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貴族令嬢に生まれたからには念願のだらだらニート生活したい。
グレイ・ルフナー(58)
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駆け付けた先――渡り廊下まで差し掛かった所で何者かがマリーを拘束していた。
誰だと問えば、その男は振り向き、「動くなっ! この女がどうなっても良いのか!」とマリーの首筋にナイフの刃を押し付けている。
そいつの顔には見覚えがあり過ぎた。
「メイソン・リプトン……貴様」
その男――メイソンは僕達が現れた事に舌打ちをした。ギャヴィンがマリーを解放するようにと説得するも、誓約書の恨みがあるとせせら笑っている。
それは逆恨みであり、メイソンが恨んでいるのはアールだろうと僕が言うも、メイソンは鼻で笑い、馬を用意しろと言い出した。
マリーの侍女サリーナはおどおどとして、丁度マリーが乗馬をするところだった、馬は間も無くやってくると言う。メイソンがポニーではないのかと訊くと、ポニーではない、主の所へ自発的にやってくるような賢い馬だと首を振っていた。
メイソンは笑う。逆に僕は内心焦っていた。どうしよう、馬で逃げられてしまえば――。為す術も無くそうこうしている内、サリーナが茂みの中にマリーの馬がと声を上げた。そちらを見ると確かに馬影が見える。
しかし馬は微動だにせず近づいて来なかった。メイソンは痺れを切らしてそちらへと歩き出す。僕はギャヴィンに目配せし、馬で逃げるつもりかと声を掛ける。
メイソンはそれを肯定しながらも、嫌がるマリーを引き摺るように乱暴に馬の方へと歩みを進めた。馬を気にしながらも油断せずこちらに視線を配り、容易に距離を詰められないように気を付けながら。
もう馬まで距離がなく、いざとなったら体を張ってでも止めるしかない――僕の命に替えても。そう覚悟を決めたけれど、そんな素人兵法はお見通しだったようで、メイソンは嘲るような笑みでナイフの腹をマリーの頬に当てている。
「お前の様な何の心得も無い小僧が実力行使に出るか、それとも二人がかりか? 婚約者の命が惜しくないと見える」
「やっ、やめろ!」
マリーの恐怖に彩られた縋るような目。僕は唇を噛む。後ろから肩に手が掛かった。刺激せず様子を見ろとギャヴィンが引きとめて来る――こんな時に何を悠長な!
逃げられてしまう! と苛立ちまぎれに言ったその時、とうとうメイソンは馬の目と鼻の先まで行ってしまっていた。僕はいよいよ覚悟をして身構える。
茂みの奥へ向かう事は出来ないので、馬に乗ったとしてもこちらに飛び出してくる筈。何としてでもマリーだけは守らなきゃ!
「ははは、婚約者が奪われて私のものになるのを指をくわえて見ているのだな、グレイ・ルフナー!」
勝利を確信したメイソンの耳障りな笑い声がした、次の瞬間だった。
ゴスッという鈍い音と呻き声。
「んなっ……!?」
僕は呆気に取られていた。
馬がメイソンに体当たりしたかと思うと、影が二つに分裂したのである。一つはマリーを抱きかかえて離脱し、もう一つは倒れたメイソンに襲い掛かって揉み合い始めた。その姿の正体はマリーの護衛――普段は庭師として世を忍んでいる騎士の兄弟、前脚のヨハンと後ろ脚のシュテファン。
余りにも鮮やかに行われたマリーの救出劇。メイソンは後ろ脚と揉み合っていたが、やがて叶わぬとばかりに「糞、馬ではなかったのか!」と捨て台詞を吐いて逃げ出した。前脚は素早く侍女サリーナにマリーを託すと後ろ脚と共にメイソンを追いかけて行く。
メイソンの台詞に僕は先程の衝撃の冷めやらぬまま、何となしに転がっているその物体に目をやった。それは中ががらんどうになっている、実物大の精巧な作り物の馬だった。この上向いた目付きがどことなくイヤらしいのは頂けない。だけど何だろう、どこか見覚えがあるような……。
既視感にぼんやりと記憶を辿っていると、マリーの泣きじゃくる声が聞こえて我に返る。慌てて彼女に駆け寄り安否を確かめた。
頬が赤く腫れている。メイソンに殴られたのかと訊くと、泣きながら頷いた。
