シャハルとハルシヤ

テジリ

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第一章 シャハルとハルシヤ

真夜中の天狗攫い

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 スミド太守ハンムラビ・ヨウゼンの執務室には、彼の正妻ロミネ・ハルサナワ本人が、珍しくも直々に訪れていた。

「よろしいのですか、家出をそのままにしておいて」

「なあに、直ぐに音を上げて帰って来るさ。私の小さな恋人は」

「やはり連れ出したのはハンムルーシフだったのですね。彼は何と弁解しましたか」

「特段何も。まああれだ、単なる嫉妬の類だろう。なかなかい奴め」

のんなお考えですこと。もしソピリヤに万が一のことがあれば…全ては貴方様の身から出たさびですよ」

「はは、まだ子供ではないか。男は皆けだものだとでも言うのか」




 それから数日後のスミド法廷では、ウキン太守国にあるギロギロ川えんてい工事の差止訴訟が行われていた。まず原告側のルゼフ住持が主張する。

「裁判長殿。最寄りのさいびょうに納められている古文書によると、水害と言ってもたかが床上浸水に過ぎません。しかも昨今ギロギロ川周辺には殆ど人家も無く、もしもの場合でも、高台に避難すれば事足りるでしょう」

それに対して被告側の、アビス家弁護人が反論した。

「たかが床上浸水とは随分なお考えですな。大量の土砂が押し流され、それこそ尿にょうも混じった汚水が、各家々にまで流れ込んだということです。大体ルゼフ住持、貴方はウキンとは縁もゆかりも無い方です。そのような方が、なにゆえウキン発展の邪魔をなさるのです」

これを受け、ルゼフ住持は、穏やかな口調で持論を述べた。

「野山を切り開き、川をうずめ、そこに住まう、生きとし生ける物達の憩いの場を奪うことでしかもたらされない発展など、本当に必要なのでしょうか。一度えんていを築いてしまえば、もう二度と元には戻りません。あの川はもう無いのです」

滔々と語るルゼフ住持を、弁護人は鼻で笑った。

「知れたことを。もう工事は始まっています。都会の国からの開発援助金も、派遣された技術者も、大勢の人手も掛かっています。今更中止したところで、その損失をてんするのは、ウキン太守たるアビス家なのです。川が何だと言うのですか、野山が何だと言うのですか、自然など、ウキンにはまだ他にいくらでもある」

ルゼフ住持は、溜息を吐いて言った。

「拙僧は、ギロギロ川について話しているのです。仰る通り、そこら中探しまわれば似たような場所はあるやも知れません。しかし、それはギロギロ川ではないのです。ギロギロ川も、似たような場所も、この世に二つとして同じものなどないのです」

弁護人は大げさに肩をすくめて言った。

「そこまで仰るなら、もっと早い段階で反対すべきだったのですよ。それまで座視しておきながら、何故今頃になり訴えるのですか」

「知らなかったからですよ。あなた方アビス家がいつの間にか調査して、いつの間にか決め、いつの間にか誘致して立札と柵を張り巡らすまで、拙僧には知りようもありませんでした」

「成程成程、世間から隔絶した山寺にこもっておられれば、無理もない話ですな」

弁護人はそう言うが、実際の所ルゼフ住持が住まう山寺は、人里近くの墓地を兼ねた山の頂に建っており、墓参りに訪れる村人達とひんぱんな交流がある。その村人達ですら、えんてい工事など寝耳に水の出来事だったのだ。

「はい、それまで。これにて一時休廷とする。しばらく休憩ののち、判決を申し渡す」

裁判長は、予め書面にて提出された双方の主張と大きな相違が無かったことを確認し、審議の為に一旦法廷を後にした。それから自身の控室で、最新式の安楽椅子に揺られながら判決を黙考した。

――ふーむ、どうしたものか。ウキンのアビスの裏には、スミドのヨウゼンがついている。

――しかしあの僧侶の主張に、一理ないことも無い。

――大体、金持ち国家から恵まれた金というのがどうも気に食わん。どうせ中抜きに次ぐ中抜きで、まともなえんていなど完成すまい。となると、後に残るのは無駄な工事と自然破壊か…そちらの方がよっぽど不味いだろうになあ。

