上 下
70 / 76

七十話 石ヶ瀬川

しおりを挟む
 
 次の日、
 元実は駿河に赴き氏真様に信長討伐に向かわれるよう説得するため、
 岡崎を発つ事を決意した。

 これには関口親永殿がご同行くださる事となった。

 関口殿とも長い付き合いだ。

 「我が家臣となられぬか、事と次第によっては家老として取り立てよう」

 松平元康殿はそう言って引き留めてくださった。

 されど元実は断った。

 「某が仕えるのは金輪際今川家ただ一つでござる」

 「それは残念だ。もう次は無いぞ。よいな」

 「ようございまする」

 実元は屈託なく笑った。

 仕官の誘いを断ったにも拘わらず、
 元康殿は銭と馬、食料を多く下され、
 旅立つ実元へ手を振って見送ってくだされた。真に心効いた御仁である。

 元実は駿河へと帰還し、今川館に参上しようとしたが三浦義鎮にさえぎられ、
 別室に通された。そこで、大原資良と三浦義鎮、大原の郎党多数に取り囲まれた。

 「これはいかなる仕儀にてそうらわんや」

 義鎮が目の前につきだしてきたのは織田の響談が配った流言飛語の書状である。

 そこには一宮元実が主君今川義元公と父親を見捨てて己だけ逃げ延び、
 天下に恥をさらしたと書かれていた。

 しかもこの不忠者に織田信長が激怒し、
 必ず成敗すると言っているという内容だった。

 「これは事実無根でござる。
 某は大高城に救援を呼びにまいったのでござる。逃げてはおらぬ」

 「ならば何故救援が来なかったのか」

 「それは、救援に向かう前に御屋形様がご落命になられました」

 大高砦で縛られていたとは言えなかった。

 松平元康には駿河へ帰還するさいに色々と世話になっている。

 「嘘をつかれるな。大高城から援軍が出た形跡はござらぬ」

 義鎮は鋭く詰め寄る。

 「それよりも、氏真様にお話したき儀がござる」

 「だまらっしゃい、不忠者」

 儀鎮は大声で怒鳴った。

 義鎮のほうが元実よりはるかに年下なのに。

 一宮の家は先祖累代の家臣なのに。

 しかし、義鎮は氏真様のお気に入りのご学友である。

 氏真様が御屋形様とおなりにあそばしたからには大きな権力を持つ。

 「今すぐ信長を討伐する兵を挙げるべきです。
 今なら勝てる。信長はもう一戦する余力はござらん。
 この機会を逃したら、また信長は勢力を盛り返しまする。
 この好機を逃してはなりませぬ」

 「御屋形様を危ない目に遭わせるわけにはいかぬ。
 浅はかな言い逃れをするでない」 

 義鎮は明かに格下に対する言葉使いを元実にした。
 怒りが腹からこみ上げてきたが、
 この感情を顔に出すわけにはいかない。
 表情に出しただけでも、この者は小器なので、
 どんな嫌がらせをされるやもしれぬ。
 我慢して頭を下げていると、頭越しに声がした。
 
 「そなたも武家ならば見事切腹してみせよ」

 「いや待たれよ、この大事の時に兵力を減らしてなんとする。
 死ぬなら戦場で死ぬゆえ、
 兵をお貸しいただきたい」

 「君主を捨てて逃げた腰抜けが何を言うか、
 ここですぐに腹を切れ。腹すら切れぬのか、この臆病者が」

 「切れいでか、今川武士の心意気見るがいい」

 もはやこれまで。元実は、ここで死ぬことを覚悟した。

 「何をしておる」

 襖の向こうから素っ頓狂な声が聞こえた。

 今川氏真様であった。

 「これは御屋形様、恐れ多くも
 御屋形様の御父君を見捨てて逃げた不埒者を成敗せし処にてございまする」

 「父上を置いて逃げたなど、
 今生きている今川家臣のほとんどであろう。全部殺すのか」

 「いえ、此奴は特別に不埒ゆえ、成敗いたします。ごめん」

 三浦義鎮は意地でもここで元実を殺す気だった。

 元実はもう観念しているので、別に揺らぐこともなかった。

 「誰を殺すか」

 氏真公がお部屋に入ってこられた。

 「あ、」

 氏真様が驚きの声をあげられた。

 「これはダメだぞ。馬鹿だが面白い奴故殺すな。分かったな」

 「ははーっ」

 氏真様がそう言うと、義鎮、資良、その郎党が一斉に平伏した。

 己等の力の源泉が氏真公であるとよく知っている所行だ。

 氏真様のおかげで命拾いをした。

 一方松平元康は、今川氏真様が仇討ちの兵を挙げぬことが
 決定的になったと知るや、自ら兵を挙げ、
 松平家単独で石ヶ瀬川で織田軍と合戦に及んだ。

 松平元康の援軍要請にも拘わらず、
 大原資良親子が氏真公のご心労をおもんばかって書簡を握り潰したため、
 松平家だけでは力及ばず、結局引き分けに終わった。

 しかし、この行動は、松平元康が口先だけではなく、
 真に弔い合戦をやったのだということが今川家中に広がり、
 今川家臣団の松平元康に対する信任は急激に高まったのである。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

