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二十話 寂しい日々

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 アルクレイド王国の空に、夜のとばりが降りて数時間が経つ。
 蝋燭ろうそくの明かりを一つだけ灯した寝室で、エリーズはベッドに腰かけて夫の帰りを待っていた。しかし、すっかり夜中なのに寝室の扉が開く気配はない。
 ここ二週間はいつもこの調子だ。いくら多忙な国王とはいえ、さすがに真夜中を過ぎても政務が終わらないというのは今までなかった。だが結局待ちくたびれてエリーズが先に眠ってしまう日々が続いている。
 朝起きると、隣で人が寝ていた痕跡は残っているのでヴィオルが一晩中戻ってきていないということはないようだ。共に食事をすることも減り、顔を合わせるのは公務の時のみ。しかしその公務も以前は行き帰りは常に一緒だったのが、最近のヴィオルは仕事を終えた後にまだやることが残っているからとエリーズだけを先に王城に帰したり、別の馬車で違う場所に向かう機会が多くなった。
 以前は近侍のジギスがため息をつくほど、わずかな時間でもエリーズに会おうとしていたヴィオルが一転、まるで妻への関心が失せたかのようにも思える態度にエリーズは動揺を隠せなかった。政務が大変だというのなら少しでも何か手伝わせて欲しい、と伝えてはみたのだが、ヴィオルは「大丈夫」の一点張りでエリーズを頼ってこようとはしない。
 エリーズがヴィオルの妻となり三か月半が経つ。共に過ごすうちにエリーズは彼について知り、国王として民に尽くす誠実で優しい姿にますます想いを募らせた。しかしヴィオルはそうではないのかもしれない。エリーズのことを深く知り、自分が求めていたような妻ではないと思ってしまったのだろうか。
 静かな暗い部屋で独りでいるせいか、エリーズの頭に浮かぶのは悪い考えばかりだ。耳を澄ませても、足音は聞こえない。夫の顔を見てから眠ることを諦めたエリーズは蝋燭の火を吹き消して、一人で寝るには広すぎる寝台に横たわった。
 毎日のように行われていた夜伽よとぎもすっかり無くなってしまった。愛する人の温もりを感じられず寂しいと泣く心を、結婚するまではずっと独りで寝ていたのだから耐えられるはずよ、と叱咤してエリーズは目を閉じた。

***

 今日の公務は国王夫妻が揃っての、ガレニア侯爵領の視察だった。侯爵の案内を受けながら街や綿花から糸を作る作業場を見て回り、邸宅でもてなしを受ける。いよいよ帰る時間になったが、やはり今日も帰りの馬車に乗るのはエリーズだけだった。

「ごめんね、僕はまだすることがあるから、先に帰ってゆっくり休んでいて」

 ヴィオルは手ずから馬車の扉を開け、エリーズが乗るのを手伝ってくれる。顔を合わせた時は優しく接してくれるのだが、どうしても一緒に帰ろうとはしない。

「ヴィオルこそ忙しすぎるわ。たまには早く帰って休まないと病気になってしまうかもしれないのに……」

 大丈夫だよ、とヴィオルは微笑んだ。

「僕はこう見えて病気知らずなんだ。心配してくれてありがとう。愛してるよ」

 いつもなら何よりも嬉しいはずの夫の言葉が、最近は胸に引っ掛かる。エリーズがそれ以上何か言う前に、気を付けてねと声をかけてヴィオルは馬車の扉を閉じた。

「リノン、手間をかけて申し訳ないけれどあとのことは頼んだよ」

 ヴィオルは護衛としてついて来ていたリノンに呼びかけた。馬上のリノンは何か言いたげな顔をしたが、分かりましたと頷いて動き出した馬車の後を追って自身の乗る馬を進ませた。
 王妃を乗せた馬車が去っていくのをその場で見守る国王の元に、近衛騎士のローヴァンが歩み寄る。

「ヴィオル、そろそろ見切りをつけたらどうだ。王妃殿下のあの表情を見て何とも思わないお前ではないだろう」
「……分かっている」

 視線を小さくなっていく馬車から逸らさないまま、ヴィオルは答えた。

「だけど、手がかりはまだ完全に無くなったわけじゃない。できる限りを尽くしてあげたいんだ」
「……リノンが口を滑らしたとしても責めてくれるなよ」

 ローヴァンが呟くように言い、近くにいた従者に移動用の馬車を回すよう指示をした。

***

 王族が移動するための馬車は、一人で乗るにはあまりに広い。いつもヴィオルと寄り添って座っていただけに余計にそう感じてしまう。
 エリーズは座席に置かれていたクッションをぎゅっと胸に抱えて馬車に揺られていた。おそらく今日もエリーズが起きていられるうちにヴィオルが帰ってくることはないのだろう。
 国王の仕事が順風満帆に進む方が少ないことくらいはエリーズにも分かっている。そしてエリーズ自身がまだまだ力不足だということも。ヴィオルからせめて忙しい理由は何なのかそれだけでも教えてもらえたなら、いくらでも待つことができる。その説明がないともなると、いよいよエリーズの頭に浮かぶのは最も考えたくない予想だ。

(ヴィオル、他に好きな人ができたの……?)

