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うら若き有閑貴族夫人になったからには、安穏なだらだらニート生活をしたい。【1】
グレイ・ダージリン(130)
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促されるままにソファーに座ったカーフィ。
アーダム皇子がベルを鳴らすと、侍女が入って来てお茶を淹れ始める。トラス王国ではキャンディ伯爵夫人が中心に広めて今や当たり前の光景になっているが、神聖アレマニア帝国で見ようとは。
カーフィがお茶をじっと見つめるのをどう思ってか、アーダム皇子は口を開いた。
「聖女が好んでいると聞いたので私も取り寄せて始めてみたのだが――お茶というものは薬草茶と違い癖が少なく、精神がすっきりするな。悪くないものだ」
頭を使う仕事の後は特にな、と言う。皇子が始めたことで、アレマニアでも広がり始めているらしい。
「『……お話とは何でございましょうか』」
「『人目をはばかる話故、トラス語で構わぬ。』実を言えば、卿が来てくれたのは神の采配だと思っているのだ。国外追放となったフレール嬢を保護して適当な男に娶せ生活の保障をするつもりだったのだが、彼女が気に入った男で娶っても良いという者が居なくてな。
新たな相手もなかなか見つからずに困っていたところだ。さりとて私の愛人は嫌だと言うし、約束をした手前、意に染まぬ相手に無理に娶せる訳にも行かぬ」
最近は相手のいない貴族令息に避けられるようになってしまった、と苦笑いを浮かべるアーダム皇子。
「やはりフレール嬢の夫である卿が連れ帰るのが一番無難であろう。卿のフレール嬢を想う気持ち、このアーダム胸を打たれたぞ。そこで、だ」
取引をせぬか――アーダム皇子は笑顔を崩さずにそう言った。
「取引?」
俄かに警戒心を抱くカーフィ。
傍に控えていたアーダム皇子の側近ダンカンが「殿下!」と咎めるような声を上げるも、アーダム皇子は「口出しするな」と手をひらひら振った。
「ダンカンのことは気にせずともよい。それにしても聖女め、私のことを袖にしておきながらエスパーニャの王太子には条件付きで妻になると言ったとか。
とんだ食わせ者だが、不思議なものだ。手に入れるのが難しければ難しい程、余計に欲しくなるものよ。
あの時はまんまと逃げられたが、私はまだ聖女を諦めておらぬ。卿はキャンディ伯爵家とそれなりの関係があるのだろう? 何、造作もないことだ。聖女の持つ神の力について、詳しく調べ、知り得るところを全て教えて貰いたい。その代わり、私はフレール嬢を卿に返そう」
「聖女様の、力を?」
「まず、敵を知らねば戦は出来ぬ。私が知っているのは神の怒りの炎、陸では鳥、海では海獣を従えること。だが、神の力はそれだけではあるまい?」
勿論それだけではない。聖女は美しい姿をした化け物だ。相手の心を読み、直接そこへ言葉を伝えることが出来る。
アーダム皇子は間諜の真似事をせよと言っているのだ。
無理だ、とカーフィは思う。
アーダム皇子は知っているのだろうか。キャンディ伯爵家は恐ろしい連中を飼っている。
その上、全てを見透かす聖女の力。下手な動きをしようものならたちまちの内に裏切りが露見してしまう。
簡単に言ってくれるが、カーフィにとって、その条件は死を覚悟する程のものだった。
握りしめた拳が僅かに震える。
「……それを知ってどうなさいます?」
態度が頑なになったカーフィに、「勿論聖女を手に入れる為だ」と肩を竦めるアーダム皇子。
「一つ教えておいてやろう。大司教共はいずれ、フレール嬢を担ぎ出し、聖女が魔女だと告発するつもりのようだ。その後、我こそが真の教皇よとでも僭称するのであろうな」
