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霧彦の章
匪躬
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お見舞いというのは、通常相手から訪ねて来るものだと思う。でも病状を知らなければ来る者も来ないから、それとなく知らせて促すのは分かる。じゃあ呼び付けるのは何だろうか。よほどの寂しがり屋か嫌われ者か、これはあり得ないけど遺言か。
「貸せ貸せ、お前それでも調理人の身内か。流石に甘やかしが過ぎるだろう」
そんなこと言われたって。俺は梨に限らず料理中の皮むき自体したことが無い。
「姉も義兄も悪くありません。私が自分でも憶えてないくらい小さい頃、勝手に刃物を持ち出してざっくり手を切ったからと、用心して触らせてくれなかったのです」
「しつけに口出しは野暮だが。そんなの折を見て監視しながら教えてやればよいだけではないか。あ、教える前に分捕ったからか。そりゃあ悪かった」
「はいはい、さすが元調髪師サマは刃物の扱いもお上手で」
どうせ悪いなんて思ってないくせに。俺がつむじを曲げていると、切ったばかりで瑞々しい梨の欠片を口に放り込まれた。それをしゃりしゃり噛んで飲み込んでいると、いつも怖い顔の留守役が現れ、俺の顔を見て更に険しくなった。
「長上、未明からサルヌリ朝の侵攻が始まりました。場所は例の砦です」
え、やばいじゃん。のんきに梨食ってる場合じゃねえ。俺はびっくりして長上を見たが、予想に反して犬歯が剥き出しになる程破顔していたので、更に驚いた。
「あっはっは、まんまと罠にかかったな、戴冠ッ。精々掌で踊らせてやる。――匪躬を呼べ」
「狼煙を見たようで。既に来ております」
「相変わらず支度の早い。こちらも用意をしよう。霧彦、元と言ったな。世はまだ現役の調髪師のつもりだぞ。留守役と隠れて見ておれ」
長上が寝着から動きやすい軽装に着替えている間、すぐ近くの中庭には次々と棒が立てられ、囲い布を張り巡らし、その中に椅子や剃刀、洗面だらいが設置された。そこへ使用人に案内され、いかめしい武装の大男が単身入って行った。
俺は絶対に声を出すなと留守役に厳命され、その横でこっそりと中の様子を伺った。大男はもう椅子に座っているが、ソワソワとどこか忙しない。だが着替え終わった長上が現れた途端、勢いで椅子を跳ね飛ばして立ち上がり、更には両手を頬へ伸ばして長上の視線を自身へ向けたものだから、それはもう仰天なんてもんじゃない。
「アアッ、阿諛。やつれておるではないか。留守役はいったい何をしているのだ。やれ政だの刺客だのでっち上げ、ただ己の都合良く名を借り。閉じ込め利用しているだけではないかっ」
「気にするな、それはお互い様という奴だ。――急いで駆け付けてくれたのだろう、髪が乱れているぞ。ここに座れ」
長上は落ち着き払った様子で倒された椅子を立て直し、大男を大人しく座らせた。それから手際よく調髪を終えると、片手で大男に目隠しして、言い聞かせるように話し始めた。
「さあさあ匪躬、鬼になれ。全て散り散りに蹴散らしてしまえ」
「ウウウ~ッ、某には出来ませぬ……今でも鮮明に思い出す」
「案ずるな案ずるな、全部俺のための仕事だ。命じるのは俺、おまえは唯唯従うだけ」
「仕事……仕事……仕事……あれは仕事だったのか、でもあんないたいけな命乞いを、見て見ぬふりした。某の意思ではない、本当にそうなのだ。阿諛、信じてくれ阿諛」
「もちろん。匪躬は殺してない。敵を殺すのは、咎を負うのは、いずれ報いを受けるのは、皆ひっくるめて俺の仕事だ。それを勝手に奪って悩むのは、不忠な背臣のする事よ匪躬。お前は違うだろう、俺に忠実だもの」
大男は泣きじゃくりながらヨロヨロと退出して行った。これは果たして調髪なのか……、俺は藪をつついてとんでもないものを見せられてしまった気がする。
留守役は慣れているのか、平然としていた。
「お見事です。長上」
「元より大したことはしていない。分かっているとは思うが、捕虜を送って来ても殺すなよ」
本当に行ってしまうのか。俺は見送りの列の端に加わり観ていることしかできない。長上は軽装から更に武装に着替えて輿に乗った。そこへ先程の大男が、笑顔全開で近付いた。感情の落差が激し過ぎて怖い。
「うはははっ。ハイターク、とかいったか。サルヌリ朝の英雄気取りなど。ぶっ殺して血祭りだ。なあ、楽しみだなあ阿諛、お前に見せてやるのが」
