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第一章 シャハルとハルシヤ
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季節は巡り、スミドの非常事態宣言は、ヨウゼン家の警備体制が抜本的に見直されたことで、ようやく解除された。太守暗殺未遂の被疑者としては、主にナルメ出身者の関与が疑われたものの、決定的証拠は得られず、厳しい取り調べもあったことで、スミドとナルメ両太守国の関係は更に悪化した。その結果として、ヨウゼン家とサペリ家は絶交した。
その日、シャハルはクルガノイの学校で、自転車剣戟の訓練に参加していたが、身が入らず防戦一方だった。訓練相手のクルガノイ生は、片手で巧みに自転車のバランスを取りながら、苛立ちを剣撃と共に隠さずぶつけた。
「いい加減辛気臭えんだよ、お前。それでも門下生の端くれか。何年落ち込んだって、お前の親父は生き返ったりしない。死んだままなんだよ」
「だって…まだ1年しか経って無いのに」
「うるせえ、実戦でそんなこと考えてたら死ぬぞ。心を無にしろ」
「これでもしている方なんだけど、うわあっ」
シャハルはうっかり転倒して自転車の下敷きになり、頬を擦りむいた。タイとスラーが駆け寄って助け起こした所で、担当教官は突然一方的に門下生達へ告げた。
「私はこれから出張だが、皆忙しく、代わりの教官が見つからなかった。だから本日は自宅学習とするが、くれぐれも寄り道などをせず、速やかに帰宅せよ」
担当教官が立ち去って見えなくなった途端、その場に残された門下生達は小躍りした。
『やった、休みだーっ』
三人での帰り道、今日の訓練の都合上、タイもスラーも自転車で縦に一列になって帰っていた。一番先頭を走っていたスラーは、後ろを振り向かず、大声で最後尾のシャハルに話し掛けた。
「シャハル、アナンさんを待たなくて良かったのか。いつも迎えに来てるけど」
「別にいいよ、どうせすぐ帰るんだしさ。待ってたら日が暮れる」
「なあ、お前等どっかで買い食いしねえ」
「あ、僕やっぱり一人で帰る」
列の真ん中を走っていたタイの提案を、シャハルは素っ気なく断った。
「ええっ、何お前そんなに教官が怖いのか」
「別に~、ただそういう気分ってだけ。じゃ、また明日ね」
シャハルはそう言って、一人別方向に自転車を走らせた。そうして角を曲がった先の路地裏では、黒塗りの高級車が後部座席の窓を開け停まっていた。
「お久しぶりです。ハンムラビ様」
「ああ。トビラスのことはすまなかった、何か困ったことは無いか。その顔の傷はどうした」
「ご心配ありがとうごさいます。学校の訓練中に転けて擦りむいたただけですから。名誉の負傷です」
「はは、逞しいな。良し。褒美にご馳走だ。乗れ」
スミド太守ハンムラビ・ヨウゼンは、革張りの座席を軽快に叩きながら食事に誘った。
「えっ。そんなつもりは…自転車がありますし、それに僕、もう細かい作法やお行儀の仕方も忘れてしまったので、何か失礼があったら…」
「堅苦しい店では無い、何なら個室にしよう。私とて面倒な行儀作法は好まんからな。自転車はそなたの家へ届けさせるとして、そら乗った乗った。キュビト、お前は降りて自転車を見張れ。後で迎えを寄越す」
新人3年目の秘書が車から降り、代わりにシャハルが後部座席に同乗してハンムラビの隣に座ると、鏡越しにその様子を見ていた助手席のウラシッド兵は一瞬だけ目を伏せた。車は秘書をその場に残し、料亭まで走り去った。ハンムラビは料亭で、勝手が分からないシャハルに代わって、酒蒸しや甘い果実酒を注文して食べさせた。
「私とトビラスの出会いは、恩師シェイマスの家だった。当時の私はエーレマス=エンシウという名の修行僧で、今はもう無いが、そのエーレマス寺を脱走し、恩師の家へ匿って貰いに行ったのだ。そこから私の逆襲が始まり、見事ヨウゼン家に返り咲く…どころか、太守の地位にまで昇り詰めた」
「やっぱり何度聞いても凄いです。でも、恐くなかったのですか」
「失敗して連れ戻されることがか、そんなものは大したことでは無い。山寺でただ生かされているよりは、実りある人生というものだ」
「はい……すみません、ハンムラビ様。何だか少し眠いです……」
「そう言えば…すっかり遅くなってしまったな。よしよし、両腕を私の首に廻して掴まれ。今晩は泊まっていくと良い」
ハンムラビは、手ずからシャハルを抱きかかえて車に乗り込み、車の自動ドアが閉まると、その背中に直接触った。
(――あれ、ハンムラビ様、寒いのかな…)
そう思ったところで、シャハルの意識は途絶えた。
夕方になり、アナンがシャハルを学校まで迎えに行くと、シャハルは既に帰っている筈だと事務員に告げられた。アナンはすぐさま方方を捜し回り、ついには護衛担当の武家ウラシッドに怒鳴り込んだ。
「シャハルを連れ去ったのは太守か、答えろっ」
激しい剣幕で食って掛かるアナンに、ウラシッドの先代棟梁が応対した。
「警備上の問題で答えられない」
「違うなら名誉のために否定するはずだ。やはりそうなのかっ」
「…どういう教育をしているんだ、全くもって危機感が足りない。あれでは逃しようもなかった」
「言い訳無用だ、あんた等は人攫いの片棒を担いだんだぞ」
「アナン、お前なら教えられたはずだ、あの悪趣味から逃れる術を。何も殺せとは言わない、ただ、無視と無愛想くらいは…装って欲しかった…」