――ま、どの道上訴されれば、お堅い判例主義の連中がくつがえしてくれるだろう。今日のところは下級法廷として、まさに奇跡的な判決を出すとしようか。

裁判長は傍らの内線電話に手を伸ばし、審議室の裁判官達に指示を出した。

「よし、スミド法廷裁判長としての判決は、ルゼフ住持ら原告側の勝訴だ。アビス家弁護人には、上訴と駆け込み工事を行うよう勧めておけ。それじゃ、判決文は頼んだぞ」



 一方シャハル=イェノイェがハンムラビ・ヨウゼンの魔の手から逃げ込んだ先の、ソピリヤ・ヨウゼンの学問所の面々はというと――、働かざる者食うべからずではないが――あまりにそれを徹底されると流石に罰が悪くなるものだということを、身を持ってひしひしと感じていた。

と言うのも、突然転がり込んできたシャハルの姿勢は、いっそ頑ななまでに謙虚だったからだ。
まず来客用の寝具が無ければ、従弟であるハルシヤ=イェノイェの部屋の寝台の隣に座布団を何枚か敷き、寒いのだから寝台で寝ようというハルシヤの誘いも狭くなるからとかわして、シャハルは渋々毛布を受け取って夜は休んだ。
日中ソピリヤのご学友方がやって来ての授業の際は、一人粛々しゅくしゅくと掃除に励み、見かねた先生役の学者達のすすめも、掃除してた方が気が楽だからと固辞し、現に今も階段近くの床を雑巾で磨いている。そこへすたすたと階段を降りてきた、学問所の主であるソピリヤが声を掛けた。
 
「ちょっと宜しくて、シャハル。貴方のお母様も、大層ご心配されていることでしょう。別に良いのですよ、家に帰っても。父には私から進言します」

「…お断りします。ソピリヤ様では頼りになりません」

「それでも、家族と会うくらいだったら――」

「お言葉ですが、会ってどうしろと言うんですか。直ぐまた離れ離れになって、僕は無理矢理連れ戻されるかも知れないのに」


二人の会話の内容は露知らず、その様子を庭から覗く六つの人影があった。

「おい、今が絶好の機会だぞ。誰か行けよ。なあゴルシッダ」

ソピリヤ・ヨウゼンの6人のご学友方の一人、タワ家のラフェンドゥがそう言って、近くに居たフヌ家のゴルシッダを小突く。

「や~なこった。レジーヴォが行けよ」

フヌ家のゴルシッダは憎まれ口を叩き、コシヌ家のレジーヴォの肩に手を置いた。

「嫌だね。ここは皆を代表して、エリシュが行くべきだ」

その手をすぐさま払いのけると、コシヌ家のレジーヴォは、マヌ家のエリシュに向けて顎をしゃくる。

「何で私が。ザブリョス、」

マヌ家のエリシュは眉をひそめ、コボ家のザブリョスを猫撫で声で呼ぼうとした。

「や~だ、絶対や~だ」

コボ家のザブリョスは両手で耳を塞ぎ、ぶんぶんと首を横に振った。

「えっ何。ごめん聞いてなかったから無理」

最後にウツ家のファティリクが、さも今気付いたかのように言った。

「嘘つけファティリク、今回ばかりは確実に聞いてただろ」

タワ家のラフェンドゥがいきり立って指摘したところに、通りがかりのハルシヤ=イェノイェが代わりに行こうかと声を掛けた。だがそれはできない相談だったので、フヌ家のゴルシッダがそれを端的に述べた。

「お前では駄目だ。序列が分からぬ」

「えっ、序列って何の序列ですか。ゴルシッダ様」

主旨を全く理解していないハルシヤに、コボ家のザブリョスが言った。

「ちょっとお、忘れちゃったの。シャハルは守上の猶子じゃないか」

ハルシヤのそれでもまだ理解できていない様子に、マヌ家のエリシュが更なる説明を付け加えた。

「ソピリヤ様が、弟とは認めないと仰せになっただろう。シャハルも使用人の真似事を始めた。だが実際問題、我々がシャハルをどう扱うべきか、まだ判断つけようもないのだ」

「貴様は従兄弟同士、気安く話しかけようと許される立場だがな」

そう言ってコシヌ家のレジーヴォが締めくくると、6人はじゃんけんをした。そして奇しくも一発目で勝敗が決し、一人負けしたタワ家のラフェンドゥが探りを入れに行く羽目になった。

