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三十三話 国王の隠し事
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エリーズがヴィオルの妃となり、八か月余りが経つ。
ヴィオルとの仲は変わらず良好で、彼の側近たちともそれなりに上手くやれている。近衛騎士のリノンは唯一無二の親友だ。最近は貴族女性の友人も増えてきた。公務でも、夫の顔に泥を塗るような失態はしていない。
どこから見ても順風満帆な日々のはず――しかしエリーズは、今までで一番大きな問題にぶつかっていた。
(また駄目だったみたい)
私室で一人、長椅子に腰掛けたエリーズは己の腹部にそっと手を当てた。
ヴィオルと同じ寝室で休むようになってからは、愛を交わさなかった日の方が少ない。だがそれが実を結ぶ気配が一向にないのだ。
日中、常に行動を共にできるとは限らないヴィオルとエリーズにとって、夫婦の時間は互いの愛を確かめ合いより深めるための大切なものだ。しかしただその悦びを享受するだけではいけない。世継ぎとなる子をその身に宿すことができないなら、他の点においてどれほど優れていたとしても王妃としては致命的になる。
自分には子を宿す力がないのでは――以前疲労が溜まって倒れてしまって以降、定期的に医師との面談を行っているが、そのような指摘を受けたことはない。しかし、医師が気づいていないだけでその可能性も捨てきれない。
もしもこのままずっと妊娠できなければどうなってしまうのだろうか。ヴィオルの傍にいられなくなってしまったら……考えただけで泣きそうになるが、エリーズは王妃だ。何不自由ない生活と引き換えに責任を果たす義務を負う。
ヴィオルはどう思っているのだろうか。彼から子供について切り出されたことはまだないが、エリーズを気遣って何も言わないだけかもしれない。
世継ぎは王の血を引いていることが絶対だ。最悪の場合ヴィオルが別の女性と子を成し、表向きはエリーズとの間に生まれた子として扱う、ということもあり得る。
ヴィオルが他の女性と寝る――エリーズにとっては気が狂いそうなほど辛いことだが、あくまでも子供を作るだけでヴィオルの心はエリーズにあると思えば何とか耐えられる。
とにかく、夫であり当事者であるヴィオルと話し合わなければ何も解決しない。もし悪夢を見なければいけないなら、さっさと終わらせてしまった方が良い。
今夜にでも彼に相談しよう――と思った時、エリーズがいる部屋の扉がノックされた。
「やあ、エリーズ」
ヴィオルだ。ちょうど考え事をしていた矢先の登場に、エリーズは目を瞬かせた。
「ヴィオル、どうしたの?」
「少し時間ができたんだ。良かったら二人でお茶でもと思って」
今夜まで待つ必要はなさそうだ。エリーズは頷いた。
***
天気がいいから庭でお茶を楽しもうということになり、二人は手入れされた花がよく見える場所まで移動した。そこに備え付けられているテーブルの上に、使用人があっという間に束の間の休憩を楽しむための用意を並べる。
エリーズは悩んでいる風は装わずヴィオルと他愛もない話を続けて――会話が途切れたところで彼に切り出した。
「……ヴィオル、少し相談したいことがあるの」
「うん? どうしたの、何でも言って」
いつもと変わらない優しい声。エリーズは向かいに座る彼の目をじっと見た。
「わたしたち、結婚してそれなりに経つでしょう?」
「まあ、そうだね。僕はまだまだ新婚気分だけど」
「でも、その……赤ちゃんがまだ、できないの」
ヴィオルの顔からほんの一瞬だけ表情が消え、すぐに穏やかな笑みが戻った。
「それを悩んでいるんだね。そんなに気にすることじゃないよ。こればかりは誰かがどうにかできることでもないしね」
「それはそうなのだけれど……」
「仲が良すぎると逆に授かりにくい、なんて話もある。僕たちの場合はそれじゃないかな。だからといって仲良くしないっていう選択肢はないしなぁ」
「でも、早くお世継ぎが必要でしょう?」
