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六十話 織田の響談

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 暫くして空気を読んだ藤林長門守が今川館に書状を持参した。

 その書状には山口教継、教吉親子が
 織田信長に内通して謀反をおこさんとする証拠が書き連ねてあった。

 義元公は山口謀反の事、さもありなんと納得され、
 すぐさま切腹を命じられた。

 山口一族が先祖伝来築き上げてきた資産はすべて没収された。

 山口氏の居城、鳴海城には岡部元信を入れられた。

 そうしている間にも、織田信長の勢力は日増しに拡大し、
 信勝を殺し、守護代を破って尾張を統一してしまった。

 それに比して、今川方の商業での収益はさほどあがらず、
 農民の逃散が続いた。

 豊作で、他国から安い物品が大量に流入し物価も安く、
 今川領はまことに暮らしやすく、義元公も重臣も資産が日に日に増えていた。

 そのような善政が行われている王道楽土であるにも拘わらず、
 謀反が起り、民が逃散する状況に、
 さすがに寛容な義元公も怒りを抑えかねておられるご様子であった。

 それに比べ、すぐにでも自滅するはずであった信長の所領が
 日増しに巨大化してゆく。

 これは、織田信長が奸智を使い、
 根も葉もない噂を響談(世論工作員)など使って
 今川領内にまき散らしているからに違いない。

 義元公は一向宗のホラ吹きを使って、
 諸国万民が自由に流入し、
 商売できる義元公の治世がいかに素晴らしいか広報し、
 伊賀衆を使って誹謗中傷を監視した。

 織田の響談は駿河の伊賀衆、ホラ吹き、相模の風魔、甲州乱破とは
 まったく違うものであった。

 今川は一向宗のホラ吹きを常駐するため資金を出して
 寺を建て、食費を与えてホラ吹きを養った。

 人を寄せるためにはタダで情報を流さねばならず、
 そのためにはホラ吹きを養う支援者が必要となる。

 今川家がその支援者であった。

 ホラ吹き常駐も伊賀者の雇用もすべて莫大な銭があってこそ
 なせるものであった。

 駿河国内に占有したる他国の密偵は伊賀衆が悉く成敗した。

 銭を出しただけの効果があった。

 しかし、織田の響談は罪なき民を使って情報を伝搬する。

 尾張に商いに行った今川領の商人や、
 遠州の楽市で他国者相手に商売をする民、
 近隣の村落の井戸端で雑談したる女房共に対して、
 京の都で流行の組紐や、尾張の姫の痴話げんかの話、
 美しき姫の話などを広める。

 これ自体は今川家を誹謗する意図なく、
 罰するには及ばぬ。

 しかし八割の無駄話の中に、
 今川家中の重臣の過労死の話や
 尾張で昼寝する百姓を信長がとがめなかった話などを二割入れてくる。

 話を聞いた者どもは悪意なく、
 ただ面白き話として近所の女房共にそれを言いふらす。

 それをまた誰かが言いふらす。

 特に文字の読み書きもできぬ村の女房共は書面による証拠も残らず、
 言いふらす者に事の善し悪しを分別するだけの学識もなく、排除のしようがない。

 たちのわるい奸智であった。
 誰がやっているか分からず、
 どこでやっているかわからぬ。
 顔の見えぬ、得体の知れぬ魔物を織田信長は使役していた。

 いずれそれは家臣に伝わり、重臣に伝わり、
 恐れ多くも義元公のお耳にもふれる。

 義元公の信長への憤激は日増しに大きくなっていかれたようであった。

 領土に関しても、織田信長は大高城に対して、
 周囲に鷲津、丸根、中島、善照寺、丹下、氷上砦など
 大量の砦を作って補給の邪魔をし、
 戦端も開かぬまま、なし崩しに大高城を兵糧攻めにしようとした。

 これに対して今川義元公はついに、天魔織田信長を討伐することを決意された。

 駿河、遠江の全権を嫡子今川氏真公にお譲りになり、
 御自らは隠居の身となられ、
 世を乱す天魔信長を討伐することに専念なされる決意を表されたのだ。

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