帰る旅

七瀬京
歴史・時代
宣教師に「見世物」として飼われていた私は、この国の人たちにとって珍奇な姿をして居る。 それを織田信長という男が気に入り、私は、信長の側で飼われることになった・・・。 荘厳な安土城から世界を見下ろす信長は、その傲岸な態度とは裏腹に、深い孤独を抱えた人物だった・・。 『本能寺』へ至るまでの信長の孤独を、側に仕えた『私』の視点で浮き彫りにする。

浅葱色の桜

初音
歴史・時代
新選組の局長、近藤勇がその剣術の腕を磨いた道場・試衛館。 近藤勇は、子宝にめぐまれなかった道場主・周助によって養子に迎えられる…というのが史実ですが、もしその周助に娘がいたら?というIfから始まる物語。 「女のくせに」そんな呪いのような言葉と向き合いながら、剣術の鍛錬に励む主人公・さくらの成長記です。 時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦書読みを推奨しています。縦書きで読みやすいよう、行間を詰めています。 小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも載せてます。

【受賞作】名人三無

筑前助広
歴史・時代
忍びとは、魍魎が如き、非ず人の畜生なり――  二朝が並び立つ時代。九州は北都帝と足利将軍を奉ずる探題方と、南都帝奉ずる宮方とで二分され、激しい対立の最中にあった。だが、時は宮方有利に運び、存亡の危機に立った探題方は、筑後国の忍び〔名人〕と渾名される柏原三無に起死回生の一策を託す。無息・無音・無臭という、完全に氣を消滅する術を駆使し、三無は闇を駆ける! エブリスタジャンル応援キャンペーン 歴史・時代「生きる」 準大賞

偽典尼子軍記

卦位
歴史・時代
何故に滅んだ。また滅ぶのか。やるしかない、機会を与えられたのだから。 戦国時代、出雲の国を本拠に山陰山陽十一カ国のうち、八カ国の守護を兼任し、当時の中国地方随一の大大名となった尼子家。しかしその栄華は長続きせず尼子義久の代で毛利家に滅ぼされる。その義久に生まれ変わったある男の物語

大東亜戦争を回避する方法

ゆみすけ
歴史・時代
 大東亜戦争よ有利にの2期創作のつもりです。 時代は昭和20年ころです。 開戦を回避してからのラノベです。

やり直し王女テューラ・ア・ダンマークの生存戦略

シャチ
歴史・時代
ダンマーク王国の王女テューラ・ア・ダンマークは3歳の時に前世を思いだす。 王族だったために平民出身の最愛の人と結婚もできす、2回の世界大戦では大国の都合によって悲惨な運命をたどった。 せっかく人生をやり直せるなら最愛の人と結婚もしたいし、王族として国民を不幸にしないために活動したい。 小国ダンマークの独立を保つために何をし何ができるのか? 前世の未来知識を駆使した王女テューラのやり直しの人生が始まる。 ※デンマークとしていないのはわざとです。 誤字ではありません。 王族の方のカタカナ表記は現在でも「ダンマーク」となっておりますのでそちらにあえて合わせてあります

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原

糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。 慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。 しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。 目指すは徳川家康の首級ただ一つ。 しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。 その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

いや、婿を選べって言われても。むしろ俺が立候補したいんだが。

SHO
歴史・時代
時は戦国末期。小田原北条氏が豊臣秀吉に敗れ、新たに徳川家康が関八州へ国替えとなった頃のお話。 伊豆国の離れ小島に、弥五郎という一人の身寄りのない少年がおりました。その少年は名刀ばかりを打つ事で有名な刀匠に拾われ、弟子として厳しく、それは厳しく、途轍もなく厳しく育てられました。 そんな少年も齢十五になりまして、師匠より独立するよう言い渡され、島を追い出されてしまいます。 さて、この先の少年の運命やいかに? 剣術、そして恋が融合した痛快エンタメ時代劇、今開幕にございます! *この作品に出てくる人物は、一部実在した人物やエピソードをモチーフにしていますが、モチーフにしているだけで史実とは異なります。空想時代活劇ですから! *この作品はノベルアップ+様に掲載中の、「いや、婿を選定しろって言われても。だが断る!」を改題、改稿を経たものです。

処理中です...