1 / 18
プロローグ
しおりを挟む
「赫物だ! 赫物が逃げたぞ!!」
黒髪の青年は必死に走り逃げていた。
何度ももつれそうになる脚に冷や汗をかき、スニーカーの中敷に足指を立てる。背中には多数の怒号を投げつけられ、板金鎧の音が馬の蹄のように轟き迫っていた。
日本ではとうてい考えられない状況だ。ギラつく長剣を武装した騎士たちに追われているなんて、冗談でなければ夢としか思えない。しかし、体の疲労感が残酷にも現実だと主張する。
──たった数分前までコンビニに行っていたはずなのに、どこなんだここはっ。
青年に現状を整理する余裕はなかった。
高い天井を支える石柱を何本か追いこし、白い石の廊下を通り抜けていく。ここは中世ヨーロッパの大聖堂を彷彿とさせるような場所だった。壁を飾る巨大なステンドグラスの窓には陽光が差し、青年の姿を色彩豊かに染めあげる。一度も色を入れたことがない黒髪は艶を増し、白皙の顔は心情のように赤や青へと色をかえた。青年は燦然と輝く光彩を振り切るように長い手足を動かした。決して太陽を恐れたわけではない。青年はドラキュラでなければ「ケモノ」と呼ばれる謂れもない。生粋の日本人だ。ただ青年の記憶では、コンビニへ出かけたのは二十一時だった……。一時間も経たないうちに、日が昇るなど、ありえない。
青年はとにかく外へ逃げようと廊下を進む。ときおり鎧の音やひとの気配を避けながら。だが、青年は無意識に明るい通路を選ぶうち、上の階へ逃げていた。
追いこまれてしまったのか、自ら追いこんでしまったのか。
どちらにせよ、青年はそこである男に出会わなければ、確実に捕らえられていただろう。
「もっと早く走れ」
青年を先導する巨躯な騎士が振りかえる。兜で表情は見えないが、呼吸ひとつ乱れていない低い声色から、泰然とした様子が窺えた。格好だけで判断するなら、男は追い掛けてくる騎士たちと同じ立場だろう。それなのに青年の事情を察すると「逃してやる」と言ってきたのだ。青年は疑うよりも二つ返事で男に従う意思を示した。どんなに普段冷静でいようとも、危機的状況に陥ると、思考ではなく直感が冴え渡ることが青年にはよくあった。
──このひとは大丈夫。なぜかそう思えたのだ。
板金鎧の音が徐々に近づいてきている。青年は自身を鼓舞するが、脚はもう棒のようだった。短距離走を何本も繰り返す状況が続いていたため無理もない。筋肉が悲鳴をあげ、喉から鉄の味がする。闇雲に逃げていた結果、青年の体は限界をむかえていた。
それでも捕まるわけにはいかない。青年には置いてきてしまった大切な人がいる。
青年は拳をつくり大きく一歩を踏みだすが、がくんと体勢を崩してしまう。いや、正確には男によって崩された。
「遅い」
男は青年の片腕を掴むと、荷物のように肩へ担ぐ。板金鎧の冷えと硬さが青年の胸にTシャツ越しで伝わった。ぐっと息がつまると同時に、酷使されていた脚は解放される。青年を支える男の二の腕はガッチリとしており、人生初の俵担ぎだが安定を感じた。
「すみ、ません」
青年は全身で呼吸を整えつつ、なんとか男に謝罪する。逃すと言ってくれたのは彼だが、余計な負担をかけてしまった。まさか成人男性を担いで走る羽目になるとは思わなかっただろう。
男は青年に「舌を噛むから喋るな」と素っ気なく返すと、脚の速度をぐんと上げた。建物が変わったのか、古びた廊下の角を曲がり、階段を駆け上がり、出くわした騎士たちの頭上を軽々と飛び越える。
──舌を噛むってこういうことだったのかっ。
青年は尋常じゃない男の身体能力に体を硬直させた。下手に動けばかえって邪魔になるからだ。
それでも、どこへ逃げているのかくらいは訊いておけばよかったと思う。
追い掛けてきた騎士たちの足取りが戸惑いを見せた。青年の背後では陽光が強くなるのを感じる。
何が起きようとしているのか。青年は振り返ろうとしたが、男に後頭部を強く押さえつけられた。
次の瞬間、ガシャーンと耳をつんざく音とともに、青年の視界には青空が広がっていた。降下する体からガラスの破片がキラキラと輝き離れていく。塔の天辺を飾っている壊れた窓へ戻っていくようだった。
まるで時間がゆっくりと流れているよう。
青年はこの異常な状況に陥るまでのことを、走馬灯のように思い出した。
黒髪の青年は必死に走り逃げていた。
何度ももつれそうになる脚に冷や汗をかき、スニーカーの中敷に足指を立てる。背中には多数の怒号を投げつけられ、板金鎧の音が馬の蹄のように轟き迫っていた。
日本ではとうてい考えられない状況だ。ギラつく長剣を武装した騎士たちに追われているなんて、冗談でなければ夢としか思えない。しかし、体の疲労感が残酷にも現実だと主張する。