ギャヴィンも流石に渋面になっている。如何にメイソンが侯爵家の出とは言え、あの男は申し開きのしようもない罪を犯したのだ。マリーの侍女は、奴は妻であるフレールですら殴っているようだと言う。彼女の言う通り、女性に暴力を振るう事に抵抗が無くなったのだろう。あの男はもはや紳士ではない、獣だ。
そんな相手、しかも刃物を所持していた恐ろしい男に捕まって、よくぞ無事でいてくれたと思う。僕は自分の震えを抑え、マリーを抱きしめた。彼女の温もりに安堵が広がる。生きてくれていて、本当に良かった。
***
一先ず落ち着ける場所へ、という事で僕達は客室へ通された。手当てを受けて身形を整えたマリーはまだ目を腫らせていたが、幾分かは落ち着きを見せていた。頬の湿布が痛々しい。
「グレイが来てくれて本当に良かったわ」というマリー。僕が訪ねなかったら、と思うと彼女は連れ去られていたかも知れない。本当に、まさかあんな事になっているとは思ってもみなかった。
一番の問題は何故メイソンが侵入出来たか、だ。しかも奥向きの場所に。
ギャヴィンは誰かが手引きしたのではと推理を述べる。口には出さなかったが、僕も同意見だ。
その言葉が聞き捨てならなかったのか、侍女サリーナがキャンディ伯爵家の使用人にそのような者は居ないと異を唱える。ギャヴィンは謝罪し、使用人とは限らないと言った。
では。
「招待客の誰かが連れて来た……?」
呟くと、ギャヴィンは肯定する。どの道メイソンが捕まればすぐに分かる事だと言う。
もしかして、と僕は思った。娼館で行き違ったザイン様とメイソンが、僕達の知らない所で接触があったとした ら?
可能性が無い訳じゃない。でも、ザイン様がそんな事をするとは思えないんだけど……。
「ところで、ウエッジウッド様は何故グレイと一緒にいらっしゃいましたの?」
マリーの声に思考の海から引き戻された。
ギャヴィンは殿下の代理でご機嫌伺いに来たと述べた。マリーは表情を曇らせ、一令嬢には過ぎた事で、臣下の婚約者に横恋慕したという醜聞が立ちかねないと苦言を呈する。
「相変わらず手厳しいですね……」
とギャヴィンは溜息を吐いているけれど、僕もマリーと同意見だ。
傍から見れば、アルバート殿下がマリーに執着を見せているように見える。
ギャヴィンは、殿下はマリーの智恵と才に興味があるだけだと言っていたけれど、どこまで本当の事なのか。婚約者としても僕は内心穏やかじゃない。
「正直に言えば、アルバート殿下は貴女を賢く奥ゆかしい女性だと好ましく思われています。殿下がその気になれば彼と婚約を破棄させて貴女を無理に召し出す事も出来るのに、お約束を律儀に守られ私を遣わせているのも、全て姫の不興を買わぬ為なのですが」
何だって!?
追打ちを掛けるように紡がれたその言葉に僕はショックを受けた。アルバート第一王子殿下が無理に召し出そうとする程マリーを欲している!?
マリーもやや青褪めた顔を歪ませ、「何故、そこまで……」と呟いている。
「そこまでのものなのですよ、マリアージュ様の価値は」
淡々と述べるギャヴィンの言葉に僕は頷くしかなかった。もしかするとマリーがしでかした数々の奇跡――ある程度の事は調べが付いているのかも知れない。彼女が智恵を貸したというこの国の教育制度も、きっと驚異的な内容だったのだろう。
であれば、王位を継ぐ殿下がそれに目を付けるのは無理も無い。僕だって殿下の立場ならきっとマリーの頭脳は欲しいと思うだろうから。
ギャヴィンはある程度の交流を殿下と持つようにした方がいいと言う――強硬手段を取られないように。
ただ、ギャヴィンのやり方はあまりにも高圧的だ。僕は彼がマリーを使って自分の功績をとしようとしているのではないかと訝る。
「殿下に入知恵しているのは貴方ですわよね……何を考えておりますの?」
マリーも不快を隠そうともせずにギャヴィンを睨みつけた。ギャヴィンははぐらかし、マリーの友人になりたいと嘯いている。
「そうそう、先日お会いした時も貴女が曲者だと叫んだ後――」
「おっ、お友達ぐらいならなってやっても良いですわ!」
相手の言葉を遮るように、マリーは慌てた様子で大声を上げた。どうしたというのだろう。
ギャヴィンは「じゃあ決まりですね」とニヤニヤしている。マリーは悔しそうな表情で黙って頷いた。まさか、弱みでも握られているんじゃ……。
