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二十六話 傍にいるために
しおりを挟む クレイア子爵の屋敷では、武装した男たちが忙しなく行ったり来たりを繰り返していた。それだけではない、いかにも戦いを知らないだろう一般市民らしき男達も、不安そうな表情を浮かべて庭先に並ばされていた。
モアが何も読まずにサインをした領民からの徴発を許可する令が、ついに実行されたのだ。
市民や商会から巻き上げた金貨や食料が山積みとなっていく。それを見て騒ぐ兵士は……兵士、と言う名のゴロツキの様なものだった。到底、まともな訓練をしていたとは思えない品の無さだ。
その様子を、屋敷の二階にある執務室からモアは見下ろす。
「うるさいと思ったら、小汚い平民達じゃない。ねえザトー、ここに集めないとだめなの? 私の庭が汚れるわ」
「は……申し訳ありません。ですが、どうか少しばかり我慢頂けないかと。数日の辛抱ですから」
「我慢? 私に我慢しろと言うの? このクレイア王国の王族である私が我慢を?」
ザトーがそう言っても、モアは納得していないようで、癇癪を起したかのようにザトーに言い募る。ザトーは苦り切った顔をしつつ「辛抱して頂ければ、もうまもなく、クラスティエーロ王国の王城も庭園も全てモア様の物となりますから……」と、以前から繰り返していた宥めの言葉を繰り出した。
「ふうん。まもなくってどれぐらいなの? もう計画は始まってるんでしょ?」
いつもならそれで引き下がるモアが、珍しく食い下がる。頭の弱い女でも、事態が順調に推移していることは肌で感じているようだ、とザトーは無駄な感心を覚えた。動物としての本能は意外と鋭いのかもしれない。
「……そうですね、長くとも今月中には。早ければ、一週間のうちに片が付くでしょう」
「あら、意外と近いじゃない! フフン、楽しみにしてるわ」
モアはすっかり機嫌を直し、メイドへスイーツの準備をするように申しつけて執務室を出て行った。もちろん、今日も子爵としての仕事は一切していない。全てザトーに丸投げし、文句を言いに来ただけだ。
「一週間とは、大きく出たじゃないかザトー君」
「うるせえ。ああでも言わないと、あのバカ女は納得しねえだろ」
二人のやり取りを黙って見ていたフィルガーが、楽しむような声音でザトーに話しかけた。カタカタカタ、笑い声のつもりなのか、フィルガーの仮面の下から謎の音がする。
一週間。どう見積もっても、無理だとザトーはわかっている。戦争という物はそう簡単に進むわけではないのだ。
モアも自国を滅ぼされた戦争経験者のはず……なのだが、元からまともに勉強をせず、社交もろくにこなせていなかったことから「気づいたら国が滅びていた」のだと言う。自分の国が滅びたのを知ったのも、かなり後になってからだ。
「で、どうなんだ、グレン・クランストンの状況は」
「マァ、悪くはないですネ。予想より彼の魔力が多くて、人格を溶かすのに時間がかかっているようですガ。二日もあれば、形にはなるでショウ」
「フン……俺はその手の事はとんとわからん。二日でいいんだな?」
「それでいいですヨ」
フィルガーは自分より下にあるザトーの頭を眺めて思う。この男は自分ができない事をしっかりと把握して、できない事は他人にやらせるという力を持っている。それは上に立つ人間には必要な資質だ。そういう意味では、ザトーはリーダーの様な立場には非常に向いている。
(だけど貴方は、そこ止まりデス。それより上には行けませんネ)
ザトーはこの戦争を足掛かりにして、さらに上を目指しているようだ。それはモア・クレイアも同じ。
だが。多種多様な人間を見てきたフィルガーからしてみれば、二人とも目指している立場に対しての器がまるで足りていなかった。
モア達が戦争に勝利し、国を支配することになっても……せいぜい、一週間も持てば良い方だろう。早ければ翌日には下から突き上げられて首と胴体が離れているかもしれない。
だとしても、それはフィルガーには関係のない事。フィルガーが見たいのは戦争であって、その後に二人がどうなろうとも興味はない。もっと言えば、契約の範囲外でもある。
(マ、そもそもワタシは『必ず勝たせる』なんて言ってませんからネェ)