アナンがシャハルを迎えに出て行った後、レラムの元にはハンムラビの秘書の一人であるキュビトが訪れ、シャハルの自転車と大金が届けられた。
「何なんですか、シャハルを帰して下さい。これは誘拐ですよ」
レラムが追いかける間も無く、キュビトはひたすら謝罪しながらヨウゼン邸まで逃げ帰って行った。レラムは思わず走って家を飛び出した所で、帰って来たセウロラと遭遇した。
「どうしたの小母さん。そんなに慌てて、何があったの」
「シャハルが…シャハルが、いいえ。取り敢えずは落ち着かないと。セウロラ、アナンを見なかった」
「ううん、まだ帰ってないよ。それよりシャハルがどうかしたの。さっきごめんなさいしながら走って行く、物凄く変な人ともすれ違ったけど…」
レラムはセウロラを不安にさせまいと曖昧に話を濁すと、アナンが戻るのを待ち、セウロラを自身の姉フラムに預けてから、ヨウゼン邸の門前までアナンを連れて出向いた。
「故トビラス=イェノイェの妻レラムです。お願いですから息子を返して下さい。私の様な寡婦に対して、余りに無体な仕打ちではありませんか、こんなお金も要りません。手切れ金のつもりか何かですか、だとすればあまりに無情です。どうか太守様にお取り次ぎをお願い致します」
「……相分かった。暫し待たれよ」
レラム達が現れてから、ひそひそと相談していた門番のウラシッド兵達の一人が、ヨウゼン邸の中に入って行った。
「トビラスが私の勧めた女達のどれかと結婚しなかったからだ」
レラムの抗議は速やかにハンムラビまで伝えられ、彼の理不尽極まりない不興を買った。キュビトは心を無にしながらレラム達への対応をハンムラビに訊ねた。
「はあ…左様でございますか。して、いかが致しましょう」
「追い返せ。ただし相手はご婦人だ、くれぐれも手荒い真似はするなよ」
「とのことですので、今晩はお引き取り下さい」
「嫌です。我が子を返して貰うまで、私はここから動きません」
そう言うとレラムはその場に座り込み、頑として退こうとしなくなった。
その翌日、ハルシヤは、学問所からソピリヤの乗馬の付き添いで、父タハエも働く馬場にやって来た際に、いやに深刻そうな表情のタハエを見つけ、挨拶がてらに声を掛けた。
「父さんおはよう」
「おお、ハルシヤじゃないか。実はな…太守様がシャハルを勝手に連れて行ってしまったんだが、何か聞いてないか」
「えっ、何それ。何でそんなこと」
「さあなあ…トビラスさんが亡くなって寂しいのかも知れない。でもなあ…だからってなあ…」
不安なまま一夜を明かしたセウロラは朝起きてすぐ、フラムに事態を問い質していた。
「フラムさん。どうして誰も帰って来ないの、皆はどこに居るの」
「多分ヨウゼン邸だけど……、私も心配だから、朝食後に様子を見に行きましょう」
その言葉通り、ヨウゼン邸の門前まで連れて行って貰ったセウロラは、昨日の服装のままヨウゼン邸の門前で座り込んで居るレラムと、側に付き添うアナンを発見して、思わず駆け寄った。するとそこへ、上方から、眩しい光が反射した。
「セウロラ、光を見るな。目が悪くなる」
アナンはそう言いながら、慌ててレラムの方を向き、その前に立ち塞がった。
「嗚呼、ひたすらに良心が痛む……」
その光の正体は、ハンムラビに嫌がらせを命じられた秘書キュビトが、ヨウゼン邸の建物の一角から、手鏡で反射させた太陽光だった。そのまま独りごちていたキュビトは、自身の向かいからやって来た、現在の主任秘書に挨拶した。
「マセリン主任。お疲れ様です」
「キュビト、ごめんね。貴方にばかり手を汚させて。本当にすまないと思っている」
「いえ、守上直々の御命令ですから。それにしても、元主任さえ生きておられれば、こんな事には……」
「本当にそう。全く…あの御方の悋気には、ほとほと嫌気が差す。あの人が馬術指南役と同居した時もそうだった。それから程無くして、ご結婚されたのを隠していたのも無理はない。もうそのくらいで良いから、貴方は仕事に戻りなさい。私から守上に進言しておきます。二度と誰にもこの様な真似はさせない」
レラムに一旦帰るよう諭され、セウロラはフラムと付き添いを交代したアナンに連れられて、土手近くにあるイェノイェの集落に戻った。そこへ話を聴き付けた本家の娘シトナがやって来てセウロラを連れ出し、二人でシャハルを取り返す為の作戦会議と相成った。
「イェノイェは配置換えされて、シャハルがどうしているか分からないんだって。でも、大人達は何か知っているみたいなのに。何で何も教えてくれないの~。あーあ、お姉ちゃんさえ居ればなあ」
「本当にね…。これって人攫いでしょう、悪いことじゃないのかな」
「でもやったのは偉い人だから、誰も何も言えないよ。そうだ。ハルシヤなら何か知ってるかも。手紙を書いて、タハエさんに渡してもらおうっと。セウロラも書くでしょ」
「うん」
そうして書かれた一通の手紙は、タハエが乗馬に来たハルシヤの手荷物にこっそりと紛れ込ませ、無事に受け渡された。
“ハルシヤへ
昨日シャハルが勝手に連れて行かれて、ヨウゼン邸に居るみたいなんだけど。そっちで何か分からないの。
レラム小母さんはヨウゼン邸の前で、シャハルを返してくれるのをずっと待っています。わたしも凄く心配です。お返事待ってます。
7日/雨月 シトナとセウロラより”
「これは……」
「どうしたハルシヤ、そんな深刻そうな顔をして」
「あっ、ソピリヤ様」
ソピリヤはハルシヤの持つ手紙をひょいと覗き込み、その文面に眉をひそめた。
「何だこれは、どうなっている。電話だ電話」
