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七話 屋根裏部屋に別れを
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荷物をまとめるようにと言われたものの、エリーズが寝起きする屋根裏部屋に荷物と呼べるようなものは何もなかった。使用人時代に来ていた服はどれも、王城で着るには相応しくない。母の形見のドレスは女官のカイラに託しているし、お守りの首飾りも綺麗な箱に入った状態で王城の部屋に置いてある。
手伝いの従者たちは大きな鞄を用意してくれていたが、エリーズが持ち出すことに決めたのは心の拠り所にしていたお気に入りの絵本を一冊だけだった。
従者たちは心配になったのか、本当にこれだけでよろしいのですかと何度もエリーズに問うてきた。エリーズは大丈夫ですと答え本を入れた鞄を自分で持とうとしたが、従者がこれは我々の仕事だと譲らなかった。責任をもってお部屋までお運びしますと言われたので感謝を伝え、彼らと共に屋敷の外に出る。馬車の前にヴィオルとローヴァンが待っていた。
「お待たせしてごめんなさい」
「大丈夫だよ。僕もついさっき用が終わったところだから」
従者が馬車の扉を開け、エリーズはまたヴィオルと共にそれに乗り込んだ。もうこの屋敷に戻ってくることはないかもしれない。思い出の地に別れを告げるのは少し寂しさもあったが、これから始まる新しい生活への期待の方が強かった。
馬車がゆっくりと王城へ向けて動き出す。行きと同じようにヴィオルは手袋を外してエリーズと手を繋ぎ、エリーズを退屈させないよう様々な話をした。
***
馬車から降りたところでローヴァンと別れ、王城内に戻ってきたエリーズとヴィオルのもとへジギスとカイラが出迎えにやって来た。
「滞りなく終わったよ」
ヴィオルが言い、エリーズの肩を抱き寄せた。
「これで彼女は僕の婚約者だ」
それを見てカイラは穏やかに微笑んだが、ジギスは無表情のままだった。
「では政務にお戻り頂きたく」
「もう少しエリーズと一緒にいさせてくれてもいいだろう?」
不満をありありと浮かべてヴィオルは抗議したが、ジギスが放つ無言の圧力に負け小さく息をついた。
「……分かったよ」
でもその前に、と彼はエリーズの方を向いた。
「君は好きなように過ごして。今夜またゆっくり話をしよう」
「ええ。あの、ご政務頑張ってね」
「ああ……それすごく良い。ありがとう、頑張るよ」
うっとりしながらヴィオルが言い、エリーズの頬に口づけをした。他人の目がある中で行われた恋人同士の触れあいにエリーズの頬が真っ赤に染まる。
「可愛いエリーズ、また後で」
とどめとばかりにエリーズの耳元で囁いたあと、彼はジギスを連れて城の廊下を歩いていった。
残されたエリーズの元に、カイラが歩み寄る。
「エリーズ様、お疲れでしょう。お茶の用意を致しますのでこちらへどうぞ」
「は、はい……」
これから日常的に今のような甘い触れあいが行われるのだとしたら、そのうち頭から湯気が出てしまうかもしれない――頭をぼうっとさせたまま、エリーズはカイラについて行った。
***
「……ガルガンド伯爵代理は洗いざらい吐いたのですか」
執務室へ向かう道すがら、ヴィオルの半歩後ろを歩くジギスが声をかけてくる。
「ああ。僕の睨んだ通りだったよ……昨日、あともう少し僕が遅れていたら間違いなく取り返しのつかないことになっていた」
再びヴィオルの胸にふつふつと怒りが湧いてくる。夜会に集った貴族たちの中で、飾り気のないドレスを纏ったエリーズは何よりも美しい光を放っていた。彼女が身も心もずたずたになり、永遠にその光を失うことになる未来もあったかもしれないと思うと心が狂気に染まりそうだ。
本音を言うならリートベルフ子爵の息子も、ガルガンド伯爵代理とその娘も牢獄へ放り込むか国外追放にしてやりたいところだったが、定められた法を超える重すぎる罰を与えることはできない。私情を押し出せば国王の威信にかかわる。
「馬鹿な貴族は全員根性を叩き直したと思っていたけれど、まだまだ甘かったよ」
「そう簡単なことでもありません。これでも我が国の貴族社会は近隣国と比べてもかなり清廉潔白かと」