下らん、と吐き捨てるアーダム皇子。カーフィは衝撃を受けていた。
「な……何ですと! 聖女様に……聖地に反旗を翻そうと!?」
そうなれば派閥どころではなく、教会そのものが二分されてしまう。
しかも片棒をフレールが担いだと知れ渡れば、それこそトラス王国へ連れ帰ることは出来なくなってしまうだろう。
絶句するカーフィに、「と言っても、今すぐという話ではない」と言うアーダム皇子。
「皇帝選挙が終わらぬ内にそれをすれば我が国も内乱になる。陛下がそれを許さぬだろう。大司教共も聖地の懲罰房に入っていた間に失われた求心力を巻き返さねば話にならぬ。ただ、時間は急がぬが有限だ。決断は早ければ早いほど動きやすくなる。話はそれだけだ――賢い選択を期待している」
アーダム皇子の所を辞し、皇宮――太陽宮を足取り重く出たカーフィは、のろのろと顔を上げて建物の頂上に輝く太陽を模した装飾を仰ぎ見る。
そこには一羽のカラスが止まってこちらを見下ろしているようだった。
お許しを。フレールの為に――その為ならば命も惜しくはない。
カーフィは祈る。
しかし覚悟の固まったその数日後、アーダム皇子にそろそろ返事をしようとしていた矢先――
「『おい、公示人が凄いことを言っていたんだが聞いたか!? アブラーモ大司教様とデブランツ大司教様が、トラス王国の聖女様を魔女だと告発なさったってよ!』」
「『ああ、聞いた聞いた。エスパーニャで出た疱瘡、あれは神の刻印の所為なんだってな!』」
「『そりゃそうだろうと思ったぜ。牛や馬のできものを付けた針を刺すんだろ? あんな気持ち悪いもん病気にならない方がどうかしてるぜ』」
「『証人として、大司教様がお連れになったトラス王国出身の貴族女も聖女が人を呪うのを見たと証言したそうだ』」
「『魔女が聖女様の皮を被ってたってことかい。おお、おっかないねぇ』」
食堂でとんでもないことを聞いてしまったカーフィの目の前が真っ暗になる。足元から世界が崩れ行く感覚を覚えていた。
アーダム皇子がベルを鳴らすと、侍女が入って来てお茶を淹れ始める。トラス王国ではキャンディ伯爵夫人が中心に広めて今や当たり前の光景になっているが、神聖アレマニア帝国で見ようとは。
カーフィがお茶をじっと見つめるのをどう思ってか、アーダム皇子は口を開いた。
「聖女が好んでいると聞いたので私も取り寄せて始めてみたのだが――お茶というものは薬草茶と違い癖が少なく、精神がすっきりするな。悪くないものだ」
頭を使う仕事の後は特にな、と言う。皇子が始めたことで、アレマニアでも広がり始めているらしい。
「『……お話とは何でございましょうか』」
「『人目をはばかる話故、トラス語で構わぬ。』実を言えば、卿が来てくれたのは神の采配だと思っているのだ。国外追放となったフレール嬢を保護して適当な男に娶せ生活の保障をするつもりだったのだが、彼女が気に入った男で娶っても良いという者が居なくてな。
新たな相手もなかなか見つからずに困っていたところだ。さりとて私の愛人は嫌だと言うし、約束をした手前、意に染まぬ相手に無理に娶せる訳にも行かぬ」
最近は相手のいない貴族令息に避けられるようになってしまった、と苦笑いを浮かべるアーダム皇子。
「やはりフレール嬢の夫である卿が連れ帰るのが一番無難であろう。卿のフレール嬢を想う気持ち、このアーダム胸を打たれたぞ。そこで、だ」
取引をせぬか――アーダム皇子は笑顔を崩さずにそう言った。
「取引?」
俄かに警戒心を抱くカーフィ。
傍に控えていたアーダム皇子の側近ダンカンが「殿下!」と咎めるような声を上げるも、アーダム皇子は「口出しするな」と手をひらひら振った。