 エリーズ以外とはダンスを踊らない、エリーズ以外はいらないとヴィオルは以前に言ってくれた。周りも呆れてしまうほどに、愛を示してくれていた。
 しかし、それがこの先もずっと同じだとは限らない。エリーズより魅力的な女性ならこの世にはたくさんいるだろう。もしそんな女性とヴィオルが出会っていて、エリーズに隠れて逢瀬を重ねているのだとしたら――

「……っ!」

 ヴィオルと他の女性が仲睦まじく寄り添う悪夢のような光景を頭に浮かべてしまい、エリーズはたまらず持っているクッションに顔を埋めた。想像でもこれほど苦しくなるのだから、実際に見てしまった日には狂ってしまうかもしれない。
 王侯貴族の婚姻は、両家の利益のために結ばれることがほとんどだ。世継ぎとなる男児が生まれた後、夫婦関係はあくまでも体裁のために存続させ、愛妾あいしょうや愛人を持って恋愛を謳歌する貴族は少なくない。
 しかしエリーズの愛する夫は今までもこれからもヴィオルただ一人だ。数多くの女性たちの中から見すぼらしい身なりの自分を見つけ出し、最高の幸せを与えてくれた彼と共に生きていたい。自分だけをずっと愛していて欲しいと願うのは我儘わがままなのだろうか。
 最後に夫と口づけを交わした日が、うんと遠い昔に感じられる。エリーズは大きなため息を一つつき、ひたすら天井を見つめて馬車が王城に到着するのを待った。

***

 それから更に七日経った。ヴィオルは相変わらず夜中になっても帰ってこない。
 エリーズの心は限界を迎えつつあった。公務の間は穏やかに微笑みを絶やさないよう努めているが、一人になると泣きそうになってしまう。部屋に飾ってあるヴィオルの肖像画も慰めにならない程だ。
 カイラたち女官も心配してエリーズの好物をたくさん用意してくれたり、湯浴みの際には浴槽に薔薇や果実の香料を入れたりしてくれた。近衛のリノンも気を遣い、積極的に城下町に連れ出したり、馬術を覚えて間もないエリーズに付き合って王城の裏手に広がる森の中を馬で散歩してくれる。今日も、自身が夫のローヴァンと共に暮らす王都の屋敷にエリーズを招待してくれた。「お行儀なんて気にしなくていいから」と、大量の菓子が並べられたテーブルを二人で囲む。

「大丈夫だよ、エリーズ」

 沈んだ様子のエリーズに、リノンは明るく声をかける。

「陛下とエリーズの仲良しっぷりはもう国中に広まってるんだよ? 何せ許可なく王妃に触れた男は、誰であろうと処刑台送りにされる、なんて噂が立ってるくらいなんだから。陛下にも何か事情があるんだよ」
「そうね、きっとそうだわ……」

 リノンはエリーズを危険から守るためにいるのであって、夫との不和に悩みいつまでもめそめそと泣くのを世話させるのはあまりにも酷だ。頭では分かっていても、エリーズはなかなか前向きになれなかった。
 浮かない顔のまま菓子に手をつけないエリーズを見て、さすがのリノンもすぐには次の言葉を見つけられないようだった。やがてふっと息をついた。

「……本当に陛下のことが好きなんだね。当たり前か。だから結婚したんだもんね」
「……そう、好きなの」

 カップに注がれた茶から立ち昇る湯気を見ながら、エリーズは呟くように言った。

「信じていたいの。好きだから。ヴィオルのことを嫌いになんてなりたくない……」

 リノンの言う通り、エリーズには言えない訳があるのかもしれない。ヴィオルもエリーズのことを愛していると信じたいのに、それができなくなりつつある自分の心がエリーズは嫌だった。
 今のままでは駄目だ。いつ来るか分からない夜明けを待っているだけでは、大切なものを失ってしまう。

「ごめんなさいリノン、もう泣くのは止めるわ。夫婦なんですもの、きちんと向き合わないといけないのよ」

 何がなんでもヴィオルと腰を据えて話し合う機会を作る――そう決心したエリーズを見て、リノンは頷いた。

「そうだね……応援するよ」
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