入れ始めた最初の頃は特に快楽など感じる様子はなく、ただ痛みに耐えているようだった。それが、半年もするとだんだんヨくなってきたのか声が漏れ出てくるようになってしまったのだ。
パン!と奥へもぐりこむように腰を動かす。

『ふんん……!』
『蔡倫、声を』

『申し、訳…ありません…っぐす、我慢いたしますので…!』


どうして我慢できないのだろうと自分を責め、毎度蔡倫は最後の方になると泣くようになっていた。

---------------

サラサラと蔡倫の髪をすき、起きてくれないだろうかと祈りながら眠る彼を抱きしめる。初めのうちは萎えるだろうと思っていた。しかし蔡倫が声を出さなくできるようになってから、少し物足りなくなってしまったのだ。


その時初めて、蔡倫の声が好きなのだと王于は悟った。


しかし時はすでに遅く、蔡倫は声を出すことをかたくなに拒否をするようになってしまったのだ。
手持ち無沙汰で、するりと蔡倫の尻尾を撫でる。尻尾は意識がなくとも意思を持っているかのように小さく左右に揺れた。

どうにかして最中の声を出してほしい。

しかし無理強いをして命令をしようとすると、涙目で「強制はしないと約束をした」と毎度訴えられてしまうのだ。あの目で言われるとすべて水に流してしまう自分に辟易してしまう。


朝、帰る前に共に朝餉を食べるようになっていた。

「なぜ、声を出さない?」
「それは…」
やはり口ごもる。理由は明白。王于が自分を拒否してしまうことを恐れているのだ。

「何度も言っているが、私はお前の声を聴きながらシたいのだ。いい加減、折れろ」
「…申し訳ありません」

蔡倫はこうしていつも謝るだけだ。


蔡倫は声を我慢する方法を見つけだした。気持ちよくなってしまう部位を避ける事で、あられもない声を抑えられることに気づいたのだ。


皇帝の陰茎は隠しきれないほどの大きさで、ひとたび入れられてしまえばつま先まで震えてしまうほど感じてしまう。
どうしても気持ちよくなってしまうのはもう我慢する他ない。

自分が一番声を出してまう場所があたらないよう自分で動いてみた所、皇帝はそこが蔡倫の気持ちのいい場所だと思い込み、そこばかり穿ってくれるのだ。
それでもまだ声は我慢できなかった。

そして声を我慢するためのもうひとつの対処法は、なるべく相手を見ないという方法だ。目をつぶってやりすごしているうちに気づけた。王于の整った顔を見ているだけで体中がじくじくと性感帯にでもなってしまったかのように熱くなる。しかし、目をつぶっていればその感覚は半減するのだ。

そうしてどうにか声を出さないよう耐え続ける事ができたのである。

王于を信用していないわけではないが、やはり自分の声は男だ。到底女性の鈴のよう可愛らしい声など発せられる訳はない。
自分は嫌われてしまえば命を落としてしまう身。王于自身に大丈夫だと言われていても、心配になってしまうのは致し方ないことだった。


はじめこそ、王于にこれだけ愛してもらえた事は嬉しく、もう死んでもいいとさえ思っていた。しかし日に日にできるだけ長く王于と共に生きたいという気持ちがわいてきてしまったのだ。

しかし問題はその日起こってしまった。


「なぜ私の希望に答えない?お前が首を縦に振るまで私は書斎から出ない。いいな。心持が固まったらお前から呼びに来い」

「そ、そんな…」

蔡倫はうろたえる。声を我慢するな。この要望に応じろと、とうとう命令をしてきたのだ。

すでに昨日の口づけから丸一日がたとうとしている。あと一時辰(二時間)ほどで日をまたいでしまうのだ。そうなれば体の狐化が進行し、水上くして息絶える事になる。

バタンと扉が閉まり、蔡倫は王于の部屋にポツンと一人残された。

王于とて鬼ではない。蔡倫を愛しいとさえ想っている。あまりにも頭の固い蔡倫を説き伏せるための方法が他に思いつかなかったのだ。

半時辰ほどが過ぎたころ、とうとう王于は
焦る。自分で言いだしたものの、あともう少しで蔡倫の狐化が始まってしまう。ウロウロと落ち着きなく書斎を左右に歩いては扉を見て蔡倫が来ないかと今か今かと心待ちにしていたのだ。

その時、ズズン…!と大きく地面が揺れた。大きな地震が始まった。その揺れは長く、なかなかおさまりそうにない。

「なんだ…?!」

他の部屋から宦官たちが叫んでいるのが聞こえた。
本棚がバサバサと倒れていく。かろうじて王于はそれらを避ける事ができたが、本棚が扉を塞いでしまった。

「おい!誰か扉を開けに来い!」

王于は叫んだが、地震は思ったよりも大きく、兵も宦官も己の身を守る事で精一杯のようだった。

王于は懸命に扉を開けようとするが、建物自体の造形が崩れてしまってびくともしない。王于の背中にヒヤリと冷たい汗が流れる。

このままでは手遅れになってしまう。

「蔡倫!蔡倫…!」

維持を張ってこのような遅くまで口づけを先延ばしにしてしまった事を後悔した。
地震は時間と共に大きくなり、そして王于がいた部屋の半分が倒壊する。運よく本棚と本棚の間に潜り込むことができたが、もひとつの本棚が倒れてきてしまった。逃げ場はない。両手で頭部を守る。防ぎきれない強い衝撃はあったが、かろうじて命は守れたようだ。