ジギスの手厳しいが褒める時は素直に褒めるところに、ヴィオルは信頼を置いている。
「話は変わりますが、エリーズ様への王妃教育は明日より始めさせて頂きます。よろしいですね?」
「あまり詰め込み過ぎないように。厳しくするのは以ての外だ。何事も退屈しのぎ程度に留めて」
今まで苦労をしてきたエリーズに更なる負荷をかけたくはない。しかし、王妃となる以上最低限の教養は必要になる。心苦しいが少しの間だけ耐えてもらうより他ない。
「……教師たちに伝えておきます」
やや間を置いてからジギスは答えた。
***
その夜、夕食と湯浴みを終えたエリーズはあてがわれた部屋のソファに腰かけ、本をぱらぱらとめくっていた。
侍女たちが用意してくれた着替えは、締め付けの少ない薄桃色の夜用ドレスと白い花模様のストールだ。働き者の彼女たちはエリーズの髪を丹念に乾かして櫛を入れ、じきに陛下が訪ねてきますからと言って先ほど部屋を出て行った。
ヴィオルは毎日、夜まで政務をしているのだろうか。エリーズには王の仕事が具体的にどういうものなのかぴんと来なかったが、明日から始まる王妃教育で学んでいくことになるのだろう。そしていずれは彼を手伝う立場になる。
(しっかり頑張らないといけないわね)
何の取り柄もない自分を王妃として迎えてくれるヴィオルに、一日でも早く報いたい。
その時部屋の扉を叩く音がしたので、エリーズはどうぞ、と答えた。そっと扉が開かれ、すらりとした影が揺れる。
「やあ、エリーズ」
現れたヴィオルはマントと手袋こそ外していたものの、昼間と同じ姿をしていた。ほとんど音を立てることなくエリーズの横に腰を下ろす。
「こんな時間までご政務をされていたの?」
エリーズが本を傍らに置いて尋ねると、まあね、と彼は笑った。
「いつものことだよ」
「大変なのね……疲れたでしょう」
「今、君の顔を見たら疲れなんて全部吹き飛んだ」
ヴィオルが懐に手を伸ばし、何かを取り出す。それは今朝、カイラが用意してくれた手荒れに効く薬の入れ物だった。
「これ、手のお薬……?」
「朝と晩にそれぞれ塗った方がよく効くそうだ。僕が塗るから手を出して」
本来なら女官に手伝ってもらうまでもないことを国王にさせるなんて、とエリーズは一瞬ためらったものの、すっかりやる気になっているヴィオルを前に断るのは申し訳なく思ったため大人しく手を彼に差し出した。
彼はカイラがしてくれたように、薬を指ですくってエリーズの手に優しく馴染ませてくれる。ただカイラの時と違うのは、ヴィオルに触れられていると胸がどうしようもなく高鳴ることだ。
薬がしっかりエリーズの手全体に行きわたったところで、ヴィオルは入れ物の蓋を閉めた。
「これでよし、と。辛いだろうけれど治るまでの我慢だからね。朝は手伝えないけれど、夜は僕がするから」
「そんな、毎晩だなんて申し訳ないわ……」
「そもそも、僕は毎晩君の顔を見に来るつもりでいたけれど……嫌かな」
「嫌だなんてまさか。とても嬉しいの」
エリーズが答えると、ヴィオルは楽しそうに微笑んでエリーズの髪を撫でた。
「結婚式はひと月後に決まったよ。本当は明日にでも挙げたいくらいだけれど、そういう訳にもいかなくてね。これで最短なんだ」
国王の結婚式なのだから準備が色々とあって当然だ。エリーズは頷いた。
「今から楽しみだわ」
「僕も待ちきれないよ……エリーズ、明日から大変な思いをさせてしまうかもしれない。僕はずっと君の傍についていてあげることはできないけれど、辛いことや困ったことがあったらいつでも教えて。全部僕が何とかするからね」
彼の優しさが、今までずっと穴の空いたままだったエリーズの心を満たしていく。
「ヴィオル、ありがとう。でもそんなに心配しないで。わたし、これまでも何とかやってきたから。立派な王妃になれるように頑張るわ」
エリーズが笑ってみせると、ヴィオルは切なそうなため息を漏らしてエリーズの顎に手を伸ばし、親指で唇をなぞった。
「キスしてもいい?」
今日、彼から手の甲や頬に口づけはされたが、唇には昨夜からされていない。緊張するが、あの喜びをもう一度味わいたい。
「して、ください……」
エリーズの体が抱き寄せられ、唇が塞がれる。昨夜交わしたものよりも長く、ずっと心地よかった。