「そんなに焦らなくたっていいよ。君はまだ若いし、何ならあと二、三年くらいは二人きりでもいいかな、なんて」
普通の夫婦ならばそれでもいいだろう。だが国を担う立場として、ヴィオルの考えは呑気過ぎると言わざるを得ない。名君と呼ばれる彼がこの国の将来について何も考えていないはずがない。
おそらく彼は本心からそう言っているわけではなく、エリーズが思い悩むことのないよう接しているだけ――そう踏んだエリーズは、更に続けた。
「……わたしがもし、子供が産めない体だったら」
ヴィオルの顔から再び笑みが消え、目が見開かれる。
「どうするか、早めに考えないといけないでしょう? でないと周りの方や……国民の皆さんも心配するわ。わたしのせいでヴィオルが悪く言われるのは絶対に嫌なの。王妃として……ただ楽しく暮らすわけにはいかないということはきちんと分かっているつもりよ」
「エリーズ……」
ヴィオルは小さく息をつき、片肘をテーブルの上について前髪をゆっくりとかき上げた。
「……ごめん。君を見くびっていたつもりは一切ない。けれど……そこまで真剣に色々と考えてくれているとは思わなかった」
目を伏せ、優美な顔が物思いに沈む。静かな庭の中、どこかでさえずる鳥の声だけがエリーズの耳に届く。
どうして急に黙ってしまったのだろう――エリーズが再び口を開こうとした時、ヴィオルの視線がエリーズの顔をとらえた。
「心配しなくていい。君は子を産める体だと、信頼できる医師がそう判断している」
「そうなの?本当に?」
「子供を授かれない原因は、僕の方にある」
きっぱりと言い切ったヴィオルの顔をエリーズは驚いて凝視した。何かの病気や体質だろうか。だが精霊の加護を受けている国王に限ってそのようなことがあるはずはない。
「……僕は君との結婚が決まってから、薬をずっと服用している。男性の子を成す力を失わせる薬だ」
「えっ……?」
彼の言うことが理解できない。ヴィオルは最初から、エリーズとの間に子をもうける気がなかったというのか、それは何故――疑問が頭の中で滝の水のように溢れて流れ落ち、エリーズは呆然とするばかりだった。
ゆっくりとヴィオルが席を立った。
「全部、説明するよ。実際に見てもらった方が早いから、一緒に来てくれる?」
一体、何を見せるというのだろう。困惑しながらもエリーズはよろよろと立ち上がり、彼に続いて庭を後にした。
***
必要なものを取りに行く、とまず二人は国王の私室に向かった。ヴィオルは暗所を照らすためのランプを用意し、次いで引き出しの鍵を開け、手のひらに乗るほどの小袋を取り出すとそれをポケットにしまいこむ。
そして彼がエリーズを連れて来たのは、王城の地下――使用人たちが出入りする倉庫につながる扉が並ぶ場所の、更に奥の突き当りにある扉の前だった。
ヴィオルがポケットに入れていた小袋を取り出した。袋の口が開き出てきたのは古びた鍵だ。彼はそれを使って扉を開け、中にエリーズを招き入れた。
その先は一見すると、以前エリーズがヴィオルに見せてもらった彼のアトリエのような部屋だった。壁には小さな絵がいくつか飾ってあり、床には絵が入っていない額縁が積み重ねてあったり、埃を被らないよう布がかけられた彫刻が無造作に置いてある。
エリーズの目を引いたのは、部屋の入口正面の壁に飾られた一際大きな絵だった。縦はエリーズの背丈ほど、横幅は大柄な騎士のローヴァンが両腕を思い切り広げて立った時くらいある。湖畔とその奥にそびえる山々を描いた風景画は、確信は持てないがヴィオルの作品ではないようにエリーズには感じられた。
ヴィオルはその絵に近付いた。額縁の左辺の中央と下辺の左寄りの位置を手で押さえ、そっと押す。すると絵画ごと壁がぐるりと半回転し、その奥に伸びる通路が見えた。ただの絵ではなく隠し扉だ。
驚くエリーズの隣で、ヴィオルがランプに明かりを灯す。エリーズと一緒にいる時はいつも退屈させないよう振舞う彼が今は別人のように寡黙だ。
「この先に行くよ」
鍵のかかった、一見するとただの倉庫に思える場所に据え付けられた隠し扉――その先に待つものは何なのだろうか。エリーズに引き返すという選択肢はなかった。何も知らなかった時にはもう戻れない。