ソピリヤは電話を掛け終えた後、部屋から便箋を持ち出して、すらすらと書き付け、ハルシヤに手渡した。
「ハルシヤ、続きは頼んだ。明後日に乗馬の予定が入っていたから、そこでタハエに渡そう」
二日後、馬場でタハエを見付け、ハルシヤが手紙を手渡すと、タハエは顔色を変えて辺りを伺った。そして自分達の他には誰も居ないことを確認すると、急いで懐に仕舞い込んだ。
「いいか、今度からこういう物はこっそりと渡すんだぞ」
「えっ、これ本当は駄目なの」
「しっ、誰か来た」
やって来たのは馬場の職員一人だった。タハエとハルシヤは、素知らぬ顔で挨拶をした。
“シトナとセウロラへ
初めまして、私はソピリヤ・ヨウゼンです。
その事は父の娘である私も知らなくて、大変驚きました。
先程父に電話しましたが、いつもと変わった様子は無く、私がトビラスの話をして、シャハルは今頃どうしているでしょうかと言った所、「そうだな、息災ならば良いのだが」と返事がありました。
他も当たって、何か分かったらまたお便りを出します。
ごめん。ここから本邸のことは何も分からない。シャハルは大丈夫かな。レラム叔母さんも心臓悪いのに。
私は父さんから聞いて初めて知ったんだけど、父さんは何故かその話は余りしないから、どうしてそうなったのか、もっと詳しく教えて欲しい。
9日/雨月
ソピリヤ・ヨウゼン
ハルシヤ=イェノイェより”
シトナとセウロラは、その後タハエから受け取った返事を読んでいた。
「ねえセウロラ、このソピリヤ・ヨウゼンってもしかして……」
「シャハルが言っていた人だ。太守の子供」
その頃ソピリヤは、シャハルの状況を探る為に動いていた。
「父は明らかに隠そうとしている。こうなったらクサンナだ」
ソピリヤは学問所からヨウゼン邸内の南側の洋館に電話を掛け、クサンナへの取り次ぎを頼んだ。しかしクサンナは電話に出ず、代わりに電話口に立ったのは、ハンムラビの正夫人であるロミネ・ハルサナワその人だった。
「そろそろ掛けてくる頃だろうと思いました。余計な詮索はお止めなさい」
馬場で仕事中のタハエのもとには、ハンムラビの主任秘書マセリンが訪れていた。
「タハエ=イェノイェ、貴方は許可無くソピリヤ様に密書を渡しましたね」
「何の事やら。私にはさっぱりです」
「傷は浅いうちに認めた方が宜しいですよ。でないと首です」
「あっははは、私がそんなことを恐れるとでも」
「そうでしょうね。ですがこのままでは、まだ幼い子供達が真実にたどり着いてしまいます。もしそうなれば、誰にとっても不幸な結果が待ち受けていると思いますが、…貴方はそれでも良いのですか」
ソピリヤは、電話口に出たロミネを問い質していた。
「何故ですか、お義母様」
「貴方には、まだ知る必要の無いこと。シャハル=イェノイェの名は、以後禁句とします。勝手な手紙の遣り取りも、本来ならしてはいけません。ああ、貴方がそこに居る従弟君もろとも、馬術指南役を厄介払いしたいなら、話は別ですよ」
それから数日後、門前に座り込み、門番に追い払われても果敢ににじり寄る寡婦の姿は、少なくは無い人々に目撃され、スミドの街では噂の的となっていた。ハンムラビは、邸の通用口を一箇所使用不能に追い込まれたばかりか、いつ何時シャハルがすぐ側に居る母親の存在を知ってしまうのか、気が気では無かった。
「ええい、何故この私が未亡人ごときに振り回されている。何か対策は無いのか」
秘書室の面々は静粛を保ち、各々の業務に邁進した。
「キュビト、発言を許す」
「っ、申し訳ございません。特にありません」
「守上」
困窮するキュビトを見かねたマセリンが、席を立って挙手をした。
「何だマセリン、言ってみろ」
「以前はどういう名目でお側に置かれていたのですか。宜しければ、それを基にお考えになってはいかがでしょうか」
「ふむ、名目か。そうだな…」
その日の内に、ハンムラビは内容を伏せて家臣団を呼び出すと、その当事者であるシャハルが体調不良で欠席の中、彼を猶子にすると発表した。その場には学問所から駆け付けたソピリヤと学友一同の姿もあったが、ハルシヤは初めて建物内に足を踏み入れたことも忘れ、シャハルを一生懸命探して欠席と聞き、大いに落胆した。
「お父様……どういう事、もう訳が分からない」
「あのうソピリヤ様、ユウシって何ですか」
「猶子っていうのは、家督を継がない養子のこと。普通は分家や家臣の娘の家格を上げて、他家に嫁がせる際に使う制度なんだけど……」
その知らせは、ヨウゼン邸の門前で座り込みを続けるレラムにも、コトヅ家の奥方シェイマによって伝えられていた。
「レラムさんちょっといい、落ち着いて聴いて頂戴。シャハルが猶子にされた」
「そんな……実の母も許していないのに、誰の許しを得てそんな仕打ちをなさるのですか」
「……トビラスにもしもの時を託された、と遺言を捏造したそうなんだけど」
「トビラスがそんなこと、言う訳が無いのにっ」
「全くもって同感。レラムさん、わたくしも更に手を尽くすから、身体にだけは気を付けてね。必ずシャハルを取り戻しましょう」
シェイマはその足で、亡き父シェイマスの菩提寺である、キンスター寺へと向かった。
「キンスター寺の住職様、どうかお力を貸してください」
キンスター寺の住職はこれを快諾し、シェイマを伴って、ハンムラビに折入って話があると参上した。
「守上、どうかお考え直し下さい。親子を引き裂き、制度を捻じ曲げ、多くの人々に禍根を残すような真似は……果たして貴方様のような責任あるお立場の人間が、なさるべきことでしょうか」
