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七十四話 生き方が下手

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 今川方が武田に駿河を奪われるや、
 徳川軍はすかさず遠州に進軍してきた。

 今川にすでに抗う力なく、
 朝比奈泰朝殿の掛川城はたちまち徳川の大軍によって包囲されてしまった。

 永禄十一年末に徳川軍が攻め込んできてから、
 永禄十二年五月まで朝比奈泰朝殿は城を守りきったが、
 ついに守り切れぬと悟ったか、氏真公の許可を得て、
 掛川城と己の所領全てを差し出すことを交換条件に
 今川氏真公の助命嘆願の使者を徳川に送った。

 徳川家康はこれを了承し、掛川城は開城した。

 永禄十二年五月十七日の事である。

 今川家の領土はすでにほとんどが武田と徳川に簒奪され、
 駿河にも遠州にも頼るすべのない氏真公は
 早川殿の兄弟にあたられる北条氏政殿のご厚意により、
 相模に移り住むこととなった。蒲原を経て伊豆戸倉城に入られ、
 そののち小田原に移り住まれることとなった。

 氏真公は北条氏政殿に請われるまま、
 氏康殿の嫡子、国王丸を養子に迎え、駿河の支配権を譲られた。

 すでに領地は全て武田と徳川に奪われているゆえ、
 氏真公にとっては意味のない空証文のようなものであったが、
 これから駿河を攻めて支配せんとする北条にとっては
 大義名分を得る上において意味のあるものであった。


 これにて氏真公も余生を安寧に暮らせるかと思いきや、
 元亀二年十月北条氏政殿が亡くなられると、
 北条家中の空気はしだいに氏真公に厳しくなった。

 跡目を継がれた北条氏直は、氏真公の義理の息子なれど、
 武田と同盟を結んで、武田から今川旧領を奪還する意欲も無くされたご様子であった。

 旧今川領を攻めないのであれば、氏真公は北条にとってお荷物でしかない。

 この有り様に早川殿は怒り、氏直に罵声を浴びせかけ、
 氏真公に共に駿河を出るようせまられた。

 あまりの勢いに氏真公も最初は戸惑われたようであったが、
 実家を敵に回しての早川殿の行為に感銘を受けられ、共に北条家を出られることとなった。

 あと頼る処といえば徳川家しかない。
 今川家は人質となっていた徳川家臣の子弟を多く誅殺したため、
 徳川家臣には恨みを買っているが、なんといっても
 徳川家康の妻子を殺さなかったことが幸いした。

 徳川方に書簡を送ると、
 家康公は快く今川氏真公を受け入れると返事を寄越した。

 今川氏真公の家臣らは皆々喜んだが、
 朝比奈泰康殿は、主君義元公を討った織田方の
 徳川家には絶対に行かぬと固辞されたため、
 相模に残られることとなった。

 徳川からのお迎えの船に氏真公が向うさい、
 北条領民らのささやく声が聞こえた。

 「あわれなり今川の御曹司」

 「北条は今後百年も二百年も栄るというに、
 我慢して飼われておればよいものを」

 「今に北条は天下を取るであろうから、
 他国に出れば攻め滅ぼされてのたれ死にしよう」

 それでも氏真公は平然と晴れやかなお姿で
 船に乗り込まれたので、元実は安堵した。

 三河に着くと、出迎えの諸将の中には
 井伊の女領主、井伊直虎も居て、
 ものすごい形相で睨んでいたが、
 氏真公はそしらぬ顔で前を通り過ぎられた。
 そのようにお心がご成長されたご様子に、元実は内心大変心強く思った。


 徳川家康公のお抱えとなって以降、
 氏真公は穏やかに優雅に蹴鞠をなされたり、
 和歌を楽しまれてお幸せに暮らされた。

 そうした内々の優雅な状況と違い、
 武田に寝返った者たちは惨憺たる目にあっていた。

 徳川軍に捕縛された孕石元泰は、家康公とは昵懇であると言うて
 その場では命を長らえたが、
 対面された家康公が、ご幼少のみぎり、
 元泰の家の庭に鷹が逃げ込んだのに、取らせてもらえなかったと、
 叱責され、元泰は切腹を命じられた。

 最期の最期まで三河武士を教養のない物知らずと罵倒して死んでいったそうだ。

 岡部元信は高天神城に籠もって徳川軍と徹底抗戦し、
 城方が降伏を決めると城の外に出て、
 優雅に舞いを踏んだあと、
 徳川軍に切り込んで討ち死にしたそうである。
 共に人柄は良い者たちであったが生き方が下手であった。
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