ザトーは戦いを知っているが、軍の動かし方は知らない。その瞬間の剣さばきは知っているが、明日の進軍先は知らない。
無い頭で一生懸命に、二日後にグレン・クランストンが使えるようになってからの計画を練り直しているザトーを見ながらフィルガーは一人で嗤った。
フィルガーも悪魔だ。やはり、愚かな人間が自ら道を踏み外して地獄へ落ちていく様子を見るのは、心が躍る。
☆☆☆
様々な人間の思惑の中心でありながらも、ひとり、隔絶されたグレンは。
じわじわと精神を蝕んでくる魔術と、格闘していた。……不可思議な、精神空間で。
「ううっ! このっ!! このっ!」
ずるずると這い回る黒いスライムの様な粘性の物体を、グレンは持っていた棍棒でボコボコと叩いた。そのスライムもどきは、叩かれたことに怯んだのかゆっくりと後退していく。
ふう、と息を吐くグレンの視界の隅に――新しいスライムもどきが、また触手を伸ばしているのが映る。
「だめー! だめだって!」
慌てて走っていて、また棍棒でボコボコ。そうしていると、他の場所にスライムもどきが湧いてくるから、またグレンは走って行って、ボコボコ。
ずっと繰り返している。ボコボコ。
……フィルガーの誤算は。グレンの魔力が、想定より多かったことではない。
グレンが命の形を変えることができるほどに天才であり、そして、実際にそうした経験があった、ということであった。
当然、普通の人間ならこの禁忌である洗脳魔法を相手にして、自意識をもって抗うことなどできない。そもそも、蝕まれているという自覚すら無いうちに、その命を覆われて終わりだろう。
あの魔術は人格を消す、と言われているが、厳密にはその人間が持っている『命』を覆い隠して乗っ取る仕組みになっている。その詳細な仕組みを理解できるのが天使と悪魔しかいないために、人間の間では「人格を消す」「人形にする」と言った形で語り継がれているに過ぎない。
「ドーヴィ、早く来てよ……」
グレンはぽろり、と零れた涙を右の袖でごしごしと拭って、棍棒を握り直した。この棍棒は、グレンが「スライムをどうにかしなきゃ!」と思った時、勝手に手の中に出現したものだ。
ここで剣でも槍でもないのが、グレンらしいと言えばグレンらしいのだろう。命の一部を変化させて出てきた武器が、棍棒。とりあえずブンブン振り回せば敵に当たってダメージを与えられるわかりやすいものだ。
魔法は使えない。なぜなら、魔法という物は『命』より外側にある『魂』から発せられるものだから。ドーヴィに新しく作って貰った、グレンのためだけの『魂』はこの精神空間の外に存在している。
このスライムもどき達、つまり洗脳魔術の攻撃はすでに『命』に触れられる部分まで侵入してきていた。それでも、この瀬戸際でなんとかスライムもどきをモグラたたきのごとく棍棒でボコボコ叩いて周っているグレンは、大健闘と言って差し支えない。普通の人間にはできない芸当だ。
『命』を傷つけられたら。その時がグレンの本当の死である。その人をその人たらしめる、一番の根源なのだから。
スライムもどきは触手を伸ばしてグレンの精神空間を汚染しようと試みている。それを、棍棒片手に防いでいるのがグレンだ。
……とは言え、フィルガーの施した禁忌の魔術を前に、グレン一人でやれることは少ない。
グレンが目の前のスライムもどきの触手をボコボコ叩いている後ろで、他のスライムもどきが触手を伸ばす。
「あっ! だめだっ!」
グレンが振り返った時には既に触手は淡く輝く光の球を掴んでおり。それをするりとスライムもどき本体へと引き入れ、飲み込んでしまっていた。
「あ、ああっ……!」
グレンの口から悲痛な声が迸る。
スライムもどきが食べたのは――グレンの、記憶だ。いや、選り好みをしている節があるから、ただの記憶ではなく思い出と言い換えた方が適切だろう。
グレンが大切にしている、幸せで楽しい思い出だけを見つけてはああやって触手で掴んで食べている。どうせ食べるなら嫌な思い出の方を食べてくれれば良いのに、とグレンが思ったのも前の話。
事態はそうも言ってられない事に、天才であるグレンはすぐに気が付いた。
