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三十六話 重なる思い、消えない思い

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 エリーズが王国の秘密を知ってしまったところで、周りは何も変わらない。大泣きする王妃の姿を見て何事かと複数の使用人にはいぶかしがられたものの、ヴィオルと些細なことで言い合いになり、双方初めてのことだったので上手く収拾をつけられずエリーズが大きく取り乱してしまったのだとジギスが理由をつけてくれた。
 彼は変わらず、鉄仮面を被って忠実にヴィオルの補佐を務めている。騎士のリノンやローヴァンも、いつもと同じようにエリーズに接してくる。それが彼らなりの気遣いだということがエリーズには分かっていた。
 ヴィオルも日常の己の政務を投げ出すことはしない。彼はエリーズに対して気分が優れない時は何もしなくていいと言ってくれたが、エリーズもできるだけ普段通りでいるように努めた。その方が不安を忘れていられる。
 だが、ヴィオルと永遠の別れが来ると分かっていながら、それが果たしていつなのか見えない状況はエリーズの心を容赦なく押しつぶそうとしてくる。行き場のない苦しみを抱え、エリーズは公務の合間にエーデルバルト公爵邸を訪ねた。
 一連の出来事は公女グローリエの耳にも届いていたらしく、エリーズと二人きりで話す時間を設けてくれた。グローリエはひとしきりエリーズの話に耳を傾けた後、「何の慰めにもならないでしょうけれど」と前置いた上で、彼女から見たヴィオルのことを語り出した。
 ヴィオルはよわい十三という若さで国王に即位してすぐ、エーデルバルト家を含んだ王国の秘密を知る者たちを集め自分の覚悟を語った。自らが最後の王となり大地の精霊の加護を受けることを放棄する――最初、それに対し上がったのは反対の声ばかりだった。

「当たり前の話よ。言い方は悪いけれど、国王さえ犠牲になれば自分たちの生活は守られるのですから」

 だがヴィオルの決心は揺らがなかった。「最高の土壌があったとして、そこにただ種をくだけでは最高の作物は育たない。人の手で水をやって雑草を取り、手間暇をかけて初めてそれらを育てることができる」と貴族たちに説き、行動に及んだ。
 王国の情勢を調べ上げ、不正をもって私腹を肥やす者にはどれほど地位が高くても定められた法により裁き、有能な人物は相応の身分でなくても自分の手足や頭脳として傍に置いた。
 歴代の国王たちの中には、己の短い一生を憂いて政務は側近に投げ出し放蕩ほうとう生活に浸る者も少なからずいたという。しかしヴィオルは違っていた。
 孤児院や病院の建設、街道や水路の整備、ひいては近隣国同士のいさかいの仲裁――十数年余りで王国の膿をすっかり出し切り、外国からも厚い信頼を集めた彼の志を否定するものは、今はもう誰もいない。真に豊かな国は人の手によって作られるのだとヴィオルは本当に証明してみせた。

「……まあ、それなりの苦労はさせられましたけれど」

 グローリエは遠い目をしながらため息混じりに言った。しかし心底ヴィオルを恨んでいる様子はない。彼女は灰色の目でまっすぐエリーズを見た。

「ヴィオルが妃をめとらないことを訝しむ人は多かったわ。それで事情を知る私が彼に嫁いではどうかという話が出たの」
「……どうして、そのお話は無くなったのですか?」
「一度でも結婚してしまえば、私には王妃という肩書がついてしまう。ヴィオルが役目を果たしていなくなった後、私を新たな王に仕立てあげようとする派閥が現れることを彼は危ぶんだの。私に国王の責任を負わせることをあの方は望まなかったわ」

 だけど、とグローリエは苦笑した。

「あっさり貴女と結婚を決めたものだから初めは呆れてしまいましたわ。しかも、自分がいなくなった後は貴女のことをきちんと守って欲しいだなんて頼んでくるものだから……何て身勝手な人かしら、というのが本音だったの」
「も、申し訳ございません」
「いいえ、王妃様を責めているのではありませんわ。ただ、貴女が守るに値するお方であると私の中で納得できる理由が欲しかったのです。そのために先日は、貴女を試すような意地の悪いことをたくさん申し上げてしまいました」