「言いたい事はそれだけか。シャハルは絶対に返さない。トビラスの子は私のものだ」
キンスター寺の住職の説教に耳を貸さず、ハンムラビは執務机でふんぞり返った。余りの態度に、シェイマも必死になって主張した。
「でしたら、せめて面会だけでもお願い致します。体調不良と聴きましたが、貴方様が猶子としてきちんとお育てになっているのでしたら、何も問題は無いはずですね。わたくしとしても久し振りですから、是非お見舞いをさせていただけますか」
「断る。病み上がりに無理をさせたくは無いのでな」
「やはり納得致しかねます。拙尼及びキンスター寺は、鎮めの儀式を辞退させていただきます」
「脅しのつもりか、別に構わんぞ。私は端っからあんなものを信じてはおらぬ。謝礼も減って清々するしな。後任はカルナにでもやらせておけ」
ハンムラビの傍らで小さくなっていたキュビトは、それでも自らの責務を果たすため、慌てて口を挟んだ。
「お待ち下さい、カルクール=カルナ尼は、未だ修行中の身ではございませんか。ご生母のナンナ夫人も、あまり良い顔はなさらないかと……」
「その様にお考えになっていたのですか。分かりました。これにて辞退させていただきます」
「住職様、まだ話は終わっていませんっ。わたくし達は何も成し遂げて…」
「交渉決裂だな。キュビト、ご婦人方にはお引き取り願え」
「はい、…時間です。守上は次のご予定が詰まっておりますので、どうぞお帰り下さい」
マセリンは、廊下の途中でキュビトと見送りを交代し、レラムがその前で座り込みを続ける、門の内側から二人と一緒に出ると、手を組み合わせて祈るレラムに近寄って、耳打ちした。
「主任の奥様、一つ助言を。連邦郵便の取り扱いの中に、『内容証明』という郵便物があります。これは『何時・誰に・どんな内容』を貴方が送ったのか、連邦郵便局が証明してくれます。ただし法的な拘束力は無いので、相手が受け取った後に裁判を起こす必要がありますが……訴訟の前段階にはなるので、一応は脅しと、貴方が決して認めていないことの証明にはなるでしょう」
レラムが返事をする暇もなく、マセリンは門の中へと戻って行った。
「拙尼の力及ばず、お二人には誠に面目ありません」
「レラムさん、本当にごめんなさい。大丈夫だった、マセリンに今、何て言われたの」
「それが…内容証明を出すよう示唆されました。その後で裁判に訴えろと。でも、裁判となると、全てが明るみに出るのでしょうか」
「それは間違い無くそうなるでしょうね…裁判の判決は、事実を集めて裁判官が出すものだから。でもスミド法廷の裁判長は、太守様の呑み仲間だし…仮にまともな判決が出ても、一体誰がヨウゼン邸に突入して、シャハルを取り戻してくれるんだか。両武家はヨウゼン家に仕えているのに」
「拙尼は駆け込み寺をしていて常々思うのですが、舶来物の裁判制度なんて、金と時間を失うばかりですよ」
キュビトは、ハンムラビの次なる命令で、カルクール寺へと使いに出されていた。その目の前には、ハンムラビとは長らく別居中の太守夫人、ナンナ・ヨウゼンが立ちはだかっていた。
「絶対に駄目です。そんな因縁めいたお役目」
「お母様、私は構いませんよ。確かキュビトと云ったな、お父様にはそう伝えなさい」
しかしハンムラビの次女に当たるカルクール=カルナ尼本人は了承したため、キュビトは速やかに帰還した。
「やれやれ、これで一安心だ。トビラスの嫁も、流石に諦めて帰ったことだろうし…」
ハンムラビは、執務机の椅子に深く腰掛けて目をつぶった。そこへマセリンが、一通の手紙を持って声を掛けた。
「守上、トビラス氏の奥様から、速達でお手紙が届いています。確認致しましたが、剃刀等の危険物は入っておりません」
「おお、開けろ開けろ。そして貸せ」
マセリンはすぐさま手紙を開封して、中身を手渡した。ハンムラビは内容を読み進めて行くに従って気色ばんだ。
「何だこれは、――私レラムは、スミド太守ハンムラビ・ヨウゼンに対し、我が子シャハルを猶子とする事は、断じて認めない。直ちに猶子と騙った事実を撤回し、シャハルの身柄を返還されたし…だと」
ハンムラビは手紙を握り潰すと、執務室を出てレラムの座り込み現場が見える場所まで行った。
「増えているではないかっ」
そこにはレラムを始めとして、キンスター寺の尼達も座り込み、その異常事態に多くの野次馬を集めていた。
危ないからと座り込みへの同行を断られ、フラムに預けられたセウロラは、シトナを誘って木陰で作戦会議を決行していた。
「セウロラ~。あたし達が書いた手紙がばれて、タハエさん凄く怒られたらしいし、これからどうしよっか」
「そうだね、うーん……」
「おーい、ここに居たのか」
「やっと見つけた」
二人は、そこへ心配してやって来た、シャハルの通う武家クルガノイが運営する学校の友達であるタイとスラーにも事情を説明し、ソピリヤとハルシヤから送られてきた手紙を見せた。
「これを見た限り、太守様の後継は、まあ悪い人じゃなさそうだけど……」
「やっぱりスラーもそう思う、わたしは前にシャハルから聞いた話で、何だか気位高くて意地悪そうな人って勝手に思ってたんだけど…ハルシヤが無事に仕えてるんだし、結構話も通じそう」
「でももう連絡取れないし、これは猶子宣言の前に書かれた奴だろ」
「そうそう、全然頼りになる人が居ないよ~。レラムさん達はずっとヨウゼン邸の門の前に座ってるけど、あれって何の意味があるの、あたしだったら荷物とかに隠れて忍び込んで、中でシャハルを見付けて一緒に逃げて帰って来るのに」
