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二十五話 甲州乱波

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 天文九年六月、三河の安祥城が織田信秀の軍勢に落された。

 この報は駿河の今川方に大きな衝撃を与えた。

 たかが斯波の奉行にすぎぬ男が堅城安祥城を落したのだ。

 以前尾張那古野城を信秀が簒奪せしおりは、
 斯波家守護代織田達勝に銭と兵糧を与えて信秀を討とうとしたが、
 攻めきれなかった。

 此度また守護代織田家に討伐を依頼したが
 今に至っては信秀の勢力が尾張一円に及び、
 兵を起こせばむしろ守護代家が滅ぼされると返信してきた。

 これまで何度も公家衆を京より招き入れ、
 宴席を開き接待し、諸国の情報を集めてきたが、
 信秀の風評を聞けば女好きの遊び人、
 家臣郎党と遊び惚けて惰眠をむさぼり、
 汗をかかず、米の相場を見ては
 米を右から左、左から右の倉に売買して動かすだけで銭を儲けているという。

「そのような事、嘘に決まっておる」

 今川館における軍議で眉間に深い皺をよせて義元公はのたまった。

「銭は額に汗して働いてこそ手に入れるもの。
 怠け、遊び、指先一つで、売るだの買うだのと一筆書いただけで
 銭が儲かるなど断じて嘘である。
 かつて遠州方が公家の口はあてにならぬと言っておったが、
 満更嘘ではないようである。まして此度の安祥落城の件、
 公家は何等役にも立たなかった。たれか心効きたる者があればよいのだが」

 「恐れながら」

 安部信真アベノブザネが声をあげた。

 「言うてみよ」

 義元公が発言をお許しになられた。

 「甲斐守護武田信虎殿の御嫡子、晴信殿は甲賀(こうか)衆を用いておりまする」

 「甲賀衆とな。して、その者の名は何という」

 「はい……」

 信真が口ごもった。

 「かまわぬ」

 「はい、千代女と」

 場内がざわめいた。

 「変わった名であるな、何ゆえ女の名など付けるのだ」

 「いいえ、女でございます」

 「我が聞きたるは頭目の名前ぞ、端下の乱波ラッパ(忍者)の事など聞いてはおらぬ」
 
 「恐れながら、歩き巫女の頭目を務めさせておりまする」

 「女を頭目に据えたか、信虎殿は何と言うておいでじゃ」

 「軟弱に過ぎると仰せになり、
 最近は晴信殿を遠ざけ弟君の繁信殿をご寵愛のご様子」

 「さもあらん。我とて女と政など話せぬ。
 その頭目とやらの上役はおるか」

 「はい、望月盛時でございます」

 「おお、望月か、そなたの身内筋であるな。
 海野の一族なれば素性もはっきりしておる。いや待て」

 義元公は不審な顔をされ、首をかしげられた。

 「望月は信濃の国人にて武田に抗うてはおらなんだか」

 「それは息子の源三郎にございまする。
 源三郎は信濃守護小笠原に義理立てしておりまする。
 甲斐守護と信濃守護の大戦なれば、
 勢力を二分して双方に味方するは
 いずこの国人、小名もやっていることでございまする」

 「そうか、ならば望月盛時を通じてその甲賀衆なるを紹介させよ」

 「ははっ」

 安倍信真は平伏した。
 
 この事がその後大きな波紋を引き起こすこととなった。
 安倍氏より甲斐の望月氏に甲賀衆の秀でたる者を寄越すよう伝手を頼ったところ、
 岩室長門守という者を甲斐に呼び寄せたようであった。
 これを見とがめられた信虎殿は岩室長門守を歩き巫女の頭目に据えようとしたが、
 それでは千代女の面子が立たぬと晴信殿が仰せになり、
 言い争いになったようであった。
 結局のところ岩室長門守は信虎殿付きとなることで収まったようだ。
 しかし、このため、甲賀随一と言われる岩室長門守は
 今川に来なくなったため、
 次なる適任者を探さなくてはならなくなった。
 騒動はそれで収束したかに思われた。

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