思い出、記憶。そのどちらも、その人間がこの世界で生きていた積み重ね、または証である。それを一つずつ奪われるという事は――自分の存在、グレン・クランストンという存在が少しずつ消されていくのと同じことであった。
そう、このスライムもどきは。そうやって対象から思い出を奪い去り、『命』を弱らせることを目的として、這い回っているのだった。
さきほど食べられた思い出は、何の思い出なのだろう。もう食べられてしまったから、グレンにはそれが何なのかもわからない。
ただ、また一つ胸に穴が開いたような寂しさを覚えるだけだ。その寂しさが、体をずしんと重くする。
気持ちの問題だけではない。実際に、グレンの『命』が徐々に弱ってきているのだ。思い出を食べられた分だけ、グレンがグレンで無くなっていく。
「い、いやだ……思い出、返せよっ!」
グレンは棍棒を振りかぶって、一生懸命にスライムもどきを叩く。が、叩いてもスライムもどきは怯むだけで、何らダメージを負った様子はない。
いくらグレンが天才とは言え、この精神空間にまで侵入されたら、もはや抗う術はないのだ。せめて、時間稼ぎをすることぐらいだけ。
……負けが決まっている中でも、グレンは必死に棍棒を握って、スライムもどきを叩いて周る。
グレンは絶望しない。なぜなら、ドーヴィがいるから。ドーヴィが、絶対に助けに来てくれるから。
それだけをずっと信じている。ドーヴィはグレンを裏切ることもしない、傷つけることもしない。絶対に、絶対に守ってくれる。
ぐす、と鼻を鳴らしてグレンは何度でも立ち上がった。どんどん、思い出は欠けて行って、辺境の大切な人たちの顔も名前も、思い出せなくなってきている。そのうち、家族のこともわからなくなるだろう。最後には、ドーヴィの事も忘れてしまうに違いない。
それでも、生きていれば。いや、死んだとしても、グレンが出来る限り時間を稼げば。
きっといつか、ドーヴィが全部何とかしてくれる。
信頼、というにはあまりにも甘すぎる夢なのかもしれない。しかし、その想いがグレンを奮い立たせていることは間違いなかった。
---
ちょっとだけグレンくんの言葉遣いが幼いのは、以前と同じように理性が無くなって本能だけで動いてるような状態だからです
書く隙間が無かったね……
土日はいつも通りおやすみです
モアが何も読まずにサインをした領民からの徴発を許可する令が、ついに実行されたのだ。
市民や商会から巻き上げた金貨や食料が山積みとなっていく。それを見て騒ぐ兵士は……兵士、と言う名のゴロツキの様なものだった。到底、まともな訓練をしていたとは思えない品の無さだ。
その様子を、屋敷の二階にある執務室からモアは見下ろす。
「うるさいと思ったら、小汚い平民達じゃない。ねえザトー、ここに集めないとだめなの? 私の庭が汚れるわ」
「は……申し訳ありません。ですが、どうか少しばかり我慢頂けないかと。数日の辛抱ですから」
「我慢? 私に我慢しろと言うの? このクレイア王国の王族である私が我慢を?」
ザトーがそう言っても、モアは納得していないようで、癇癪を起したかのようにザトーに言い募る。ザトーは苦り切った顔をしつつ「辛抱して頂ければ、もうまもなく、クラスティエーロ王国の王城も庭園も全てモア様の物となりますから……」と、以前から繰り返していた宥めの言葉を繰り出した。
「ふうん。まもなくってどれぐらいなの? もう計画は始まってるんでしょ?」
いつもならそれで引き下がるモアが、珍しく食い下がる。頭の弱い女でも、事態が順調に推移していることは肌で感じているようだ、とザトーは無駄な感心を覚えた。動物としての本能は意外と鋭いのかもしれない。
「……そうですね、長くとも今月中には。早ければ、一週間のうちに片が付くでしょう」
「あら、意外と近いじゃない! フフン、楽しみにしてるわ」
モアはすっかり機嫌を直し、メイドへスイーツの準備をするように申しつけて執務室を出て行った。もちろん、今日も子爵としての仕事は一切していない。全てザトーに丸投げし、文句を言いに来ただけだ。
「一週間とは、大きく出たじゃないかザトー君」
「うるせえ。ああでも言わないと、あのバカ女は納得しねえだろ」
二人のやり取りを黙って見ていたフィルガーが、楽しむような声音でザトーに話しかけた。カタカタカタ、笑い声のつもりなのか、フィルガーの仮面の下から謎の音がする。