「シトナ、それは無理だよ。絶対にしないで。ヨウゼン邸の警備を舐めてはいけない。それに、見つかったら多分殺される」
「えーっと、それってあたしだけかな」
苦笑いを浮かべながら訊ねたシトナに対し、生粋のクルガノイ生であるスラーは、真剣な面持ちで頷いた。
その日、シャハルはクルガノイの学校で、自転車剣戟の訓練に参加していたが、身が入らず防戦一方だった。訓練相手のクルガノイ生は、片手で巧みに自転車のバランスを取りながら、苛立ちを剣撃と共に隠さずぶつけた。
「いい加減辛気臭えんだよ、お前。それでも門下生の端くれか。何年落ち込んだって、お前の親父は生き返ったりしない。死んだままなんだよ」
「だって…まだ1年しか経って無いのに」
「うるせえ、実戦でそんなこと考えてたら死ぬぞ。心を無にしろ」
「これでもしている方なんだけど、うわあっ」
シャハルはうっかり転倒して自転車の下敷きになり、頬を擦りむいた。タイとスラーが駆け寄って助け起こした所で、担当教官は突然一方的に門下生達へ告げた。
「私はこれから出張だが、皆忙しく、代わりの教官が見つからなかった。だから本日は自宅学習とするが、くれぐれも寄り道などをせず、速やかに帰宅せよ」
担当教官が立ち去って見えなくなった途端、その場に残された門下生達は小躍りした。
『やった、休みだーっ』
三人での帰り道、今日の訓練の都合上、タイもスラーも自転車で縦に一列になって帰っていた。一番先頭を走っていたスラーは、後ろを振り向かず、大声で最後尾のシャハルに話し掛けた。
「シャハル、アナンさんを待たなくて良かったのか。いつも迎えに来てるけど」
「別にいいよ、どうせすぐ帰るんだしさ。待ってたら日が暮れる」
「なあ、お前等どっかで買い食いしねえ」
「あ、僕やっぱり一人で帰る」
列の真ん中を走っていたタイの提案を、シャハルは素っ気なく断った。
「ええっ、何お前そんなに教官が怖いのか」
「別に~、ただそういう気分ってだけ。じゃ、また明日ね」
シャハルはそう言って、一人別方向に自転車を走らせた。そうして角を曲がった先の路地裏では、黒塗りの高級車が後部座席の窓を開け停まっていた。
「お久しぶりです。ハンムラビ様」
「ああ。トビラスのことはすまなかった、何か困ったことは無いか。その顔の傷はどうした」
「ご心配ありがとうごさいます。学校の訓練中に転けて擦りむいたただけですから。名誉の負傷です」
「はは、逞しいな。良し。褒美にご馳走だ。乗れ」
スミド太守ハンムラビ・ヨウゼンは、革張りの座席を軽快に叩きながら食事に誘った。
「えっ。そんなつもりは…自転車がありますし、それに僕、もう細かい作法やお行儀の仕方も忘れてしまったので、何か失礼があったら…」
「堅苦しい店では無い、何なら個室にしよう。私とて面倒な行儀作法は好まんからな。自転車はそなたの家へ届けさせるとして、そら乗った乗った。キュビト、お前は降りて自転車を見張れ。後で迎えを寄越す」
新人3年目の秘書が車から降り、代わりにシャハルが後部座席に同乗してハンムラビの隣に座ると、鏡越しにその様子を見ていた助手席のウラシッド兵は一瞬だけ目を伏せた。車は秘書をその場に残し、料亭まで走り去った。ハンムラビは料亭で、勝手が分からないシャハルに代わって、酒蒸しや甘い果実酒を注文して食べさせた。
「私とトビラスの出会いは、恩師シェイマスの家だった。当時の私はエーレマス=エンシウという名の修行僧で、今はもう無いが、そのエーレマス寺を脱走し、恩師の家へ匿って貰いに行ったのだ。そこから私の逆襲が始まり、見事ヨウゼン家に返り咲く…どころか、太守の地位にまで昇り詰めた」
「やっぱり何度聞いても凄いです。でも、恐くなかったのですか」
「失敗して連れ戻されることがか、そんなものは大したことでは無い。山寺でただ生かされているよりは、実りある人生というものだ」
「はい……すみません、ハンムラビ様。何だか少し眠いです……」
「そう言えば…すっかり遅くなってしまったな。よしよし、両腕を私の首に廻して掴まれ。今晩は泊まっていくと良い」
ハンムラビは、手ずからシャハルを抱きかかえて車に乗り込み、車の自動ドアが閉まると、その背中に直接触った。
(――あれ、ハンムラビ様、寒いのかな…)
そう思ったところで、シャハルの意識は途絶えた。
夕方になり、アナンがシャハルを学校まで迎えに行くと、シャハルは既に帰っている筈だと事務員に告げられた。アナンはすぐさま方方を捜し回り、ついには護衛担当の武家ウラシッドに怒鳴り込んだ。
「シャハルを連れ去ったのは太守か、答えろっ」
激しい剣幕で食って掛かるアナンに、ウラシッドの先代棟梁が応対した。
「警備上の問題で答えられない」
「違うなら名誉のために否定するはずだ。やはりそうなのかっ」
「…どういう教育をしているんだ、全くもって危機感が足りない。あれでは逃しようもなかった」
「言い訳無用だ、あんた等は人攫いの片棒を担いだんだぞ」
「アナン、お前なら教えられたはずだ、あの悪趣味から逃れる術を。何も殺せとは言わない、ただ、無視と無愛想くらいは…装って欲しかった…」
アナンがシャハルを迎えに出て行った後、レラムの元にはハンムラビの秘書の一人であるキュビトが訪れ、シャハルの自転車と大金が届けられた。
「何なんですか、シャハルを帰して下さい。これは誘拐ですよ」
レラムが追いかける間も無く、キュビトはひたすら謝罪しながらヨウゼン邸まで逃げ帰って行った。レラムは思わず走って家を飛び出した所で、帰って来たセウロラと遭遇した。
