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番外編2 わたしだけの王様
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その日、朝からエレアスの体は倦怠感に包まれていた。食欲もなく、ものを飲み込むと少しだが喉が痛む。朝食を食べきることができず夫のキルシェから心配されたが、少し疲れているだけよと言っていつもの通り、王の務めに送り出した。
それから大人しくしていたものの、時間が経つにつれ悪寒と共にだるさは増してきた。昼前になり、とうとう座っているのも辛くなってしまったため、世話係を呼ばざるをえなくなってしまった。
「申し訳ございません、もっと早くに気づくべきでしたわ」
ゆったりした寝衣への着替えを手伝いながら、世話係が言った。エレアスが王の妻として城に迎えられた時からついてくれている、仕事慣れした少し年上の女性だ。
「いいえ、気にしないで。わたしもまさかこんなにひどくなるとは思っていなかったから」
「すぐにお医者様をお呼びしますわね」
寝台に横になったエレアスの上に丁寧に上掛けを被せ、手早くその場を片付けて世話係が部屋を出ていく。
そう長く待たない内に、医者のクロモドが小さな鞄を携え、エレアスのもとにやって来た。
「ごめんなさい、クロモドさん、こんなに早く来て頂けるなんて……」
「ちょうど暇にしとったところだ。しかし、珍しいこともあるものだな?」
「ええ。本当に」
気分が優れない日はたまにあるものの、寝込むほど体調を崩すことは滅多にない。
エレアスはもともと丈夫なほうで、守護者だった時の名残で基本的には規則正しい生活をしているので病とはあまり縁がなかった。
「環境が一気に変わったからな。知らず知らずのうちに疲れが溜まっていたんだろう。少し起き上がれるか?」
クロモドに言われ、エレアスは上体をゆっくり起こした。クロモドが手を伸ばし、耳の下あたりに押すように触れる。額に手を置いて、喉の奥を覗き、小さく頷いた。
「心配するな。ただの風邪だ。安静にしていれば明日にも熱は引くさ」
「ありがとうございます。安心しました」
「できるだけ水分はとるようにな。食事は慣れた世話係なら食べやすいものを用意してくれるだろう。それから」
その時、部屋の扉がやや荒々しく叩かれ、エレアスが返事をする前に勢いよく開かれた。
現れたのはキルシェだった。大股で寝台に歩み寄り、床に膝をついてエレアスの手を握った。
「大丈夫か!? 悪かったエレアス。俺が朝のうちに気づいて、無理やりにでも寝かせておけば良かったんだ。お前に何かあったら俺は……」
早口でまくし立てる王の姿を見て、クロモドがため息をついた。
「落ち着かんか、キルシェ……まったく、お前は昔から何も変わっとらんな」
「爺さん、エレアスの具合はどうなんだ!?」
「ただの風邪ですって。寝ていれば治るそうよ」
クロモドの代わりにエレアスが答えると、キルシェは安堵のため息とともに、頭を垂れた。
「良かった……お前が寝込んだって聞いた時には目の前が真っ暗になっちまって……」
「もう……大げさね」
その様子を見て、クロモドは苦笑した。
「……さて、薬は世話係に渡しておくからな。何か気になることはあるか?」
「大丈夫です。本当にありがとうございました」
「よし、何かあったらまた呼んでくれ。わしはこれで失礼するよ……キルシェ、エレアスについていてやるのはいいがあまり騒ぎ立てるんじゃないぞ」
「分かってるよ。ありがとな、爺さん」
クロモドが部屋を出て行くのを見送り、エレアスは再び横になった。診察を受けたおかげで、気持ちは軽くなった。
キルシェはすぐに立ち去ろうとせず、膝立ちのままエレアスをじっと見つめている。
「キルシェ」
「すまなかった。本当に」
「あなたが謝ってどうするの。わたしだって完璧ではないのだから気にしては駄目よ」
