翼の島の勇者たち

花乃 なたね

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番外編 内気な射手と堅物侍女

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1.
 ティーナは仕事仲間のピュリーと共に、いつも使う城内の台所の掃除をしていた。
 調理台や流しを雑巾で磨きながら、ピュリーは機嫌よく鼻歌を歌っている。

「ピュリー、なんだか最近楽しそうだね」

 普段から笑顔を絶やさないピュリーだが、ここのところ輪をかけて気分が弾んでいるようだ。

「ふふふーん、まあね」
「何かいいことでもあったの?」
「ううん。そういうわけじゃないけど……なんていうか、幸せ!っていう空気って感じ」
「うん?」

 ピュリーの言いたいことが分からず、ティーナは首を傾げた。

「夫婦なんだから当たり前なんだけど、キルシェとエレアス様ってすっごく仲良しじゃない? 二人でいるときの空気があまーくて、やわらかーい感じで、見てるこっちも恥ずかしくなるけど嬉しくなっちゃうみたいな」
「ああ、確かにそうだね」

 島の王になったキルシェは、前に比べると忙しい日々を送っている。拘束されることが苦手な彼には辛い、机に向かっての執務もこなさなければならず、こっそり逃げ出しては側近のディオネスに叱られることも度々のようだ。それでもやるべきことはやり、民からは愛されている。
 エレアスはキルシェの妻として、時にはディオネスと共に厳しく接するが、同時に深い愛をもって支えとなっている。

「エレアス様って落ち着いた大人の女性って感じだけど、キルシェのことを話すときはものすごくきらきらした笑顔になるの! それがもうほんとに可愛くて!」

 雑巾を握りしめたまま、ピュリーは話し続ける。

「あと、セシェルとアルフィオン君も! 今までアルフィオン君っていつも冷静で隙がないなぁって思ってたんだけど、セシェルのことになると顔を真っ赤にしたりして、結構可愛いところがあるんだよね」

 翼を得て、立派に島の一員となったアルフィオンは、戦士として生きる道を退き、今はディオネスの下で内政に関わることを学んでいる。いずれは、優秀なキルシェの右腕となることだろう。
 あまり感情を表に出さないのは相変わらずだが、アルフィオンの雰囲気はずいぶんと丸くなった。時々、ティーナも彼と他愛ない話をして楽しむことがある。

「セシェル、前よりも顔色が良くなって元気になってくれたし。やっぱり恋の力って偉大だよねぇ」

 セシェルは初恋を実らせ、アルフィオンと結婚の約束をしている。もちろんキルシェの公認で、18歳になり成人として認められたら、すぐに婚礼の儀を交わすつもりでいるようだ。その日を夢に見て、少しでも体を強くしようとセシェルは頑張っている。

「セシェルの結婚式、わたしも楽しみだな」

 花嫁衣裳をまとったセシェルは、きっととても綺麗だろう。
 ティーナが言うと、ピュリーが大きなため息をついた。

「あぁー、わたしも素敵な恋人が欲しいよぉ。お嫁さんになりたーい」
「ピュリーならすぐに素敵な人が見つかるよ」
「おぉー? ティーナちゃんは余裕ですなぁ。そうかぁ、そうだよねぇー」

 ピュリーが意味ありげな微笑を浮かべ、ティーナの方へじりじりと距離を詰めてくる。

「え、ど、どういうこと?」
「お願い教えて、誰にも言わないから! ラッシュ君とは最近どうなの、良い感じなの?」
「どうって……別に喧嘩もしてないし、いい友達だよ?」

 ラッシュは今も変わらず、立派な戦士になることを目標に毎日の努力を欠いていない。休憩の時間には一緒に出掛けたり、ティーナが手料理を振舞ったりする関係を続けている。
 ティーナはいたって普通の友達という感覚でいるのだが、なぜか周りがラッシュとの仲について詮索せんさくしてくることが増えてきており、不思議に思っていた。

「ティーナ、君って子は……」
「ピュリー、さっきから何を言ってるのか分からないんだけど……」

 戸惑うティーナのもとに、思わぬ助け船が現れた。

「……あなたたち、何をしているの?」

 台所の入り口に、アルテナが立っていた。先ほどまで別の場所の掃除を担当していたが、終わらせて戻ってきたようだ。

「ピュリー、あなたはまた口ばかり動かしていたんでしょう」
「もうほとんど終わってます! ね、ティーナ」
「う、うん」

 アルテナはそれ以上は何も言わず、入り口に置いてあった掃除道具を手にとった。台所の方も一気に片付ける気らしい。
 しかし、ピュリーの方はまだ話したりないようだった。

「わたし、ずっと気になってたんですけど、アルテナさんって好きな人とかいないんですか?」

 アルテナは眉間にしわを寄せてピュリーの方を見ただけで、すぐに仕事に戻ってしまった。
 ティーナもアルテナとはそれなりの期間を過ごしてきたが、そういった話はまったく聞いたことがない。彼女が休日に何をしているのかすら知らないくらいだ。

「こっそり教えてくださいよー。わたしたち口は堅いですから」
「くだらないお喋りはもうやめなさい。余計な期待はするだけ無駄よ。……わたし、男に好かれる女じゃないし」

 手を動かしながらアルテナはそう答えた。

「えー、そうかなぁ。アルテナさん美人でしっかり者だしお料理も上手だし、すぐにでもお嫁さんになれそうですよ? ティーナもそう思うよね?」

 ティーナもうん、と頷いた。最初の方こそアルテナは取っつきにくい印象だったが、接してみると面倒見が良く、気が利く女性だと気づく。笑うともっと魅力的に見えそうだが、なかなか笑顔を見せてくれないのは勿体ないとティーナは思っていた。