「どうしたの小母さん。そんなに慌てて、何があったの」
「シャハルが…シャハルが、いいえ。取り敢えずは落ち着かないと。セウロラ、アナンを見なかった」
「ううん、まだ帰ってないよ。それよりシャハルがどうかしたの。さっきごめんなさいしながら走って行く、物凄く変な人ともすれ違ったけど…」
レラムはセウロラを不安にさせまいと曖昧に話を濁すと、アナンが戻るのを待ち、セウロラを自身の姉フラムに預けてから、ヨウゼン邸の門前までアナンを連れて出向いた。
「故トビラス=イェノイェの妻レラムです。お願いですから息子を返して下さい。私の様な寡婦に対して、余りに無体な仕打ちではありませんか、こんなお金も要りません。手切れ金のつもりか何かですか、だとすればあまりに無情です。どうか太守様にお取り次ぎをお願い致します」
「……相分かった。暫し待たれよ」
レラム達が現れてから、ひそひそと相談していた門番のウラシッド兵達の一人が、ヨウゼン邸の中に入って行った。
「トビラスが私の勧めた女達のどれかと結婚しなかったからだ」
レラムの抗議は速やかにハンムラビまで伝えられ、彼の理不尽極まりない不興を買った。キュビトは心を無にしながらレラム達への対応をハンムラビに訊ねた。
「はあ…左様でございますか。して、いかが致しましょう」
「追い返せ。ただし相手はご婦人だ、くれぐれも手荒い真似はするなよ」
「とのことですので、今晩はお引き取り下さい」
「嫌です。我が子を返して貰うまで、私はここから動きません」
そう言うとレラムはその場に座り込み、頑として退こうとしなくなった。
その翌日、ハルシヤは、学問所からソピリヤの乗馬の付き添いで、父タハエも働く馬場にやって来た際に、いやに深刻そうな表情のタハエを見つけ、挨拶がてらに声を掛けた。
「父さんおはよう」
「おお、ハルシヤじゃないか。実はな…太守様がシャハルを勝手に連れて行ってしまったんだが、何か聞いてないか」
「えっ、何それ。何でそんなこと」
「さあなあ…トビラスさんが亡くなって寂しいのかも知れない。でもなあ…だからってなあ…」
不安なまま一夜を明かしたセウロラは朝起きてすぐ、フラムに事態を問い質していた。
「フラムさん。どうして誰も帰って来ないの、皆はどこに居るの」
「多分ヨウゼン邸だけど……、私も心配だから、朝食後に様子を見に行きましょう」
その言葉通り、ヨウゼン邸の門前まで連れて行って貰ったセウロラは、昨日の服装のままヨウゼン邸の門前で座り込んで居るレラムと、側に付き添うアナンを発見して、思わず駆け寄った。するとそこへ、上方から、眩しい光が反射した。
「セウロラ、光を見るな。目が悪くなる」
アナンはそう言いながら、慌ててレラムの方を向き、その前に立ち塞がった。
「嗚呼、ひたすらに良心が痛む……」
その光の正体は、ハンムラビに嫌がらせを命じられた秘書キュビトが、ヨウゼン邸の建物の一角から、手鏡で反射させた太陽光だった。そのまま独りごちていたキュビトは、自身の向かいからやって来た、現在の主任秘書に挨拶した。
「マセリン主任。お疲れ様です」
「キュビト、ごめんね。貴方にばかり手を汚させて。本当にすまないと思っている」
「いえ、守上直々の御命令ですから。それにしても、元主任さえ生きておられれば、こんな事には……」
「本当にそう。全く…あの御方の悋気には、ほとほと嫌気が差す。あの人が馬術指南役と同居した時もそうだった。それから程無くして、ご結婚されたのを隠していたのも無理はない。もうそのくらいで良いから、貴方は仕事に戻りなさい。私から守上に進言しておきます。二度と誰にもこの様な真似はさせない」
レラムに一旦帰るよう諭され、セウロラはフラムと付き添いを交代したアナンに連れられて、土手近くにあるイェノイェの集落に戻った。そこへ話を聴き付けた本家の娘シトナがやって来てセウロラを連れ出し、二人でシャハルを取り返す為の作戦会議と相成った。
「イェノイェは配置換えされて、シャハルがどうしているか分からないんだって。でも、大人達は何か知っているみたいなのに。何で何も教えてくれないの~。あーあ、お姉ちゃんさえ居ればなあ」
「本当にね…。これって人攫いでしょう、悪いことじゃないのかな」
「でもやったのは偉い人だから、誰も何も言えないよ。そうだ。ハルシヤなら何か知ってるかも。手紙を書いて、タハエさんに渡してもらおうっと。セウロラも書くでしょ」
「うん」
そうして書かれた一通の手紙は、タハエが乗馬に来たハルシヤの手荷物にこっそりと紛れ込ませ、無事に受け渡された。
“ハルシヤへ
昨日シャハルが勝手に連れて行かれて、ヨウゼン邸に居るみたいなんだけど。そっちで何か分からないの。
レラム小母さんはヨウゼン邸の前で、シャハルを返してくれるのをずっと待っています。わたしも凄く心配です。お返事待ってます。
7日/雨月 シトナとセウロラより”
「これは……」
「どうしたハルシヤ、そんな深刻そうな顔をして」
「あっ、ソピリヤ様」
ソピリヤはハルシヤの持つ手紙をひょいと覗き込み、その文面に眉をひそめた。
「何だこれは、どうなっている。電話だ電話」
ソピリヤは電話を掛け終えた後、部屋から便箋を持ち出して、すらすらと書き付け、ハルシヤに手渡した。
「ハルシヤ、続きは頼んだ。明後日に乗馬の予定が入っていたから、そこでタハエに渡そう」
二日後、馬場でタハエを見付け、ハルシヤが手紙を手渡すと、タハエは顔色を変えて辺りを伺った。そして自分達の他には誰も居ないことを確認すると、急いで懐に仕舞い込んだ。