「足元に気を付けて」
ヴィオルが差し伸べた腕にエリーズは自分のそれを絡ませ、暗い抜け道へと一歩を踏み出した。
ヴィオルとの仲は変わらず良好で、彼の側近たちともそれなりに上手くやれている。近衛騎士のリノンは唯一無二の親友だ。最近は貴族女性の友人も増えてきた。公務でも、夫の顔に泥を塗るような失態はしていない。
どこから見ても順風満帆な日々のはず――しかしエリーズは、今までで一番大きな問題にぶつかっていた。
(また駄目だったみたい)
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ヴィオルと同じ寝室で休むようになってからは、愛を交わさなかった日の方が少ない。だがそれが実を結ぶ気配が一向にないのだ。
日中、常に行動を共にできるとは限らないヴィオルとエリーズにとって、夫婦の時間は互いの愛を確かめ合いより深めるための大切なものだ。しかしただその悦びを享受するだけではいけない。世継ぎとなる子をその身に宿すことができないなら、他の点においてどれほど優れていたとしても王妃としては致命的になる。
自分には子を宿す力がないのでは――以前疲労が溜まって倒れてしまって以降、定期的に医師との面談を行っているが、そのような指摘を受けたことはない。しかし、医師が気づいていないだけでその可能性も捨てきれない。
もしもこのままずっと妊娠できなければどうなってしまうのだろうか。ヴィオルの傍にいられなくなってしまったら……考えただけで泣きそうになるが、エリーズは王妃だ。何不自由ない生活と引き換えに責任を果たす義務を負う。
ヴィオルはどう思っているのだろうか。彼から子供について切り出されたことはまだないが、エリーズを気遣って何も言わないだけかもしれない。
世継ぎは王の血を引いていることが絶対だ。最悪の場合ヴィオルが別の女性と子を成し、表向きはエリーズとの間に生まれた子として扱う、ということもあり得る。
ヴィオルが他の女性と寝る――エリーズにとっては気が狂いそうなほど辛いことだが、あくまでも子供を作るだけでヴィオルの心はエリーズにあると思えば何とか耐えられる。
とにかく、夫であり当事者であるヴィオルと話し合わなければ何も解決しない。もし悪夢を見なければいけないなら、さっさと終わらせてしまった方が良い。
今夜にでも彼に相談しよう――と思った時、エリーズがいる部屋の扉がノックされた。
「やあ、エリーズ」
ヴィオルだ。ちょうど考え事をしていた矢先の登場に、エリーズは目を瞬かせた。
「ヴィオル、どうしたの?」
「少し時間ができたんだ。良かったら二人でお茶でもと思って」
今夜まで待つ必要はなさそうだ。エリーズは頷いた。
***
天気がいいから庭でお茶を楽しもうということになり、二人は手入れされた花がよく見える場所まで移動した。そこに備え付けられているテーブルの上に、使用人があっという間に束の間の休憩を楽しむための用意を並べる。
エリーズは悩んでいる風は装わずヴィオルと他愛もない話を続けて――会話が途切れたところで彼に切り出した。
「……ヴィオル、少し相談したいことがあるの」
「うん? どうしたの、何でも言って」
いつもと変わらない優しい声。エリーズは向かいに座る彼の目をじっと見た。
「わたしたち、結婚してそれなりに経つでしょう?」
「まあ、そうだね。僕はまだまだ新婚気分だけど」
「でも、その……赤ちゃんがまだ、できないの」
ヴィオルの顔からほんの一瞬だけ表情が消え、すぐに穏やかな笑みが戻った。
「それを悩んでいるんだね。そんなに気にすることじゃないよ。こればかりは誰かがどうにかできることでもないしね」
「それはそうなのだけれど……」
「仲が良すぎると逆に授かりにくい、なんて話もある。僕たちの場合はそれじゃないかな。だからといって仲良くしないっていう選択肢はないしなぁ」
「でも、早くお世継ぎが必要でしょう?」
「そんなに焦らなくたっていいよ。君はまだ若いし、何ならあと二、三年くらいは二人きりでもいいかな、なんて」