「あー、とにかく恋がしたいなぁ。キルシェとエレアス様みたいに小さい頃からずっと仲良しで……っていうのもいいけど、ある日突然かっこいい人が現れて、『君が好きだ』なんて言われて始まる恋とか! きゃー!」
「そ、それはどうだろう……」

 その場で小さく跳ねて一人で盛り上がるピュリーに、とうとうアルテナも痺れを切らしたようだ。

「ピュリー、いい加減にしなさい」

 いつもより低めの声に、ピュリーもさすがにまずいと思ったらしい。さっと仕事に戻り、それ以上は何も言わなかった。

***

 カップの中に茶が注がれ、白い湯気が立ち昇る。
 魔術師ルイゼルはそのカップを、向かいに座る友人の前に置いた。

「さぁどうぞ」

 ありがとうございます、と丁寧に礼を述べたのは、この島で唯一、弓術を主として戦う戦士の青年、ワートだ。

「すみません、わざわざ部屋に招いてもらってお茶まで……」

 申し訳なさそうに体を縮めるワートに、ルイゼルは笑いかけた。

「構いませんよ。……しかし、ワートがわたしに相談事とは珍しいこともあるものですね」

 つい先ほどのことだ。城の近くで魔術の修練をしていたルイゼルのもとに、相談に乗って欲しいことがあるとワートがやって来た。
 いつになく神妙な様子だったので、立ち話も何だからとルイゼルは自室に彼を招待した。

「ルイゼルさんならきっと、いい助言をくれるかと思いまして……」
「おや、随分と期待されてしまっていますね。わたしに答えられることなら何なりと」
「あ、あの、実はですね……」

 一瞬の間の後、ワートが小さく息を吸い込み、切り出した。

「僕には、好きな人がいるんです」
「ほう?」
「でも僕、こういったことには全く不慣れで……どうやってその人とお近づきになればいいかとかまったく分からないんです。なので、その相談に……」

 まさか恋愛ごとの相談をされるとはルイゼルも予想外だった。

「なるほど、そういうことですか。とはいえわたしもライラ一筋ですから、あまりいい助言ができるかは分かりませんが……」

 装身具職人のライラとルイゼルは、近々婚礼の儀を交わす予定だ。その際につける首飾りを自分で作ると言って、彼女は今、納得のいくものをせっせとこしらえている。

「できる限りのことをしましょう。ワート、その意中の女性とは知り合ってどのくらい経つのですか?」
「え、えーと……」

 ワートは少し黙ったのち、小さくため息をついた。

「実は……まだ話したことがないんです」
「……はい?」

 大抵のことには動じない自信があったルイゼルも、さすがに自分の耳を疑った。

「……つまり、一目惚れということですか」

 ルイゼルが言うと、ワートは恥ずかしそうにこくんと頷いた。

「お相手の名前も分からないのですか? 何をしている方とかは?」
「あ、それは分かります!」
「わたしの知っている方でしょうか? 差支えなければ名前だけでも教えて頂ければありがたいのですが」
「……アルテナさんという人です。知っていますか?」

 その名前をルイゼルは知っていた。アルテナはセシェルの世話係の一人だ。
 無論、ルイゼルにとって一番美しいのはライラだが、客観的に見て器量の良い女性には違いない。とはいうものの、懸念はいくつかある。

「知ってはいますが……あまり口数の多い方ではないですからね。わたしも数える程しか話をしたことがありません。申し訳ありませんが、何がお好きかなどはわたしも分からないですね……」

 アルテナの仕事ぶりはルイゼルも噂で聞くほどのもので評判は厚いが、彼女自身の話についてはほとんど耳に入ってこない。
 既婚だということはないように思われるが、恋人の有無はルイゼルも知らなかった。

「以前、ティーナさんに彼女のことを色々聞いてみようと思ったのですが……どうしてもしり込みしてしまってその場は終わったんです」

 でも、とワートは続けた。

「アルテナさんも年頃の女性ですし、いつどこから声がかかるか分かりません。ただあの人を見ているだけで終わらせてしまいたくないんです」

 ワートの目は真剣だった。普段は控えめな彼が相談までしてくるのだから、決して生半可な想いではないはずだ。

「ワート、兎にも角にも、お相手に貴方の顔を覚えてもらわないことにはどうにもなりません。まずは勇気を出して話しかけて、お友達から始めてもらいましょう」

 微力ながらお手伝いします、とルイゼルが微笑むと、ワートの顔がぱっと輝いた。


2.
 後日、ワートはそわそわしながら、城の裏口近くに立っていた。
 ルイゼルが気を利かせて、ティーナからうまく情報を聞き出してくれた。もうじきアルテナが休憩時間になり、この裏口から出てくるはずとのことだ。
 想い人ではあるものの、ワートがアルテナと直接話すのは初めてのことだ。しばらく前、偶然に見かけた彼女の姿に、ワートは一目で心を奪われてしまった。密かに彼女を想うだけの日々はもう終わりだ。
 焦らず笑顔を忘れないこと、名乗ることと他愛ない世間話から始めること、それらを頭に留め置くようルイゼルから念を押されている。大切なのは第一印象だ。ここでしくじれば、この後の進展が絶望的になる。
 ワートは、肩にかけている自分の弓にそっと触れた。本来なら武器を持ったまま女性に会うのは避けた方がいいのだろうが、これを持っているとわずかながら落ち着く。それに、自分を覚えてもらうという面では効果的かもしれない。
 ほどなくして裏口の扉が開き、一人の女性が現れた。紫色の髪をひとまとめにしたその姿は、ワートが憧れてやまないアルテナその人だ。