「いいか、今度からこういう物はこっそりと渡すんだぞ」
「えっ、これ本当は駄目なの」
「しっ、誰か来た」
やって来たのは馬場の職員一人だった。タハエとハルシヤは、素知らぬ顔で挨拶をした。
“シトナとセウロラへ
初めまして、私はソピリヤ・ヨウゼンです。
その事は父の娘である私も知らなくて、大変驚きました。
先程父に電話しましたが、いつもと変わった様子は無く、私がトビラスの話をして、シャハルは今頃どうしているでしょうかと言った所、「そうだな、息災ならば良いのだが」と返事がありました。
他も当たって、何か分かったらまたお便りを出します。
ごめん。ここから本邸のことは何も分からない。シャハルは大丈夫かな。レラム叔母さんも心臓悪いのに。
私は父さんから聞いて初めて知ったんだけど、父さんは何故かその話は余りしないから、どうしてそうなったのか、もっと詳しく教えて欲しい。
9日/雨月
ソピリヤ・ヨウゼン
ハルシヤ=イェノイェより”
シトナとセウロラは、その後タハエから受け取った返事を読んでいた。
「ねえセウロラ、このソピリヤ・ヨウゼンってもしかして……」
「シャハルが言っていた人だ。太守の子供」
その頃ソピリヤは、シャハルの状況を探る為に動いていた。
「父は明らかに隠そうとしている。こうなったらクサンナだ」
ソピリヤは学問所からヨウゼン邸内の南側の洋館に電話を掛け、クサンナへの取り次ぎを頼んだ。しかしクサンナは電話に出ず、代わりに電話口に立ったのは、ハンムラビの正夫人であるロミネ・ハルサナワその人だった。
「そろそろ掛けてくる頃だろうと思いました。余計な詮索はお止めなさい」
馬場で仕事中のタハエのもとには、ハンムラビの主任秘書マセリンが訪れていた。
「タハエ=イェノイェ、貴方は許可無くソピリヤ様に密書を渡しましたね」
「何の事やら。私にはさっぱりです」
「傷は浅いうちに認めた方が宜しいですよ。でないと首です」
「あっははは、私がそんなことを恐れるとでも」
「そうでしょうね。ですがこのままでは、まだ幼い子供達が真実にたどり着いてしまいます。もしそうなれば、誰にとっても不幸な結果が待ち受けていると思いますが、…貴方はそれでも良いのですか」
ソピリヤは、電話口に出たロミネを問い質していた。
「何故ですか、お義母様」
「貴方には、まだ知る必要の無いこと。シャハル=イェノイェの名は、以後禁句とします。勝手な手紙の遣り取りも、本来ならしてはいけません。ああ、貴方がそこに居る従弟君もろとも、馬術指南役を厄介払いしたいなら、話は別ですよ」
それから数日後、門前に座り込み、門番に追い払われても果敢ににじり寄る寡婦の姿は、少なくは無い人々に目撃され、スミドの街では噂の的となっていた。ハンムラビは、邸の通用口を一箇所使用不能に追い込まれたばかりか、いつ何時シャハルがすぐ側に居る母親の存在を知ってしまうのか、気が気では無かった。
「ええい、何故この私が未亡人ごときに振り回されている。何か対策は無いのか」
秘書室の面々は静粛を保ち、各々の業務に邁進した。
「キュビト、発言を許す」
「っ、申し訳ございません。特にありません」
「守上」
困窮するキュビトを見かねたマセリンが、席を立って挙手をした。
「何だマセリン、言ってみろ」
「以前はどういう名目でお側に置かれていたのですか。宜しければ、それを基にお考えになってはいかがでしょうか」
「ふむ、名目か。そうだな…」
その日の内に、ハンムラビは内容を伏せて家臣団を呼び出すと、その当事者であるシャハルが体調不良で欠席の中、彼を猶子にすると発表した。その場には学問所から駆け付けたソピリヤと学友一同の姿もあったが、ハルシヤは初めて建物内に足を踏み入れたことも忘れ、シャハルを一生懸命探して欠席と聞き、大いに落胆した。
「お父様……どういう事、もう訳が分からない」
「あのうソピリヤ様、ユウシって何ですか」
「猶子っていうのは、家督を継がない養子のこと。普通は分家や家臣の娘の家格を上げて、他家に嫁がせる際に使う制度なんだけど……」
その知らせは、ヨウゼン邸の門前で座り込みを続けるレラムにも、コトヅ家の奥方シェイマによって伝えられていた。
「レラムさんちょっといい、落ち着いて聴いて頂戴。シャハルが猶子にされた」
「そんな……実の母も許していないのに、誰の許しを得てそんな仕打ちをなさるのですか」
「……トビラスにもしもの時を託された、と遺言を捏造したそうなんだけど」
「トビラスがそんなこと、言う訳が無いのにっ」
「全くもって同感。レラムさん、わたくしも更に手を尽くすから、身体にだけは気を付けてね。必ずシャハルを取り戻しましょう」
シェイマはその足で、亡き父シェイマスの菩提寺である、キンスター寺へと向かった。
「キンスター寺の住職様、どうかお力を貸してください」
キンスター寺の住職はこれを快諾し、シェイマを伴って、ハンムラビに折入って話があると参上した。
「守上、どうかお考え直し下さい。親子を引き裂き、制度を捻じ曲げ、多くの人々に禍根を残すような真似は……果たして貴方様のような責任あるお立場の人間が、なさるべきことでしょうか」
「言いたい事はそれだけか。シャハルは絶対に返さない。トビラスの子は私のものだ」
キンスター寺の住職の説教に耳を貸さず、ハンムラビは執務机でふんぞり返った。余りの態度に、シェイマも必死になって主張した。
「でしたら、せめて面会だけでもお願い致します。体調不良と聴きましたが、貴方様が猶子としてきちんとお育てになっているのでしたら、何も問題は無いはずですね。わたくしとしても久し振りですから、是非お見舞いをさせていただけますか」