普通の夫婦ならばそれでもいいだろう。だが国を担う立場として、ヴィオルの考えは呑気過ぎると言わざるを得ない。名君と呼ばれる彼がこの国の将来について何も考えていないはずがない。
おそらく彼は本心からそう言っているわけではなく、エリーズが思い悩むことのないよう接しているだけ――そう踏んだエリーズは、更に続けた。
「……わたしがもし、子供が産めない体だったら」
ヴィオルの顔から再び笑みが消え、目が見開かれる。
「どうするか、早めに考えないといけないでしょう? でないと周りの方や……国民の皆さんも心配するわ。わたしのせいでヴィオルが悪く言われるのは絶対に嫌なの。王妃として……ただ楽しく暮らすわけにはいかないということはきちんと分かっているつもりよ」
「エリーズ……」
ヴィオルは小さく息をつき、片肘をテーブルの上について前髪をゆっくりとかき上げた。
「……ごめん。君を見くびっていたつもりは一切ない。けれど……そこまで真剣に色々と考えてくれているとは思わなかった」
目を伏せ、優美な顔が物思いに沈む。静かな庭の中、どこかでさえずる鳥の声だけがエリーズの耳に届く。
どうして急に黙ってしまったのだろう――エリーズが再び口を開こうとした時、ヴィオルの視線がエリーズの顔をとらえた。
「心配しなくていい。君は子を産める体だと、信頼できる医師がそう判断している」
「そうなの?本当に?」
「子供を授かれない原因は、僕の方にある」
きっぱりと言い切ったヴィオルの顔をエリーズは驚いて凝視した。何かの病気や体質だろうか。だが精霊の加護を受けている国王に限ってそのようなことがあるはずはない。
「……僕は君との結婚が決まってから、薬をずっと服用している。男性の子を成す力を失わせる薬だ」
「えっ……?」
彼の言うことが理解できない。ヴィオルは最初から、エリーズとの間に子をもうける気がなかったというのか、それは何故――疑問が頭の中で滝の水のように溢れて流れ落ち、エリーズは呆然とするばかりだった。
ゆっくりとヴィオルが席を立った。
「全部、説明するよ。実際に見てもらった方が早いから、一緒に来てくれる?」
一体、何を見せるというのだろう。困惑しながらもエリーズはよろよろと立ち上がり、彼に続いて庭を後にした。
***
必要なものを取りに行く、とまず二人は国王の私室に向かった。ヴィオルは暗所を照らすためのランプを用意し、次いで引き出しの鍵を開け、手のひらに乗るほどの小袋を取り出すとそれをポケットにしまいこむ。
そして彼がエリーズを連れて来たのは、王城の地下――使用人たちが出入りする倉庫につながる扉が並ぶ場所の、更に奥の突き当りにある扉の前だった。
ヴィオルがポケットに入れていた小袋を取り出した。袋の口が開き出てきたのは古びた鍵だ。彼はそれを使って扉を開け、中にエリーズを招き入れた。
その先は一見すると、以前エリーズがヴィオルに見せてもらった彼のアトリエのような部屋だった。壁には小さな絵がいくつか飾ってあり、床には絵が入っていない額縁が積み重ねてあったり、埃を被らないよう布がかけられた彫刻が無造作に置いてある。
エリーズの目を引いたのは、部屋の入口正面の壁に飾られた一際大きな絵だった。縦はエリーズの背丈ほど、横幅は大柄な騎士のローヴァンが両腕を思い切り広げて立った時くらいある。湖畔とその奥にそびえる山々を描いた風景画は、確信は持てないがヴィオルの作品ではないようにエリーズには感じられた。
ヴィオルはその絵に近付いた。額縁の左辺の中央と下辺の左寄りの位置を手で押さえ、そっと押す。すると絵画ごと壁がぐるりと半回転し、その奥に伸びる通路が見えた。ただの絵ではなく隠し扉だ。
驚くエリーズの隣で、ヴィオルがランプに明かりを灯す。エリーズと一緒にいる時はいつも退屈させないよう振舞う彼が今は別人のように寡黙だ。
「この先に行くよ」
鍵のかかった、一見するとただの倉庫に思える場所に据え付けられた隠し扉――その先に待つものは何なのだろうか。エリーズに引き返すという選択肢はなかった。何も知らなかった時にはもう戻れない。
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