獣血の刻印

hoshiho

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七話 満月の夜(1)

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 平原から湿原におもむくと、霧に視界を遮られ動けない状態を悠真はるまは何度か経験した。特に酷い記憶となったのは、全員が荷室での就寝を余儀なくされたことだ。お世辞にも快適とはいえず、翌朝、御者は朝霧が晴れると二頭の馬を急がせた。荷馬車はいささか乱暴にゆれ、尻を痛めたが、それでも苦情がでなかったのは、ひとえに全員が同じ気持ちだったからだろう。

 おかげでいまは長閑な野原を眺めながら進む。今晩は外で過ごせそうだ。

 ──さすがに大人が八人もいると狭かったな。ジヴァンが大き過ぎるのも原因だったけど。子供がひとりだけでよかった。

 がたごと揺れる荷馬車の中で、悠真はそっと向かいを見る。そこには母親の膝を枕にする少女が静かに眠っていた。彼女があと十歳ほど成長していれば、誰かが御者台で寝る羽目になっていただろう。

 ──そうなるとジヴァンしかいない気がするけど。

 深い意味はなく消去法で導いた人選だ。少し意地悪かな、と悠真は小さく笑う。

 だがそんな気持ちの余裕は、少女の寝顔によってわずかに翳がさす。彼女は赫物けものとなってから、昼夜を問わず、眠ることが多くなっていた。それは満月が近づくほど顕著になり、とうとう今日は一度も目覚めていない。周囲には薬の副作用だと誤魔化したが、本当の理由は別にあった。

 ジヴァンが言うには、満月の影響らしい。権能が力を増した分、少女の体力が消耗しているのだとか。睡眠ですんでいるのは寧ろいいことだと母親に説明していた。

 悠真は教育実習や課外活動で、少女と同じ年頃の子供とふれあったことがある。そのときの子供たちは遊び疲れて眠る姿をよくみせた。改めて少女が赫物となったことを痛感する。健康な子供は食事を満足にとりもせず、ひたすら眠ることはない。 

 そんな彼女の様子に、事情を知らない者たちは安堵をみせていた。奇病であれ、赫物であれ、おとなしく眠っていれば危険ではない、と。おかげでよけいな諍いはなかった。皮肉なものだ。

 草花の匂いに火を熾す気配が混ざる。悠真は過ぎた街道を見やると、野営の準備をする集団をいくつか確認した。

 御者は少し癖のある声を満悦げにはずませ「明日にはフロリアナにつきますよ」と後部へ投げかけた。

「このまま無理して進んでも、到着は真夜中になります。今晩は森のそばで野宿しましょう。近くに泉があるので、温かい夕食を用意できますよ」 

 その言葉に対し、母親以外の大人はそれぞれの反応を見せた。久しぶりの温かい食事に期待する者、早く汚れを落としたいと愚痴る者、腕の怪我の調子が気がかりな者。なかでも老婆の「女神さま。邪な竜から我々をどうかお守りください」と祈る仕草は印象的だった。

 今夜は満月だ。竜の象徴がひときわ存在感を増す日でもあり、生命力が活発になる日でもある。世代によって、ことの重大さは異なるようだった。




 日暮れがおとずれる前に、ひとびとは木の下陰に寝床を用意した。月明かりを避けるためだ。老婆のように月を恐れる者は荷室での就寝を選んだが、母子以外は外を選択していた。先日の寝苦しさがよほど堪えたのだろう。悠真たちは、そんな彼らの背後を陣取っていた。ひとびとを野生動物や盗賊から守るためらしい。実際、そういう輩の被害はよくあるそうだ。

 御者が食事の支度をしながら教えてくれた。

「こういう商売は食料を狙われることが多いんです。豪華な馬車なら金目当ての賊もいるでしょうけど、動物は見境ないですからね。それで遠出するときは必ず傭兵を連れてくるんです。ああ、うちはフロリアナ近くの村から来たんですよ。普段は隣の村への往復が仕事なんですがね、この時期は大聖堂で神子さまの召喚式がありましたから。年に一度の稼ぎどきってやつです。知っての通り、ここ数年は神子さまが現れなかったけど、毎年みんな期待して首都へ行くので、食い扶持に困ったことはなかったですね。それなのに今年は欲を出してしまって……」