「あ、あのっ……!」

 持てる勇気をすべて振り絞り、ワートは彼女を呼び止めた。
 声に気づき、彼女がワートの方を見た。

「ア、アルテナさん、ですよね」
「そうだけど、貴方は……」
「僕の名前は、ワートです」

 声が震えていないか心配だったが、第一の関門は乗り越えた。

「何か用?」

 アルテナは少しいぶかしむ様子で、ワートを見ている。突如、知り合いでもない男性に話しかけられているのだから無理はない。
 しかし、ここでワートが何でもないです、と引き下がってしまったら、せっかく用意された千載一遇の機会を手放すことになる。何でもいい、何かもう少し話さなければ。

「あ、あの……」

 ワートの心臓の鼓動が一気に高鳴る。アルテナは近くで見るとより一層美しい。青い瞳からは知性と意志の強さが感じられる。
 つり目で鼻筋が通っており気が強そうだが、ワートの目にはとても魅力的に映った。

「す、好きですっ!」
「……は?」
「あっ……」

 ――やってしまった。
 焦りと緊張とで思考が滅茶苦茶になり、思わず口をついて出てしまった。彼女に一番伝えたいことには違いないのだが、どう考えても今言うことではない。
 アルテナが露骨に顔をしかめた。

「どういうつもりか知らないけど、たちの悪い冗談はやめて」

 そういってその場を立ち去ろうとする。ワートは咄嗟とっさに手を伸ばし、彼女の手首を掴んだ。このままでは終われない。

「ちょっと、人を呼ぶわよ!?」
「す、すみません! でも僕は本気なんです!」

 ワートは必死で食い下がった。ここまで来たら、下手に取り繕っても意味がない。

「そんなこと言われても、わたしは貴方のことなんて何も……」
「これから知ってください。僕のことなら何でもお話しします。……だからお願いします。お友達から始めてください」
 
 ワートはアルテナの目をしっかり見据えて告げた。
 悪意はないと判断してくれたのか、アルテナの顔から嫌悪や怯えは消えたが、今度はその表情が戸惑いへと変わっていった。
 すみません、ともう一度謝って、ワートはアルテナの手首を離した。

「驚かせてしまってごめんなさい。今日はこれで失礼します。……良ければまた会ってください」

 ワートは頭を下げ、アルテナの返事を待たずに彼女に背を向けて翼を広げ、飛び去った。心臓が体内で激しく暴れている。
 地上のアルテナの様子を見たかったが、その勇気はもう残っていなかった。

***

「……で、告白が先に出てしまったと」

 自室に転がりこんできたワートから事の顛末てんまつを聞き、ルイゼルは眉間を指で押さえた。ワートのあまりにも予想の斜めをいく行動に、さすがのルイゼルも頭を抱えたくなった。
 しかし、目の前のワートは、この世の終わりが来たかのような雰囲気を体から漂わせてテーブルの上に突っ伏している。彼も勇気を振り絞ったのだから、叱る気にはなれなかった。

「どうしてなのか自分でも分からないんです……僕はこれからどうすればいいのか……」

 顔を伏せたまま、ワートがくぐもった声で言った。

「ワート、まだ諦めるのは早いですよ」

 ワートが顔を上げた。
 確かに告白を先にしてしまったのは予想外だが、まだ巻き返す手段ならある。今回は緊張が過ぎてしまったものの、ワートは以前この島で起こった大きな戦いでも、臆することなく最後まで戦い抜いた勇敢な戦士だ。物静かで控えめだが、誠実で優しい。キルシェからも一目置かれている。今からでも彼の良さを知ってもらえれば、十分に勝機はあるとルイゼルは踏んでいた。

「こうなってしまった以上、前に進むしかありません。貴方のことをもっと知ってもらいましょう。共通の話題を見つけることができれば、心の距離は縮まります」

 落ち込んだワートの表情が、だんだんといつもの様子に戻ってきた。

「……そうですよね。まだ嫌われたわけではないと思いますし」
「ところで、ワート」
「はい?」
「実際にアルテナと話をしてみて、どう思いました? 貴方の思った通りの人でしたか?」
「はい、もちろんです!」

 ガタンと音を立てて、ワートが椅子から立ち上がり身を乗り出した。

「遠目から見たアルテナさんも素敵でしたけど、近くで見るともっと綺麗な人で、佇まいも、話し方も、全部が僕の理想なんです!」

 先ほどまでの自信なさげな様子からは考えられないほどの熱弁だ。

「……ふふ、これは見事な恋の病ですね」
「あ、すみません、つい……」

 ルイゼルが笑うと、ワートは顔を真っ赤にして椅子に座りなおした。
 これだけの熱意があれば、きっとアルテナの心も射抜けるはずだ、ルイゼルは確信した。


3.
 今まで話したこともない相手から、突然愛の告白をされた――
 それは昨日のことなのだが、アルテナの思考は未だ虚空をさ迷っていた。
 仕事中は目の前のことにひたすら集中して忘れることができたが、休憩時間になると、ワートと名乗った青年の顔が浮かぶ。
 弓を持つ彼の姿に見覚えはあった。しかし、好意を寄せられているなどと思うはずもない。22年間、そういったこととは無縁の生活を送ってきたのだ。
 一体これからどうすればいいのか。アルテナには皆目見当がつかなかった。気軽に相談できる相手は残念ながらいない。ピュリーやティーナが信用できないわけではないが、アルテナがどうするべきなのか、答えがもらえるかどうか分からない。

