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三十八話 定様

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「あれほど情の深き名君を家臣が殺すわけがない。これは織田ぞ、織田の仕業に違いないわ」

 日頃人前で怒られることのめったにない義元公が
 このときばかりは烈火の如く怒りを発せられた。

 松平広忠の死を知らせにきた松平の使者は拳を握りしめ
 体を震わせて泣いていた。

 義元公はすぐさま御自ら出陣をお望みであったが、
 これは必死に雪斎様がお止めになった。

 これほどの怒りを持って出立されれば、義元公御自ら先頭にお立ちになり、
 突出するがあまり敵に討たれることになるやもしれぬからである。

 本来、御大将が戦場で落命することは希であるが、
 今川家では先々代の今川義忠公が真っ先駆けて敵に突進し、
 矢を受けてご落命されている。

 よって、此度のように怒りを発しておられる時こそ御自制あそばされるよう、
 雪斎様が諫言なされたのだ。

 義元公は雪斎様の言を入れられ、総大将を雪斎様に任せられた。

 今川家中には先の合戦で松平忠広に親しんだ者も多く、
 今川の家臣団も復讐の怒りに燃えていた。

 今川方は天文十八年十一月に大軍をもって安祥城を包囲した。
 
 織田の後詰めが城を包囲する今川方に攻めかかったが、
 織田軍は思いの外弱かった。しかも及び腰である。

 天文十三年に美濃の斉藤と仲違いし、油の取引が激減したことがで、
 軍費調達がままならなくなったのであろう。

 配給される軍費が少なければ、国人衆は正規雇用の郎党を出し惜しみする。

 郎党が負傷して動けなくなったり、
 死んだりすれば領主がその一族の扶養義務を負うため、
 支給が少なければ財政が立ちゆかなくなる。

 しかし、その予算では無理と分かっていても長年の付き合いで、
 その予算で合戦に参加せよと言われれば断れない。

 他はその予算でやりくりしているではないかと言われることは分かっている。

 よって、使い捨ての野伏などを雑兵として雇う。

 野伏は身一つで何の保証もないので、
 危ないとなったらすぐに逃げる。

 よって腰が入らず弱い。

 相手が大軍とあらばなおさらである。

 対してこちらは松平広忠を撃たれて復讐に燃える正規軍である。

 織田に勝ち目は無かった。

 織田の後詰めは完膚なきまでに打ち負かされ逃げ散った。

 後詰めの完敗を城内から見た織田家の長男、
 織田信広は降伏して開城し、今川方に捕らわれた。

 今川の諸将は口々に織田信広の首をはねよと言ったが、
 雪斎様は竹千代と引き替えにする大切な人質であるので
 決して傷つけてはならぬと厳命された。

 全ては松平広忠との盟約を守り、
 竹千代を取り戻すためであると仰せになると、
 今川の将らも黙った。


 雪斎様は今川、織田に顔の利く半手の者、
 戸部新左衛門に仲介を依頼し、交渉は成立した。
 織田信広は織田に帰され、松平の竹千代は我らの手に戻ったのだ。

「このまま一気に織田を攻め滅ぼして尾張を平定しようず」

 勢いに乗って孕石元泰が言ったが、
 雪斎様は即座に否定された。

「この兵数で尾張を平定するのは無理じゃ。
 尾張を平定するということは尾張に軍を駐屯すること。
 もし、戦に勝っても、我が軍が遠く尾張に進軍すれば、
 背後の武田、北条が駿河に攻め込む。
 武田、北条との同盟なくして尾張占領はない」

 雪斎さまの弁舌爽やかなご説明を聞いて、皆々納得したのである。

 この一戦にて一応、今川家中は収まった。

 お家を揺るがすような惨事はしばらく起らぬであろう。

 このところ戦続きで、男共の大変な思いをしたが、
 戦支度や飯炊き、はたまた終戦後の兜首の塩漬け、
 死に化粧など裏の仕事も多忙を極めた。

 時に定様は寝る間を削ってお働き故、
 真にお気の毒であった。冬のうちはよく空咳をしておられた。

 それでも無理をされて、床につかれることはなかった。

 時には板の間でお休みになった。

 そのご苦労もやっと報われるのである。

 冬の厳しい季節も過ぎ六月ともなればお風邪の具合もよくなられるであろうと思われた。

 体の震えと戦いながらお仕事をされていた定様が急に吐血され
 息を荒くされ、倒れられた。必死に立ち上がろうとされるが、
 益々息が荒くなり、体の震えがとまらなくなった。

 家臣が早馬を走らせ医師を呼ぶ。

「息が苦しい、息が、息が」

 それが最期のお言葉であった。

 義元公が亡くなられた定様とご対面になられたのは六月の二日の事であった。

 義元公は定様を抱き上げられ、やさしく頭をなでられた。

 「よく頑張ったぞ、それでこそ武家の妻じゃ。そなたは我が誉れであるぞ」

 その優しきお言葉に周囲一同涙せぬ者はなかった。
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