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第一章 イザベル 前編
2、深謀遠慮の末、婚約
しおりを挟む「イザベルがそう言うなら、止める。」
しゅんとなってゲラルトから足をのけたパットは、床に座り込んだままのイザベルの元へ行き、手を差し出した。
「イザベル、怪我はない?助けられなくてごめんなさい。俺のこと、嫌いになった?」
「ありがとう、怪我はないわ。助けてくれたのに、パットのことを嫌いになったりしないわよ。あのね、この男は貴方の言う通り、クズよ。これ以上、関わらないほうがいいわ。」
形だけパットの手を借りて立ち上がったイザベルは、優しく笑って諭すように彼に語りかけた。
この誰が見ているか分からない場所で、彼にこれ以上のことをさせるわけにはいかない。
イザベルにまでクズといわれたゲラルトは怒りをあらわにしたものの、見た目が幼いパットの予想外の強さに手を出しかねて、悔し紛れに叫んだ。
「なんなんだよ、そのクソガキは!お前、どこのチビだよ、名乗れよ!こんなことして、親に言いつけてやるからな!」
「あら、驚いた。貴方はパットのことを知らないのね。」
ゲラルトの台詞にイザベルは呆れ返った。この男は、伯爵家の三男のくせにこの国の貴族としての基礎知識も持ち合わせていないようだ。
彼女の横でパットも目を丸くして首を傾げている。
「イザベル、貴方の元婚約者は貴族じゃないの?」
「いいえ、れっきとした伯爵家の三男よ。」
「それなのに、俺のこと知らないんだ。イザベル、こいつと結婚しなくてよかったね!苦労しかなかったよ。」
「本当に、そう思うわ。家のために自分が我慢すればいいなんて思っちゃ駄目ね。」
「そうだよ!俺は貴方の意思を尊重するし、いい夫になるための努力を惜しまないよ。それに結婚できるようになるまでまだ八年もあるから、その間に気に入らないところも直せるし、お得だよ?だから、俺と婚約してください。」
どさくさに紛れて再度、婚約を頼み込んできたパットの全力の売り込みはイザベルの心を動かした。
確かに、今十歳の彼と結婚出来るのは早くても八年後だ。
ゲラルトとこんなことになって、新しい相手を探すのも大変だし、何よりもう、そんな気にならない。
彼と婚約すれば八年は結婚関係に振り回されないで済むということになると気がついた。
四歳のパットに婚約を申し込まれた十一歳の自分は、当時年上の婚約者に憧れていて悩んだ挙げ句断ってしまった。
それを気の毒なことをしたと心の片隅でずっと思っていたから、自分が他の男と婚約しても諦めず、想い続けてくれた彼の気持ちを一度受け止めてあげたい気持ちも湧いてきた。
今は姉のように慕ってくれているのだろうが、年頃になれば彼の気持ちは変わるだろうし、そうしたら綺麗に婚約を解消したらいい。
その頃にはイザベルは立派な嫁き遅れになっているだろうし、二度も婚約破棄された娘がそのまま独り身を通すことに両親も文句は言うまい。
その場合、跡継ぎは妹に頼んでもいいし、養子という手もある。何もイザベルが結婚して子供を産まなくてもいいのだ。
彼女はパットとの婚約をどう転んでも大丈夫そうだと結論づけた。
イザベルは必死に自分を見上げているパットに微笑みかけた。
「いいわよ、パット。婚約しましょう。でも貴方の気が変わったら、いつでも・・・」
「変わらない!俺はずっとイザベルだけが好きだから!・・・婚約したらイザベルも俺だけを好きでいてくれる?家族と友達は好きでいいけど、恋人は俺だけって約束して欲しいんだけど、ダメ?」
後半、勢いが失われ、イザベルが前言撤回しないかと顔色を窺いながら付け足したパットをイザベルは可愛いと思った。
「分かったわ、約束する。」
「本当?!イザベルは今から俺の婚約者なんだよね?!俺、全力で貴方を守るからね!」
念願叶って飛び上がりそうな勢いで喜ぶパットにつられてイザベルが笑顔になったところで、かん高い声が割って入ってきた。