マリーはキッと睨み付け、喉の奥から絞り出すようにギャヴィンと会う時は僕が傍に居る時だけだと条件を付けた。同意を求められたのでここは頷いておく。
ギャヴィンはお互い醜聞は避けたいと笑ってそれに了承し、会場に戻ると言って部屋を出て行った。
誰だと問えば、その男は振り向き、「動くなっ! この女がどうなっても良いのか!」とマリーの首筋にナイフの刃を押し付けている。
そいつの顔には見覚えがあり過ぎた。
「メイソン・リプトン……貴様」
その男――メイソンは僕達が現れた事に舌打ちをした。ギャヴィンがマリーを解放するようにと説得するも、誓約書の恨みがあるとせせら笑っている。
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マリーの侍女サリーナはおどおどとして、丁度マリーが乗馬をするところだった、馬は間も無くやってくると言う。メイソンがポニーではないのかと訊くと、ポニーではない、主の所へ自発的にやってくるような賢い馬だと首を振っていた。
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しかし馬は微動だにせず近づいて来なかった。メイソンは痺れを切らしてそちらへと歩き出す。僕はギャヴィンに目配せし、馬で逃げるつもりかと声を掛ける。
メイソンはそれを肯定しながらも、嫌がるマリーを引き摺るように乱暴に馬の方へと歩みを進めた。馬を気にしながらも油断せずこちらに視線を配り、容易に距離を詰められないように気を付けながら。
もう馬まで距離がなく、いざとなったら体を張ってでも止めるしかない――僕の命に替えても。そう覚悟を決めたけれど、そんな素人兵法はお見通しだったようで、メイソンは嘲るような笑みでナイフの腹をマリーの頬に当てている。
「お前の様な何の心得も無い小僧が実力行使に出るか、それとも二人がかりか? 婚約者の命が惜しくないと見える」
「やっ、やめろ!」
マリーの恐怖に彩られた縋るような目。僕は唇を噛む。後ろから肩に手が掛かった。刺激せず様子を見ろとギャヴィンが引きとめて来る――こんな時に何を悠長な!
逃げられてしまう! と苛立ちまぎれに言ったその時、とうとうメイソンは馬の目と鼻の先まで行ってしまっていた。僕はいよいよ覚悟をして身構える。
茂みの奥へ向かう事は出来ないので、馬に乗ったとしてもこちらに飛び出してくる筈。何としてでもマリーだけは守らなきゃ!
「ははは、婚約者が奪われて私のものになるのを指をくわえて見ているのだな、グレイ・ルフナー!」
勝利を確信したメイソンの耳障りな笑い声がした、次の瞬間だった。
ゴスッという鈍い音と呻き声。
「んなっ……!?」
僕は呆気に取られていた。
馬がメイソンに体当たりしたかと思うと、影が二つに分裂したのである。一つはマリーを抱きかかえて離脱し、もう一つは倒れたメイソンに襲い掛かって揉み合い始めた。その姿の正体はマリーの護衛――普段は庭師として世を忍んでいる騎士の兄弟、前脚のヨハンと後ろ脚のシュテファン。
余りにも鮮やかに行われたマリーの救出劇。メイソンは後ろ脚と揉み合っていたが、やがて叶わぬとばかりに「糞、馬ではなかったのか!」と捨て台詞を吐いて逃げ出した。前脚は素早く侍女サリーナにマリーを託すと後ろ脚と共にメイソンを追いかけて行く。
メイソンの台詞に僕は先程の衝撃の冷めやらぬまま、何となしに転がっているその物体に目をやった。それは中ががらんどうになっている、実物大の精巧な作り物の馬だった。この上向いた目付きがどことなくイヤらしいのは頂けない。だけど何だろう、どこか見覚えがあるような……。
既視感にぼんやりと記憶を辿っていると、マリーの泣きじゃくる声が聞こえて我に返る。慌てて彼女に駆け寄り安否を確かめた。
頬が赤く腫れている。メイソンに殴られたのかと訊くと、泣きながら頷いた。
ギャヴィンも流石に渋面になっている。如何にメイソンが侯爵家の出とは言え、あの男は申し開きのしようもない罪を犯したのだ。マリーの侍女は、奴は妻であるフレールですら殴っているようだと言う。彼女の言う通り、女性に暴力を振るう事に抵抗が無くなったのだろう。あの男はもはや紳士ではない、獣だ。