「アルテナさん!」

 背後から声をかけられ、それまでぼんやりとしていたアルテナは現実に引き戻された。声の主は昨日知り合ったばかりの、弓を携えた青年だった。

「ワート……」
「覚えていてくれたんですね」

 ワートが嬉しそうに笑い、近づいてきた。昨日のあれは白昼夢だったのではないかとも考えたのだが、どうやら違うようだ。

「何か用……?」
「ええと……もし良ければ、お話できないかなと思いまして……」

 用事があるとか適当なことをでっち上げて、できればその場を去りたかった。しかし、アルテナの顔をじっと見つめるワートの瞳は、親とはぐれ、一匹だけで雨に濡れる獣の子を彷彿ほうふつとさせた。

「少しなら、いいけれど……」

 どうにも断り切れなかった。
 ワートの顔がぱっと輝いた。行きましょう、と彼に言われるがまま、アルテナは城を出た。

***

 ――驚くほど会話が盛り上がらない。
 ワートは心の中で頭を抱えた。もともと自分は饒舌じょうぜつな方ではないし、アルテナも同じのようだ。その上、彼女はこちらに若干の不信感を持っているようで、何か言っても短い返答しか返ってこない。
 それでも、とりあえず一緒にはいてくれるのだからまったく希望がないと思うのはまだ早いはずだ。
 自分という人間を知ってもらうにはどうすればいいか――ワートが出せた答えはひとつだけだった。

「……アルテナさん」

 携帯している弓をぎゅっと握りしめ、ワートは彼女に呼びかけた。女性に見せるものではないかもしれないが、自分が何よりも誇れるものは弓術しかない。

「ぜひ見てほしいものがあるんです。一緒に来てもらえますか?」

 アルテナは戸惑った表情をしつつも、頷いてくれた。

***

 ワートはアルテナを、自分がよく利用する練習場に案内した。

「危ないので、少しだけ離れていてください」

 彼女に声をかけ、弓に矢をつがえる。離れたところに、自作の的が立っている。
 深く呼吸をし、弦を引くと、気持ちが平らになる。その瞬間、目に入るのは的のみになった。
 矢を放つ。矢は真っすぐに飛び、的の中心に突き刺さった。

「……よし!」

 うまくいった。アルテナの様子をうかがうと、彼女は矢が刺さった的をじっと見ていた。

「これが、僕の一番得意なことなんですけれど……」

 だから何だ、と言われてしまえばそれまでだ。

「すみません、やっぱり面白くないですよね」

 一体どうすれば、彼女の興味を引くことができるだろう。

「……面白いかどうかは分からないけれど」

 アルテナが静かに口を開いた。

「今まで、相当努力してきたっていうのは分かるわ」
「……は、はいっ! ありがとうございます!」

 その言葉だけで、ワートは天に昇れそうなほど嬉しかった。

「……もう行かないと」
「そうですね。あの、ありがとうございました」

 アルテナを送っていくため、ワートは共に城への道を引き返していく。道中は変わらず会話がないままだったが、アルテナが少し自分に関心を持ってくれたような気がした。


4.
 数日後、アルテナは市場に買い出しに出ていた。
 店先には様々な野菜や魚などが並んでいる。できるだけ新鮮なものを選び、栄養があって食べやすい献立を考えるのはアルテナの数少ない楽しみだ。

「アルテナさん、こんにちは」

 アルテナの横に、ひょこっと誰かが姿を現した。

「ああ、ワート」
「買い物ですか?」
「ええ。もう終わって今から帰るところよ」
「じゃあ、ご一緒してもいいですか?」
「いいけれど……」

 アルテナと一緒にいられるとなると、ワートはとても嬉しそうな顔をする。一体、自分といて何がそんなに楽しいのか、と問いたくなるほどだ。アルテナは喋るのが好きというわけでもないし、これといった趣味もない。
 アルテナは隣を歩くワートの顔を見た。以前、彼が的に矢を当てるところを見せてもらったが、弓をひく彼の表情は、どこか臆病そうにも思える普段とはまったく違っていた。確実に獲物を仕留めようとする獣のようで、それ以来少しだけ彼を見る目が変わった。

「あの、どうかしました?」

 視線に気づき、ワートもアルテナの方を見た。
 琥珀こはく色の瞳に見つめられ、不意にアルテナの心臓がどきりと跳ねた。

「な、何でもないわ」

 彼から視線を外し前を見ると、あるものが目に入った。

「……あ」

 賑わう人々の中、一組の男女の姿がはっきりと浮かび上がる。
 女の方が手を振り、男と共に近づいてきた。

「やっほー、お姉ちゃん!」

 アルテナの二つ下の妹、マリエラとその夫のジョットだ。

「アルテナ、久しぶりだな。元気か?」
「……まあ、それなりよ」

 ジョットが歯を見せて笑った。彼は漁師で、力仕事も多いため戦士にもひけをとらない体格だ。隣に並ぶマリエラが小さく見える。

「お姉ちゃんが誰かと一緒なんて珍しいね。友達?」
「初めまして。ワートです」

 ワートが挨拶すると、マリエラはにっこりした。花が咲いたかのような笑顔だ。

「あたしはマリエラ。この人は旦那のジョット」
「……わたし、急いでるから」
「えっ、もう行っちゃうの?」

 会話もそこそこに、アルテナは妹夫婦の脇を早足ですり抜け、城への道を歩きだした。
 ワートは律儀にもその後を追ってきた。

「アルテナさん、妹さんがいるんですね」
「……わたしとは全然違うけれどね」

 マリエラは幼い頃から人見知りせず、誰にでも笑顔で接する、明るくて話好きな少女だった。周囲からも可愛がられたが、口数少なく表情にも乏しいアルテナは敬遠されることもあった。
 ジョットは隣の家に住んでいた子供で、アルテナとマリエラと共に育った。そして成長した彼は、マリエラを選んだ。
 恋と呼ぶには未熟すぎる感情だったように思う。だが、仲良く寄り添う妹と幼馴染の姿を見ると、アルテナの胸はきりりと痛んだ。
 妹は何も卑怯な手を使っていない。アルテナにも優しく接する少女で、彼女が選ばれるのは当たり前のことだった。だからこそ自分が一層情けなく感じてしまう。好かれるのは、人に愛される才能を持って生まれた者なのだけだと思ってしまう。

