人魚の蒼い海

zoubutsu

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岐路

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 夜分、ロナウの部屋に客人の訪問が知らされた。

 酒の用意だけさせて、人払いをした。
 
 「はあ、やれやれ…」
 酒の用意を終えた従僕が下がると、ヴァレリーが大袈裟に溜息を吐いた。
 「すまないな。わざわざ呼びつけて。」
 「全くだ。俺のような人間には、王宮は居心地が悪い。」
 「俺は、常日頃そう思ってる。」

 ヴァレリーは一瞬痛ましい目を見せたが、片眉を上げ戯けて見せた。
 「では、お呼び頂きましたら、いつでも馳せ参じましょう。」
 「そうさせてもらう。」
 ロナウも片眉を上げ、笑って応えた。

 「居心地が悪いと言えば…」
 ロナウが声を潜め、足音を立てずに扉に向かう。
 扉の死角になる位置で、ノブを勢いよく引いた。
 そこには、意表を突かれた顔のメイドが立っていた。
 見目のいい妙齢の女だ。
 手にはオードブルを載せた皿を持っている。
 「…下がるように言ったはずだが?」
 「軽食を、と思いまして…」
 「…後は自分でやる。」
 「かしこまりました。御用がありましたら、お声かけ下さい。」
 メイドは堂々とした笑顔を見せると、お辞儀をして踵を返した。
 ロナウは、しばらくメイドの後ろ姿を見遣ってから、ゆっくり扉を閉めた。

 振り向いたロナウは、眉を寄せておかしな顔をして、肩も落ちている。
 何が何だか訳がわからないと、全身で言っているようだ。
 ヴァレリーは揶揄ってやろうと思ったが、憔悴した様子を見て、酒を注いでやった。
 「まあ、飲めよ。」
 「…悪いな。頂く。」
 二口、三口飲んでグラスを置いた。
 「美味いな…」
 「お疲れ。」
 「…何なのだろうな。女というのは、全く分からん。」
 「モテる男は大変だな。」
 「モテる?あれがモテるということなら、俺は未来永劫モテなくていい。…冗談だろう?」
 「冗談じゃないさ。」
 「ヴァレリーを見に来たんじゃないのか?普段はあそこ迄…どうだろうな。どうして、あのように話が通じないのか。」
 「女は神秘だからな。」
 「ヴァレリー。そう言ってのけるお前は器の広い男だ。」
 「ロナウ。君だってそう思ってるはずだ。」
 「まさか。俺はお前のようになれる自信はない。」 
 「いいや、嘘は良くないな、ロナウ。」
 「何が嘘なものか。」

 「氷の王子様が、随分と洗濯婦に御執心だそうじゃないか。」
 ロナウは、手に持っていたグラスを取り落とした。
 「名はアデルと言ったか?」
 「…どうしてそれを?」
 「使用人の間で噂になっているそうだ。伝手があってね。」
 「そうか…」 
 メイド長のことを思い出す。
 不味い所を見られたものだ。
 
 「どうしたものかと思ってな。今夜、わざわざ来てもらった。」
 「何も悩む必要などないだろう。」
 ヴァレリーはフルーツに手を伸ばし、優雅に口に運んで酒で流し込む。
 ロナウは、まるで焦らされているようで、まんじりともせずに聞いた。
 「どういうことだ?」
 「簡単な話じゃないか。妾にすればいい。」
 「!!」
 考えなかった訳じゃない。
 だが、はっきり言葉にされると、衝撃を受けた。
 
 「しかし、俺には…」
 「初恋の相手がいるんだろう?だから何だと言うんだ。」
 「一瞬アデルが、フリーシアと重なった。アデルを身代わりにしているのではないかと、自分に自信がない。何方に対しても不誠実だ。」
 「何だ、そんな事か。一番愛しているのは、フリーシアだ。そうだな?」
 「神に誓って。」
 「それなら、もしフリーシアに会えたなら、アデルに一生遊んで暮らせる程の金を渡して田舎に帰せばいい。ロナウ、君なら別れた下女を、着の身着のままで放り出したりはしないだろう?」
 「そんな事は、しかし…」
 「大抵、田舎に年老いた親が居て、なけなしの給料を仕送りして、自分は貧しい暮らしに耐えてる。君が気まぐれに手を出したとしたって、金が入る分、幸福だ。」
 「…」
 色々な事が渦まいて、頭の中を処理出来ずにいるのに、ヴァレリーは容赦なく畳み掛ける。
 「女一人くらいどうとでも出来る権力がある。君はそれが許される立場の人間だ。」
 「ー!!」
 言葉を失った。
 ヴァレリーに対してではない。
 まるで自分の心を見透かされたような気がして、恐れ戦いた。
 何処かで、そうしたいという気持ちがあったのだと、今気付いた。
 では、俺はヴァレリーに何を期待していたんだ?
 優しく背中を押して欲しかったのか?
 アデルを金で手に入れる事に、罪悪感を持たなくてもいいのだと…
 ロナウは吐き気がして、片手で口を押さえた。
「君は真面目過ぎるんだ。そんなに気に病まなくても良いだろうに。」
 「今日は帰って貰って構わないか。」
 「ああ、分かった。そうしよう。」
 ロナウは俯いていて表情は伺えないが、酒を飲んでいるにも関わらず、覗いている肌の、血の気は失せていた。
 「ゆっくりお休み、ロナウ。いい夢を。」
 ヴァレリーは殊更明るく言ったが、ロナウは顔を上げることも無かった。

 バタンと、扉の閉まる音がする。
 ロナウはのろのろと立ち上がると、ベッドに向かい、倒れ伏した。
 枕元にある小さな宝石箱を手に取る。
 蓋を開くと、七色に光る人魚の鱗が現れた。
 ロナウはそれを取り出し、月光に翳した。
 「俺が愛しているのは、フリーシアだけだ。」
 ロナウは、恭しく七色に光る鱗に口付け、祈るように両手で包み、眠れぬ夜を過ごした。
 
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