Ambivalent

ユージーン

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apoptosis

89.fragile

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「ああ、こっちは無事だ。そっちはどうだ?」
『はい、私と上條さんは無事です』
「他に誰か無事な者は確認できたか?」
『鵠さんが所長さんの娘と一緒にいます。早見さんと美濃原さんは、捕まりました。おそらく身元が割れたのではないかと思います』
 報告をするあんじゅの口調が終わりに差し掛かるにつれて重たくなる。
「京は?」
『柚村さんは、わかりません。今のところカメラに姿は映ってません』
 京の姿が見えないこと、千尋が京に抱いてる感情。その二つの考えが結ばれたような気がした。姿が見えないことが余計な想像力を働かせてしまう。まだこちらは一歩出遅れている、そんな気がしてならない。考えを振り払うように首を振った沙耶はあんじゅとの会話に戻った。
「ひとまず待機してろ。用があれば内線をかけてくれ」
『あの、氷姫さんは大丈夫ですか?』
 沙耶はあんじゅに言われ、ちらりと幸宏の手を見る。皮のない幸宏の手は包帯が雑に巻かれていて(矢島が巻いた)ミトンのようになっていた。
「命に関わりはしないだろう。大丈夫だ」
『わかりました』
 会話が区切られたので受話器を置こうとした沙耶だが、あんじゅが思い出したように声をあげたので、再び受話器を引き戻した。
『あっ、あと上條さんが警備システムの解除を試みてます。成功すれば、外から応援が来られるかもしれません』
「そうか」
 今度こそ連絡を終え、沙耶は受話器を置いた。考えなければいけないことが山ほどあったが、先に手のつけられるところから始めることにする。
「行くぞ」
「どこに行くんですか?」矢島が訊く。
「監房だ」
「ああ……まだそのアイデア忘れてなかったんですね」
 矢島は苦笑いを作って沙耶を見る。二人のやりとりを見て幸宏が口を開いた。
「アイデアって?」
避難部屋パニックルームがあるんですよ、監房と言う名の……そこに私を押しこめるんです」