──たった数分前までコンビニに行っていたはずなのに、どこなんだここはっ。
青年に現状を整理する余裕はなかった。
高い天井を支える石柱を何本か追いこし、白い石の廊下を通り抜けていく。ここは中世ヨーロッパの大聖堂を彷彿とさせるような場所だった。壁を飾る巨大なステンドグラスの窓には陽光が差し、青年の姿を色彩豊かに染めあげる。一度も色を入れたことがない黒髪は艶を増し、白皙の顔は心情のように赤や青へと色をかえた。青年は燦然と輝く光彩を振り切るように長い手足を動かした。決して太陽を恐れたわけではない。青年はドラキュラでなければ「ケモノ」と呼ばれる謂れもない。生粋の日本人だ。ただ青年の記憶では、コンビニへ出かけたのは二十一時だった……。一時間も経たないうちに、日が昇るなど、ありえない。
青年はとにかく外へ逃げようと廊下を進む。ときおり鎧の音やひとの気配を避けながら。だが、青年は無意識に明るい通路を選ぶうち、上の階へ逃げていた。
追いこまれてしまったのか、自ら追いこんでしまったのか。
どちらにせよ、青年はそこである男に出会わなければ、確実に捕らえられていただろう。
「もっと早く走れ」
青年を先導する巨躯な騎士が振りかえる。兜で表情は見えないが、呼吸ひとつ乱れていない低い声色から、泰然とした様子が窺えた。格好だけで判断するなら、男は追い掛けてくる騎士たちと同じ立場だろう。それなのに青年の事情を察すると「逃してやる」と言ってきたのだ。青年は疑うよりも二つ返事で男に従う意思を示した。どんなに普段冷静でいようとも、危機的状況に陥ると、思考ではなく直感が冴え渡ることが青年にはよくあった。
──このひとは大丈夫。なぜかそう思えたのだ。
板金鎧の音が徐々に近づいてきている。青年は自身を鼓舞するが、脚はもう棒のようだった。短距離走を何本も繰り返す状況が続いていたため無理もない。筋肉が悲鳴をあげ、喉から鉄の味がする。闇雲に逃げていた結果、青年の体は限界をむかえていた。
それでも捕まるわけにはいかない。青年には置いてきてしまった大切な人がいる。
青年は拳をつくり大きく一歩を踏みだすが、がくんと体勢を崩してしまう。いや、正確には男によって崩された。
「遅い」
男は青年の片腕を掴むと、荷物のように肩へ担ぐ。板金鎧の冷えと硬さが青年の胸にTシャツ越しで伝わった。ぐっと息がつまると同時に、酷使されていた脚は解放される。青年を支える男の二の腕はガッチリとしており、人生初の俵担ぎだが安定を感じた。
「すみ、ません」
青年は全身で呼吸を整えつつ、なんとか男に謝罪する。逃すと言ってくれたのは彼だが、余計な負担をかけてしまった。まさか成人男性を担いで走る羽目になるとは思わなかっただろう。
男は青年に「舌を噛むから喋るな」と素っ気なく返すと、脚の速度をぐんと上げた。建物が変わったのか、古びた廊下の角を曲がり、階段を駆け上がり、出くわした騎士たちの頭上を軽々と飛び越える。
──舌を噛むってこういうことだったのかっ。
青年は尋常じゃない男の身体能力に体を硬直させた。下手に動けばかえって邪魔になるからだ。
それでも、どこへ逃げているのかくらいは訊いておけばよかったと思う。
追い掛けてきた騎士たちの足取りが戸惑いを見せた。青年の背後では陽光が強くなるのを感じる。
何が起きようとしているのか。青年は振り返ろうとしたが、男に後頭部を強く押さえつけられた。
次の瞬間、ガシャーンと耳をつんざく音とともに、青年の視界には青空が広がっていた。降下する体からガラスの破片がキラキラと輝き離れていく。塔の天辺を飾っている壊れた窓へ戻っていくようだった。
まるで時間がゆっくりと流れているよう。
青年はこの異常な状況に陥るまでのことを、走馬灯のように思い出した。
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説

王道にはしたくないので
八瑠璃
BL
国中殆どの金持ちの子息のみが通う、小中高一貫の超名門マンモス校〈朱鷺学園〉
幼少の頃からそこに通い、能力を高め他を率いてきた生徒会長こと鷹官 仁。前世知識から得た何れ来るとも知れぬ転校生に、平穏な日々と将来を潰されない為に日々努力を怠らず理想の会長となるべく努めてきた仁だったが、少々やり過ぎなせいでいつの間にか大変なことになっていた_____。
これは、やりすぎちまった超絶カリスマ生徒会長とそんな彼の周囲のお話である。

例え何度戻ろうとも僕は悪役だ…
東間
BL
ゲームの世界に転生した留木原 夜は悪役の役目を全うした…愛した者の手によって殺害される事で……
だが、次目が覚めて鏡を見るとそこには悪役の幼い姿が…?!