 御者の滑舌のよい喋りが衰え、癖のある声質が目立っていく。

「首都には大陸中の同業者が集まっていて、うちのような小規模じゃ同じ客を捕まえるのは難しかった。それで一足先に出発して、途中の村で客を探そうと思ったわけですよ。ですが……それがまずかった。神子さまの召喚の前に、女神さまに尻を向けたから罰を受けたんでしょうね。──まさか赫物に襲われるとは……実はあのとき、自分のおこないをひたすら懺悔していたんです」

 当時を思い出したのか、御者は苦笑を浮かべた。過ぎた後悔を溶かすように、鍋を底からかき混ぜる。

「おふたりに出会えたのは、きっと女神さまが赦してくださったからでしょう。助けてもらえて、本当にありがたかった。感謝の気持ちは尽きません」

 悠真は湯気がのぼる木の器を受け取ると、苦笑いを返した。赦しを求める者に、赫物である悠真たちを差し向ける女神とは悪辣すぎる。女神は実在するが、その恩恵は万人にいきとどくわけではないようだ。

「みんなで無事にここまで来られて良かったですね」
「ええ、ええ。今晩さえ過ぎてしまえば心配事はないも同然です。残りわずかのあいだですが、旦那にもよろしくお伝えください」

 御者がいう『旦那』とはジヴァンのことだ。人好きの良い表情をする彼に、悠真は軽く頷くと、その場を自然に離れた。

 ──やっぱり、おかしい。

 汁物を持つ手がかすかに震えている。悪寒はないのに肌は粟立ち、呼吸は少し熱っぽい。最初は風邪かと気に留めなかった。しかし満月が近づくのと同時に症状は悪化している。悠真の権能がわからない以上、なにがおきても不思議ではないと訊いた。これがその異変だとすれば、御者たちを巻き込んではいけない。悠真は不安を押し隠し、ジヴァンの元へ足を早めた。

 森の境目に敷かれた寝袋をいくつか避け、鬱蒼とする奥へ進む。夕明かりの気配はどこにもない。だからこそ、小さく灯る明かりは目を引いた。

 ぽっと暗がりに現れたのは、洋燈らんぷのような物を持つジヴァンの姿。風貌に陰影がくっきり刻まれ、まるで精巧な彫刻をおもわせる。明かりを地面に置く際には、髪が炎のように揺らめいた。ふと、こちらに気づいた視線が向く。その瞳は寝静まる冬の山のように、穏やかな色をしていると、悠真は知っている。

 欲しい、と思った。無意識だった。

 途端、尾骨から脊髄にかけて、ぞくりとなにかが駆け上がる。鼓動が激しく脈をうち始め、全身に熱がとめどなく巡った。あろうことか下半身の一点にすら。

 ──嘘だろっ。

 悠真はその場から動けなくなってしまった。いま少しでも体に刺激を与えれば、腰が砕けてしまう。予想外の醜態によってか、瞳が自然と潤み、視界がぼやけた。

 ジヴァンが駆け寄ってくる気配がする。おそらく悠真の異変に気がついたのだろう。

「あ……」

 突如、麝香じゃこうのように甘い香りが鼻腔を刺激した。

 全身から力がすっと抜け、食器の中身を脚にぶちまけてしまう。熱いはずなのに、痛みは気にならなかった。おそらく倒れる寸前、ジヴァンに抱きとめられたからだ。彼から漂う甘い香りに脳が痺れを感じた。

「異変があれば言えといっただろ」

 厳しめの低音が耳をつき、体は反射的にぴくりと跳ねる。悠真は唇をごめんと震わせた。なんとか意思を伝えようと、わずかに動く指を亜麻色の布に引っかける。

「だ、大丈夫ですか?!」

 こちらの様子に気がついたのか、御者が慌てて駆け寄ってくる足音がした。だが、その姿を悠真は見ることはなかった。ジヴァンの腕が膝裏にとおり、抱き上げられたためだ。自然と彼の胸元に顔をうずめてしまう。

「連れが火傷をしたようだ。泉で手当てをしてくるが、あとを頼めるか?」
「もちろんです。こちらはお任せください……ですが、あの、火傷の薬だけで大丈夫ですか?」 
「ああ。そこら辺に置いといてくれ」

 なぜか言葉を濁らせる御者をよそに、悠真はジヴァンに抱えられ、森の奥まった場所へと運ばれた。
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