ヴィオルが名残惜しそうに唇を離し、エリーズの首筋に顔をすり寄せる。
「お休み。僕のエリーズ、良い夢を」
「おやすみ、なさい」
ぼんやりとした頭のままエリーズは答え、部屋を出て行くヴィオルの背中を切なさをこらえて見送った。
手伝いの従者たちは大きな鞄を用意してくれていたが、エリーズが持ち出すことに決めたのは心の拠り所にしていたお気に入りの絵本を一冊だけだった。
従者たちは心配になったのか、本当にこれだけでよろしいのですかと何度もエリーズに問うてきた。エリーズは大丈夫ですと答え本を入れた鞄を自分で持とうとしたが、従者がこれは我々の仕事だと譲らなかった。責任をもってお部屋までお運びしますと言われたので感謝を伝え、彼らと共に屋敷の外に出る。馬車の前にヴィオルとローヴァンが待っていた。
「お待たせしてごめんなさい」
「大丈夫だよ。僕もついさっき用が終わったところだから」
従者が馬車の扉を開け、エリーズはまたヴィオルと共にそれに乗り込んだ。もうこの屋敷に戻ってくることはないかもしれない。思い出の地に別れを告げるのは少し寂しさもあったが、これから始まる新しい生活への期待の方が強かった。
馬車がゆっくりと王城へ向けて動き出す。行きと同じようにヴィオルは手袋を外してエリーズと手を繋ぎ、エリーズを退屈させないよう様々な話をした。
***
馬車から降りたところでローヴァンと別れ、王城内に戻ってきたエリーズとヴィオルのもとへジギスとカイラが出迎えにやって来た。
「滞りなく終わったよ」
ヴィオルが言い、エリーズの肩を抱き寄せた。
「これで彼女は僕の婚約者だ」
それを見てカイラは穏やかに微笑んだが、ジギスは無表情のままだった。
「では政務にお戻り頂きたく」
「もう少しエリーズと一緒にいさせてくれてもいいだろう?」
不満をありありと浮かべてヴィオルは抗議したが、ジギスが放つ無言の圧力に負け小さく息をついた。
「……分かったよ」
でもその前に、と彼はエリーズの方を向いた。
「君は好きなように過ごして。今夜またゆっくり話をしよう」
「ええ。あの、ご政務頑張ってね」
「ああ……それすごく良い。ありがとう、頑張るよ」
うっとりしながらヴィオルが言い、エリーズの頬に口づけをした。他人の目がある中で行われた恋人同士の触れあいにエリーズの頬が真っ赤に染まる。
「可愛いエリーズ、また後で」
とどめとばかりにエリーズの耳元で囁いたあと、彼はジギスを連れて城の廊下を歩いていった。
残されたエリーズの元に、カイラが歩み寄る。
「エリーズ様、お疲れでしょう。お茶の用意を致しますのでこちらへどうぞ」
「は、はい……」
これから日常的に今のような甘い触れあいが行われるのだとしたら、そのうち頭から湯気が出てしまうかもしれない――頭をぼうっとさせたまま、エリーズはカイラについて行った。
***
「……ガルガンド伯爵代理は洗いざらい吐いたのですか」
執務室へ向かう道すがら、ヴィオルの半歩後ろを歩くジギスが声をかけてくる。
「ああ。僕の睨んだ通りだったよ……昨日、あともう少し僕が遅れていたら間違いなく取り返しのつかないことになっていた」
再びヴィオルの胸にふつふつと怒りが湧いてくる。夜会に集った貴族たちの中で、飾り気のないドレスを纏ったエリーズは何よりも美しい光を放っていた。彼女が身も心もずたずたになり、永遠にその光を失うことになる未来もあったかもしれないと思うと心が狂気に染まりそうだ。
本音を言うならリートベルフ子爵の息子も、ガルガンド伯爵代理とその娘も牢獄へ放り込むか国外追放にしてやりたいところだったが、定められた法を超える重すぎる罰を与えることはできない。私情を押し出せば国王の威信にかかわる。
「馬鹿な貴族は全員根性を叩き直したと思っていたけれど、まだまだ甘かったよ」
「そう簡単なことでもありません。これでも我が国の貴族社会は近隣国と比べてもかなり清廉潔白かと」
ジギスの手厳しいが褒める時は素直に褒めるところに、ヴィオルは信頼を置いている。
「話は変わりますが、エリーズ様への王妃教育は明日より始めさせて頂きます。よろしいですね?」
「あまり詰め込み過ぎないように。厳しくするのは以ての外だ。何事も退屈しのぎ程度に留めて」
