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この感情の名は

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 その後、応接室にはグリフォン公爵とサラマンドラ公爵が残り、アンゼリカはレイモンドによって別室へと案内された。

「アンゼリカ嬢、隣に座ってもいいだろうか?」

「え? はい、構いませんが……」

 案内された陽当たりのいい応接間は初めて二人で話をした場所だった。
 違うのは二人の距離感。あの時はテーブルを挟んで対面上に座ったのに、今は二人並んで同じソファーに腰掛けている。

「突然あんな発言をしてすまなかった。その……嫌だっただろうか?」

「いえ……嫌ではありません。少し驚いただけで……」

 こちらを伺うような紫の瞳から反射的に目を逸らしてしまった。
 そんな自分の行動をアンゼリカは不思議に思う。

(おかしいわね……公子様と目を合わせられない)

 先程から不自然なまでに心臓が早鐘を打つのだ。
 彼と目を合わせようとするともっとひどくなる。

 感じたことのない症状にアンゼリカは自らの病を疑ったが、特定の人物と目を合わせようとすると生じる病など聞いたことが無い。

「アンゼリカ嬢、こちらを向いてくれないか?」

「…………駄目です」

「えっ!?」

 恋い慕う相手に顔を背けられたことにレイモンドはショックを受けた。
なんとかこちらを向いてもらおうと懇願するもあっさりと断られ、ますます心に衝撃を受ける。

「す、すまない……! あんな場所で求婚をしたから怒っているのか?」

「はい? いえ、それには怒っておりません」

「え? では、何故こちらを向いてくれない? 君は、いつも真っすぐこちらを見てくれるじゃないか……」

 レイモンドの指摘の通り、アンゼリカは基本的に真っすぐ相手の目を見て対話する。そうすることによって相手を圧倒し、こちらが優位に立てると理解しているからだ。

「……そうですけど、今は無理です。わたくしの体に言語化し辛い現象が起きておりますので」

「言語化し辛い状況……? もしかして具合が悪いのか?」

「具合が悪い……? いえ、それとは何だか違う気がします。強いて言えばこう……胸がどくどくとして、頭がふわふわします」

 何だその表現、幼児か。アンゼリカは自分が発した言葉がひどく抽象的で分かりづらいことに驚いた。幼い頃ですらこんな発言をしたことがないのに。

「え……!? それは……君が私の事を意識してくれていると捉えていいのだろうか?」

「え? 意識……?」

 こんな抽象的すぎる発言の意味を判断してくれたことに驚き、アンゼリカは思わず彼の方に顔を向けた。すると熱を帯びた紫の瞳と目が合い、その瞬間沸騰しそうなほど体が熱くなった。普段からは有り得ないほど体が熱い。特に頬のあたりに熱が集中していることが分かる。

「……わたくし、やはり具合が悪いのかもしれません……。何だか顔が熱いのです。先ほどまでは何でもなかったのに、公子様のお顔を見たら急に……」
 
 そこまで言ってアンゼリカは口を閉ざした。
 これではまるでレイモンドのせいで具合が悪くなったと言っているみたいではないか。

 すぐに謝罪をしようと再び口を開いたアンゼリカだが、その瞬間レイモンドに荒々しく抱き寄せられた。

「こ、公子様……?」

「可愛い……アンゼリカ嬢……」

 うっとりとした声を耳元で囁かれ、自分とは違う逞しい腕に包まれると痛いくらい心臓が鼓動を刻む。体験したことのない不思議な感覚にアンゼリカはひたすら困惑した。

「普通に好意を伝えられるよりもグッとくるな……。私の心をここまで掻き乱す人は貴女だけだ……」

「好意……? わたくしが、貴方に……?」

「違うのか? 先程の言い方はそのように捉えられる。私の顔を見ると熱くなるということは……つまりはそういうことだろう?」

「そう……なのでしょうか? 分かりません。だって、わたくし今までこんな気持ちを抱いたことが無いのです」

 アンゼリカが好意と呼べる気持ちを抱いた相手はミラージュだけだった。
 でも、彼女に対する感情とレイモンドに対する感情は全く別物だ。こんな、心臓が壊れてしまいそうなほど鼓動を刻む激情をミラージュ相手に抱いたことはない。

「ふむ……。こんな気持ちとは……具体的にどのようなものだろうか?」

「え? えーと……そうですね、まるで口から心臓が飛び出てしまいそうな……おかしな気持ちです。それでいて、何故か恥ずかしくて公子様のお顔が見られません。何が恥ずかしいのかは分からないのですけれど……」

 支離滅裂な自分の発言にアンゼリカは嫌気が差した。
 こんな抽象的で分かりにくい言葉を使っても相手には伝わらない。そう思っていると自分を抱きしめる彼の腕の力が強くなった。

