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第五章 夫妻、帝城へ行く
55、妻、飛ぶ
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しまった、と思った時には、もうその香りを吸い込んでいた。眼の前で大切な妻が倒れていくのを見て冷静でいられるわけがない。
急いで手で口を塞いだものの、先に深く吸い込んだもので十分だったらしい。意識が急速に失われていく。どれだけ強い薬を使ったのかと腕の中のシルフィアを心配したところで視界が暗転した。
「……二人とも眠ったか?」
「……大丈夫みたいだ。やはり、二人同時よりシルフィア様に先に薬を吸わせてよかった。あのテオドール・ハーフェルトが無警戒で部屋に飛び込んでいったな」
「ああ。あんなに取り乱したヤツを見たのは初めてだ……だが、本当にこの計画は成功するのだろうか」
「今更怖気づいたのか? ここまできたらやり通さねばテオドール・ハーフェルトにただケンカを売って終わりで俺達になんの益もない」
「……そうだな、殿下のために。よし、シルフィア様をこちらに。テオドールは死に物狂いで縛っておけ」
「コイツがいなくなれば早いのに……」
「さすがにハーフェルト家の嫡男を害するのは不味い」
どこからともなく現れた男達は口元を厚い布で覆っていた。彼等はシルフィアを布にくるんで担ぎ上げるとややぞんざいにテオドールをリネンを集める手押し車に隠しこみ、お茶を捨て部屋の全ての窓を開け放った上で忍びやかに廊下へ出、左右に分かれて足早に立ち去った。
■■
目が覚めてぼんやりと辺りを窺う。
……ここはどこだっけ? 頭痛が酷くて考えが上手くまとまらない。どうしてこんなに頭が痛いのか? ……そういえば、シルフィアは?
その瞬間、脳裏に妻の倒れる様子が蘇り、頭痛が吹き飛んだ。慌てて周囲を警戒すれば、簡素な石造りの壁と同じ石でできた低い天井が目に飛び込んできた。腕と足をそっと動かしてみるも、雁字搦めに縛られている。
……これは、何者かに捕まって地下に監禁されている、といったところか。今、僕が生きているということは、命が目的というわけではなく引き換えに何か要求があるか、身代金目当てということか。
意識のないふりをしつつ、慎重に周りの気配を探る。ここには自分と男が一人しかいないことを確認した瞬間、全身から血の気が引いた。
……シルフィアは、どこだ!?
あの状況で彼女だけ捕まらず無事だということは考えられない。ということは、彼女を人質として僕に何か要求してくると考えたほうがいい。帝城内でのあの手慣れたやりようから大体の内容に見当がついた僕は、心の中だけで大きくため息をついた。
予想が合っているのなら、シルフィアは危害を加えられることなく丁重に扱われているはずだ。その確証さえ得られれば後はどうとでもなる。
さて、どうやって聞き出そうかな。シルフィアの無事と居場所さえ確認できれば事は済むのだけれど。
シルフィアには、もう二度と怖い思いをさせたくなかったのに。ギュッときつく目を閉じて自分の迂闊さを最大限呪った。
■■
真っ暗闇で目が覚めた途端、猛烈な頭痛と吐き気でベッドから転がり落ちた。右も左もわからず、フカフカの絨毯の上で蹲って苦しんでいたら扉の向こうに人の気配がした。
「……!? 誰か居るのか?」
この声はオネストお兄様?! なんで、ここに?