「ああ、その気持ち分かります。同じ親から生まれたはずなのに、全然違うことがあるのはどうしてなんでしょうね。……僕にも弟がいるんですが、僕に比べたらびっくりするくらい要領が良くて。可愛がられるのはいっつも弟の方でした」

 ワートは苦笑しながら続けた。

「姉とか妹だったら、また変わっていたのかなぁ。キルシェとセシェルさんはすごく仲が良いですし」
「……そうね」

 彼の話を聞くうちに、アルテナの気持ちは少し軽くなっていた。妹に抱いていた複雑な感情を、誰かと分かち合ったのは初めてのことだ。
 そうしている間に、城の裏口まで二人はたどり着いた。

「じゃあ、僕はこれで。……いつか僕の弟も紹介しますね」

 ワートはそう言って、翼を広げて軽やかに飛び立った。また弓術の鍛錬に向かうのだろうか。
 アルテナはその姿が見えなくなるまで、しばらくそこに立っていた。


5.
 台所を甘い香りが満たす。
 休みを利用してアルテナが作ったのは、得意料理の一つであるケーキだ。砕いた木の実や乾燥させた果物を混ぜて焼いたもので、セシェルはもちろんピュリーやティーナにも好評を得ている。
 アルテナは何もしない時間が落ち着かなく、暇になるとつい台所に立ってしまうことが多い。できたものを一人で食べてしまうのはどうにも味気ないが、こういう時に気軽に会える友達は――

「甘いもの、好きかしら……」

 ワートと知り合って日は経ったが、食べ物の好みはまだ知らない。
 そもそも、ワートは普段どこにいるのだろう? いつも彼の方から会いにくるため、いざ探そうと思ってもあてがない。考えられるとするなら、以前、弓を射るところを見せてもらったあの場所くらいか。
 行ってみて彼がいなければ諦めよう。アルテナはまだ温かいケーキを布に包んだ。

***

 幸運なことに、ワートはそこにいた。弓をぎゅっと引き絞り、的に狙いを定めている。背筋をぴんとのばした姿は、20歳の若者ながら周りを圧倒するような空気をまとっていた。
 前に見た時と同じように、矢は的の中心を射抜いた。
 ワートが弓を持つ手を下ろしたところを見計らい、アルテナは彼の方へ一歩踏み出した。その時、ワートがはっと振り返った。

「あ、あああアルテナさんっ!?」

 ワートが上ずった声を上げた。つい先ほどまでの弓を引く彼とは別人のようだ。

「どうしてここに!?」
「……来てはいけない?」
「い、いえ、まさか来てくれるなんて思わなくて……。嬉しいです」

 ふにゃりとワートが笑みを浮かべた。物静かな青年だが、表情はわりと豊かだ。

「もし良かったら、これ」

 アルテナは布の結び目をほどき、手作りのケーキを差し出した。

「えっ、僕にですか?」
「甘いものは好きじゃない? 貴方の好みを聞かずに用意してきたから、無理はしなくていいわ」
「いえ、好きです!」

 やや食い気味にワートが答えた。

「すごく美味しそうです。今食べてもいいですか? あ、せっかくなら一緒に!」
「いいけれど……」

 今いるのはただの開けた場所で、座れる椅子などはない。
 ワートはさも当たり前かのように上着を脱ぎ、地面にさっと敷いた。

「僕は地面に座ります。アルテナさんはここにどうぞ」
「でも……」
「気にしないでください」
「……ありがとう」

 少しばかり気にはなるが、アルテナは彼の言葉に甘えることにした。
 二人で並んで腰を下ろし、ワートが嬉々としてケーキの包みを受け取った。

「いただきます」

 ケーキを口に運び、ワートは目を輝かせた。

「美味しい! すごく美味しいですっ」
「そう。なら良かった」

 アルテナも手を伸ばし、ケーキをひと切れつまんだ。大声で自慢するほどではないが、味にはそれなりに自信がある。

「僕も時々は料理をしますが、お菓子は難しいって聞くのでまだ挑戦したことがなくて……」
「あなた、料理するの?」

 一般的に、台所は女が預かる場所だ。漁師や農家などの生まれであれば男でも少しは何か作れたりするが、戦士で料理もできるというのは聞いたことがなかった。

「……はは、やっぱりおかしいですよね。男なのに」
「おかしくはないわ。意外だっただけ。……いい趣味だと思う」
「今度、アルテナさんに教えてもらいたいです」
「いいけど、厳しくするわよ」
「はい、望むところです」

 ワートは大喜びで、ケーキを完食してくれた。

***

 それから、頻繁にとまではいかないが、アルテナは弓使いの青年と時たま会うようになっていった。ワートの方から来てくれる時もあるが、アルテナの方から彼のもとに顔を出すことも増えた。
 今日も、アルテナはワートの練習場へ足を運んだ。そこにいた彼は、いつもの弓ではなく、楽器を手にしていた。

