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三十話 近衛騎士の疑惑

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 ある日の朝。エリーズは王城を職場とする者たちが使う通用口の近くに立っていた。もうすぐ、近衛のリノンが登城してくる時間だ。身支度や予定の確認などで慌ただしい日もあるが、余裕がある時はここでリノンがやって来るのを待つようにしていた。通用口を利用する使用人たちと挨拶を交わすことができるのも楽しい。
 程なくして、黒髪を揺らしながら歩いてくるリノンの姿が見えた。だが、何となく様子がおかしい。エリーズの出迎えがあるとき彼女はいつも手を振りながら走って来てくれるが、今日はそのようなことはせず、むしろ足取りに活気がない。
 不思議に思い、エリーズの方からリノンの方に歩み寄った。

「おはよう、リノン」
「おはよ……エリーズ、来てくれてたんだ」

 リノンは歩き方どころか、声にも顔にもいつもの明るさがなかった。とび色の瞳にはいつもの陽気な光が宿っておらず、目の下に薄くくまがある。昨夜、何かの理由でよく眠れなかったのだろうか。もしかすると体に不調を抱えているのかもしれない。

「リノン、何だか元気がないわ。どうしたの?」
「え? 大丈夫だよ。あたしから元気を取り上げたらなんにも残らなくなっちゃうよ」

 そう言って浮かべた笑顔は、明らかに作り笑いだった。

「リノン、無理しているでしょう。お願い隠さないで。体調が悪いなら今日はお休みして?」
「う……やっぱりエリーズには分かっちゃうか」

 リノンはため息をついてうつむいた。

「病気はしてないよ。これは本当……でも、元気はないかな」

 どうやら何か落ち込むことがあったらしい。エリーズはリノンの手を取った。

「お話を聞くわ。わたしのお部屋に行きましょう」

 外出しなければならない時間までまだ少しある。エリーズはリノンを連れ、自室へと向かった。

***

 私室の長椅子にリノンを座らせ、エリーズもその隣に腰掛けた。

「何があったのか教えてくれる? お話できる範囲でいいわ」
「……あたしのことというより、ローヴァンのことなんだけど」

 ローヴァンに何かあったのだろうか。重篤な病や大怪我なら、ヴィオルを通じてエリーズに話が来ていてもおかしくない。

「ローヴァンが、浮気、してるかもしれない……」
「……えっ?」

 エリーズは己の耳を疑った。聞き間違いなのではないかとも思った。ローヴァンはヴィオルが最も信頼を置いていると言っても過言ではない程、誠実で真面目な人物だ。リノンとの仲も、エリーズの目にはとても良好に映っていた。
 嘘でしょう、と言いかけて、エリーズはそれを飲み込んだ。リノンだって夫の浮気を信じたくはないはずだ。しかしそう思わざるを得ない何かがあったからここまで落ち込んでいるのだろう。最初から嘘と決めてかかってはいけない。

「どうしてそう思うの?」

 平静を保つよう心掛けながらエリーズはリノンに問うた。リノンがぽつぽつと語り出す。

「最近ね……ローヴァンの様子がちょっとおかしいような気がしてたんだ。いつもは空いた時間には鍛錬にばっかり行ってたのに、違うところに出かけてるみたいで、でも行先は教えてくれなくて……あたしと二人で話してる時も、何だかぼんやりしてることが多くて……」

 確かに、それは彼らしくない行動だ。

「三日前に、たまたま見ちゃったの。王都のお店の中で、綺麗な女の人とローヴァンが……楽しそうに話しているところ……」

 ローヴァンは常に冷静で落ち着きがあり、ジギスほどではないが感情の起伏が少ない男だ。その彼が楽しそうに他の女性と話していたというのなら、浮気と思うのも頷ける。

「ごめん、エリーズに迷惑かけちゃいけないって思ってたから、ずっと黙ってたんだけど……その日から眠れなくなっちゃって……」

 三日目になって、とうとう隠しきれず顔に出てしまったようだ。

「そうだったのね。お話してくれてありがとう」

 心許こころもとなく膝の上に置かれたリノンの手を、エリーズは優しく握った。

「そんなことがあったなら、元気でいられないのは当たり前だわ」

 エリーズもかつて、ヴィオルの心が他の女性に向いているのではないかと悩み苦しんだことがあった。リノンの平常心でいられない気持ちは痛いほど分かる。

「わたしにできることが、何かあるはずよ」
「そんな、エリーズを頼るなんてしちゃいけないよ。あたしは近衛で、仕える立場なんだから」
「リノン」

 エリーズはリノンの目をじっと見据えた。

「確かにあなたはわたしを守る役目を持った人よ。だけどその前に、リノンはわたしの大切なお友達なの」

 初めて二人が出会った日、友達になって欲しいというエリーズの頼みに快く頷いてくれたリノン。
 王妃として生きる日々の中つい気を張ることが多いエリーズのことを、彼女はいつも底抜けの明るさと屈託のない笑顔で支えてくれている。エリーズにとってリノンは紛れもなく一番の親友だ。その親友が落ち込んでいるのに何もしないでいるなら、国母など名乗れない。

