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 息をきらしてアリーナへ着いた時には、当然ながらもうそこに人影は何もなかった。さっきまではきっとたくさんの人で溢れていたんだろう。今はただ、夜の空に黒くて大きな建物がそびえるだけだ。
(いないのかな。でも……)
 荒い息を吐きながら、私はその建物を見上げる。

(久遠)
 涙がにじんだ。

 未練がましく、閉じている扉をそっと押してみる。ぴくりとも動かない冷たい感触は、もう遅いんだよ、と私に語りかけているみたいだった。
 この向こうに、さっきまで久遠がいたんだ。
 こつん、とガラスに額を押しあてた。

 会いたい。すごく、今、会いたいよ。

「どうかしましたか?」
 ふいに声を掛けられる。振り向くと、守衛さんが立っていた。
「今日のお客さん? 何か忘れものでも?」
「あ、いえ、そうじゃないんです。すみません、なんでもないです」
 言って、私はあわてて背を向ける。いけない、もしかして不審者と思われたのかな。

 今更ながらに、恥ずかしくなる。
 久遠の言葉が、私に向けたものだなんて勝手に思い込んでしまったけど、全然違うのかもしれない。あれは、ただ今日これなかったファンに向けてのものだったのかもしれない。だいたい、あんなに広い会場で、私一人がいないことなんてわかりっこないよ。

 ばかみたい。私、何を期待していたんだろう。
 落胆して駅に戻ろうとすると、背後からさらに声がかかった。

「あなた、お名前は?」
 名前? なんでそんなこと……
 足を止めた私は、ゆっくり振り向く。
「私……水無瀬……いえ」
 とくん、と心臓が鳴った。
 彼の、知っている名前。

「五十嵐、るなと言います」
 すると、守衛さんはにっこりと笑った。
「五十嵐さん、お待ちですよ」
 誰が、とは言わなかった。ただ、促されるままにその守衛さんについて行く。人気のない廊下をあるいて、一つの楽屋についた。もう、そこには中の人の名札もかけられていない。
 こんこん、と守衛さんがドアを叩くと、中からがちゃりと開いて顔を出したのは。

「いらっしゃいましたよ」
「ありがと♪ 赤羽さん」
「30分だけですよ。もう退館時間すぎてますからね」
「はーい」
 そう言って守衛さんは戻っていった。

「入れよ」
 二人になった途端、聞き慣れた口調に戻る。
「なんで来なかったんだよ」
 楽屋に入ってどさりと椅子に腰かけると、久遠が言った。
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