 以前、グローリエは同じ年頃の貴族の娘たちと打ち解けられないというエリーズの悩みに、辛辣しんらつな言葉を返した。
 庶民も同然だったエリーズが王妃としての器を備えているか確かめたかったのだとその時彼女は語ったが、ただそれだけではなかったようだ。
 ヴィオルが姿を消した後、国は少なからず荒れる――それがグローリエの見立てだった。混乱を鎮めるために彼女やヴィオルの腹心たちが動く手はずになっているが、その中でエリーズのことまで守り抜ける確信はなかったという。最悪の場合、エリーズを切り捨てることもグローリエは視野に入れていた。

「貴女はヴィオルがいないと何もできないようなお姫様ではなく、物事にご自分のお力で向き合えるお方です。貴女のことは私が責任を持って支えますわ。一度納得して受け入れたなら、何があっても意志を曲げない。それが私の信条です」
「……ありがとうございます、グローリエ様」

 エリーズを利用して国を乗っ取ろうとする勢力が現れたとしても、グローリエが守ってくれる。勿論、リノンとローヴァン、ジギスもだ。
 身の安全は保障され、生活するのに必要なものにも困らない。しかしそれでエリーズの気分が晴れるはずもない。曇った表情のままのエリーズを見て、さすがのグローリエもかける言葉に迷ったらしい。少しの間の後、彼女は再び口を開いた。

「王妃様、ヴィオルがいなくなった次の日から何もかも忘れて明るく生きろとは申し上げません。ですがヴィオルは自身の人生を精いっぱい幸せに生きようとしております。貴女も少しずつでも前を向くようにすることが彼への誠意ですわ。辛いお気持ちは私や周りの者がいくらでも受け止めます」

 グローリエの言葉がエリーズの胸に突き刺さる。痛いと感じるのは、彼女の言っていることが正しいからなのだとエリーズには分かっていた。
 エリーズの話をいくらでも聞くと言ってくれたがグローリエも忙しい身だ。病床の父公爵に代わり、しなければならないことが山ほどある。これ時間を奪うのは申し訳なく、エリーズは彼女に感謝と別れを告げてエーデルバルト公爵邸を後にした。

***

 二週間後。朝を迎え目を覚ましたエリーズの目に最初に飛び込んだのは、ヴィオルの顔だった。彼は寝台から降りて床に膝をつき、寝そべるエリーズと目線が合うように姿勢を低くしていた。

「ヴィオル……?」

 エリーズが寝ぼけ眼のまま名前を呟くと、ヴィオルは手を伸ばして髪を撫でてきた。

「エリーズ……呼ばれた」
「っ!」

 その瞬間、エリーズの頭は一気に冴えわたり体は反射的に跳ね起きた。
 ヴィオルは呪われし玉座の呼び声を聞いた。今日、彼はこの世に、エリーズに別れを告げて王国の最後のいしずえとなる。
 運命の日は今日かもしれない、明日かもしれないと心の片隅で覚悟はしていたつもりだが、実際にその時が訪れれば平常心ではいられない。浅く早く呼吸をするエリーズをあやすようにヴィオルはもう一度髪を撫でた。手袋はしていないが、服装はいつも政務に臨むときの礼装だ。

「一日だけなら呼び声を無視しても大丈夫。最後にやるべきことを片付けたら戻ってくるから……明日の朝まで僕と一緒にいてくれる?」

 昨日までの日常の中で、政務の合間にエリーズへお茶や散歩の予定を取り付けるときと同じ調子の声だった。

「……分かったわ」

 エリーズが頷くとヴィオルは微笑んでエリーズの額に口づけを落とし、寝室を出て行った。

***

 正午に差し掛かる頃、最後の仕事を終えたヴィオルが戻ってきた。両腕で抱えられる程の布でくるんだ四角いものを携えている。

「間に合って良かったよ」

 そう言いながら、彼はそれの布をはぎ取った。現れたのはヴィオルの肖像画だ。彼の姿をそのまま写し取ったかのように精巧な出来だった。

「前に、僕の肖像画をもらってくれただろう? でもあれはそれなりに前の僕だから……今の僕の絵を渡したかったんだ。君を愛して君から愛された、一番幸せな僕の姿の絵を」

 政務の間に描きすすめていたのであろう、彼の最後の作品だ。

「……これが最後の君への贈り物として相応しいかは分からない。いや、きっと相応しくないな。いつまでも持っていてとは言わないよ。君が前を向いて次の幸せをつかむ日が来たら……その時に処分してくれて構わない」