「断る。病み上がりに無理をさせたくは無いのでな」
「やはり納得致しかねます。拙尼及びキンスター寺は、鎮めの儀式を辞退させていただきます」
「脅しのつもりか、別に構わんぞ。私は端っからあんなものを信じてはおらぬ。謝礼も減って清々するしな。後任はカルナにでもやらせておけ」
ハンムラビの傍らで小さくなっていたキュビトは、それでも自らの責務を果たすため、慌てて口を挟んだ。
「お待ち下さい、カルクール=カルナ尼は、未だ修行中の身ではございませんか。ご生母のナンナ夫人も、あまり良い顔はなさらないかと……」
「その様にお考えになっていたのですか。分かりました。これにて辞退させていただきます」
「住職様、まだ話は終わっていませんっ。わたくし達は何も成し遂げて…」
「交渉決裂だな。キュビト、ご婦人方にはお引き取り願え」
「はい、…時間です。守上は次のご予定が詰まっておりますので、どうぞお帰り下さい」
マセリンは、廊下の途中でキュビトと見送りを交代し、レラムがその前で座り込みを続ける、門の内側から二人と一緒に出ると、手を組み合わせて祈るレラムに近寄って、耳打ちした。
「主任の奥様、一つ助言を。連邦郵便の取り扱いの中に、『内容証明』という郵便物があります。これは『何時・誰に・どんな内容』を貴方が送ったのか、連邦郵便局が証明してくれます。ただし法的な拘束力は無いので、相手が受け取った後に裁判を起こす必要がありますが……訴訟の前段階にはなるので、一応は脅しと、貴方が決して認めていないことの証明にはなるでしょう」
レラムが返事をする暇もなく、マセリンは門の中へと戻って行った。
「拙尼の力及ばず、お二人には誠に面目ありません」
「レラムさん、本当にごめんなさい。大丈夫だった、マセリンに今、何て言われたの」
「それが…内容証明を出すよう示唆されました。その後で裁判に訴えろと。でも、裁判となると、全てが明るみに出るのでしょうか」
「それは間違い無くそうなるでしょうね…裁判の判決は、事実を集めて裁判官が出すものだから。でもスミド法廷の裁判長は、太守様の呑み仲間だし…仮にまともな判決が出ても、一体誰がヨウゼン邸に突入して、シャハルを取り戻してくれるんだか。両武家はヨウゼン家に仕えているのに」
「拙尼は駆け込み寺をしていて常々思うのですが、舶来物の裁判制度なんて、金と時間を失うばかりですよ」
キュビトは、ハンムラビの次なる命令で、カルクール寺へと使いに出されていた。その目の前には、ハンムラビとは長らく別居中の太守夫人、ナンナ・ヨウゼンが立ちはだかっていた。
「絶対に駄目です。そんな因縁めいたお役目」
「お母様、私は構いませんよ。確かキュビトと云ったな、お父様にはそう伝えなさい」
しかしハンムラビの次女に当たるカルクール=カルナ尼本人は了承したため、キュビトは速やかに帰還した。
「やれやれ、これで一安心だ。トビラスの嫁も、流石に諦めて帰ったことだろうし…」
ハンムラビは、執務机の椅子に深く腰掛けて目をつぶった。そこへマセリンが、一通の手紙を持って声を掛けた。
「守上、トビラス氏の奥様から、速達でお手紙が届いています。確認致しましたが、剃刀等の危険物は入っておりません」
「おお、開けろ開けろ。そして貸せ」
マセリンはすぐさま手紙を開封して、中身を手渡した。ハンムラビは内容を読み進めて行くに従って気色ばんだ。
「何だこれは、――私レラムは、スミド太守ハンムラビ・ヨウゼンに対し、我が子シャハルを猶子とする事は、断じて認めない。直ちに猶子と騙った事実を撤回し、シャハルの身柄を返還されたし…だと」
ハンムラビは手紙を握り潰すと、執務室を出てレラムの座り込み現場が見える場所まで行った。
「増えているではないかっ」
そこにはレラムを始めとして、キンスター寺の尼達も座り込み、その異常事態に多くの野次馬を集めていた。
危ないからと座り込みへの同行を断られ、フラムに預けられたセウロラは、シトナを誘って木陰で作戦会議を決行していた。
「セウロラ~。あたし達が書いた手紙がばれて、タハエさん凄く怒られたらしいし、これからどうしよっか」
「そうだね、うーん……」
「おーい、ここに居たのか」
「やっと見つけた」
二人は、そこへ心配してやって来た、シャハルの通う武家クルガノイが運営する学校の友達であるタイとスラーにも事情を説明し、ソピリヤとハルシヤから送られてきた手紙を見せた。
「これを見た限り、太守様の後継は、まあ悪い人じゃなさそうだけど……」
「やっぱりスラーもそう思う、わたしは前にシャハルから聞いた話で、何だか気位高くて意地悪そうな人って勝手に思ってたんだけど…ハルシヤが無事に仕えてるんだし、結構話も通じそう」
「でももう連絡取れないし、これは猶子宣言の前に書かれた奴だろ」
「そうそう、全然頼りになる人が居ないよ~。レラムさん達はずっとヨウゼン邸の門の前に座ってるけど、あれって何の意味があるの、あたしだったら荷物とかに隠れて忍び込んで、中でシャハルを見付けて一緒に逃げて帰って来るのに」
「シトナ、それは無理だよ。絶対にしないで。ヨウゼン邸の警備を舐めてはいけない。それに、見つかったら多分殺される」
「えーっと、それってあたしだけかな」
苦笑いを浮かべながら訊ねたシトナに対し、生粋のクルガノイ生であるスラーは、真剣な面持ちで頷いた。
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