一週間。どう見積もっても、無理だとザトーはわかっている。戦争という物はそう簡単に進むわけではないのだ。
モアも自国を滅ぼされた戦争経験者のはず……なのだが、元からまともに勉強をせず、社交もろくにこなせていなかったことから「気づいたら国が滅びていた」のだと言う。自分の国が滅びたのを知ったのも、かなり後になってからだ。
「で、どうなんだ、グレン・クランストンの状況は」
「マァ、悪くはないですネ。予想より彼の魔力が多くて、人格を溶かすのに時間がかかっているようですガ。二日もあれば、形にはなるでショウ」
「フン……俺はその手の事はとんとわからん。二日でいいんだな?」
「それでいいですヨ」
フィルガーは自分より下にあるザトーの頭を眺めて思う。この男は自分ができない事をしっかりと把握して、できない事は他人にやらせるという力を持っている。それは上に立つ人間には必要な資質だ。そういう意味では、ザトーはリーダーの様な立場には非常に向いている。
(だけど貴方は、そこ止まりデス。それより上には行けませんネ)
ザトーはこの戦争を足掛かりにして、さらに上を目指しているようだ。それはモア・クレイアも同じ。
だが。多種多様な人間を見てきたフィルガーからしてみれば、二人とも目指している立場に対しての器がまるで足りていなかった。
モア達が戦争に勝利し、国を支配することになっても……せいぜい、一週間も持てば良い方だろう。早ければ翌日には下から突き上げられて首と胴体が離れているかもしれない。
だとしても、それはフィルガーには関係のない事。フィルガーが見たいのは戦争であって、その後に二人がどうなろうとも興味はない。もっと言えば、契約の範囲外でもある。
(マ、そもそもワタシは『必ず勝たせる』なんて言ってませんからネェ)
ザトーは戦いを知っているが、軍の動かし方は知らない。その瞬間の剣さばきは知っているが、明日の進軍先は知らない。
無い頭で一生懸命に、二日後にグレン・クランストンが使えるようになってからの計画を練り直しているザトーを見ながらフィルガーは一人で嗤った。
フィルガーも悪魔だ。やはり、愚かな人間が自ら道を踏み外して地獄へ落ちていく様子を見るのは、心が躍る。
☆☆☆
様々な人間の思惑の中心でありながらも、ひとり、隔絶されたグレンは。
じわじわと精神を蝕んでくる魔術と、格闘していた。……不可思議な、精神空間で。
「ううっ! このっ!! このっ!」
ずるずると這い回る黒いスライムの様な粘性の物体を、グレンは持っていた棍棒でボコボコと叩いた。そのスライムもどきは、叩かれたことに怯んだのかゆっくりと後退していく。
ふう、と息を吐くグレンの視界の隅に――新しいスライムもどきが、また触手を伸ばしているのが映る。
「だめー! だめだって!」
慌てて走っていて、また棍棒でボコボコ。そうしていると、他の場所にスライムもどきが湧いてくるから、またグレンは走って行って、ボコボコ。
ずっと繰り返している。ボコボコ。
……フィルガーの誤算は。グレンの魔力が、想定より多かったことではない。
グレンが命の形を変えることができるほどに天才であり、そして、実際にそうした経験があった、ということであった。
当然、普通の人間ならこの禁忌である洗脳魔法を相手にして、自意識をもって抗うことなどできない。そもそも、蝕まれているという自覚すら無いうちに、その命を覆われて終わりだろう。
あの魔術は人格を消す、と言われているが、厳密にはその人間が持っている『命』を覆い隠して乗っ取る仕組みになっている。その詳細な仕組みを理解できるのが天使と悪魔しかいないために、人間の間では「人格を消す」「人形にする」と言った形で語り継がれているに過ぎない。
「ドーヴィ、早く来てよ……」
グレンはぽろり、と零れた涙を右の袖でごしごしと拭って、棍棒を握り直した。この棍棒は、グレンが「スライムをどうにかしなきゃ!」と思った時、勝手に手の中に出現したものだ。
ここで剣でも槍でもないのが、グレンらしいと言えばグレンらしいのだろう。命の一部を変化させて出てきた武器が、棍棒。とりあえずブンブン振り回せば敵に当たってダメージを与えられるわかりやすいものだ。
