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前脚のヨハンと後ろ脚のシュテファン。
角馬達が翼を得るまで。【19】
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「『いやあ、このお屋敷の食べ物の何と美味なる事よ! それに、パンが斯くも柔らかいとは! 我輩は各地を転々としてきたが、このパンには全く驚かされた!』」
呆れ顔のヨハン達の目の前では雪熊氏族のアルトガルがその焦げ茶の瞳を細め、上機嫌にハンバーガーに舌鼓を打っていた。
こうして日の光がある場所で見ると――鷹の羽の飾りの付いた毛織の山岳帽を被って顔の下半分を暗い色の髭で覆われたアルトガルは、王都へ出稼ぎに出て来た無害な田舎者といった風情だ。
数日前、この男と死闘を繰り広げたのが嘘のようだとヨハンは思う。
***
アルトガルを下した後――シュテファンに馬車の様子を見に行かせると、そちらも粗方決着が付いていた。
あちらも裏社会に名の知れた腕利きの手練れが紛れ込んでいたそうだが、その男は馬車の扉を開けた瞬間、刃に貫かれて絶命したという。
というのも、実はアナベラ様は御友人の貴族家に泊られており、馬車には身代わりとして美貌の持ち主であり変装術に長けた人山羊のクリスタンが潜んでいたからである。
襲い掛かって来た男達は全員冥府に送られた――雪山の男を除いて。
ボロボロの状態で帰還したヨハン達。敵であったアルトガルを含む数名の負傷者達が治療の為に医療室に集められ、椅子に座らせられたり寝かされたりしている。
暖炉には火が入れられ、そこに並べられた治療用の焼きごてが熱せられた。
治療を買って出た隼のジルベリクが、「そろそろ頃合いか」と焼きごてを手にしてヨハンを見る。
ヨハンはシュテファンから布切れを受け取って噛み、胸をはだける。
そこには手甲鈎による傷が数本走っていた。
幸いそこまで深いものではなかったが、血はまだ流れているので適切な処置をしなければならない。
この程度ならば焼きごてで傷を焼き清め、血を止めるだけで事足りるだろう。
「いくぞ――歯を食いしばれ」
ジルベリクの言葉に痛みを堪えるべくぐっと布を噛み締める。赤く熱せられたその焼きごてが胸の傷に迫り――かけたところで扉がバン! と乱暴に開かれた。
「こらああああああっ、何をしている!」
「マッ、マリー様!?」
扉の外には憤怒の表情になったマリー様が、仁王立ちになっていた。
「なりませぬ、このような場所へ来られては!」
「私が前脚の怪我の心配をして何が悪い! ヨハン、お前熊に襲われたと聞いたが、大丈夫か!? こんな事もあろうかと作っておいたマリー特製の薬箱を持って来てやったぞ!」
――十歳の女児が用意した薬箱。
しん、と部屋が静まり返る。
その場に居た庭師達は全員、不安を感じていたのだろう。ヨハンもマリー様の事だからもしや、と思うも若干の不安は拭いきれない。
「うぅ、痛そうだ。流石は熊なだけある。暫く乗馬はお休みだな」
胸にある傷を見て、顔を顰めるマリー様。
表向き、ヨハンは山菜採りの最中にはぐれ熊に襲われた事になっていた。
アルトガルは雪熊氏族だと名乗っていたのであながち間違いでもない。
「マリー様にはご心配をおかけしております。勤めを果たせず……」
「いや、熊は恐ろしい生き物だと聞いているからな。無事で生きて帰って来れただけで御の字だ」
謝罪に対し、少し青褪めた顔で気にするなと首を横に振るマリー様にヨハンは心が温かくなった。
こうして心配してわざわざ来てくれたのだ。嬉しくない筈が無い。
しかし、ここは心を鬼にしてお引き取りを願わねば。
「心配して下さるのは嬉しいのですが……傷の治療など、ご令嬢が見るようなものではございませぬ。治療の間だけ、お引き取り頂けないでしょうか」