「ちぇっ、こんなんばっかかよ~」

そう言ってタワ家のラフェンドゥが真っ直ぐ歩いて行くのを見守った残りの5人とハルシヤは、急いそと物陰に隠れ、待つことにした。


その頃のシャハルとソピリヤはというと、最悪の場合、学問所から即刻追い出される事まで覚悟していたシャハルの予想に反し、ソピリヤはシャハルの物言いにも腹を立てることなく、むしろ申し訳無さそうに黙り込んだことで、二人の間を気まずい沈黙が流れていた。そんな状況とは夢にも思わず、タワ家のラフェンドゥは無理やり割って入った。

「やあやあ、お二方。良ければ私も少しお話しに混ぜて下さいな。あーっと、ところでしばらく見ないうちに、少し痩せましたね。でもまあ、お勉強しないでいいのは素直に羨ましいです」

自分は何を言っているのか。タワ家のラフェンドゥは若干後悔しながら一気にまくし立て、シャハルの出方を伺った。

「ラフェンドゥ様、僕なんかに気を遣わないで下さい。今まで通りで結構です。そうですよね、ソピリヤ様」

「あ、ああ。そうだな、全部お父様が勝手にした事だし。私達には関係無い、少なくともこの学問所ではそうだ」

「お勉強がつまらないなら、ラフェンドゥ様もどうですか。僕と雑巾掛け競争」

「おっ、それは良いな~。前から一度やってみたかったんだ。――ラフェンドゥ・タワ、ぜいたくな名前だねぇ。今日からお前はラフだ。なんちゃって」

「ラフェンドゥ、最後ら辺の意味がよく分からないのだが」

「ありゃっ、ソピリヤ様、ご存知なかったのですか」

「僕も知りません。何かのご本の台詞ですか」

「ええっ、嘘だろシャハル、お前も観てないのか。温泉宿で雑巾掛けして、優しい先輩から貰った饅頭を、泣きながら頬張るんだ。それがまた美味そうでさあ」

「うーん、よく分からないけど、大変そうなお話ですね。まあどうぞどうぞ」

シャハルはそう言って、未使用の雑巾と、綺麗な水を汲んだ桶をラフェンドゥに差し出した。

タワ家のラフェンドゥは雑巾を水につけると、絞りもせずびちゃびちゃのまま雑巾掛けを始めた。シャハルは、使い古しのよく絞った雑巾でそれを追い駆け、あっという間に追い越した。

「ちゃんと絞らないからですよ。それじゃ床も綺麗にならない」

「なにいっ、そうだったのかっ」

「それにしても、皆様ご一緒じゃないんですね。残りの方々は、どちらにいらっしゃるんですか」

「ああ、それなら ほら。すぐそこに――」

タワ家のラフェンドゥによる突然の暴挙に驚いたご学友方とハルシヤは、慌てて側に近寄って来ていた。

「ラフェンドゥ、貴様どういうことだ。何をいきなり使用人の真似事を」

「あ、お久しぶりですレジーヴォ様。ヨウゼン邸では貴方様の異母姉君に、とてもお世話になりました。ありがとうございましたと宜しくお伝えください」

シャハルに限りなく文句ありげなコシヌ家のレジーヴォを始めとする5人を手で制し、タワ家のラフェンドゥは爽やかな汗を拭うと、手をぐっと握り、親指だけを突き出して言った。

「そんなことより、競争しようぜ。この前皆で観たじゃないか、“Le Voyage de Chihiro”」


『うおおっ、負けてたまるかーーっ』

一体何が6人のご学友方を雑巾掛け競争に駆り立てたのか。全く分からず唖然とするソピリヤと、学問所に来てから珍しく笑顔を見せたシャハル、そしてその笑顔に安堵するハルシヤだったが、そんな従弟にシャハルがふと言った。