「エリーズ……」

 リノンが今にも泣きそうな顔をする。エリーズは彼女を励ますように微笑みかけた。

「大丈夫よ。わたしがついているわ。とにかく浮気が本当なのかどうか調べましょう」

 もうすぐ公務に出かけなければいけないが、それが終われば時間に空きができる。その間を利用し、エリーズはリノンとともにローヴァンの動向を探ることにした。

***

 同日の昼下がり、王城の近くに建てられた騎士の詰所内の訓練場にて。
 ヴィオルは訓練用のサーベルを手にしていた。ジュストコールを脱ぎ、シャツの袖を肘までまくった姿の彼が対峙しているのは、同じく訓練用の得物を持った近衛騎士のローヴァンだ。
 ヴィオルが繰り出す剣戟けんげきを、ローヴァンはその場にどっしりと立ったまま軽くいなしていく。刃同士がぶつかり合う音が響く。
 しばし打ち合ったところで、ローヴァンがサーベルを持っていない方の手を軽く挙げた。止め、の合図だ。

「かなり動きが良くなったな」
「そうかい? こんなものじゃまだまだだと思うけれど」

 ヴィオルの呼吸はやや早く、額にはうっすら汗がにじんでいるが、対するローヴァンは稽古を始める前とほとんど様子が変わらない。

「もともとお前はかなり筋がいい。後はもう少しやる気を出してくれれば、と思っていたところだ」

 以前までのヴィオルは学問や芸術には大きく関心を寄せていたが、武芸については消極的だった。精霊の加護を受けている王国が戦に巻き込まれる心配はなく、ローヴァンを筆頭に騎士たちは皆優秀だ。争いを好まない性分でわざわざ剣を取る気にはなれなかった。しかし今はローヴァンを相手に鍛錬をする機会を増やすようにしている。

「前は暇さえあれば絵ばかり描いていたお前が……どうしてまた急に心を入れ替えた?」
「決まってるだろう。エリーズに軟弱な男だと思われて愛想を尽かされたら辛すぎて生きていけないからだよ」

 エリーズを抱き上げて運ぶくらいなら今のヴィオルには造作もないことだが、それに満足しているようでは駄目だ。いざという時に自分の力でしっかりと彼女を守ることができる力を身につけたかった。ローヴァンが小さく笑う。

「お前がここまで変わるとは……王妃殿下は本当に偉大だな」

 ヴィオルがサーベルを鞘に戻すと、ところで、とローヴァンが切り出した。

「この後、外出の予定はなかったはずだな?」
「ああ。この後は夜まで執務室に軟禁だよ」

 ため息混じりにヴィオルが答えると、ローヴァンはそうか、と頷いた。

「しばし城を出てもいいか? すぐに戻る」
「珍しいね、別にいいよ。何か用事でも?」
「ああ……少し買い物を」

 急に入用になったものでもあるのだろうか。ローヴァンも己の屋敷に多くの使用人を抱えている身分のため自ら出向く必要はあまりないはずだが。
 国王の近衛を務める以上、ローヴァンも苦労の多い身だ。自由にできるときはそうしていて欲しいという思いもあり、ヴィオルはそれ以上言及することはしなかった。

***

 ローヴァンの行動を調べるべく、公務を終えたエリーズは急いで母の形見である薄青色のドレスに着換え、つばの広い帽子を深く被った。城下町を歩く時、王妃だと悟られないようにするためによくとる姿だ。
 万が一ローヴァンに出くわしてしまってもすぐに自分の妻だと悟られないようにするため、今回はリノンにもいつもの動きやすい近衛騎士の恰好ではなく、王都に住む女性の一般的な服装に着換えてもらうことにした。リノンの屋敷へ衣服を取りに行く時間が惜しかったので、エリーズの持ち物である飾り気の少ないクリーム色のドレスを貸し、いつも高い位置で一つにまとめているだけのリノンの豊かな黒髪はエリーズの手で一本の三つ編みになった。彼女にも丸いつばがついた帽子を深く被せ、エリーズとリノンは王都に暮らす裕福な二人の娘に扮して城下町に繰り出した。

「ローヴァンさんを見たお店まで行ってみましょう」

 エリーズの提案にリノンが頷き、道案内をしてくれた。賑やかな大通りを進み、途中で脇道に逸れる。やがて二人は十字路にたどり着いた。

「あのお店だよ」

 リノンが左前方を示す。目的地は十字路の角に建つ店だった。城下町ではごく普通の煉瓦造りの建物だ。営業中であることを示す札が表にかかっている。
 客として堂々と店の入り口をくぐるべきか――エリーズは考え、少し様子を見ることにした。道をまっすぐ進み店の横まで行くと、ついている窓から中の様子を若干ではあるが覗くことができた。その店と道を挟んで反対の建物に背中をくっつけ、エリーズとリノンは立ち話をする振りをしながら様子をうかがった。
 窓の向こうに人の姿は見えない。エリーズがどうしたものかと迷っていると、リノンが息を飲む音が聞こえた。