「ダンカンのことは気にせずともよい。それにしても聖女め、私のことを袖にしておきながらエスパーニャの王太子には条件付きで妻になると言ったとか。
とんだ食わせ者だが、不思議なものだ。手に入れるのが難しければ難しい程、余計に欲しくなるものよ。
あの時はまんまと逃げられたが、私はまだ聖女を諦めておらぬ。卿はキャンディ伯爵家とそれなりの関係があるのだろう? 何、造作もないことだ。聖女の持つ神の力について、詳しく調べ、知り得るところを全て教えて貰いたい。その代わり、私はフレール嬢を卿に返そう」
「聖女様の、力を?」
「まず、敵を知らねば戦は出来ぬ。私が知っているのは神の怒りの炎、陸では鳥、海では海獣を従えること。だが、神の力はそれだけではあるまい?」
勿論それだけではない。聖女は美しい姿をした化け物だ。相手の心を読み、直接そこへ言葉を伝えることが出来る。
アーダム皇子は間諜の真似事をせよと言っているのだ。
無理だ、とカーフィは思う。
アーダム皇子は知っているのだろうか。キャンディ伯爵家は恐ろしい連中を飼っている。
その上、全てを見透かす聖女の力。下手な動きをしようものならたちまちの内に裏切りが露見してしまう。
簡単に言ってくれるが、カーフィにとって、その条件は死を覚悟する程のものだった。
握りしめた拳が僅かに震える。
「……それを知ってどうなさいます?」
態度が頑なになったカーフィに、「勿論聖女を手に入れる為だ」と肩を竦めるアーダム皇子。
「一つ教えておいてやろう。大司教共はいずれ、フレール嬢を担ぎ出し、聖女が魔女だと告発するつもりのようだ。その後、我こそが真の教皇よとでも僭称するのであろうな」
下らん、と吐き捨てるアーダム皇子。カーフィは衝撃を受けていた。
「な……何ですと! 聖女様に……聖地に反旗を翻そうと!?」
そうなれば派閥どころではなく、教会そのものが二分されてしまう。
しかも片棒をフレールが担いだと知れ渡れば、それこそトラス王国へ連れ帰ることは出来なくなってしまうだろう。
絶句するカーフィに、「と言っても、今すぐという話ではない」と言うアーダム皇子。
「皇帝選挙が終わらぬ内にそれをすれば我が国も内乱になる。陛下がそれを許さぬだろう。大司教共も聖地の懲罰房に入っていた間に失われた求心力を巻き返さねば話にならぬ。ただ、時間は急がぬが有限だ。決断は早ければ早いほど動きやすくなる。話はそれだけだ――賢い選択を期待している」
アーダム皇子の所を辞し、皇宮――太陽宮を足取り重く出たカーフィは、のろのろと顔を上げて建物の頂上に輝く太陽を模した装飾を仰ぎ見る。
そこには一羽のカラスが止まってこちらを見下ろしているようだった。
お許しを。フレールの為に――その為ならば命も惜しくはない。
カーフィは祈る。
しかし覚悟の固まったその数日後、アーダム皇子にそろそろ返事をしようとしていた矢先――
「『おい、公示人が凄いことを言っていたんだが聞いたか!? アブラーモ大司教様とデブランツ大司教様が、トラス王国の聖女様を魔女だと告発なさったってよ!』」
「『ああ、聞いた聞いた。エスパーニャで出た疱瘡、あれは神の刻印の所為なんだってな!』」
「『そりゃそうだろうと思ったぜ。牛や馬のできものを付けた針を刺すんだろ? あんな気持ち悪いもん病気にならない方がどうかしてるぜ』」
「『証人として、大司教様がお連れになったトラス王国出身の貴族女も聖女が人を呪うのを見たと証言したそうだ』」
「『魔女が聖女様の皮を被ってたってことかい。おお、おっかないねぇ』」
食堂でとんでもないことを聞いてしまったカーフィの目の前が真っ暗になる。足元から世界が崩れ行く感覚を覚えていた。
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