「あ、アルテナさん!」
「……貴方、楽器まで弾けるの?」

 ワートが持っているのは、木で作った体に弦を張った楽器だ。片手の指で弦を押さえながら、もう片方の手に持った棒でそれを擦ることで音が出る。
 キルシェとエレアスの結婚を祝う宴の日、音楽を奏でる集団の中にワートがいたことを、アルテナはふと思い出した。

「ただの趣味ですが、それなりに……。そうだ、何か好きな曲はありますか?」
「言ったら、すぐ弾けるの?」
「大抵の曲は分かると思います」
「……じゃあ、『星よりも 花よりも』」

 曲名を言うと、ワートはああ、と頷いて、弦に手を添えた。アルテナのよく知る旋律が流れ始めた。


 ――どれほど美しく咲いた花でも あなたの笑顔には勝らない
 夜空の星をすべて集めても あなたの瞳の輝きには敵わない

 あなたの声は 穏やかな日の波の音
 あなたの眼差しは 真昼の木漏れ日

 あなたに会えるなら わたしは嵐の中を飛ぶことも恐れない
 あなたが笑うなら わたしは一晩中でも歌い続ける――


 美しい調に、アルテナは思わず歌っていた。
 曲が終わり、ワートが手を止めた。驚きと喜びが入り混じったような表情を浮かべている。

「アルテナさん、歌がとても上手なんですね」
「あ、これは、その……」

 歌うことは好きだったが、人に聞かせたことはない。もっぱら一人だけでいるときの趣味だった。顔が熱を持つのをアルテナは感じた。

「……好きな歌だし、貴方が綺麗に弾くから、つい」
「ありがとうございます。素敵な歌ですよね」

 恋をする心を歌った曲だ。今までは何気なく歌っていたが、なぜか今、アルテナの胸は熱かった。

「アルテナさん、もっと歌を聴かせてくれませんか」
「何もなしには歌えないわ。曲を弾いて」
「勿論です」

 二人で紡ぐ旋律が、静かな世界に響いた。


6.
 ――勝負の時は来た。
 夕暮れ時、ワートは城の裏手で、アルテナが来るのを待っていた。
 今までにないくらい心臓の鼓動は早い。しかし、失敗することは許されない。今日、ワートは、改めてアルテナに交際を申し込むつもりでいる。
 初めの頃は会話も続かず、お互いに戸惑うことも多かった。しかし、会う度にアルテナが心を開いていくのを感じるようになった。表情や口調こそあまり変わらないが、雰囲気が柔らかくなっている。ワートの方も、ますます彼女に心奪われていた。しっかりした芯の強い性格だが、時々見せる少女のような表情が可愛らしいのだ。
 ルイゼルにも事前に相談し、きっと大丈夫だと背中を押してもらった。

「ワート、お待たせ」

 今日の仕事を終えたアルテナが姿を現した。

「アルテナさん! こんな時間なのに来てくれてありがとうございます」

 ワートは緊張を隠し、何とかいつものように振舞った。様子がおかしいとは思わせずに、自然にしろとルイゼルから釘をさされている。

「……別に、暇だもの」
「あの、よければ海の方に行きませんか?」
「いいわ」

 アルテナが翼を広げる。二人は連れ立って、海の方まで羽ばたいていった。

***

 しばらく、二人で波打ち際を歩いた。太陽が海の方へ近づいていく。周りには誰もいない。

「……アルテナさん!」

 ワートは足を止め、呼びかけた。アルテナが立ち止まり、ワートの方を見る。

「僕は、アルテナさんが好きです」

 アルテナの目が、わずかに見開かれた。

「あなたほど素敵な女性はいません。できるなら、友達ではなく、恋人になりたいです」

 回りくどい言葉は使わず、素直な気持ちをぶつける。そうすれば、きっと分かってくれるはずだ。

「あ……」

 アルテナの唇がかすかに動いた。何かを言いかけて口を閉じ、視線がワートから逸らされた。そのまま何も言わず、アルテナは翼を出して、瞬く間にその場から飛び去った。

「アルテナさん!?」

 彼女は振り返らず、戻ってくることもなかった。
 何を間違えてしまったのだろう。自惚れていただけで、彼女にとって自分は取るに足らない存在だったのだろうか。
 闇が辺りを覆い始める。ワートはその場から動くことができず、呆然と立ち尽くしていた。

***

「……ねえティーナ、アルテナさん、最近様子がおかしくない?」

 ピュリーの問いに、ティーナは頷いて答えた。

「うーん、実はわたしもそう思ってた」

 ここのところ、アルテナは仕事こそ手は抜かずきっちりこなしているが、時どき、思い悩むような表情を浮かべていることがある。話し方にも元気がない。普段から表情をあまり変えないアルテナだが、ピュリーとティーナから見てもおかしいと思えるほどにはいつもと違っている。

「体調が悪いなら休んでくださいって声をかけたんだけど、それは大丈夫って言うんだよねぇ……」

 ピュリーはいつになく難しい顔をしている。

「アルテナさんがあんな風になったことは今までなかったの?」
「まったくないよ。だから心配なの。家族に何かあったのかなぁ」

 アルテナとそれなりに長く付き合っているピュリーでも、原因が分からないようだ。となれば、ティーナにできることも限られてくる。無理やりアルテナから聞き出そうとするのは言語道断だ。

「……ピュリー、とりあえずわたしたちは自分のお仕事をしっかりやろう。アルテナさんだって何かに悩むときはあるよ。せめて余計な心配はさせないようにしなきゃ」
「そうだね、よし、頑張ろうティーナ!」