「そうだな匪躬。待ち遠しいからさっさと行くぞ。――ではな留守役、留守中あやぎり朝の一切は任せた」
「安心して行ってらっしゃいませ、長上。必ずやご武運を」
「貸せ貸せ、お前それでも調理人の身内か。流石に甘やかしが過ぎるだろう」
そんなこと言われたって。俺は梨に限らず料理中の皮むき自体したことが無い。
「姉も義兄も悪くありません。私が自分でも憶えてないくらい小さい頃、勝手に刃物を持ち出してざっくり手を切ったからと、用心して触らせてくれなかったのです」
「しつけに口出しは野暮だが。そんなの折を見て監視しながら教えてやればよいだけではないか。あ、教える前に分捕ったからか。そりゃあ悪かった」
「はいはい、さすが元調髪師サマは刃物の扱いもお上手で」
どうせ悪いなんて思ってないくせに。俺がつむじを曲げていると、切ったばかりで瑞々しい梨の欠片を口に放り込まれた。それをしゃりしゃり噛んで飲み込んでいると、いつも怖い顔の留守役が現れ、俺の顔を見て更に険しくなった。
「長上、未明からサルヌリ朝の侵攻が始まりました。場所は例の砦です」
え、やばいじゃん。のんきに梨食ってる場合じゃねえ。俺はびっくりして長上を見たが、予想に反して犬歯が剥き出しになる程破顔していたので、更に驚いた。
「あっはっは、まんまと罠にかかったな、戴冠ッ。精々掌で踊らせてやる。――匪躬を呼べ」
「狼煙を見たようで。既に来ております」
「相変わらず支度の早い。こちらも用意をしよう。霧彦、元と言ったな。世はまだ現役の調髪師のつもりだぞ。留守役と隠れて見ておれ」
長上が寝着から動きやすい軽装に着替えている間、すぐ近くの中庭には次々と棒が立てられ、囲い布を張り巡らし、その中に椅子や剃刀、洗面だらいが設置された。そこへ使用人に案内され、いかめしい武装の大男が単身入って行った。
俺は絶対に声を出すなと留守役に厳命され、その横でこっそりと中の様子を伺った。大男はもう椅子に座っているが、ソワソワとどこか忙しない。だが着替え終わった長上が現れた途端、勢いで椅子を跳ね飛ばして立ち上がり、更には両手を頬へ伸ばして長上の視線を自身へ向けたものだから、それはもう仰天なんてもんじゃない。
「アアッ、阿諛。やつれておるではないか。留守役はいったい何をしているのだ。やれ政だの刺客だのでっち上げ、ただ己の都合良く名を借り。閉じ込め利用しているだけではないかっ」
「気にするな、それはお互い様という奴だ。――急いで駆け付けてくれたのだろう、髪が乱れているぞ。ここに座れ」
長上は落ち着き払った様子で倒された椅子を立て直し、大男を大人しく座らせた。それから手際よく調髪を終えると、片手で大男に目隠しして、言い聞かせるように話し始めた。
「さあさあ匪躬、鬼になれ。全て散り散りに蹴散らしてしまえ」
「ウウウ~ッ、某には出来ませぬ……今でも鮮明に思い出す」
「案ずるな案ずるな、全部俺のための仕事だ。命じるのは俺、おまえは唯唯従うだけ」
「仕事……仕事……仕事……あれは仕事だったのか、でもあんないたいけな命乞いを、見て見ぬふりした。某の意思ではない、本当にそうなのだ。阿諛、信じてくれ阿諛」
「もちろん。匪躬は殺してない。敵を殺すのは、咎を負うのは、いずれ報いを受けるのは、皆ひっくるめて俺の仕事だ。それを勝手に奪って悩むのは、不忠な背臣のする事よ匪躬。お前は違うだろう、俺に忠実だもの」
大男は泣きじゃくりながらヨロヨロと退出して行った。これは果たして調髪なのか……、俺は藪をつついてとんでもないものを見せられてしまった気がする。
留守役は慣れているのか、平然としていた。
「お見事です。長上」
「元より大したことはしていない。分かっているとは思うが、捕虜を送って来ても殺すなよ」
本当に行ってしまうのか。俺は見送りの列の端に加わり観ていることしかできない。長上は軽装から更に武装に着替えて輿に乗った。そこへ先程の大男が、笑顔全開で近付いた。感情の落差が激し過ぎて怖い。
「うはははっ。ハイターク、とかいったか。サルヌリ朝の英雄気取りなど。ぶっ殺して血祭りだ。なあ、楽しみだなあ阿諛、お前に見せてやるのが」
「そうだな匪躬。待ち遠しいからさっさと行くぞ。――ではな留守役、留守中あやぎり朝の一切は任せた」
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