諭すように追い出そうとするも、マリー様は引かなかった。
「治療って、その焼きごてで傷口を焼いたら更に火傷になって余計に悪くなるから駄目だ! 禁止! ジルベリク、これは命令だ!」
「しかし、焼かねば血は止まりませんよ」
「焼かずとも圧迫して止血すればいい」
マリー様は強引に使用人に持って来させた箱をテーブルの上に置かせた。
そして使用人に手を洗う為の一式を持ってくるように申し付けると、それを開けて中身をテキパキと並べ始める。
困り果てたジルベリクは「マリー様は傷を焼くのがお気に召さないのですよね、ならば焼かない方法で治療を行いましょう」と口にした。
「焼かない治療?」
怪訝そうにするマリー様にジルベリクは頷いた。
「はい。『武器軟膏』という割と新しい治療方法だそうですが、この傷を付けた熊の爪に『共感の粉』という特殊な材料を使って作った軟膏を塗りつけるのです。
そうすれば軟膏の成分が武器に付いた血を介し、不思議な繋がりを通じて体の血に入り込む為傷の治りが早くなるとか何とか……」
『同種のものは引き付け合う』という共感作用の学説は昔から存在していた。そこから発展して出来た『武器軟膏』の理論はこうだ。
血の中には精気が宿り、傷の原因となった武器に付着した血液は空気を通じて元の体の血液と共感している。
故に、武器に軟膏を塗る事でその軟膏の作用が血液の精気を通じ、元の体にも作用するというもの。
それについて書かれた書物には効いたという実例も列挙されているそうだ。
もっとも、その『武器軟膏』による治療法は武器で傷を負う事が多い山の民は甚だ懐疑的だと考えている。
隼のジルベリクもまた、傷を焼く事に対して嫌悪感を示す姫を安心させて追い出す口実としてその治療を行うと言ったに過ぎない。
しかしマリー様は一旦手を止めると片眉を上げ、呆れたようにジルベリクを見た。
「はぁ? 傷じゃなくて傷を付けた原因となる武器に薬を塗ると不思議な繋がりで治る? んな訳あるか、何だその似非医学。お前達詐欺師に騙されているぞ。『偽薬効果』という言葉を知っているか?」
呆れ顔のヨハン達の目の前では雪熊氏族のアルトガルがその焦げ茶の瞳を細め、上機嫌にハンバーガーに舌鼓を打っていた。
こうして日の光がある場所で見ると――鷹の羽の飾りの付いた毛織の山岳帽を被って顔の下半分を暗い色の髭で覆われたアルトガルは、王都へ出稼ぎに出て来た無害な田舎者といった風情だ。
数日前、この男と死闘を繰り広げたのが嘘のようだとヨハンは思う。
***
アルトガルを下した後――シュテファンに馬車の様子を見に行かせると、そちらも粗方決着が付いていた。
あちらも裏社会に名の知れた腕利きの手練れが紛れ込んでいたそうだが、その男は馬車の扉を開けた瞬間、刃に貫かれて絶命したという。
というのも、実はアナベラ様は御友人の貴族家に泊られており、馬車には身代わりとして美貌の持ち主であり変装術に長けた人山羊のクリスタンが潜んでいたからである。
襲い掛かって来た男達は全員冥府に送られた――雪山の男を除いて。
ボロボロの状態で帰還したヨハン達。敵であったアルトガルを含む数名の負傷者達が治療の為に医療室に集められ、椅子に座らせられたり寝かされたりしている。
暖炉には火が入れられ、そこに並べられた治療用の焼きごてが熱せられた。
治療を買って出た隼のジルベリクが、「そろそろ頃合いか」と焼きごてを手にしてヨハンを見る。
ヨハンはシュテファンから布切れを受け取って噛み、胸をはだける。
そこには手甲鈎による傷が数本走っていた。
幸いそこまで深いものではなかったが、血はまだ流れているので適切な処置をしなければならない。
この程度ならば焼きごてで傷を焼き清め、血を止めるだけで事足りるだろう。
「いくぞ――歯を食いしばれ」