 幸宏は同情が一欠片もこもってない声で言うと立ち上がる。それから陰のある目で、自分が殺した吸血鬼の灰を眺めていた。
「なあ」
 幸宏から声をかけられ、沙耶は振り向く。
「割り切るにはどうすりゃいい?」
 幸宏は警棒で灰を指す。凶器とそれがもたらした結果が、病魔のように心を蝕んでいるのだろう。幸宏が苦しんでいる原因は沙耶も把握している。ただ、その気持ちに至る理由は理解できなかった。
「今までだって銃を使って殺しているだろう。それと変わらないと思うが?」
「吸血鬼とはいえ、無抵抗な相手を痛めつけて殺しちまったんだ。頭蓋骨を叩き割った感覚が今も残ってんだよ。このままじゃ寝るたびに悪夢でうなされちまうつーの」
 どうやら沙耶が考えているよりも幸宏の胸の内は深刻らしい。宥めたり、アドバイスをしたり、そういった類のことが沙耶は苦手だった。とはいえ深刻に悩んでいる以上は、頭をひねって一言添えなければならない。
「悪い行いをしている吸血鬼なら、殺されて当然だ。私はお前の行いを咎めはしない。それに……むしろ、よくやった。私はお前が頭蓋骨を叩き割って殺した吸血鬼に一本取られたんだからな」
 沙耶は思いついた言葉を雑に繋ぎとめて言う。これで精一杯だった。
「そりゃどうも」
 幸宏は怪訝そうな顔つきで沙耶を見る。励ましの言葉としては評価は最悪なのだろう(表情を見ればそれはわかった)。だが、少なくとも先ほどみたいな沈鬱な表情はなくなっていた。沙耶にとっては、それでノルマは達成されたようなものだった。
「これで元気出たか?」
 幸宏はなにも言わない、ただかぶりを振るだけ。表情に呆れの感情も見えてきていた。
「綾塚氏ってメンタルケアの能力ないですよね」
 矢島の小言は無視して沙耶は先を進む。後に続く幸宏と矢島も警戒しながら沙耶の後を着いていく。
 道中に吸血鬼の姿は確認できなかった。だが、中庭を挟んだ建物の向かい側の何人かの吸血鬼が徘徊している。正気を保っている者、そうでない者。数名だが、銃器を所持している吸血鬼の姿もいた。
 進んでいくうちに重たい鉄の扉が現れた。この先が吸血鬼を収監させる監房エリアになる。沙耶は扉に付けられていたガラス窓から中を覗く。電子ロックに部屋番号、そしてのぞき窓付きの扉がいくつも見えた。あれが独房だろう。吸血鬼の収容所を何度か訪れたことがある沙耶だが、ここまで豪勢な内装は見たことがない。
(……どれだけ金を無駄に使ったんだ)
 従来の吸血鬼の収容所のような重々しい雰囲気は全て取っ払われていた。雰囲気や見栄えを重んじる金持ちらしい発想だ、と沙耶は思った。
「どうですか?」
「高級ホテルだな」
 矢島に訊かれて、沙耶はテレビの特集で言っていた宣伝文句と同じことを口走る。ただし、皮肉を込めて。
 隔離扉にロックはかかっておらず簡単に開いた。先に踏みこんだ沙耶は妙な気配を感じすぐに足を止めた。
「どうかしたんですか?」
「いや……」
 矢島の投げる疑問符に沙耶は答えを返せなかった。初めて来た場所なのにどこか違和感を感じる。降りる駅を間違えたかのような、そんな感覚を。沙耶は目を凝らして辺りを見てみるが、目立つものはない。立ち止まっている理由もないので、警戒したまま沙耶は先々進む。
「意外と悪くないかもしれませんね」監房の設備を見ながら矢島が言った。「ここでゆったりと救助を待ちましょうか」
 心変わりした矢島の独り言を聞きながら、沙耶は部屋の扉一つ一つを注意深く見る。どうも、違和感が息を潜めているのは廊下側よりも監房側な気がしてならない。覗き窓から中をうかがおうと近づいてみる。矢島の悲鳴が聞こえたのはそのときだった。
 沙耶が振り返ると、矢島は腰を抜かして地面に座りこんでいた。
「おい、どうした?」駆け寄った幸宏が訊く
「あっ、あれ……あそこ……!」
 矢島の指先は監房の覗き窓を差していた。だが、窓や扉がどうかしたわけでもない。彼女が指差したのは、覗き窓からこちらを見ている人影だった。
「子ども……?」
 沙耶は眉をひそめて覗き窓に近づこうとした。すると、再び矢島の声がした。名前を呼ばれた沙耶は、振り返る。矢島と幸宏の視線は別の方向を向いていた。隣の監房、その覗き窓から別の人影がこちらを見ていた。それは、またしても子どもだった。
 沙耶は監房から離れて、向かい側の壁に背をつける。そして、ようやく部屋に入ったときから感じていた違和感の正体がわかった。
「残念だが満室だな」
 へたりこむ矢島にそう告げる。沙耶がそう言ったとおり、全ての監房には先客がいた。それを証明するように、中に居た者が覗き窓からこちらを見てくる。こちらを見てくる人影が全員子どもなことに、沙耶は気がついた。
「おいおい……まだここオープンしてねえはずだろ」
 幸宏が言う。
「と、とりあえず出してあげないと……」
 落ち着いた矢島が立ち上がり、電子ロックの操作盤に近づく。開錠の仕組みは簡単で、外からのボタン一つで開くことができる。沙耶は矢島がロックを外す前に手を掴んだ。
「ちょっ、なにするんですか綾塚氏」
「必要ない」