 ティーナとピュリーは頷き合い、自分の持ち場へと向かった。

***

 アルテナは、化粧台の前に座るセシェルの髪をかしていた。
 ふとした瞬間に、ワートの顔が脳裏をよぎる。友人として始まった関係だが、彼は最初から自分に好意を抱いていた。いずれ、交際を申し込まれることは、何となく分かってはいた。
 しかしいざその時が来て、その場から逃げ出してしまった。そして数日、ワートとは一度も顔を合わせていない。
 彼の気持ちに何も返事をしないのは、一番してはいけないことだと頭では理解している。彼に会いに行くべきだということも。だが、アルテナにはどうしてもその覚悟ができなかった。
 ワートのことは決して嫌いではない。むしろ――

「アルテナ?」

 セシェルが不意に、アルテナの方を振り返った。

「……ごめんなさい。痛かった?」

 アルテナはくしを持つ手を止め、セシェルに問うた。

「痛くはないわ。けれど、何だかアルテナに元気がないように思うの」
「それは……」

 やはり、隠そうとしても顔に出ているらしい。ピュリーにも、体調が悪いのではないかと心配されたところだ。
 ピュリーやティーナには大丈夫で貫き通せても、セシェル相手になると難しい。セシェルは人の気持ちの変化に恐ろしく敏感だ。そして他人の喜びも悲しみも、まるで自分のことのように受け止める。

「何か困っているの?」
「……そうね」
「もし良ければ、何に困っているのかわたしに教えてくれないかしら? 誰かにお話しすると、気持ちが軽くなることもあるわ」

 アルテナが今抱えている問題に、解決の糸口を示してくれるのはセシェルしかいないかもしれない。アルテナは口を開いた。

「わたし……好きな人がいるの」
「まあ! その人は、アルテナのことを同じように好きなの?」
「……きっと、そうだと思う」
「素敵だわ。……だとしたら、何を悩んでいるの?」

 セシェルの言うことはもっともだ。初めの方こそ、ワートはアルテナにとって奇妙な存在だった。だが、共に過ごし、彼の色々な表情を見て、少しずつ彼のことを好きになっていった。矢を射るときの戦士の顔、アルテナの作った菓子を美味しそうに食べる顔、楽器を弾くときの楽しそうな顔、そしてアルテナに話しかけるときの優しい眼差し。
 妹とは違い、人を惹きつける力を持たないのならせめて、懸命に働き、必要以上のものは求めない閉じた世界の中で生きようと思っていたアルテナの中で、今やワートの存在はとても大きなものになっていた。
 優しいワートは、きっと良き夫となり良き父となるだろう。しかし、そんな彼に選ばれるのが自分で良いのだろうか。彼を失望させてしまったら、彼の気持ちが自分から離れてしまったら、そう考えてしまう。

「……怖いの。いつか彼との関係が変わってしまったら、彼がわたしの世界からいなくなる時が来てしまったとしたら、わたし自身がその時どうなってしまうのか、分からないのが怖い」
「そう……そうなのね……」

 セシェルはしばらく黙って目を伏せていたが、やがてもう一度アルテナの方を見た。

「……好きになった人に、好きと伝えたり、結婚することがいつも正解とは限らないかもしれないわ。でも、アルテナはそれでいいの?」
「え……?」
「わたしは、もしかしたら明日突然、倒れてそのまま死んでしまうかもしれないわ。ちゃんと大人になることができても、赤ちゃんを育てることができないかもしれない。わたしも、それは怖い。けれど、怖がって何もしなかったら、きっととても後悔すると思うの」
「後悔……」
「アルはそんなわたしでもいいって、わたしと一緒に生きていきたいって言ってくれたわ。わたしはそれを信じているの。だって大好きだから。自分に嘘をつき続けるのは、とても辛いことだと思うわ」

 セシェルも彼女自身が抱える恐怖と戦っている。それでも強くいられるのは、愛する者が支えてくれているからだ。信じる力は、勇気になる。

「わたしはこれから先、辛い思いをしたとしても、後悔はしないわ。アルテナも、後悔だけはしないで」

 もしもこのまま、何もせずにいたとしたらきっと、アルテナの世界は暗いままだ。自分の気持ちを引きずったまま生きていくことになるだろう。このままでいるのは嫌だ。

「……ありがとう。セシェル」
「どういたしまして。ふふ、アルテナが好きになる人ってどんな人なのかしら。今度教えてね」

 楽しそうに笑うセシェルに、アルテナも微笑みで答えた。


7.
 その日の夕暮れ、アルテナは城を出た。向かった場所は、ワートと二人で度々過ごした、彼の弓術の修練場だ。そこにワートがいるという確証はなかったが、いなければ待つつもりでいた。
 アルテナの読みどおり、ワートはそこにいた。こちらに背を向けて、的を狙って弓を構えている。見慣れた光景だが、いつもとは違っていた。いつも真っすぐ的の中心を射抜く彼の矢は、的のいたるところにばらばらに刺さり、地面にも散らばっている。
 もう一度、ワートが矢を放った。その軌道は大きく逸れ、中心からは遠く離れた場所に突き刺さった。
 ワートは弓を下ろし、肩を落とした。後ろ姿からでも、ひどく落ち込んでいることが分かる。

「ワート」

 その時を見計らい、アルテナは彼の名を呼んだ。
 ワートがはっと振り返り、アルテナの姿を見て、わずかに後ずさった。

「アルテナ、さん……?」
「ここにいてくれて良かったわ」

 ワートは明らかに驚き戸惑っている。
 アルテナが、的を射抜くことなく散乱した矢を見ると、彼はため息をついた。

「駄目ですね、僕は。これしきのことで集中力を欠くなんて情けない……」
「いいえ、貴方は何も悪くない」

 アルテナは彼の目を見据えた。

「ワート、本当にごめんなさい。わたしはとても卑怯なことをしてしまった。逃げてしまったわ」

 ワートの眉が、困ったかのように下がった。

「……謝らないでください。僕のほうこそ、あなたを困らせてしまいました」

 怒りをぶつけられたとしてもアルテナには返す言葉もないのに、彼はどこまでも優しい。
 アルテナの心臓が、強く握られたかのように苦しくなる。しかし、もう逃げることはしない。