ジルベリクの言葉に痛みを堪えるべくぐっと布を噛み締める。赤く熱せられたその焼きごてが胸の傷に迫り――かけたところで扉がバン! と乱暴に開かれた。
「こらああああああっ、何をしている!」
「マッ、マリー様!?」
扉の外には憤怒の表情になったマリー様が、仁王立ちになっていた。
「なりませぬ、このような場所へ来られては!」
「私が前脚の怪我の心配をして何が悪い! ヨハン、お前熊に襲われたと聞いたが、大丈夫か!? こんな事もあろうかと作っておいたマリー特製の薬箱を持って来てやったぞ!」
――十歳の女児が用意した薬箱。
しん、と部屋が静まり返る。
その場に居た庭師達は全員、不安を感じていたのだろう。ヨハンもマリー様の事だからもしや、と思うも若干の不安は拭いきれない。
「うぅ、痛そうだ。流石は熊なだけある。暫く乗馬はお休みだな」
胸にある傷を見て、顔を顰めるマリー様。
表向き、ヨハンは山菜採りの最中にはぐれ熊に襲われた事になっていた。
アルトガルは雪熊氏族だと名乗っていたのであながち間違いでもない。
「マリー様にはご心配をおかけしております。勤めを果たせず……」
「いや、熊は恐ろしい生き物だと聞いているからな。無事で生きて帰って来れただけで御の字だ」
謝罪に対し、少し青褪めた顔で気にするなと首を横に振るマリー様にヨハンは心が温かくなった。
こうして心配してわざわざ来てくれたのだ。嬉しくない筈が無い。
しかし、ここは心を鬼にしてお引き取りを願わねば。
「心配して下さるのは嬉しいのですが……傷の治療など、ご令嬢が見るようなものではございませぬ。治療の間だけ、お引き取り頂けないでしょうか」
諭すように追い出そうとするも、マリー様は引かなかった。
「治療って、その焼きごてで傷口を焼いたら更に火傷になって余計に悪くなるから駄目だ! 禁止! ジルベリク、これは命令だ!」
「しかし、焼かねば血は止まりませんよ」
「焼かずとも圧迫して止血すればいい」
マリー様は強引に使用人に持って来させた箱をテーブルの上に置かせた。
そして使用人に手を洗う為の一式を持ってくるように申し付けると、それを開けて中身をテキパキと並べ始める。
困り果てたジルベリクは「マリー様は傷を焼くのがお気に召さないのですよね、ならば焼かない方法で治療を行いましょう」と口にした。
「焼かない治療?」
怪訝そうにするマリー様にジルベリクは頷いた。
「はい。『武器軟膏』という割と新しい治療方法だそうですが、この傷を付けた熊の爪に『共感の粉』という特殊な材料を使って作った軟膏を塗りつけるのです。
そうすれば軟膏の成分が武器に付いた血を介し、不思議な繋がりを通じて体の血に入り込む為傷の治りが早くなるとか何とか……」
『同種のものは引き付け合う』という共感作用の学説は昔から存在していた。そこから発展して出来た『武器軟膏』の理論はこうだ。
血の中には精気が宿り、傷の原因となった武器に付着した血液は空気を通じて元の体の血液と共感している。
故に、武器に軟膏を塗る事でその軟膏の作用が血液の精気を通じ、元の体にも作用するというもの。
それについて書かれた書物には効いたという実例も列挙されているそうだ。
もっとも、その『武器軟膏』による治療法は武器で傷を負う事が多い山の民は甚だ懐疑的だと考えている。
隼のジルベリクもまた、傷を焼く事に対して嫌悪感を示す姫を安心させて追い出す口実としてその治療を行うと言ったに過ぎない。
しかしマリー様は一旦手を止めると片眉を上げ、呆れたようにジルベリクを見た。
「はぁ? 傷じゃなくて傷を付けた原因となる武器に薬を塗ると不思議な繋がりで治る? んな訳あるか、何だその似非医学。お前達詐欺師に騙されているぞ。『偽薬効果』という言葉を知っているか?」
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