魔法は使えない。なぜなら、魔法という物は『命』より外側にある『魂』から発せられるものだから。ドーヴィに新しく作って貰った、グレンのためだけの『魂』はこの精神空間の外に存在している。
このスライムもどき達、つまり洗脳魔術の攻撃はすでに『命』に触れられる部分まで侵入してきていた。それでも、この瀬戸際でなんとかスライムもどきをモグラたたきのごとく棍棒でボコボコ叩いて周っているグレンは、大健闘と言って差し支えない。普通の人間にはできない芸当だ。
『命』を傷つけられたら。その時がグレンの本当の死である。その人をその人たらしめる、一番の根源なのだから。
スライムもどきは触手を伸ばしてグレンの精神空間を汚染しようと試みている。それを、棍棒片手に防いでいるのがグレンだ。
……とは言え、フィルガーの施した禁忌の魔術を前に、グレン一人でやれることは少ない。
グレンが目の前のスライムもどきの触手をボコボコ叩いている後ろで、他のスライムもどきが触手を伸ばす。
「あっ! だめだっ!」
グレンが振り返った時には既に触手は淡く輝く光の球を掴んでおり。それをするりとスライムもどき本体へと引き入れ、飲み込んでしまっていた。
「あ、ああっ……!」
グレンの口から悲痛な声が迸る。
スライムもどきが食べたのは――グレンの、記憶だ。いや、選り好みをしている節があるから、ただの記憶ではなく思い出と言い換えた方が適切だろう。
グレンが大切にしている、幸せで楽しい思い出だけを見つけてはああやって触手で掴んで食べている。どうせ食べるなら嫌な思い出の方を食べてくれれば良いのに、とグレンが思ったのも前の話。
事態はそうも言ってられない事に、天才であるグレンはすぐに気が付いた。
思い出、記憶。そのどちらも、その人間がこの世界で生きていた積み重ね、または証である。それを一つずつ奪われるという事は――自分の存在、グレン・クランストンという存在が少しずつ消されていくのと同じことであった。
そう、このスライムもどきは。そうやって対象から思い出を奪い去り、『命』を弱らせることを目的として、這い回っているのだった。
さきほど食べられた思い出は、何の思い出なのだろう。もう食べられてしまったから、グレンにはそれが何なのかもわからない。
ただ、また一つ胸に穴が開いたような寂しさを覚えるだけだ。その寂しさが、体をずしんと重くする。
気持ちの問題だけではない。実際に、グレンの『命』が徐々に弱ってきているのだ。思い出を食べられた分だけ、グレンがグレンで無くなっていく。
「い、いやだ……思い出、返せよっ!」
グレンは棍棒を振りかぶって、一生懸命にスライムもどきを叩く。が、叩いてもスライムもどきは怯むだけで、何らダメージを負った様子はない。
いくらグレンが天才とは言え、この精神空間にまで侵入されたら、もはや抗う術はないのだ。せめて、時間稼ぎをすることぐらいだけ。
……負けが決まっている中でも、グレンは必死に棍棒を握って、スライムもどきを叩いて周る。
グレンは絶望しない。なぜなら、ドーヴィがいるから。ドーヴィが、絶対に助けに来てくれるから。
それだけをずっと信じている。ドーヴィはグレンを裏切ることもしない、傷つけることもしない。絶対に、絶対に守ってくれる。
ぐす、と鼻を鳴らしてグレンは何度でも立ち上がった。どんどん、思い出は欠けて行って、辺境の大切な人たちの顔も名前も、思い出せなくなってきている。そのうち、家族のこともわからなくなるだろう。最後には、ドーヴィの事も忘れてしまうに違いない。
それでも、生きていれば。いや、死んだとしても、グレンが出来る限り時間を稼げば。
きっといつか、ドーヴィが全部何とかしてくれる。
信頼、というにはあまりにも甘すぎる夢なのかもしれない。しかし、その想いがグレンを奮い立たせていることは間違いなかった。
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ちょっとだけグレンくんの言葉遣いが幼いのは、以前と同じように理性が無くなって本能だけで動いてるような状態だからです
書く隙間が無かったね……
土日はいつも通りおやすみです
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