ゲームの世界で再び悪役を演じる夜は最後に何を手に?
攻略者したいNO1の悪魔系王子と無自覚天使系悪役公爵のすれ違い小説!
異世界で騎士団寮長になりまして
円山ゆに
BL
⭐︎ 書籍発売‼︎2023年1月16日頃から順次出荷予定⭐︎溺愛系異世界ファンタジーB L⭐︎
天涯孤独の20歳、蒼太(そうた)は大の貧乏で節約の鬼。ある日、転がる500円玉を追いかけて迷い込んだ先は異世界・ライン王国だった。
王立第二騎士団団長レオナードと副団長のリアに助けられた蒼太は、彼らの提案で騎士団寮の寮長として雇われることに。
異世界で一から節約生活をしようと意気込む蒼太だったが、なんと寮長は騎士団団長と婚姻関係を結ぶ決まりがあるという。さらにレオナードとリアは同じ一人を生涯の伴侶とする契りを結んでいた。
「つ、つまり僕は二人と結婚するってこと?」
「「そういうこと」」
グイグイ迫ってくる二人のイケメン騎士に振り回されながらも寮長の仕事をこなす蒼太だったが、次第に二人に惹かれていく。
一方、王国の首都では不穏な空気が流れていた。
やがて明かされる寮長のもう一つの役割と、蒼太が異世界にきた理由とは。
二人の騎士に溺愛される節約男子の異世界ファンタジーB Lです!

華から生まれ落ちた少年は獅子の温もりに溺れる
帆田 久
BL
天気予報で豪雪注意報が発令される中
都内のマンションのベランダで、一つの小さな命が、その弱々しい灯火を消した
「…母さん…父さ、ん……」
どうか 生まれてきてしまった僕を 許して
死ぬ寸前に小さくそう呟いたその少年は、
見も知らぬ泉のほとりに咲く一輪の大華より再びの生を受けた。
これは、不遇の死を遂げた不幸で孤独な少年が、
転生した世界で1人の獅子獣人に救われ、囲われ、溺愛される物語ー
愛していた王に捨てられて愛人になった少年は騎士に娶られる
彩月野生
BL
湖に落ちた十六歳の少年文斗は異世界にやって来てしまった。
国王と愛し合うようになった筈なのに、王は突然妃を迎え、文斗は愛人として扱われるようになり、さらには騎士と結婚して子供を産めと強要されてしまう。
王を愛する気持ちを捨てられないまま、文斗は騎士との結婚生活を送るのだが、騎士への感情の変化に戸惑うようになる。
(誤字脱字報告は不要)

どうやら生まれる世界を間違えた~異世界で人生やり直し?~
黒飴細工
BL
京 凛太郎は突然異世界に飛ばされたと思ったら、そこで出会った超絶イケメンに「この世界は本来、君が生まれるべき世界だ」と言われ……?どうやら生まれる世界を間違えたらしい。幼い頃よりあまりいい人生を歩んでこれなかった凛太郎は心機一転。人生やり直し、自分探しの旅に出てみることに。しかし、次から次に出会う人々は一癖も二癖もある人物ばかり、それが見た目が良いほど変わった人物が多いのだから困りもの。「でたよ!ファンタジー!」が口癖になってしまう凛太郎がこれまでと違った濃ゆい人生を送っていくことに。
※こちらの作品第10回BL小説大賞にエントリーしてます。応援していただけましたら幸いです。
※こちらの作品は小説家になろう、カクヨム、ノベルアップ+にも投稿しております。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる