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神龍殺しは少女のために

神龍殺しは少女のために⑨

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 ◇◆◇◆◇◆◇

 この世に奇跡なんてない。
 あらゆるものには理由があって、結果がある。
 奇跡に見えるものは全て人間には見えないだけで理由がある。

 だから、これは……どうしようもない、運命なのだ。

 龍は弱っていた。長い生の中、かつてないほどに飢えて苦しんでいた。他の龍を屈服させたときよりも遥かに長い戦闘。……弱いのに何故か死なない不死の猿が無限に襲いかかってくるのだ。執拗に目を狙い、飛膜を狙い、鱗の隙間を狙ってくる。
 逃げようとしても食らいついてきて、遂には片目と翼が使い物にならなくなった。

 猿を殺すために吐いた火炎により森は焼けて他の獲物も逃げていった。空気は熱く、肺から水分を奪っていくのを早めた。

 喉が乾く、腹が空く。既に死は目の前に迫っており、半日間暴れ続けたせいで火炎を吐く余裕すらもなくなっていた。
 全身は己の炎で焼けただれ、赤く染まり出した空の色が爛れた皮膚に染みる。

 だが、もはや二度と戻らない翼や目すらもどうでもいい。ただ、この飢えを、乾きを満たしたい。

 猿が音を奏でており、そこに向かうと多くの猿がいた。龍が食うのはどの猿でも良かった。極度の餓えで思考が巡らない龍は怯えて逃げていく猿の群れを見る。

「カバネさん!! カバネさん!! カバネさん!! 逃げて!! 逃げてください!!」

 だから……大声を出していて目立つニエに視線がいくのは当然のことだった。

「ああああ!!!! ニエッッッ!!!!」

 死なない猿が龍を追って駆けながら吠えるが、龍はそれを今更食えるとは思っていない。無視をして当然だ。
 少女は叫ぶ。

「逃げてくださいっ! 私なんて、どうでもいいですからっ! カバネさんだけは! カバネさんだけは……っ!」

 今、この場で彼が逃げたら、ニエの次は他の村人が殺され食われるだろう。けれど少女の頭にはそんな考えは抜け落ちていた。
 ただひたすらに、男の無事だけを願っていた。

 男はそんな少女の叫びを聞いても、一切足の踏み込みを緩めることはせずに、むしろ先程までよりもよほど力強く地面を蹴った。

「ニエ! ニエ! 待ってろ、今……!」

 助けてやる。その言葉を吐こうとした瞬間。脚がガクリと曲がる。
 幾ら思いが強かろうが、当然そこには限界があった。

 救えないのか。恩を返せないのか。男は全力で吠えるが、それでも龍が振り返ることはない。
 地面に倒れていく身体。上に縛り付けられているニエへと必死に手を伸ばし、そのまま地面に倒れる。

「……ニエを、俺は、俺は!!

 ──俺は、何をしているんだろうか。なんで命がけで勝てるはずもない奴に立ち向かったのか。ニエが好きだから、勿論そうだ。勿論そうだが……それなら、攫ってしまった方がよほど手っ取り早く確実だったではないか。

 男は地面に倒れた身体を腕の力で前へと進めながら、「ああ……」と納得する。
 好かれたかったのだろう。好かれたかったから、攫っていくという嫌われる手段を取ることが出来なかった。

「は、はは」

 ──やっと自分の行動の理由が分かった。寂しかったから、見捨てられたくなかったのだ。間抜けな理由だ。たったひとり、知らない世界にいることが怖くて……ニエに縋っていたのだ。

「違うだろ。違うだろ! 俺が、すべきことは……!」

 助けることだろうが、なりふり構わずに。

 男は動かない脚を地面に叩きつけるようにして、腕で地面を押して、その場から跳ねた。

 儀式のために高い位置に縛り付けられたニエを食おうとした龍は、最後に残ったなけなしの魔力で飛ぼうとしたが、龍は極度の餓えにより判断能力が低下し失念していた翼がもう使い物にならないことを忘れていた。

 龍の風と言えども、翼がなければ龍の体を浮かすだけの力はない。

「ッッッ!! ウォオオオオオ!!」

 だから、その発生させた風の魔法が浮かしたのは、翼が潰れた龍の体ではなく、男の身体だった。

 風に乗って高く飛んだ男と縛りつけられた少女の目が合う。

「カバネさん……カバネさん、私は、私はあなたに死んでほしく、ないんです!」
「……無理をさせたな。もう、大丈夫だ」

 龍の身体よりも高くに飛んだ男は、遥か上空から落下しながら龍の頭に短刀を突き下ろす。

 それは短刀を持つ彼すらも理解していないことだった。固い龍の鱗は魔力による強化で成るものであり……本来は、空を飛ぶために軽量化されていて非常に薄く脆いものであることを。

「お前は、龍は……人より強く賢く気高く美しい。そう聞いた」

 鱗の下にあるのは薄い肉と鳥と同じような軽量の骨。それでも易々とは貫けるはずもないが、男は遥か高くから落ちて、着地すらも考えずに短刀を突き下ろしていた。

「だから、お前は……あの子のために死ね」

 龍が堕ちた。短刀は根元まで深く龍の眉間に突き刺さり、鱗を貫き、皮を貫き、肉を貫き、骨を貫き、その切っ先が龍の命に届いた。

 墜ちる巨体。大地が揺れて、けれどあまりにも静かだった。

 神と同等の力を持つ生き物。人類では勝ち目のない正真正銘の化け物が……地に伏していた。

 そこに感動や喜びはなく、ただ誰もがありえない光景を茫然と眺めていた。

 そんな中、一人の男が立ち上がる。龍の血を浴び、全身がボロボロになって今にも死にそうな男が、龍にも、村人にも、あるいは静かすぎる世界にすら興味がないように、ただ一人の少女を見つめる。

 もう一度、愛を告げるため、男は龍を殺した。
 男は龍の上に立ったまま、静まり返った村人達に告げる。

「……俺は龍よりも強い! 俺がこの村の災厄だ! だから、贄はもらっていく!」

 繰り返す。

「ニエはもらっていく。誰であろうと、龍であろうと、渡さない!」

 それだけ言って、男はその場に倒れた。
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