「公子様……?」

「くっ……可愛い。可愛すぎる……。君は私をどうしたいんだ……」

「どう……と、仰られましても……」

 先程から意思の疎通がうまくいかない。
 それはおそらくこの感情を判別出来ていないからだろう。

「申し訳ございません。わたくし……生まれつき感情の起伏が乏しいのです。だからこの感情が何なのかを理解できておりません」

「そうだったのか……。私も君の気持ちを断定することは出来ないが、それが私への恋情であってくれたなら嬉しい」

「恋情……? これが……」

 この身を焦がすような感情は“恋”なのか。
 
 ふと、アンゼリカが顔をあげると熱を灯した紫の瞳と目が合った。

「アンゼリカ嬢、私はずっとこうやって君に触れたかった……。君は、私に触れられるのは嫌か?」

「……いいえ、嫌ではありません。でも、とても不思議な気持ちになります。心臓が痛いくらい鼓動を刻むから離してほしいのに、ずっとこのままでいたいような……そんな不思議な気持ちに……」

 今まで味わったことのない感情に困惑するアンゼリカは感じたことをそのまま口にする。それがレイモンドの心に刺さり、余計に彼女への愛しさが増した。

「……なんとも攻撃力の高い台詞だな。“嬉しい”と言われるよりもずっと心に刺さる。そんな君が愛しくてたまらない。好きだ」

「好き……? 公子様が、わたくしを……?」

「ああ、君と初めて会った時からずっと。王太子と婚約を解消して私の婚約者になってほしいと、ずっと願っていた。……だから王太子が当家を訪ねて来た時、君と婚約を破棄すると聞いて喜んでしまった。不謹慎ですまない……」

「まあ……そんな、気になさらないでください。わたくしも殿下が生理的に無理だったので、婚約破棄はむしろ望むところでした。あのまま夫婦になり、殿下に触れられるのだと思うと気持ち悪くて……」

「あ、殿下のことそこまで嫌いだったんだな……。なら、私にこうされるのは気持ち悪くないか……?」

 レイモンドは鼻の先が触れる距離まで顔を近づけた。
 少し動けば唇が重なってしまいそうなほど近くに。

「……気持ち悪くなどありません。むしろ……もっと近づきたくなります。こんな風に……」

「……え? は? ア、アンゼリカ嬢……?」

 一瞬、アンゼリカの唇がレイモンドの唇に触れた。
 それが彼女からの口づけだと理解した瞬間、彼は顔を真っ赤に染めてアンゼリカを強く抱き締める。

「ああ、もう…………! 君はどこまで私を夢中にさせるつもりだ……」

「可能であれば……ずっと。ずっとわたくしに夢中になっていてほしいと、今心の底からそう思いました。おかしいでしょうか……自分に夢中になってほしいと願うなど」
 
「おかしいわけがあるか! 私だってそうだ。君の心を揺るがすのは、生涯私だけであってほしいと願っている」

「公子様…………」

 湧きたつ衝動のまま、アンゼリカは彼の背中に自分の両腕を回す。
 自分とはまるで違う、逞しい体つきにアンゼリカの胸はますます激しい鼓動を刻んだ。
 
「不思議です……。こうしていると、心が満たされるような心地になります」

 彼の体温も、匂いも、感触も、全てが心地いい。
 うっとりと身をゆだねるアンゼリカの髪にレイモンドは何度も口づけた。

「可愛い……愛している。アンゼリカ嬢、改めて言う。私の妻になってくれないか?」

「公子様……わたくしでよろしいのですか? こんな……感情の起伏が乏しい冷徹な女と添い遂げる覚悟がお有りで?」

「それが何だと言うのだ。そういうところも含めて丸ごと君を愛している」

 欲しくてたまらなかった愛しい少女がこうして自分の腕の中にいる。
 その事実にたまらず、彼は少女の唇に自分のを重ねた。

「ん……、公子様……」

「レイモンド、と。そう呼んでくれ、アンゼリカ……」

「はい……レイモンド様」

 想いを確かめ合うように二人は何度も唇を重ねた。

 まだ『好き』も『愛している』も口に出来ないアンゼリカだが、いつの日かきっと彼にそれを伝えられるだろうと予感する。

 彼といると、経験したことのないような幸せが心に満ちていくから……。



 しばらく経った後、二人は連れ添いながら公爵達が待つ応接室へと戻った。
 
 どう見ても“何かあった”感が漂う二人の空気にサラマンドラ公爵はもの言いたげな目線を息子へ向け、グリフォン公爵はむず痒そうにソワソワし始めたのだった。
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