自分が大怪我をした時ですら、キルシェはここまで慌てふためいていなかった。心配そうに、再びエレアスの手を握りしめる。温かい手だった。
「……ふふ、さっきのクロモドさんの言葉で思い出したわ」
「何をだ?」
「まだわたしが守護者になるためにここを出る前……小さかった頃、こんな風に熱を出したことがあったのよ」
「そうだったか? 覚えてないな……」
「あなた、寝込むわたしを見て大泣きしたの。エレアスが死んじゃう、そんなの嫌だ、って」
その時の症状も命にかかわる程ではなかったのだが、幼いキルシェは大層取り乱し、エレアスにすがってわんわん泣き喚いた。彼の両親もほとほと困り果てていた時に、治療にやって来たクロモドに、「お前がいつまでも泣いていたら、エレアスはずっと治らない」と言われ、必死に涙を止めていた。
それを聞いて、キルシェは決まり悪そうな顔をした。
「……ガキの頃から何も成長してないってか」
「そんなこと思ってないわ。変わっていなくて良かった……何だか、あなたが遠くに行ってしまったような気がしていたから」
弱っていたためだろうか、思わず出てしまった言葉を聞き、キルシェの顔が曇った。
「お前……」
「ごめんなさい、忘れて。ただのわがままよ」
キルシェが島の王になり、エレアスと結ばれてはや半年。慣れないことも多々あるようだが、彼は心配になる程に懸命だ。執務に加え、戦士たちに混じって剣の鍛練も行い、空き時間には島を見回って困っている民がいないか確認もする。それにはエレアスも同行するが、島の人々に囲まれる彼を誇らしく思うと同時に、少しだけ寂しさも感じてしまっていた。
いつでもエレアスのことを優先することはできない、結婚の際、彼から言われたことだ。それには納得している。その上で彼を愛し、一生寄り添うと決めた。夫のことを悪く言う者がいれば、きっと誰であろうと食ってかかってしまう。
本来なら、キルシェにはエレアスに付き添う暇などないはずだ。それなのに、今こうして彼が傍にいて、独り占めできることを嬉しく思ってしまう自分がいた。
「わたしは、王様として皆に慕われているあなたを誇りに思うわ。それは本当よ」
「……エレアス」
キルシェが、エレアスの名を静かに呼んだ。
「これだけは忘れないでくれ。傍にいられない時でも、俺の心はお前と一緒にいる。俺の心はお前のものだ」
いつになく真剣なその声には、聞き入ってしまう不思議な魔力があった。
「俺が一番怖いのは、死ぬことでも、王として認められないことでもない。お前がいなくなることなんだ」
「キルシェ……」
「エレアス、愛してる。お前が分かってくれるまで、不安が消えるまで何度でも伝える」
いつも笑顔でいるキルシェの、これほどまでに真摯な表情を見たことがある者は、果たして何人いるだろうか。
エレアスは、ふっと微笑んだ。
「分かっているわ。全部分かってる。どんな時でもあなたを、あなたの愛を信じてる」
昔からじっとしているのが嫌いで、感情豊かで、少し向こう見ずで――それでいて繊細で、愛情深く、絶対に人を裏切らない。
王であってもなくても、彼の本質は変わらない。その全てが愛おしい。彼の愛を疑う余地なんて、最初からないものだった。
安心したためか、キルシェの温もりに触れていたおかげか、エレアスの目蓋は徐々に重くなってきた。
「ありがとうキルシェ。少し眠るわ。あなたはお仕事に戻って」
「……ああ、そうだな。ゆっくり休め」
ずっと握っていた手を放したものの、キルシェはすぐに動こうとはしなかった。まさかエレアスが寝付くまで横にいるつもりなのかと思った時、彼の顔が近づいてきた。
その意図を察したエレアスは、彼の唇に自分の指をあてた。
「今日は駄目。治ってからにしましょう。あなたにうつったら大変だわ」
「俺の丈夫さを甘く見てもらっちゃ困るぜ」
エレアスの指から口を放してキルシェが抗議するが、エレアスも譲らなかった。
「それでも駄目。治ったら、今日の分もいっぱいしましょう、ね?」
「……約束だぞ」
代わりに、と言って、キルシェは妻の手のひらに口づけを落とした。