「あれ……」

 リノンが指し示した先には、店の入口へと向かう男性――ローヴァンの姿があった。エリーズたちに気づいた素振りは見せず、そのまま店へと入っていく。
 窓の向こうで動きがあった。店内に足を踏み入れたローヴァンを、亜麻色の髪を持つ一人の女性が出迎える。どうやら店の奥、エリーズたちから見えないところにずっといたようだ。

「あの女性の方は、リノンが三日前に見たのと同じかしら?」
 
 小声でエリーズが尋ねると、リノンは頷いた。
 ローヴァンとその女性は顔を合わせ、何かを話しこんでいる。その様子を見て、エリーズはどんどん胸が詰まるような気になっていった。
 いつも冷静なローヴァンが、今まで見たことがないほど優しい笑みを浮かべている――何も知らない人間がこの光景を見たら、ローヴァンとその話し相手の女性は良い仲であると思うだろう。

「……っ!」

 声にならない叫びを上げ、リノンが顔を伏せた。固く握られた拳が小刻みに震える。エリーズは彼女の肩にそっと手を置いた。

「リノン、一度わたしのお部屋に帰りましょう」

***

 すっかり憔悴しょうすいしきった様子のリノンを連れ、エリーズは王城の自室へと戻った。リノンと二人で並んで長椅子に座ったものの、彼女にかける言葉がなかなか見つからない。
 三日前も今日もローヴァンは同じところに足を運び同じ女性と会って、あまつさえ楽しそうに話をしていた。リノンが愕然とするのも当然だ。エリーズの心も少なからず打撃を受けた。どれほど実直で真面目な人間であっても、生まれてから死ぬまで一度も間違いを犯さないということはあり得ない。しかしローヴァンの行いはその範疇はんちゅうを超えている。

「リノン……」
「……分かってたんだ」

 ぽつりとリノンが言った。

「え……?」
「……あたしはさ、エリーズみたいに可愛くないし、綺麗なドレスだって似合わない。落ち着きがなくてがさつだし、何より……この国の生まれじゃない」

 淡々とした口調は、己に言い聞かせるためのようだった。

「最初はそんなあたしが珍しかったのかもしれない。けどさ……やっぱり最後に選ばれるのは、エリーズみたいな……綺麗でふわふわした、守ってあげたくなる女の子なんだよね」

 泣くことも怒ることもせず、リノンは寂し気な笑みを口元に浮かべる。

「エリーズ、巻き込んで本当にごめん。ドレス返さなきゃね。それから……ローヴァンのこと、自由にしてあげなきゃ」
「リノン」

 エリーズは引き留めるようにリノンの手を強く握った。

「お友達だからはっきり言うわ。あなたの考えは間違ってる」

 リノンの鳶色の瞳が揺れた。

「わたしはリノンの自分の意見をはっきり言えるところも、やりたいことに向かって真っすぐ進む力も素晴らしいと思うわ。あなたは綺麗よ、リノン。それはあなたにしかない美しさなの」

 故郷を、家族を失ってたどり着いた異国の地。そこで騎士を志し、ひたむきに努力してきたリノン。彼女の姿は、義父と義妹に罵られながらただ黙って日々が過ぎるのを待っているだけの暮らしを送っていたエリーズにとってはまばゆいほどに美しかった。

「あなたらしさを大切にしなければいけないわ。わたしも、わたしらしく生きているだけ。ヴィオルはそのわたしを大切にしてくれるし、わたしも彼に同じようにしたいと思うの。それが夫婦というものよ」

 ヴィオルとエリーズの恋は一目惚れから始まった。最初こそ彼の前で緊張することの多かったエリーズだったが、今では彼の傍にいる時が一番心が安らぐ。お互いに自分を取り繕うことなくありのままに思ったことを話し、触れあうのがとても心地いい。
 それが絶対の正解とは言わないが、少なくとも相手のことを平気で傷つけるのは間違っている――確かな怒りの感情が、エリーズの心にふつふつと湧き上がる。

「ただ珍しいからとか、そんな理由でリノンを結婚相手に選んだのだとしたら……わたし、ローヴァンさんがどんなに強い騎士だったとしても許せないわ」

 エリーズはすっくと立ちあがった。

「エリーズ?」
「リノン、準備をしたらすぐにあなたのお屋敷へ行きましょう」
「え、ど、どうして?」

 戸惑うリノンに、エリーズはきっぱりと告げた。

「ローヴァンさんに、直接本当のことを確かめるのよ」
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