「ワート、わたしは目つきも悪いし、口調もきついし、上手く笑うこともできないわ。……そんなわたしで、本当にいい?」

 ワートはすぐには答えなかった。もう、アルテナに愛想を尽かしていたとしても不思議ではない。そうであっても受け止めるつもりでいた。

「あの」

 やがてワートが口を開いた。

「アルテナさんの目は、とても綺麗だと思います。話し方も凜としていて、声が澄んでいて好きです。笑うことが苦手なら、僕があなたを笑わせます」

 アルテナが何を言っても、ワートは己の気持ちを曲げることはしないだろう。そんな彼を信じずして、他に何が信じられるだろうか。

「……貴方のそういうところ、とても素敵だと思うわ」
「アルテナさん……!」
「わたしを恋人にしてくれる?」
「はい、もちろん、喜んで!」

 今にも泣きだすのではないかと思うほどの喜びように、つられてアルテナからも笑みがこぼれた。

「……ふふふっ」
「アルテナさん?」
「ふふ、もう、わたしったら一体何を悩んでいたのかしら。馬鹿みたいだわ」

 その時、アルテナの顎が軽く持ち上げられ、唇に温かいものが押し付けられた。ワートの顔が目と鼻の先にある。

「んっ!?」

 アルテナがくぐもった声を出すと、ワートがさっと顔を離した。夕日にも負けないほどに顔が真っ赤だ。

「すすすすすみませんっ! アルテナさんの笑顔があまりにも素敵すぎて、つい……」

 呆然と固まるアルテナを見て、ワートはおろおろしている。
 アルテナは自分の唇にそっと指で触れた。顔どころか、体まで熱い。突然のことで驚いたが、嫌だとは感じなかった。

「貴方って、慎重に見えて色々とすっ飛ばすわよね」
「本当にごめんなさい……」
「……いいわよ。どうせいつかはすることだし……」

 アルテナは、矢が無数に刺さった的に目をやった。

「……ねぇ、真ん中に当てるところを見せて」

 ワートの調子が狂ってしまったのは、十中八九自分のせいだ。彼が元の通り、優秀な射手に戻るところを見届けたかった。

「は、はい!」

 ワートは矢筒から矢をとり、弓につがえた。彼をとりまく空気が、一気に張りつめたものに変わった。
 一瞬の間の後にうたれた矢は、真っすぐに、深々と的の中心をとらえた。

「やりました!」

 ワートが満面の笑みを見せた。この様子なら、もうアルテナが心配することはなさそうだ。
 
「流石だわ」

 ワートは不思議な青年だ。何でもできるのに、なぜか放っておくことができない。
 彼が放った恋の矢は、一生かかっても抜けないほど深く、アルテナの心を射抜いていた。

***

 そして数日後。
 アルテナはピュリーとティーナと共に、定期的に行う物置の整理と掃除に精を出していた。物資の確認を行う二人の傍らで、アルテナは黙々とほうきで床を掃く。
 いつもの日常のはずだった。物置の入り口の扉が開くまでは。

「アルテナさん!」
「えっ……!?」

 ひょっこり顔を見せたのは、晴れてアルテナの恋人となった青年だった。

「あれ、あの人は……」
「ワートさん?」

 突然の訪問者に、ピュリーとティーナはきょとんとしている。
 アルテナは血相を変えて、ワートのもとへ歩み寄った。

「どうして来たのよ、まだ待ち合わせには早いでしょう!」
「すみません、待ちきれなくて。僕も手伝いますよ。そうしたら早く終わりますよね?」
「いいから、外で待ってて!」
「ア・ル・テ・ナさぁーん?」

 ピュリーがにやにやしながら、アルテナの方へ近づいてきた。どう言い訳すればいいものか、冷や汗が流れる。

「ピュリー、違うのよ、彼は……」
「アルテナさん、最近様子が変だなぁと思ってたら……そういうことだったんですねぇ。もー、わたしもティーナも心配してたんですよぅ」
「そ、それは謝るわ。とにかく仕事を終わらせましょう」

 ピュリーは笑って、箒をアルテナの手から取った。

「いえいえ、もうすぐ終わりますし、あとはわたしとティーナでやっておきますよ。ね、ティーナ?」

 ティーナは驚きつつも、どうぞ、という仕草をした。

「で、でも」
「いいからいいから! お先にどうぞ!」

 ぐいぐいとピュリーに背中を押され、アルテナはワートと共に部屋の外へ出た。

「じゃ、アルテナさんをよろしくねっ!」
「は、はいっ」

 ピュリーが悪戯っぽい表情を見せ、扉を閉めた。

「あの、アルテナさん……」
「行くわよ」

 アルテナはワートの方を見ず、先にすたすたと歩きだした。顔から火が出そうだ。

「あ、待ってください!」

 ワートが慌てて後を追い、数歩後ろをついて来る。叱られた子供のようにしゅんとしている。こんな様子を見せられたら、怒るに怒れない。
 これも惚れた弱みだ。アルテナは彼の方へ手を伸ばした。

「アルテナさん?」
「……手をつないで」

 ワートの顔が、ぱっと明るくなった。

「はい、勿論です!」

 アルテナの手を、恋人は優しく握りしめた。
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