今まで苦労をしてきたエリーズに更なる負荷をかけたくはない。しかし、王妃となる以上最低限の教養は必要になる。心苦しいが少しの間だけ耐えてもらうより他ない。
「……教師たちに伝えておきます」
やや間を置いてからジギスは答えた。
***
その夜、夕食と湯浴みを終えたエリーズはあてがわれた部屋のソファに腰かけ、本をぱらぱらとめくっていた。
侍女たちが用意してくれた着替えは、締め付けの少ない薄桃色の夜用ドレスと白い花模様のストールだ。働き者の彼女たちはエリーズの髪を丹念に乾かして櫛を入れ、じきに陛下が訪ねてきますからと言って先ほど部屋を出て行った。
ヴィオルは毎日、夜まで政務をしているのだろうか。エリーズには王の仕事が具体的にどういうものなのかぴんと来なかったが、明日から始まる王妃教育で学んでいくことになるのだろう。そしていずれは彼を手伝う立場になる。
(しっかり頑張らないといけないわね)
何の取り柄もない自分を王妃として迎えてくれるヴィオルに、一日でも早く報いたい。
その時部屋の扉を叩く音がしたので、エリーズはどうぞ、と答えた。そっと扉が開かれ、すらりとした影が揺れる。
「やあ、エリーズ」
現れたヴィオルはマントと手袋こそ外していたものの、昼間と同じ姿をしていた。ほとんど音を立てることなくエリーズの横に腰を下ろす。
「こんな時間までご政務をされていたの?」
エリーズが本を傍らに置いて尋ねると、まあね、と彼は笑った。
「いつものことだよ」
「大変なのね……疲れたでしょう」
「今、君の顔を見たら疲れなんて全部吹き飛んだ」
ヴィオルが懐に手を伸ばし、何かを取り出す。それは今朝、カイラが用意してくれた手荒れに効く薬の入れ物だった。
「これ、手のお薬……?」
「朝と晩にそれぞれ塗った方がよく効くそうだ。僕が塗るから手を出して」
本来なら女官に手伝ってもらうまでもないことを国王にさせるなんて、とエリーズは一瞬ためらったものの、すっかりやる気になっているヴィオルを前に断るのは申し訳なく思ったため大人しく手を彼に差し出した。
彼はカイラがしてくれたように、薬を指ですくってエリーズの手に優しく馴染ませてくれる。ただカイラの時と違うのは、ヴィオルに触れられていると胸がどうしようもなく高鳴ることだ。
薬がしっかりエリーズの手全体に行きわたったところで、ヴィオルは入れ物の蓋を閉めた。
「これでよし、と。辛いだろうけれど治るまでの我慢だからね。朝は手伝えないけれど、夜は僕がするから」
「そんな、毎晩だなんて申し訳ないわ……」
「そもそも、僕は毎晩君の顔を見に来るつもりでいたけれど……嫌かな」
「嫌だなんてまさか。とても嬉しいの」
エリーズが答えると、ヴィオルは楽しそうに微笑んでエリーズの髪を撫でた。
「結婚式はひと月後に決まったよ。本当は明日にでも挙げたいくらいだけれど、そういう訳にもいかなくてね。これで最短なんだ」
国王の結婚式なのだから準備が色々とあって当然だ。エリーズは頷いた。
「今から楽しみだわ」
「僕も待ちきれないよ……エリーズ、明日から大変な思いをさせてしまうかもしれない。僕はずっと君の傍についていてあげることはできないけれど、辛いことや困ったことがあったらいつでも教えて。全部僕が何とかするからね」
彼の優しさが、今までずっと穴の空いたままだったエリーズの心を満たしていく。
「ヴィオル、ありがとう。でもそんなに心配しないで。わたし、これまでも何とかやってきたから。立派な王妃になれるように頑張るわ」
エリーズが笑ってみせると、ヴィオルは切なそうなため息を漏らしてエリーズの顎に手を伸ばし、親指で唇をなぞった。
「キスしてもいい?」
今日、彼から手の甲や頬に口づけはされたが、唇には昨夜からされていない。緊張するが、あの喜びをもう一度味わいたい。
「して、ください……」
エリーズの体が抱き寄せられ、唇が塞がれる。昨夜交わしたものよりも長く、ずっと心地よかった。
ヴィオルが名残惜しそうに唇を離し、エリーズの首筋に顔をすり寄せる。
「お休み。僕のエリーズ、良い夢を」
「おやすみ、なさい」
ぼんやりとした頭のままエリーズは答え、部屋を出て行くヴィオルの背中を切なさをこらえて見送った。
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