自分の置かれている状況がわからなくて恐怖に縮こまっていると、バタン、と扉の開く音とともに人が飛び込んできた。
「その首、刎ねられたくなくば即刻顔を上げろ!」
聞いたこともない恐ろしい声に私は震え上がって顔を上げた。扉の外から真っ直ぐに私へ向かって光が差し込んできていて、眼の前に鋭い剣の切っ先があった。その向こうには目を吊り上げたオネスト殿下の顔が見えて、私はその恐ろしい眼光を見つめたまま固まった。
「ヤダ、シルフィア!? どうしてアナタがここにいるの!?」
殿下は私と知るや、持っていた剣を直ぐ様片付けて駆け寄ってきた。見ればドレス姿の『お姉様』で、私はなんとなくホッとした。
「ここは、お姉様のお部屋なのですか?」
「そうよ。アナタだけ? テオドールはどこ行ったの?」
「テオ、は……」
自分の意識が飛ぶ直前に見た彼の様子を思い出した私は言葉に詰まり、そこで襲いくる頭痛と吐き気の限界を迎えた。
「お、姉さま、気分が悪いのです……」
両手で口を押さえつつ言いかけた瞬間、『緊急事態だから勘弁してっ』と抱き上げられ、ものすごい勢いで洗面所に運ばれた。
「どう、そろそろ落ち着いたかしら? ハイ、お水飲んで」
差し出されたコップの水で口を湿らせ、私は目の前の味方だと信じられるその人へ、覚えている限りのことを告げた。オネスト殿下は私の背をさすりながらじっと聞いてくれ、最後に額に手を当て深くため息をついた。顔を上げて私を見つめる目は優しく、同時にとても悲しそうだった。
「……なるほど、まさかの行動に出たわね。ごめんなさいね、これ、私の側近がやらかしたんだわ。だから大丈夫、テオは命を取られることはないわ。流石に皇妃の甥でハーフェルト家の跡取りを亡き者にする勇気はないでしょ……多分」
最後の一言で血の気が引いた。私は自分が拘束も暴行もされていなかったので勝手にテオも同じような状態で、ただ違う場所にいるのだとばかり考えていた。彼の命が脅かされている可能性など全く考えもしていなかった。
「た、大変です! テオを助けに行かないと」
「アナタ、まだ薬が抜けてないからフラフラじゃない。それ、最新の睡眠薬よ。お湯に溶かして匂いで意識を失わせるの。一体どれだけ使ったんだか。えっ二袋!? それでアナタにこんなに副作用があるなんて、危険だわ。もう禁止薬物に指定しなくちゃ! というわけで、私に任せてシルフィアはそこのベッドで休んでなさい。大丈夫、貴方の愛する夫は私が連れ戻してきてあげるわ」
ここで置いて行かれてなるものかと私は必死でお姉様のドレスを掴んだ。
「私も、行きます! テオの無事な姿をいち早くこの目で見たいのです」
それに一人で待っているのは怖くてたまらない、そう付け足すと、仕方ないなと微かに笑った殿下が入ってきたのとは別の続き部屋に消えて直ぐに何かを持って戻ってきた。
「ま、囚われのお姫様を救い出すのは恋する王子様って決まってるものね。ハイ、これ解毒薬。少しはマシになると思うから飲んどいて。それとその格好では外に出られないからこれに着替えて頂戴。それにしてもアナタの姿、扇情的ねえ。まさかテオの趣味なの?」
センジョウ的? それってなんというか私には似合わない言葉じゃなかったかな? と自分の着ている物を眺めた私は飛び上がった。
「ななな、なんですかっ、これ! こんな服、私は持ってません、着たこともありません!」
足首まであるさらりとした青い絹の寝間着姿だったはずなのに、今の私は膝よりうんと上までしか丈がなくレースたっぷりで色々透けまくっている裸の王様の服みたいなものを着ていた。しかも、色は黒!
なにこれ、恥ずかしすぎる!
涙目になった私を見て、お姉様は背を向けてくれた。
「アラ、そーなの? じゃあ、誰かが着替えさせたのね。やーねえ、それっくらいで理性を失う馬鹿な皇太子だと思われてるのね、私は」
悲しそうな傷ついた声が聞こえて、私はハッと気がついた。この状況ってそういうことなの?!
「私は、まだテオと離婚していません……」
「先に『既成事実』ってヤツを作ってしまえという計画なのでしょ。私も舐められたものね。……隣の部屋にいるから着替えたら合図して頂戴」
パタン、と閉じた扉を確認して、渡された服を広げてみる。
……これって。
「あのー、お姉様? ……あれ、お兄様?」
着替え終わって、細く開けた扉を覗き込めばそこには動きやすい服に着替えた『お兄様』がいた。
「やあ、シルフィア。着替えられたか? 私が子どもの時に着ていた服だが、うん、似合うな」
短いズボンにシャツという少年のような格好になった私をさっと眺めた殿下は、1つ頷くと私と入れ替わりに寝室へ入り枕を集めて掛布の下へ押し込んだ。ポンポンと叩いて形を整える。
「これで二人で寝ているように見えるだろう」
なるほど、これが偽装!
感心していると殿下は窓を開け放ち、窓枠に片足をかけて私を手招いた。
「ほら、ここから行くぞ」
すごい、冒険みたいだ。と駆け寄った私が見たのは暗闇と遥か下で風にそよぐ庭の低木だった。
「アレ、大きな木があって、それを伝って降りるのでは?」
「何を言う、そんなものがあったら私の部屋に曲者が入り放題じゃないか」
「え、ではどうやって降りるのですか?」
ニヤッと笑った殿下が、首を傾げる私を軽々と担ぎ上げた。
「今は非常時ってことで我慢してろよ。さあ、テオドール姫は何処」
言うなり殿下は窓の外の飾りに結ばれていたロープを蹴り落とし、それを伝ってスルスルと降りていった。
ぎゃあああっ、テオのためだけど、怖い!