 彼の言いたいことは伝わった。ヴィオルのいない世界で、エリーズが新たな夫を迎える日が来ることを彼は受け入れている。あれほど嫉妬深かったのが嘘のようだ。

「ありがとう、ヴィオル。大事にするわ」

 未来のことを思案する必要はない。今はただ、目の前のヴィオルのことだけを考えていたい。二人でいられる最後の時間をどのように過ごすことが正しいのかエリーズには分からなかった。しかし少なくとも嘆くだけで終わるのは間違いだということは確かだ。
 昼食をとった後、エリーズとヴィオルは中庭に出た。いつ見ても枯葉の一枚もない見事なその場所にエリーズが初めて訪れたのは、星が輝く夜だった。

「……君との出会いは、昨日のことみたいに思い出せるよ」

 紫水晶の君が質素なドレスと名もない石の首飾りだけを身に着けたエリーズを見初めたあの夜から、すべてが変わった。
 誰もが憧れるであろう甘い恋の感覚、気の置けない親友、目の前に広がった新しい世界――彼が与えてくれた全てが、両親亡き後の辛い記憶をすべて塗り替えてくれた。
 
「わたしを見つけてくれてありがとう、ヴィオル」
「君が僕の元に現れてくれたんだ。たくさんの幸せを僕に届けるために」

 庭を散歩した後、二人だけの茶会を開いた。午前中、ヴィオルが留守の間にエリーズが台所を借りて作ったケーキを出すと、彼は目を輝かせて一口ずつ噛みしめながらそれを味わった。
 日が暮れる頃になっても思い出話はずっと尽きない。結婚して一年も経っていないが、今までの日々はヴィオルとエリーズにとって一生分以上の満ち足りたものだった。
 あっという間に闇が空を覆う。夜の支度を終え、身を引き裂くような別離の辛さから逃れるため、二人は寝台の上で強く抱き合った。眠るつもりなどなかった。
 この夜が明けなければどんなに良いだろう。永遠に暗闇の中に取り残されてしまうとしても、愛する人が傍にいれば寂しさなど感じない。
 あるいは、ヴィオルの生きた証をエリーズが宿すことができたなら――しかしそれは叶わないし願ってもいけない。彼の覚悟を踏みにじることはできない。それならばせめて全身に彼を刻みつけておきたくて、エリーズは無我夢中で夫の名を呼びながらその体にしがみついた。
 やがて、愛し合う二人を引き放す残酷な光がカーテンの隙間から差し込む。終わりを悟ったヴィオルは、エリーズの体をそっと寝台に横たえた。
 終わらないで、もう少しだけ――手を伸ばしたエリーズに応えるように、ヴィオルが上から覆いかぶさるように抱きしめてくれる。彼の背に両手をまわし、エリーズは耳元に口を寄せた。

「あいしてる」

 かすれかけた声でささやいた。ヴィオルがこの後死んでしまうとしても、人のかたちを留めぬ何かに、別世界の住人になるとしても、彼を心から愛した妻がいたことを覚えていて欲しかった。
 ヴィオルの唇から切ない吐息が漏れる。エリーズの顔を見つめる紫水晶の瞳がわずかに潤んだ後、彼は妻の額に自分のそれをぴったりとつけた。

「僕も、エリーズを愛してる。世界中の誰よりも」

 最後に交わした口づけは、初めての時のような甘く優しいものだった。唇を放し、ヴィオルが優しく上掛けをエリーズに被せてくれる。それと同時に、既に体力の限界を迎えていたエリーズの意識が遠のき始めた。まぶたが徐々に重くなり景色が霞んでいく中、ヴィオルの姿だけが最後までくっきりと浮かんでいる。
 エリーズが最後に見た彼の顔は、いつもと同じ優しい微笑を浮かべた、一番大好きな表情だった。
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