そんな相手、しかも刃物を所持していた恐ろしい男に捕まって、よくぞ無事でいてくれたと思う。僕は自分の震えを抑え、マリーを抱きしめた。彼女の温もりに安堵が広がる。生きてくれていて、本当に良かった。
***
一先ず落ち着ける場所へ、という事で僕達は客室へ通された。手当てを受けて身形を整えたマリーはまだ目を腫らせていたが、幾分かは落ち着きを見せていた。頬の湿布が痛々しい。
「グレイが来てくれて本当に良かったわ」というマリー。僕が訪ねなかったら、と思うと彼女は連れ去られていたかも知れない。本当に、まさかあんな事になっているとは思ってもみなかった。
一番の問題は何故メイソンが侵入出来たか、だ。しかも奥向きの場所に。
ギャヴィンは誰かが手引きしたのではと推理を述べる。口には出さなかったが、僕も同意見だ。
その言葉が聞き捨てならなかったのか、侍女サリーナがキャンディ伯爵家の使用人にそのような者は居ないと異を唱える。ギャヴィンは謝罪し、使用人とは限らないと言った。
では。
「招待客の誰かが連れて来た……?」
呟くと、ギャヴィンは肯定する。どの道メイソンが捕まればすぐに分かる事だと言う。
もしかして、と僕は思った。娼館で行き違ったザイン様とメイソンが、僕達の知らない所で接触があったとした ら?
可能性が無い訳じゃない。でも、ザイン様がそんな事をするとは思えないんだけど……。
「ところで、ウエッジウッド様は何故グレイと一緒にいらっしゃいましたの?」
マリーの声に思考の海から引き戻された。
ギャヴィンは殿下の代理でご機嫌伺いに来たと述べた。マリーは表情を曇らせ、一令嬢には過ぎた事で、臣下の婚約者に横恋慕したという醜聞が立ちかねないと苦言を呈する。
「相変わらず手厳しいですね……」
とギャヴィンは溜息を吐いているけれど、僕もマリーと同意見だ。
傍から見れば、アルバート殿下がマリーに執着を見せているように見える。
ギャヴィンは、殿下はマリーの智恵と才に興味があるだけだと言っていたけれど、どこまで本当の事なのか。婚約者としても僕は内心穏やかじゃない。
「正直に言えば、アルバート殿下は貴女を賢く奥ゆかしい女性だと好ましく思われています。殿下がその気になれば彼と婚約を破棄させて貴女を無理に召し出す事も出来るのに、お約束を律儀に守られ私を遣わせているのも、全て姫の不興を買わぬ為なのですが」
何だって!?
追打ちを掛けるように紡がれたその言葉に僕はショックを受けた。アルバート第一王子殿下が無理に召し出そうとする程マリーを欲している!?
マリーもやや青褪めた顔を歪ませ、「何故、そこまで……」と呟いている。
「そこまでのものなのですよ、マリアージュ様の価値は」
淡々と述べるギャヴィンの言葉に僕は頷くしかなかった。もしかするとマリーがしでかした数々の奇跡――ある程度の事は調べが付いているのかも知れない。彼女が智恵を貸したというこの国の教育制度も、きっと驚異的な内容だったのだろう。
であれば、王位を継ぐ殿下がそれに目を付けるのは無理も無い。僕だって殿下の立場ならきっとマリーの頭脳は欲しいと思うだろうから。
ギャヴィンはある程度の交流を殿下と持つようにした方がいいと言う――強硬手段を取られないように。
ただ、ギャヴィンのやり方はあまりにも高圧的だ。僕は彼がマリーを使って自分の功績をとしようとしているのではないかと訝る。
「殿下に入知恵しているのは貴方ですわよね……何を考えておりますの?」
マリーも不快を隠そうともせずにギャヴィンを睨みつけた。ギャヴィンははぐらかし、マリーの友人になりたいと嘯いている。
「そうそう、先日お会いした時も貴女が曲者だと叫んだ後――」
「おっ、お友達ぐらいならなってやっても良いですわ!」
相手の言葉を遮るように、マリーは慌てた様子で大声を上げた。どうしたというのだろう。
ギャヴィンは「じゃあ決まりですね」とニヤニヤしている。マリーは悔しそうな表情で黙って頷いた。まさか、弱みでも握られているんじゃ……。
マリーはキッと睨み付け、喉の奥から絞り出すようにギャヴィンと会う時は僕が傍に居る時だけだと条件を付けた。同意を求められたのでここは頷いておく。
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