「元気が出るまじないだ。セシェルがよくアルにやってる」
「ふふ、ありがとう。よく効きそうね。頑張って治すわ」
「ああ。何かあったら、すぐに呼べよ」
最後にエレアスの髪を優しく撫でて、夫は再び王の務めへと戻っていく。
彼の姿を見送ってまもなく、エレアスは眠りに落ちて行った。
***
処方された薬と休息のおかげで、エレアスの体調は翌日にはすっかり回復した。
誰よりも安堵し喜んだのはキルシェだ。ぎゅう、とエレアスの体を抱きしめた。
「……一人で寝るのがこんなに寂しいなんて思わなかった」
風邪がうつらないよう、昨夜は寝室を分けていた。たった一晩のことだが、何年も会っていなかったかのようにキルシェはエレアスをなかなか解放しなかった。
「もう、本当に大げさなんだから……ほら、そろそろ放してちょうだい。もう行く時間でしょう?」
抱きしめられながら手を伸ばし、彼の頭をぽんぽんと撫でるように叩く。大きな子供をあやしているような気分になる。
「……今日ぐらい行かなくてもいいさ。俺の周りは皆優秀だ。それよりお前と一緒にいたい。昨日約束しただろ?」
思わず絆されかけたが、エレアスは何とか理性を取り戻し、キルシェの腕から逃れて彼の目をじっと見た。
「次のお休みはもう少し先よ。今日はちゃんと行きなさい。昨日の埋め合わせは今夜するわ。あと、夕食はあなたの好きなものを出すように頼んであげる」
「……本当だな?」
むすっとした顔で、キルシェが問うてくる。
「ええ。勿論よ」
エレアスは夫の肩に手を伸ばし、その唇に口づけた。
「今日も素敵よ。頑張って行ってらっしゃい、わたしの王様」
「……まったく、お前には敵わねえな」
首の後ろをかき、困ったように言うものの、表情からは嬉しさが隠しきれていない。
「じゃ、行ってくるか。お前も無理するなよ」
お返しに、と口づけがエレアスの額に降って来る。さきほどまでの駄々のこねようが嘘のように、部屋を出ていくキルシェの姿は立派な王の威厳をまとっていた。
次の休みには、台所を借りて軽食と菓子でも作って、二人きりで海辺で過ごすのはどうだろうか。
エレアスの心の片隅に陣取っていた少しのわだかまりは、すっかり消え去っていた。
それから大人しくしていたものの、時間が経つにつれ悪寒と共にだるさは増してきた。昼前になり、とうとう座っているのも辛くなってしまったため、世話係を呼ばざるをえなくなってしまった。
「申し訳ございません、もっと早くに気づくべきでしたわ」
ゆったりした寝衣への着替えを手伝いながら、世話係が言った。エレアスが王の妻として城に迎えられた時からついてくれている、仕事慣れした少し年上の女性だ。
「いいえ、気にしないで。わたしもまさかこんなにひどくなるとは思っていなかったから」
「すぐにお医者様をお呼びしますわね」
寝台に横になったエレアスの上に丁寧に上掛けを被せ、手早くその場を片付けて世話係が部屋を出ていく。
そう長く待たない内に、医者のクロモドが小さな鞄を携え、エレアスのもとにやって来た。
「ごめんなさい、クロモドさん、こんなに早く来て頂けるなんて……」
「ちょうど暇にしとったところだ。しかし、珍しいこともあるものだな?」
「ええ。本当に」
気分が優れない日はたまにあるものの、寝込むほど体調を崩すことは滅多にない。
エレアスはもともと丈夫なほうで、守護者だった時の名残で基本的には規則正しい生活をしているので病とはあまり縁がなかった。
「環境が一気に変わったからな。知らず知らずのうちに疲れが溜まっていたんだろう。少し起き上がれるか?」
クロモドに言われ、エレアスは上体をゆっくり起こした。クロモドが手を伸ばし、耳の下あたりに押すように触れる。額に手を置いて、喉の奥を覗き、小さく頷いた。
「心配するな。ただの風邪だ。安静にしていれば明日にも熱は引くさ」
「ありがとうございます。安心しました」
「できるだけ水分はとるようにな。食事は慣れた世話係なら食べやすいものを用意してくれるだろう。それから」