「ねえハルシヤ。従兄弟同士は、友達にはなれないよ」





その夜、人々が寝静まった夜更け、シャハルは再びハンムルーシフに電話を掛けていた。

「どうしてそんなことしなきゃいけないんですか、せっかく逃げられたのに」

「とにかく、大丈夫だから私を信じなさい。一度助けて見せただろう。それに今まで私以外に助けは来たのかい」

「それは…いいえルシフ、あなただけです」

「そうだろう、分かったら言う通りにするんだ。さ、返事は」

「はい、分かりました…」



夜明け前の薄暗闇の中、眠るソピリヤは、微かな物音にぼんやりと目を覚ました。

「ひゃああっ、びっくりしたあ~何だシャハルか。もー、驚かさないでよ……」

起きるやいなや幽霊かと錯覚し仰天したソピリヤを気にした風も無く、シャハルは重力に従って垂れた髪の隙間から、引き続きソピリヤを見下ろしながら言った。

「夜遅くにすみませんが、ハンムラビ様の電話番号を教えて下さい」

「はああっ、今何時だと思ってる訳っ。別に今すぐじゃなくても良いでしょ、頼むから朝にして頂戴…私は眠いの…」

「待って、お願いですから起きて下さい。僕の気が変わらないうちに」

早朝、ソピリヤに無理やり書かせた電話番号を持って、シャハルはハンムラビに電話を掛けた。

――ハンムラビ様……ごめんなさい。僕が間違っておりました

――お待ち下さい、そうではなくて……なるべく二人っきりになれませんか、誰の目も届かない場所で

――分かりました、お待ちしております。ええ、ええ。大丈夫です。もう逃げたりしませんから



その日の朝、ハルシヤ=イェノイェは最悪な目覚めを迎えた。いつも通り寝台で寝ていたところ、突然襟首を捕まれ、むにゃむにゃとしているうちに、情け容赦一切なしの張り手が頬へ飛んできたのだ。起きた途端鼻血を出し、驚いて見上げた先には、主人の父であるハンムラビ・ヨウゼンの不機嫌な顔があった。

「お父様っ、平手打ちなどあんまりです。ハルシヤが何をしたと仰るのですか」

傍らには寝起きの格好のまま、父の暴力に抗議するソピリヤの姿があったが、隣で寝ていた筈のシャハルは、寝具代わりの座布団を残し姿を消していた。

「口ごたえするなソピリヤ。黙ってシャハルを連れて来い」

「ですから、本当に知らないのです。隅々まで見て頂いても構いません。どうぞお調べ下さい。まあシャハルのことですし、ひょっとしたらこっそり学問所も抜け出して、実家に帰ったのではありませんか」

「そなたに言われずとも、既に調べさせてある。……いや、待てよ。ひょっとすると――あれはまだだったか」

ハンムラビは何やら独り合点して部屋を立ち去り、ソピリヤは近くにあったちり紙を、鼻血を手で抑えるハルシヤに差し出した。

「ハルシヤ、怪我はどう。お父様も酷いことをなさる…」

「鼻血はまあ、そのうち止まります。それより、シャハルはどこに行っちゃったんでしょう」

「そう、それ。シャハルってば、自分でお父様を呼んでおきながら、行方をくらますなんて。そんな事をするから、ハルシヤが八つ当たりされて――全く、人の迷惑も考えてよっ」

「あはは、本当にそうですね」

ハルシヤはそう言いながら鼻にちり紙を詰めた。

「さてと、お父様はシャハルの居場所にお心当たりでもあるみたいだったし、ちょっと行って文句の一つも言ってやりましょう」

ハンムラビ自体は、彼が引き連れて来た使用人の人だかりができていたため、すぐに見付かった。

「居ないな…ここでないとすると、外へ出たのか」

ハンムラビは脚立の上に登り、男用手洗いの天井を開け放って中を覗いていた。

「お父様、一体何をなさっているのですか」

「ああ、そう言えば教えていなかったな。いわゆる隠し部屋だ。配線の関係で改装の折に、ここ以外の出入口は皆塞いでしまったがな。――それよりもソピリヤ、お前のその格好、寝間着姿じゃないのか。早く着替えなさい。私はもう帰るが、見送りは必要無い」

「申し訳ございません。ハルシヤ、着替えに戻るぞ」

「あ、はい」

そこへ、護衛のウラシッド兵がハンムラビに報告した。

「申し上げます、屋根の煤に裸足の痕跡が。おそらく助走をつけて塀付近の木に飛び移り、若枝を伝って隣家の庭に降りられたかと。その後の足取りは不明です」

すぐさま捜索網が敷かれ、ウラシッドとクルガノイの両武家は、碁盤の目を縫うようにスミドの街中を虱潰しに探し回った。結果、

「…………」

「シャハル=イェノイェ様でいらっしゃいますね。守上がお待ちです」

夕方になり、共同墓地にあるシェイマスの墓の前で、シャハルは左手の甲にぽつりと小さく虫刺されのような赤味を作った以外は傷一つ無い裸足のまま無事発見された。足は少し墓地の砂にまみれていたが、足裏は真っ黒く煤けてはいなかった。しかし川か水溜まりか何かで洗ったのだろうと、誰も気に留める者は無く、シャハルは早々にハンムラビの元へ連れて行かれた。