急いで手で口を塞いだものの、先に深く吸い込んだもので十分だったらしい。意識が急速に失われていく。どれだけ強い薬を使ったのかと腕の中のシルフィアを心配したところで視界が暗転した。
「……二人とも眠ったか?」
「……大丈夫みたいだ。やはり、二人同時よりシルフィア様に先に薬を吸わせてよかった。あのテオドール・ハーフェルトが無警戒で部屋に飛び込んでいったな」
「ああ。あんなに取り乱したヤツを見たのは初めてだ……だが、本当にこの計画は成功するのだろうか」
「今更怖気づいたのか? ここまできたらやり通さねばテオドール・ハーフェルトにただケンカを売って終わりで俺達になんの益もない」
「……そうだな、殿下のために。よし、シルフィア様をこちらに。テオドールは死に物狂いで縛っておけ」
「コイツがいなくなれば早いのに……」
「さすがにハーフェルト家の嫡男を害するのは不味い」
どこからともなく現れた男達は口元を厚い布で覆っていた。彼等はシルフィアを布にくるんで担ぎ上げるとややぞんざいにテオドールをリネンを集める手押し車に隠しこみ、お茶を捨て部屋の全ての窓を開け放った上で忍びやかに廊下へ出、左右に分かれて足早に立ち去った。
■■
目が覚めてぼんやりと辺りを窺う。
……ここはどこだっけ? 頭痛が酷くて考えが上手くまとまらない。どうしてこんなに頭が痛いのか? ……そういえば、シルフィアは?
その瞬間、脳裏に妻の倒れる様子が蘇り、頭痛が吹き飛んだ。慌てて周囲を警戒すれば、簡素な石造りの壁と同じ石でできた低い天井が目に飛び込んできた。腕と足をそっと動かしてみるも、雁字搦めに縛られている。
……これは、何者かに捕まって地下に監禁されている、といったところか。今、僕が生きているということは、命が目的というわけではなく引き換えに何か要求があるか、身代金目当てということか。
意識のないふりをしつつ、慎重に周りの気配を探る。ここには自分と男が一人しかいないことを確認した瞬間、全身から血の気が引いた。
……シルフィアは、どこだ!?
あの状況で彼女だけ捕まらず無事だということは考えられない。ということは、彼女を人質として僕に何か要求してくると考えたほうがいい。帝城内でのあの手慣れたやりようから大体の内容に見当がついた僕は、心の中だけで大きくため息をついた。
予想が合っているのなら、シルフィアは危害を加えられることなく丁重に扱われているはずだ。その確証さえ得られれば後はどうとでもなる。
さて、どうやって聞き出そうかな。シルフィアの無事と居場所さえ確認できれば事は済むのだけれど。
シルフィアには、もう二度と怖い思いをさせたくなかったのに。ギュッときつく目を閉じて自分の迂闊さを最大限呪った。
■■
真っ暗闇で目が覚めた途端、猛烈な頭痛と吐き気でベッドから転がり落ちた。右も左もわからず、フカフカの絨毯の上で蹲って苦しんでいたら扉の向こうに人の気配がした。
「……!? 誰か居るのか?」
この声はオネストお兄様?! なんで、ここに?
