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六十九話 厭離穢土欣求浄土

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 元実は他の場所の視察をやめた。他もこのような有様であろう。

 やりようがない。そのまま岡崎に帰った。

 岡崎に帰ると、松平元康の郎党が関所で待ちかねており、
 至急松平家大樹寺まで行くように則した。

 大樹寺に行くと、松平元康が寺の奥から満面の笑みで走り出てきた。

「遅かったではありませぬか、
 すでに氏真公より返書が参りましたぞ。

 皆で一緒に見ましょう。

 他の方々が待ちかねておりまする」

 「そうでしたか」 

 元実も表情を明るくした。

 「ついに氏真様が決起の書状をくだされた。
 すでに信長にあと一戦する余力なく、今戦えば必ず今川が勝つ」

 柔和な笑顔で元実の肩を軽く叩きながら元康が言う。

 大樹寺の奥座敷に行くと、関口親永、瀬名俊氏、その他、
 桶狭間から生き延びてきた諸将がその場に集まっていた。

 「さて、書状をもって参りましたぞ、見ましょう」

 元康が笑顔で書状を手にやってきて座敷に座る。

 皆々その書状を中心に円になって座る。

 「氏真公はいつ御出立かのお」

 笑顔を絶やさず松平元康は書状を開く。

 みるまに顔から笑顔が消えた。

「なんたる事か、氏真公は仇討ちに立たぬと仰せなり。
 立てば必ず勝つる戦いというに何故じゃ」
 
 元康は怒って書状を床に叩き付けた。

 「もはやこれまで」

 元康は腰の小刀を引き抜き、上に振りかざして腹を刺そうとした。

 「何をなさる」

 実元は叫びながら元康に組み付く。

 「死なせて下させ、このままでは
 我はご主君を見捨てただけの不忠者になってしまう。
 仇討ちも出来ず、何で生き恥をさらしていられようや」

 元康殿は大声で叫んだ。

 実元は、元康がそこまで考えているとは思ってはいなかったので驚きとともに、
 感動で胸がいっぱいになった。

 元康殿は義元公の願いを叶えんとして、
 あえてあの場で兵を出さなかったのだ。

 「死んではならぬ、死んではならぬ元康殿」

 実元は必死に元康の腕を押えた。他の諸将も必死で押えた。

 「たれか、たれかある、出会えい」

 関口親永殿が叫んだ。

 家来とともに、寺の住持、登誉が走り込んできた。

 「この愚か者が」

 登誉は思いっきり拳で元康殿の顔を殴った。

 かりにも一国の君主の顔を殴ったのだ。

 皆唖然として動きが止まった。

 「いやじゃあ、もういやじゃあ、
 何故義元公のような正義が討たれ、悪がはびこるのか、
 このような乱れた世にもう未練はないわ」

 大声で元康殿が叫んだ。

 「厭離穢土欣求浄土」

 登誉が大声で怒鳴った。

 そのあまりの声の大きさに元康殿も驚いてその場にへたりこんだ。

 「そうか……分かったぞ。
 頼るなら自分だけにしておけと言う事か。
 この乱れた世を正し、世を清めたいならば、
 人を頼るのではなく、己がこの世を変える頂点に立てと言う事か。
 まさにこれぞ仏の教え。わかったぞ上人」

 元康殿は目を見開き、滔々と涙を流されなら登誉の手を握った。

 「お分かりいただけたか、お分かりいただけたか」

 登誉も何度もうなずきながら涙を流した。

 周囲に居た者たちも皆々涙を流してそれを見守ったのである。
 
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