「シャハル、心配したぞ。何を突然シェイマス師の墓参りなど、言ってくれればいつでもさせたものを」

「…驚きました。シェイマス師と孫のセウロラが住んでいたお屋敷が、まさかソピリヤ様の学問所になっていたなんて。シェイマス師は、確かあのお屋敷で亡くなられていたんですよね。シェイマス師が旅行に行くとかで、セウロラは、ちょうど前の日の晩から僕の家に泊まって――」

「ああ、そう言えばそうだったな」

「お母さんが病気で、僕は産まれてすぐから、セウロラのお母さんとハルシヤのお母さんに半々ずつ預けられていたので――小さい頃からあのお屋敷でも、セウロラと良く遊んでいました。例えば天井裏の隠し部屋ですとか、そうそう、ハンムラビ様はこの一句をご存知ですか」

――旅は旅でも死出の旅 我は死すとも そなたを憂う

「隠し部屋の出入口である天井板の裏側に、血文字で書いてありました。シェイマス師の辞世の句です。あの突然の死は本当にご病気だったのですか、ハンムラビ様ならご存知でしょうっ」

「シャハル。気持ちは分からないでもない、だがなあ…それこそ病気で吐血することもあるだろう。大丈夫だ、私は怒ってなどいないよ。お前の望み通り別荘に行こうか。こうして騒ぎを起こしてしまった以上、外野の目も煩わしいしな」

別荘に向かう道中すっかりと夜も更け、車はヨウゼン家所有の別荘がある山奥の森の一本道を進んで行った。窓覆いもあり外からは見えないのを良いことに、ハンムラビはシャハルの上半身を脱がせ、二の腕にくちづけては跡を残していった。

「嗚呼…愉しみだ」

シャハルは空いている方の左手で懐に忍ばせた石を握り締め、一生懸命窓の外を向いていたが、鳥肌が立ち、吐き気がこみ上げ堪えられなくなった。

「ハンムラビ様……酔いました。吐きそうです」

護衛兼運転手は橋の上で車を停めた。シャハルが車を降りて橋の欄干へと向かい、入ってくる冷気を嫌って、ハンムラビは車の扉を閉めさせた。その一瞬の隙をついて、シャハルは石を高く高く放り投げ、走って車の後ろにしゃがんだ。すぐに水音がたち、それを聞きつけたハンムラビと運転手が慌てて車を降りてきた。

「おい、まさか落ちたのかっ」

シャハルはそれを確認すると、横の森を突っ切って駈け出した。そのまま闇雲にさまよっていると、突然何者かに真正面から抱きとめられ、思わず悲鳴をあげた。

「もう大丈夫、私です。ほら、昼間も会ったでしょう」

シャハルは優しく毛布を掛けられると手を引かれ、大人しく着いて行った。足元に気を付けながらも足早に進んで行くと、開けた場所に辿り着いた。そこには数人の大人と、

「凄い、なにこれ」

「気球です。空気を熱するのではなく、空気よりも軽い気体を入れることで浮かべている」

迎えの一人はシャハルに近寄ると、その身体の痕を見て泣き出してしまった。

「変な人…何で泣いているんだろう。この人は何もされてないのに」

――ああ、でも、そういうことか。知らない大人に泣かれるくらい、僕は酷い目に遭ったのか。いっそ取り返しが付かないくらいに……

そう思うと、シャハルは自分がとてつもなく嫌になった。そしてそんな目には遭っていない幸福な他の子供達のことを考えると、自分が彼等とは違う別の何かになってしまったように感じ、もうそういう風には戻れないのだと堪らなくなった。

「馬鹿野郎、てめえが泣いてどうする。脱出だ、早く用意しろ」

シャハルをここまで連れて来た大人が怒鳴りつけると、迎えの大人達は弾かれた様に残りの作業を終え、シャハルを乗せて全員が気球に乗り込むと、木に廻して延ばした係留索の結び目を外し、速やかに引っ張って回収した。

気球はふわふわと空高く舞い上がり、風に流されて海の方へと飛んでいった。途中ハンムラビのものと思しき車の灯りが見え、それも通り過ぎるとしばらく暗い山中が続き、やがてスミドの街中の灯りがぽつぽつと見え出した。

「小っちゃいなあ……」

あんなにも広く、シャハルを捕らえて逃がさないかのように思えたスミドの街も、そこに暮らす人々も、今となっては小さな明かりの粒に過ぎなかった。
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