「立たなけれ…ば…」

倒壊したおかげで外に出れそうだった。足に力を込めるも、頭の打ちどころが悪かったらしい。
うまく立てないのだ。ガクンと膝から力が抜ける。

「くそ…!」

意識は無くなり、空が青白む時間まで王于倒れていた。

* * *

一方、蔡倫がいた部屋は頑丈で、倒壊は免れていた。しかし、最悪の出来事が起きていた。前回の口づけから丸一もたっていない。それだというのに、蔡倫の両足はすでに狐のそれになり始めていたのだ。

「あ……うそ…」

地震が止まる。当然皇帝の身を案じた宦官たちがやってくる。蔡倫は寝台の下に隠れた。

「…もう、このような体では愛してはもらえない…」

手も、もう人間とは呼べないものになりはじめていた。
息がゼェゼェと荒くなる。命が終わるのはこんなにもあっけないものだったのだなと蔡倫は涙した。これなら、一度くらい声を我慢せず、王于の言う通りにすれば良かったと体を丸くさせて後悔する。
狐化して死んだ姉ほどゆっくりではなく、思っていたよりも早く狐へ変化し終わってしまった。

(陛下…ありがとう…ございました)

人語を話す事はできない。心でそう思い、狐となった彼は涙を流してそのまま目を閉じた。




* * *

「ここは…」

あらゆるものが倒壊している中、複数名の宦官と医者が自分を取り囲んでいた。
体をみるとあらかた処置は終わっていて、あとは血で汚れた服を着替えるだけのようだった。

王于はハッとした。

「蔡倫!私の部屋は倒壊していたか?!」

突然の王于の声に驚きながらも、一人の側近が答えた。

「陛下のお部屋は大丈夫でしたが…蔡倫殿は部屋にはおりませんでした」


「そんなはずは…」

「陛下!どちらへ!?」

突然走り出した皇帝に従者達が焦る。

「私はもう問題ない。ほかの者たちの球場に当たれ!誰も来なくていい!」
部屋へ行くと、慧可(フェイ カ)がいた。

「蔡倫は!」

慧可が一度頭を下げて言った。

「弱った狐が一匹。その他は誰もおりませんでした‥‥陛下、人間に戻す方法は…もちろんありますよね?」

王于の顔が青くなる。慧可は涙を堪えていた。

この時、慧可は蔡倫の事情に気づいていたのだと王于は知った。

「狐は他の部屋に移し、休ませております」

「案内しろ」


* * *

そこにはまるで子犬のような小さな子狐が
いた。息は荒く、今にも死に絶えそうだ。

「蔡倫…悪かった…私が、…悪かった…!!」

口づけを何度もしてみたが、戻る気配はない。王于は泣いた。耐えられる訳がなかった。

「蔡倫…頼む、お前なんだろう?目を開けてくれ」

子狐の耳がピクリと動いた。王于が手を近づけると、愛おしそうにその子狐は目を薄く開いて頬を寄せてくる。

「なぁ蔡倫、愛しているんだ…お前がいない世など、生きていられぬ…狐のままでもいい。生きてくれ…!」

一度狐化が終わってしまえば、もう一日も待たずして死んでしまうのが常だと蔡倫は言っていた。

「ぜったいに死ぬな。死ぬ事など…私が許さない!」

狐の目からジワリと涙がこぼれた。

「蔡倫、愛してる、好いている…私のために、生きてくれ…」

月が上に上るその一瞬まで、王于は部屋に誰も近寄らせなかった。


呼吸が小さくなっていくのを感じながら、ずっと愛を子狐に囁き続ける。

その時。

「蔡倫?!」

子狐の体が大きくなったかと思いきや、手足がまるで人間のように変化していったのだ。そして顔は蔡倫の顔へと近づいていく。

「ああ…蔡倫…!」

閉じていた目をゆっくりと開ける。

「陛下…?」

死を覚悟していた蔡倫は目をきょとんとさせていた。

「よかった…本当に、死んでしまうのかと思ったぞ…っ」

「ご心配をおかけして…申し訳ありません。しかし、なぜ…」

「おそらく体に巻いていたあの紐のおかげだろう」

「尻尾を抑えるために使っていた紐…ですか?」


「そうだ。あの紐には呪いを浄化させる作用があるのだ。お前が狐になってしまった時は全く効果が無かったのだと先ほどまで嘆いていたが…良かったよ。しかし、また同じ事が起こってはたまらない。今後は二時辰ごとに口づけをするぞ」

「そんな、日に一度で十分です」

「馬鹿を言うな。お前が死ぬのがどれほど怖いと思っているか、そして私がどれだけお前を愛しているか、十分教えてやったばかりだろう」

死の寸前にいた狐だった自分に愛を囁き続けていてくれていた事を思い出し、蔡倫の目の下が赤くなる。


「お仕事の…お邪魔にならない程度に…」

「よし、では口づけをしよう」

「はい…」

口づけは甘く、そして幸福の味がした。









fin.

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