その時、部屋の扉がやや荒々しく叩かれ、エレアスが返事をする前に勢いよく開かれた。
現れたのはキルシェだった。大股で寝台に歩み寄り、床に膝をついてエレアスの手を握った。
「大丈夫か!? 悪かったエレアス。俺が朝のうちに気づいて、無理やりにでも寝かせておけば良かったんだ。お前に何かあったら俺は……」
早口でまくし立てる王の姿を見て、クロモドがため息をついた。
「落ち着かんか、キルシェ……まったく、お前は昔から何も変わっとらんな」
「爺さん、エレアスの具合はどうなんだ!?」
「ただの風邪ですって。寝ていれば治るそうよ」
クロモドの代わりにエレアスが答えると、キルシェは安堵のため息とともに、頭を垂れた。
「良かった……お前が寝込んだって聞いた時には目の前が真っ暗になっちまって……」
「もう……大げさね」
その様子を見て、クロモドは苦笑した。
「……さて、薬は世話係に渡しておくからな。何か気になることはあるか?」
「大丈夫です。本当にありがとうございました」
「よし、何かあったらまた呼んでくれ。わしはこれで失礼するよ……キルシェ、エレアスについていてやるのはいいがあまり騒ぎ立てるんじゃないぞ」
「分かってるよ。ありがとな、爺さん」
クロモドが部屋を出て行くのを見送り、エレアスは再び横になった。診察を受けたおかげで、気持ちは軽くなった。
キルシェはすぐに立ち去ろうとせず、膝立ちのままエレアスをじっと見つめている。
「キルシェ」
「すまなかった。本当に」
「あなたが謝ってどうするの。わたしだって完璧ではないのだから気にしては駄目よ」
自分が大怪我をした時ですら、キルシェはここまで慌てふためいていなかった。心配そうに、再びエレアスの手を握りしめる。温かい手だった。
「……ふふ、さっきのクロモドさんの言葉で思い出したわ」
「何をだ?」
「まだわたしが守護者になるためにここを出る前……小さかった頃、こんな風に熱を出したことがあったのよ」
「そうだったか? 覚えてないな……」
「あなた、寝込むわたしを見て大泣きしたの。エレアスが死んじゃう、そんなの嫌だ、って」
その時の症状も命にかかわる程ではなかったのだが、幼いキルシェは大層取り乱し、エレアスにすがってわんわん泣き喚いた。彼の両親もほとほと困り果てていた時に、治療にやって来たクロモドに、「お前がいつまでも泣いていたら、エレアスはずっと治らない」と言われ、必死に涙を止めていた。
それを聞いて、キルシェは決まり悪そうな顔をした。
「……ガキの頃から何も成長してないってか」
「そんなこと思ってないわ。変わっていなくて良かった……何だか、あなたが遠くに行ってしまったような気がしていたから」
弱っていたためだろうか、思わず出てしまった言葉を聞き、キルシェの顔が曇った。
「お前……」
「ごめんなさい、忘れて。ただのわがままよ」
キルシェが島の王になり、エレアスと結ばれてはや半年。慣れないことも多々あるようだが、彼は心配になる程に懸命だ。執務に加え、戦士たちに混じって剣の鍛練も行い、空き時間には島を見回って困っている民がいないか確認もする。それにはエレアスも同行するが、島の人々に囲まれる彼を誇らしく思うと同時に、少しだけ寂しさも感じてしまっていた。
いつでもエレアスのことを優先することはできない、結婚の際、彼から言われたことだ。それには納得している。その上で彼を愛し、一生寄り添うと決めた。夫のことを悪く言う者がいれば、きっと誰であろうと食ってかかってしまう。
本来なら、キルシェにはエレアスに付き添う暇などないはずだ。それなのに、今こうして彼が傍にいて、独り占めできることを嬉しく思ってしまう自分がいた。
「わたしは、王様として皆に慕われているあなたを誇りに思うわ。それは本当よ」
「……エレアス」
キルシェが、エレアスの名を静かに呼んだ。
「これだけは忘れないでくれ。傍にいられない時でも、俺の心はお前と一緒にいる。俺の心はお前のものだ」
いつになく真剣なその声には、聞き入ってしまう不思議な魔力があった。