「いやいや、相手は子どもですよ! 監禁したままにしておくのはいくらなんでもどうかと思いますけど」
「吸血鬼だ」
 沙耶の言葉を受けて、矢島が窓から見てくる子どもに視線を移す。子どもたちの口元から見える牙を見て、矢島は小さな悲鳴をあげて離れていった。
「う、うそ……まさか、この中にいるの全員……!?」
「だろうな」
 矢島は壁に張り付くように扉からできる限りの距離を置いた。彼女が正義心を振りかざして扉を開けることはもうしないだろう。相手の正体が人間ではないと知って、矢島は自分のしようとしたことに青ざめていた。
「もしかして、施設の子どもか?」扉の向こう側に立つ子どもたちを見ながら幸宏が口を開く。
「ほら、ショッピングモールを襲った吸血鬼の中に児童養護施設の職員いたろ」
「けど、なんでここに? なんで閉じこめられてるんです?」
「そりゃ──」
 議論を始める二人はああでもないこうでもない、と意見を交わし合う。沙耶はそれに参加することなく、覗き窓の吸血鬼を見つめていた。檻の中にいる女の子の吸血鬼も、沙耶の方をじっと見てくる。
 心臓の鼓動が早くなるのを感じた。女の子の吸血鬼を見続けていると、それは次第に早まっていく。息が苦しくなる。遠くから声が聞こえてきた。誰の声かわからない、なにを言っているのかも。女の子の姿が誰かと重なるようにぼやけていく。
「……すけて……くれた……」
 頭の中で響く声を口にする。意味を持たない言葉だった。見える景色が一瞬だけ変わっていく。
「……この人たち……」
 沙耶は聞こえてきた言葉を復唱する。監房が消えた、幸宏も矢島の姿もない。見えてきたものが幻だとわかっていても、沙耶は疑問を抱くことなく受け入れた。目の前に立つ女の子の姿だけは捉えることができた。
 遠くから聞こえてきた声が不意に耳元で囁いた。
「……この人たちが助けてくれたの」
 沙耶にとって忌まわしい呪いを帯びた言葉だった。父と母の命を奪った吸血鬼を連れてきた──あの女の子の言葉。
 沙耶はナイフを握る手に力をこめて、檻の開錠ボタンを押した。幸宏と矢島が慌てた様子でなにか言った。だが沙耶の耳には入らなかった。中に押し入った沙耶は小さな吸血鬼を掴み、ナイフを振り下ろす。刃が肉を裂く前に、幸宏に腕を掴まれた。
「なにやってんだテメエ!」
 引きずられるような形で、沙耶は廊下へと放り出される。
「アホかテメエは! わざわざ扉開けてまですることじゃねえだろうが! 俺らまで危険に晒す気か!」
 幸宏の言葉に、沙耶はなにも言い返せなかった。
「……すまない」
 沙耶が謝罪の言葉を口にしたそのとき、幸宏の背後に立つ小さな人影を捉えた。沙耶が殺そうとした女の子の吸血鬼が外に出てきていた。その手には沙耶が落としたナイフが握られている。
 沙耶の表情を察して幸宏も振り返った。檻から外の世界に踏み出した女の子の吸血鬼は二人の吸血鬼ハンターの視線に後ずさる。
 張り詰めた空気が漂う中、女の子の吸血鬼がゆっくりとこちらに向かってきた。握っているナイフをまるでお守りのように抱えている。幸宏の前を通り過ぎた女の子は沙耶の前に来ると、ナイフの刃を摘んで自分の方に向け、沙耶に差し出した。
「落とした……」
 小さな吸血鬼は震える声でそう言う。今にも泣き出しそうな安定しない調子で。自分を殺そうとした人間に凶器を手渡すといった吸血鬼の行動を沙耶は理解出来ずに戸惑う。
 沙耶はゆっくりとナイフを受け取る。先ほどのような殺意はもう芽生えなかった。戸惑いと言葉にできない感情がそれを打ち消した。
 沙耶にナイフを返した女の子の吸血鬼はゆっくりと檻の中に引き返していく。吸血鬼が檻に入ると矢島がロックをかけ、状況は数分前と同じに戻った。
「あー……もう、心臓に悪い」
 矢島がへたりこむ。表情はふた回りも歳を重ねたようにげっそりとしている。幸宏も同じようにひどく疲れた表情をしていた。
「なんでわざわざこいつのナイフを返したんだ? 自分を殺そうとした相手だぞ」
「知りませんよ。とにかく言えることは……綾塚氏は【彼岸花】うちのメンタルカウンセリング受けて下さい」
 強い調子で矢島は言う。幸宏も肝を冷やす原因を作った沙耶を軽く睨みつけていた。
「運が良かったなテメエ。あの子の気まぐれに感謝しろよ」
 沙耶はなにも返さず、受け取ったナイフを見ながら頭の片隅で考える。
 近くで目を見たからわかった。あの女の子の吸血鬼は、最初からナイフを返す気でいた。それが自分に向けられることも承知で。自分が殺されても仕方ない存在だと、受け入れていたのだ。あの小さな年齢で。
は全部満室ですね……まあいいですけど」
 さすがに密室で吸血鬼との相部屋はできないだろう。矢島は檻に入ることがなくなったのを喜んではいたが、自分の身を守れる避難部屋を探さなければならないことを考えてか、億劫そうなため息をつく。
「行こう」
 重たい隔離扉を開け回廊に出てから、沙耶は不意に思い出す。女の子の吸血鬼が片足しか靴を履いていなかったことを。

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