「いい加減にしろよ、俺のことを放って何いちゃついてんだよ!大体、社交界デビューもしてねえ十歳のガキなんて、貴族でも俺が知らなくて当然だろーが!」
立ち上がってその場でだんっと足を踏み鳴らして叫んだゲラルトに、イザベルとパットは揃って忘れてたという視線を向けた。
パットはイザベルと婚約できた喜びを隠さず、満面の笑顔で自己紹介をした。
「俺はハーフェルト公爵家の次男、パトリックだよ。俺のこと貴族は割と知ってると思ってたんだけど、認識を改めるよ。あと、このことを親に言いつけてもいいけど、それ相応の覚悟を持ってやってよね。俺の父は浮気する人が大嫌いだよ?」
「ハーフェルト公爵って、この国一番の貴族の?!お前が・・・え?嘘だろ?」
「嘘じゃないよ。大体はね、この髪と目の色で気がつくみたいだよ。父を知ってる人は顔がそっくりだからそれでも分かるらしいけど。」
「え、でもだって、公爵家子息のくせに護衛もつけず一人でふらふらこんなとこにいるわけ、」
「護衛はいるし、俺は一人じゃないよ。兄上とこの店にケーキを買いに来てたんだ。」
「ハーフェルト公爵家の兄・・・って・・・まさか、あのテオドール・ハーフェルト?」
「おや、社交界デビューをしてない僕のことはご存知だったんですね、ゲラルト殿。」
「ハーフェルト公爵家の長男なんて有名過ぎるだろうが!」
新たな人物の声が聞こえてそちらを見れば、今度は切れ長の薄青の目を光らせた白皙の美男子が呆れた顔をしてそこに立っていた。
彼は深く被っていた帽子をとってイザベルに挨拶をした。
「お久しぶり、イザベル。パットと婚約してくれてありがとう。これでもう夜な夜なパットの愚痴を聞かなくて済むよ。」
テオドールの特徴的な灰色の髪が顕になって、店内の女性客がどよめいた。この髪色はこの国では彼とその母しか持たないので、非常に目立つのだった。
あちこちから『テオドール様よ、素敵!』と黄色い声が聞こえてくる。
テオドールはそんな反応に慣れているのか、一顧だにしていない。
その様子に苛立ちを隠さず、ゲラルトが睨みつけた。
「おい、本当にお前らがハーフェルト公爵家子息だっていう証拠はあんのかよ。髪、染めてんじゃねえの?国一番の貴族なら尚更、婚約なんて重大案件、こんなクソチビが勝手に決められる訳ないだろ?」
そろそろ青年になろうとする年齢のテオドールは、ゲラルトの方を冷たい目で見据えて嗤った。
「弟の言ってたことを聞いていなかったのですか?六年前に一度婚約を申し込んでるのだから、その時お互いの家の許可は出てるわけですよ。本人達が諾と言えば成立する状態になってたんです。それは今も変わってないんですよ。」
「じゃあ、なんでうちと婚約を。」
「それはまあ、ひとえにイザベルの意向ですよね。」
「・・・イザベルは俺のことをそんなに好きだったのか?」
「バカ言わないで!貴方のお兄さんが好きだったの!貴方なんてこれっぽっちも好きじゃないわ!あの人と婚約解消する時に頼まれたのよ、弟と婚約して家同士の繋がりを保って欲しいって。だから我慢してたのに、貴方が勝手なことをするから。もう顔も見たくないわ、どこで会っても声かけないでよね!」
ゲラルトのボケた台詞に、ぶつんっと何かが切れた音がして、同時にイザベルが一気に詰め寄って低い声で言い切った。
その今までと打って変わった彼女の凄みに、ゲラルトは恐怖で思わず尻もちをついた。
「それでこそ、イザベル!」
「猫かぶりすぎだったよね。」
「貴方達、失礼よ?」
腰に手を当て、公爵家子息達にむっと言い返すイザベルを見てゲラルトは目を瞬いた。
「お前ら、どういう関係?」
三人はにっこり笑ってゲラルトを見下ろし一言。
「「ただの幼馴染。」」
「あ、今日から俺の婚約者!」
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