「俺が一番怖いのは、死ぬことでも、王として認められないことでもない。お前がいなくなることなんだ」
「キルシェ……」
「エレアス、愛してる。お前が分かってくれるまで、不安が消えるまで何度でも伝える」
いつも笑顔でいるキルシェの、これほどまでに真摯な表情を見たことがある者は、果たして何人いるだろうか。
エレアスは、ふっと微笑んだ。
「分かっているわ。全部分かってる。どんな時でもあなたを、あなたの愛を信じてる」
昔からじっとしているのが嫌いで、感情豊かで、少し向こう見ずで――それでいて繊細で、愛情深く、絶対に人を裏切らない。
王であってもなくても、彼の本質は変わらない。その全てが愛おしい。彼の愛を疑う余地なんて、最初からないものだった。
安心したためか、キルシェの温もりに触れていたおかげか、エレアスの目蓋は徐々に重くなってきた。
「ありがとうキルシェ。少し眠るわ。あなたはお仕事に戻って」
「……ああ、そうだな。ゆっくり休め」
ずっと握っていた手を放したものの、キルシェはすぐに動こうとはしなかった。まさかエレアスが寝付くまで横にいるつもりなのかと思った時、彼の顔が近づいてきた。
その意図を察したエレアスは、彼の唇に自分の指をあてた。
「今日は駄目。治ってからにしましょう。あなたにうつったら大変だわ」
「俺の丈夫さを甘く見てもらっちゃ困るぜ」
エレアスの指から口を放してキルシェが抗議するが、エレアスも譲らなかった。
「それでも駄目。治ったら、今日の分もいっぱいしましょう、ね?」
「……約束だぞ」
代わりに、と言って、キルシェは妻の手のひらに口づけを落とした。
「元気が出るまじないだ。セシェルがよくアルにやってる」
「ふふ、ありがとう。よく効きそうね。頑張って治すわ」
「ああ。何かあったら、すぐに呼べよ」
最後にエレアスの髪を優しく撫でて、夫は再び王の務めへと戻っていく。
彼の姿を見送ってまもなく、エレアスは眠りに落ちて行った。
***
処方された薬と休息のおかげで、エレアスの体調は翌日にはすっかり回復した。
誰よりも安堵し喜んだのはキルシェだ。ぎゅう、とエレアスの体を抱きしめた。
「……一人で寝るのがこんなに寂しいなんて思わなかった」
風邪がうつらないよう、昨夜は寝室を分けていた。たった一晩のことだが、何年も会っていなかったかのようにキルシェはエレアスをなかなか解放しなかった。
「もう、本当に大げさなんだから……ほら、そろそろ放してちょうだい。もう行く時間でしょう?」
抱きしめられながら手を伸ばし、彼の頭をぽんぽんと撫でるように叩く。大きな子供をあやしているような気分になる。
「……今日ぐらい行かなくてもいいさ。俺の周りは皆優秀だ。それよりお前と一緒にいたい。昨日約束しただろ?」
思わず絆されかけたが、エレアスは何とか理性を取り戻し、キルシェの腕から逃れて彼の目をじっと見た。
「次のお休みはもう少し先よ。今日はちゃんと行きなさい。昨日の埋め合わせは今夜するわ。あと、夕食はあなたの好きなものを出すように頼んであげる」
「……本当だな?」
むすっとした顔で、キルシェが問うてくる。
「ええ。勿論よ」
エレアスは夫の肩に手を伸ばし、その唇に口づけた。
「今日も素敵よ。頑張って行ってらっしゃい、わたしの王様」
「……まったく、お前には敵わねえな」
首の後ろをかき、困ったように言うものの、表情からは嬉しさが隠しきれていない。
「じゃ、行ってくるか。お前も無理するなよ」
お返しに、と口づけがエレアスの額に降って来る。さきほどまでの駄々のこねようが嘘のように、部屋を出ていくキルシェの姿は立派な王の威厳をまとっていた。
次の休みには、台所を借りて軽食と菓子でも作って、二人きりで海辺で過ごすのはどうだろうか。
エレアスの心の片隅に陣取っていた少しのわだかまりは、すっかり消え去っていた。
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