自分の置かれている状況がわからなくて恐怖に縮こまっていると、バタン、と扉の開く音とともに人が飛び込んできた。
「その首、刎ねられたくなくば即刻顔を上げろ!」
聞いたこともない恐ろしい声に私は震え上がって顔を上げた。扉の外から真っ直ぐに私へ向かって光が差し込んできていて、眼の前に鋭い剣の切っ先があった。その向こうには目を吊り上げたオネスト殿下の顔が見えて、私はその恐ろしい眼光を見つめたまま固まった。
「ヤダ、シルフィア!? どうしてアナタがここにいるの!?」
殿下は私と知るや、持っていた剣を直ぐ様片付けて駆け寄ってきた。見ればドレス姿の『お姉様』で、私はなんとなくホッとした。
「ここは、お姉様のお部屋なのですか?」
「そうよ。アナタだけ? テオドールはどこ行ったの?」
「テオ、は……」
自分の意識が飛ぶ直前に見た彼の様子を思い出した私は言葉に詰まり、そこで襲いくる頭痛と吐き気の限界を迎えた。
「お、姉さま、気分が悪いのです……」
両手で口を押さえつつ言いかけた瞬間、『緊急事態だから勘弁してっ』と抱き上げられ、ものすごい勢いで洗面所に運ばれた。
「どう、そろそろ落ち着いたかしら? ハイ、お水飲んで」
差し出されたコップの水で口を湿らせ、私は目の前の味方だと信じられるその人へ、覚えている限りのことを告げた。オネスト殿下は私の背をさすりながらじっと聞いてくれ、最後に額に手を当て深くため息をついた。顔を上げて私を見つめる目は優しく、同時にとても悲しそうだった。
「……なるほど、まさかの行動に出たわね。ごめんなさいね、これ、私の側近がやらかしたんだわ。だから大丈夫、テオは命を取られることはないわ。流石に皇妃の甥でハーフェルト家の跡取りを亡き者にする勇気はないでしょ……多分」
最後の一言で血の気が引いた。私は自分が拘束も暴行もされていなかったので勝手にテオも同じような状態で、ただ違う場所にいるのだとばかり考えていた。彼の命が脅かされている可能性など全く考えもしていなかった。
「た、大変です! テオを助けに行かないと」
「アナタ、まだ薬が抜けてないからフラフラじゃない。それ、最新の睡眠薬よ。お湯に溶かして匂いで意識を失わせるの。一体どれだけ使ったんだか。えっ二袋!? それでアナタにこんなに副作用があるなんて、危険だわ。もう禁止薬物に指定しなくちゃ! というわけで、私に任せてシルフィアはそこのベッドで休んでなさい。大丈夫、貴方の愛する夫は私が連れ戻してきてあげるわ」
ここで置いて行かれてなるものかと私は必死でお姉様のドレスを掴んだ。
「私も、行きます! テオの無事な姿をいち早くこの目で見たいのです」
それに一人で待っているのは怖くてたまらない、そう付け足すと、仕方ないなと微かに笑った殿下が入ってきたのとは別の続き部屋に消えて直ぐに何かを持って戻ってきた。
「ま、囚われのお姫様を救い出すのは恋する王子様って決まってるものね。ハイ、これ解毒薬。少しはマシになると思うから飲んどいて。それとその格好では外に出られないからこれに着替えて頂戴。それにしてもアナタの姿、扇情的ねえ。まさかテオの趣味なの?」
センジョウ的? それってなんというか私には似合わない言葉じゃなかったかな? と自分の着ている物を眺めた私は飛び上がった。
「ななな、なんですかっ、これ! こんな服、私は持ってません、着たこともありません!」
足首まであるさらりとした青い絹の寝間着姿だったはずなのに、今の私は膝よりうんと上までしか丈がなくレースたっぷりで色々透けまくっている裸の王様の服みたいなものを着ていた。しかも、色は黒!
なにこれ、恥ずかしすぎる!
涙目になった私を見て、お姉様は背を向けてくれた。
「アラ、そーなの? じゃあ、誰かが着替えさせたのね。やーねえ、それっくらいで理性を失う馬鹿な皇太子だと思われてるのね、私は」
悲しそうな傷ついた声が聞こえて、私はハッと気がついた。この状況ってそういうことなの?!
「私は、まだテオと離婚していません……」
「先に『既成事実』ってヤツを作ってしまえという計画なのでしょ。私も舐められたものね。……隣の部屋にいるから着替えたら合図して頂戴」
パタン、と閉じた扉を確認して、渡された服を広げてみる。
……これって。
「あのー、お姉様? ……あれ、お兄様?」
着替え終わって、細く開けた扉を覗き込めばそこには動きやすい服に着替えた『お兄様』がいた。
「やあ、シルフィア。着替えられたか? 私が子どもの時に着ていた服だが、うん、似合うな」
短いズボンにシャツという少年のような格好になった私をさっと眺めた殿下は、1つ頷くと私と入れ替わりに寝室へ入り枕を集めて掛布の下へ押し込んだ。ポンポンと叩いて形を整える。
「これで二人で寝ているように見えるだろう」
なるほど、これが偽装!
感心していると殿下は窓を開け放ち、窓枠に片足をかけて私を手招いた。
「ほら、ここから行くぞ」
すごい、冒険みたいだ。と駆け寄った私が見たのは暗闇と遥か下で風にそよぐ庭の低木だった。
「アレ、大きな木があって、それを伝って降りるのでは?」
「何を言う、そんなものがあったら私の部屋に曲者が入り放題じゃないか」
「え、ではどうやって降りるのですか?」
ニヤッと笑った殿下が、首を傾げる私を軽々と担ぎ上げた。
「今は非常時ってことで我慢してろよ。さあ、テオドール姫は何処」
言うなり殿下は窓の外の飾りに結ばれていたロープを蹴り落とし、それを伝ってスルスルと降りていった。
ぎゃあああっ、テオのためだけど、怖い!
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